>>887
こんばんは、メグです。
ご質問を頂き本当にありがとうございます。
これはしっかり回答するなら相当深いテーマになりそうですね。
素晴らしいご質問を頂き感謝いたします。

他者への迷惑を別にして”条例違反を破った事”だけを観るなら、あまり負のカルマにはならないと思います。
例えば、一人しかその世界に存在しない場合、仮にたばこを吸ってはいけない条例があったとしても誰にも迷惑をかけないゆえに世界への影響は無いでしょう。
また、煙草を吸うに関して自身の精神に対し良し悪しは無いので(依存性に抗えるかという問題がありますが)、カルマにはならないと観るのが良いと思います。

ただ、今回のような場合は【条例を守り吸わないようにしている愛煙家達の存在】によって、条例を破った事でカルマが発生するものになっています。
この場合ですと、条例違反を破る事により、広い視野を持ちづらくなるでしょう。
また、他者の気持ちに鈍感になったり、他の場でも、「守るべきルールが理解できず自身が損をする」という人生展開が用意され、その損によって、その人がルールの大切さを理解できるように導かれます。

人を不快にした分に関しては、煙により他者の心身を害した程度に合わせて、未来にその影響を様々な形で本人の身に引き受けることになるでしょう。
短期的にみれば、条例違反と同様に、視野が狭まる形で自身の人格への影響が起こります。
ポイ捨てをした場合ではさらにその影響は大きく、自身の捨てた煙草を他の人に処理させたよりも、かなり大きな問題を処理することになると思います。

ただ、僕の考える真相を少しお話すると、複雑すぎるとは思いますが、厳密にいえばその大きな問題はすでに処理の最中でもあると思います。
その人が処理中の大きな問題は”ポイ捨てをしてしまうような脇の甘い自分からの脱却”という点ですでに進行中でして、知性(全体意識)の欠如はポイ捨てをする以前、その幼少期からの体験にまで遡るのは間違いありません。

ですので、この場合、他者の責任によるものも入ってきますので、ポイ捨てが本人のカルマでありつつも、その人の人格形成に携わった人達(親など)のカルマなどもあるでしょう。
そのため幼少期の時点で知性が欠如してしまった分に関しては、その人のカルマにはなっていないと思います。

それで、その喫煙者を観る側の人の《煙草を不快に思う度合い》が過剰である場合、それはその喫煙者を観る人の精神の性質によるものですので、その分に関してはその喫煙者のカルマにはならないと思います。
その場合では、煙草に依存せずにはいられない人達の背景をより理解しようと努めたり、歩きタバコをしてしまう人を「今は無自覚だろうけど、この人は”歩きタバコをしてしまう自分”から脱却しようとしてるんだ」「自分も、歩き煙草が過剰に気になってしまう自分からの脱却をしているという点で同じなんだ」といった形で思い直すようにすると、自身の精神的課題の克服により繋がるのだと思います。

僕自身も煙草の副流煙を吸うとすぐに喉がやられるので、気持ちはとても良く分かります。
ただ、相手を許してあげられる分だけ、悪影響を受けた分がより大きな良いもので埋め合わせられますね。
相手を包容する念はあらゆる悪影響を自身の成長(意識の拡大)に換えることができると思います。