>>530
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
このテーマに関して、530様と同様の疑問を持つ人が多いのではないでしょうか。
素晴らしいご質問を頂き感謝いたします。

僕の考えの結論としては、本心から思えなくても嫌いな人の幸せを願い続けることが大切だと思います。
というのも、僕の13年ほどの検証の結果では、

・思いが直接伝わる事実は厳然として存在する
・それゆえに「本心でなくても相手の幸せを祈る」という事が相手との関係を良くする
・その行為が相手の良い面を観ることに繋がり、無自覚に、その良い点を身に着ける方向へいく

などのことが明白であったため、この事から、本心ではなくとも嫌いな人の幸せを祈る習慣は続ける方が良いと思います。
山は登ってみないと上からの景色を観ることができないのと同様で、景色(事実関係)が観えずとも、歩を進める(続ける)ことによって景色が観えるようになると考えています。

ただ、嫌い人の幸せを祈る行為の有益さ自体は確立されたものと考えてはいるのですが、誰もが今すぐにやる必要性があるとは少し考えにくいと思います。
人それぞれ現実に対処するのに必要なことは違いますので、時には、嫌いな人の幸せを祈ることを捨ててでもフォーカスを向けなきゃいけない事などもあるのではないかとも考えています。
(とはいえ、あらゆる人の現実に”人と接する機会”や”嫌いな人との付き合い”は生じますので、どのような状況下でも有効である、普遍性が高い行為とも思います)

それでご質問にあった、「嫌いな人の幸せを自分の得のためにやっているのではないか?」というお気持ち、とてもよく分かります。
ただ、人間が自分の得のためにやっている事はすでに日常生活上に多々あり、仕事上の成功を目指すこと、値引き品を買うこと、身の安全を確保するための人間関係での立ち振る舞いなど様々です。
そのため、その行為を自身の得のためにやっているかどうかは現状ではあまり有効な基準にはなりにくいように思います。

僕の考える有効な基準としては、『その行為が他者と自身にとって良い結果をもたらすかどうか(より公平な価値を発揮するかどうか)』が有効であると考えています。
これは上記の「自身の得のためにやっているかどうか」とも関係があり、基本的に、自身のためにしかならない行為の方が自分の得のためにやっている度合いが大きいと言え、自身と相手のためになる事をやる方が”自分の得”から解脱している度合いは大きいように思います。
嫌いな人の幸せを祈ることは後者ですので、その他日常生活上の行為とくらべると、かなり良い方に位置するのではと考えています。