>>768

1で、我欲があり、
2で、どうなりたいかという希望があり、
3で、無我になって手放す。

プロセスの過程で我欲を無くしているので、
その未来の願いが「今、叶った」と実感できるかが、
大きな要素の一つだと思います。

神様使いの場合、日の丸理論では
白地を囲い込む枠が神様になるので、
赤丸の我は一切衆生、時間、空間で
もある白地の世界を迂回しては
神様を見立てる事が出来ないと考えたとき、
今、叶ったと確信して忘れられるか?
が、必須だと感じていますが、重い願いでも
他人事の様に軽く祈れるかなど要素が複合しつつも、
如何に、願って当然だという雰囲気で自然に祈れるかだと思います。

故に、その願いが叶った時々で決定打の要素が異なり、
偶然なのか結果なのか、ただ有難いと思うだけになります。

包み込みの幸福論にある天使体とは自我が確立する前の自他の
観念が曖昧で、欲しいのは今と駄々をこねる3歳児以下の状態
であり、両周り小周天が出来る男性性と女性性の両性具有が、
二段階変身の1番目だという理由なのかと。

大和のマインドヒーリングセミナーの手鏡など
法然以前のイメージする念仏を神道バージョンにして、
我欲問題とイメージの難しさを排除してある方法もあり、
疑念による見立ての失敗かEg不足も多分にあるかとも考えています。

神様を見立てない時、ボランティアになり、強くなり過ぎると
自己犠牲の要素が強くなりがちで、一切衆生を抜きに
仏様を信仰するカルトの反対になると日の丸理論的にはなりますね。
清水気功の祈りは中間じゃないと叶わないとは実感しています。