>>510,496様
僕には無い見識の素晴らしさを感じます。
非常に参考になるご意見を頂けて、とても喜びを感じています。

それで、価値を感じるご意見なだけに、僕はあまり討論はおススメしたくない思いがあります。
というのも、議論の欠点というのは客観的な事実を裏付けにして成されるという部分にあり、496様のように、「自分にとっての善」をベースにした理論は客観的な裏付けを出せず、議論をするほどにその思想は誤ったものとして不当に判断されてしまいます。
もし、自身の行為の結果が全体にとっての良い結果に繋がるか?などの客観的基準により議論をするのであれば、その正当性を測ることができるのですが、その基準が「自分の感覚」にあるのであれば、あまり議論の意味はないものだと思います。
僕は客観的裏付けがあろうと無かろうと、思想には固有の価値があると思いますので、議論に向きづらい思想を議論により無暗に低くみせてしまうのは僕の本意ではありません。

僕自身の「出来ている・出来ていない」の判断基準は、道理に適っているかどうかだと思います。
その行為を元に、長期にまで続くような価値が得られていれば出来ているのであり、そうでない部分に関して言えば出来ていないのでしょう。
ただ、同時に、出来ている・出来ていないの尺度を短期的視野(低い次元)での道理によっても判断するようにしています。

僕の判断基準である「道理」とはその物事を取り巻く客観的な事実関係であるゆえに、議論になれば僕の思想の方が価値があると、このスレをご覧になっている人達に判断されかねないです。
(本当はどちらの思想にも美点があるにも関わらずです)

議論になれば、議論というものの性質上、現象的な事実関係に照らし合わせた客観的な裏付けを求めることになるのですが、それでも宜しいでしょうか?
496様の思想には素晴らしい価値があると思うのですが、あまり議論という形を取らない方が良いように思います。