>>912
良いご質問を頂き本当にありがとうございます!
そういえば、カルマを乗り越えなかったらどうなる?という観点でのご質問は過去無かったですね。
感謝いたします。

どうなると一言で言うなら、『現状の自我相応の状況が続く』という事になると思います。
カルマを乗り越えるというのは現在の自我を乗り越えるという事ですので。

それで、

>>それに気づき乗り越えなかったらどうなるのですか?カルマをそこまで深く学んでなくても霊的に進化する人はたくさんいると思うのですが?

というお言葉は、【現象の理由に気付くというのはカルマについて学ぶ事である】と言う前提があられるのでしょうか?
仮にそうであるなら、僕の見解は少し違っておりまして、現象の理由に気付くとは、カルマについて学ぶのではなく【自身の精神構造上のどの部分に問題をはらんでいるのかに現象を通じて気付く】ということです。
そのためカルマについて何も学ばずとも、現象を通じて自身の問題をはらむ部分を見つけそれを改善すれば霊的進化を遂げていることになります。
例えば、人の言う事を聴かない傾向の人であれば、誰かの意見を参考にする事で上手くいく場面が比較的多くなります。
この場合ですと、”自分の判断が失敗に終わる”という結果と共に、”事前に人から聴かされていた意見の方が正解であった”という現象が起こり、これを通じて自身の精神構造上の問題を知ることになります。
こうしたプロセスは、誰もが日々行っておりますので、912様のおっしゃる通り、大部分の人はカルマについて学ばずとも精神の進化の道のりを進んでいます。

次に下記のご質問にお答えさせて頂きますね。
いつもながら良いご質問を頂き助かります。
本当にありがとうございます。

>>苦や楽は本人の心が造り出すものです。あなたは「意識の拡大」といいましたね?、それでは意識の縮小にならないですか?

これは自我意識の付属物である苦や楽に対して何らかの行為をすることは、自我意識に囚われる(意識の縮小)だけであるというお考えが前提にあられるのでしょうか?

僕の見解では苦や楽の気持ちは、他ならぬ自我意識(自身の精神構造)の分析という点において重要な手掛かりであるため、逆に、それらの手掛かりを元に行為することは意識の拡大に繋がると考えています。
(僕の場合の”意識の拡大”は現在の自我よりも大きな自我に到達することを指しています。また、大きな自我の定義は過去に経験した両極の価値観を包括した思想や感覚を有しているということです)

例えるなら、機械が故障した場合、仕組みを把握した上で修理するのと似ています。
この場合、電源やスイッチを入れた際にどこが反応するか?しないか?を分析しながら、修理を進めていくと思います。

同様に、苦や楽といった感情を元に様々な行為を試してみて、自身の精神構造上のどこに問題をはらんでいるかを特定し、適切な行動をしていきます。
それがバッチリはまれば過去の”問題を孕んでいた自我”(この世だけではなく遥か先の未来まで見据えた場合の問題)からの脱却になると僕は考えますので、”苦や楽を元にした行為により自我意識に囚われてしまう(意識の縮小)”という論理の正当性はまだおぼつかないものに感じています。