「技巧の極致」

たしかにダンスは巧い、それも飛びきりに。才能の塊だ。
AKBグループの歴史のなかでも五指に入ると評しても過褒にはならないはずだ。

だが、それだけのような気もする。
同業者を圧倒し、ねじ伏せ、さらには尊敬もされるだろう。
しかしそれだけにみえる。
テクニックは申し分ない、だが表現行為となると話はかわる。

門脇実優菜の踊りには表情がひとつしか備わらない。デビュー当時と比べれば見事に成長している。
活力に任せ激しく舞うダンスから、ステージの上で演劇表現を試みるようになり、”非凡”を投げつける。

問題なのは、ある一定の閾に達すると、彼女の踊りによって表現された楽曲の内には、あたらしい発見が一つも降らなくなることだ
(あらためて付言するまでもないが、彼女の踊りに向ける批評は、多くのアイドルにとって無縁とするしかないものである)。

もちろん、楽曲によって表情は異なる、
だが楽曲を一つひとつをほぐしてみれば、楽曲に対し一度定めた解釈を覆すようなことはせず、毎回、判で押したようにおなじ表情しか作らない。

仮に、彼女の姿勢がただしいアイドルのあり方だとした場合、
はたしてそのような姿勢を維持したまま、作詞家・秋元康によって楽曲のなかに書かれた、あらゆる主人公の横顔になりきれるのだろうか。
いや、それは不可能なはずだ。

楽曲の主人公の性格を読み、表現を試みるとき、途切れのない自己投影なしにそれを叶える、という事態がはたして起こりえるのか。
到底、起こり得ないだろう。

楽曲の主人公になりきる、これが達成されるときは、かならず、アイドルを演じる少女が自己の素顔と主人公である”僕”を通い合わせ、そこに書かれた物語を自分のものだと錯覚しているはずだ。

門脇実優菜の踊りにはそのような「解釈」がない。
結局これは、「通俗的である」という話題に帰結させるしかない。