>>630様のご意見、632様のご意見、双方に素晴らしい点があるように思いました。

僕自身、630様のおっしゃる事は非常によく分かります。
その時代背景によって善悪の基準はかなり変わるのは間違いありません。
戦国時代の中で”立場的に必要があって”人殺しをする場合、動機に不純なものは少なくなります。
しかし、現代の世界で”必要も無いのに”人殺しをする場合、その動機は極めて不純なものになる確率は高いでしょう。

置かれた立場における”必要性の差”ゆえに、現代と戦国時代を一まとめにして「人殺しも含め善も悪も無い」とするのは、少し難しいように思います。
それが同じ行為でも周囲の環境をもとに動機の良し悪しに差が起こり、人格に大きなひずみ・高純度を産む点は見逃せない事実です。
(人間の精神には、精神の純度を判断する性質が備わっていることからして、真の善なるものはあるのだと僕は思います)

ただ、632様のフィルターを通して善と悪を判断している、という点も真実だと思います。
僕自身も仕事の成功を志していた時「世界を支配するのは善だ」という刷り込みを自身に行っていましたが、それにより、様々な面において仕事面での支配力は強まりました。
人が言う事を聴いてくれる度合いも強まりました。
まさに自身のフィルター(波動)を通してそれが世界に具現化された形です。

これはこれで真相なのだと思います。

僕の私見では、630様と632様の方向性の違いは「客観性を重視する・主観性を重視する」という違いにあるようにも思えます。
神による真相は客観性で、自身のフィルターは主観性です。

僕が思うに客観性を重視した人は、他の人の気持ちへの理解力が伸びやすいように感じています。
主観性を重視した人は、自我の信念を貫く力が伸びやすいように感じています。