>>509

お返事ありがとうございます

>実際の所、いかなる人であっても、自分は何をしてもダメなんだというのは事実とも違いますし、必ず、できている部分もあります。

いろいろ聞きたいことがあるのですが、まず

「自分は何をしてもだめなんだ」を駄目な部分と出来ている部分に分けることが?です。
もし過去に何かありそれがきっかけとなり劣等感が生まれたとしましょう。
その出来事は客観です、人によってはいろんな解釈があります。その解釈は主観となります。
つまり客観的な出来事は変えることは出来ません、まして過ぎ去った過去など特に、主観はいくらでも変えることは可能ですよね?
出来ている出来ていないは周りに関係ないなら何を基準に決めるのですか?周りの結果ですか?「ありがとう」の言葉とかですか?
僕はその人にとっての善が出来ていると思います。
ここでひとつの解釈ですが、古代ギリシャの善の意味は「ためになるです」逆に悪は「ためにならない」です、これは「私にとって」です。
この解釈はすばらしいです。当然人は全て善をとります。出来ていないと捉えるのも自分にとって善です、つまりためになるのです、どうしてが?その方が自分には都合がいいからです、
「やっぱり劣等感により失敗したか」と取るのもその人にとっては劣等感だからという意味付けをして「ためになる」ことだと思います。
たとえば強盗をした人も世間一般では悪となりますが、その時その人にとってはいろんな事情により善となるのです。
僕があなたと討論をしようとしてるのも自分の改めての学びになると言う点を持って善の選択をしているのです。
瞬間であれ、なんであれ、人は全て善を選択するのです。