>>321、322 土足禁止様
教えて頂き本当にありがとうございます。
”他から分離した個人”という概念は非常に興味深いです。
過去何十万世代に渡って行われてきた表現(錯覚)が、肉体に刻印されている、というのは過去、考えた事の無い事でした。
それを前提に考えた場合、その錯覚とは逆の”真なる表現”があるという事でしょうか。
ただ、人間の肉体(5官)そのものが錯覚を前提として構築されているので、肉体的な本能の絡む思考は錯覚が多く、そこから解脱する事で真なる表現(真我)に近づくというなのかなと考えてみました。
仮にそうだとするなら、日常の行動にこの思想を適用するのであれば、肉体的な本能による思考を理解する必要があると思いました。
肉体的な本能のもっとも特徴的な所は、「主観的思考」なのかもしれません。

考えた結果、錯覚は主観的思考から生まれるし、同時に錯覚からも主観的思考が生まれるという答えに行きつき、それは肉体によって他者の心理と分断されている事によっても生じていると思います。
もし、同じ肉体に二人の意識が入り込んでいるなら、もう少し共感できると思います。
さらに一つの肉体に100万人が入っているならば、かなりのレベルで共感ができるし知識や経験の共有により錯覚も生じにくいでしょう。
(精神というレベルでの分離による錯覚は生じると思いますが)

そうだとするなら、日常の行動にこの思想を適用し、自身の錯覚を取り去るのであれば”自分は絶対に正しい”という考えを捨てることだと思いました。
周囲の人に出来うる限りの共感をし、特に周囲の人が関心を持つ物には極力関心を持ち、調べてみることが大切だと考えました。
また、人々の思想を聴き、それを真剣に考慮し、自身の思想に取り入れることによっても”錯覚”が消えていくように感じました。
不思議な事に、僕自身がこのスレを立ち上げてやっている事に近いです。

実は、このスレを立ち上げたのもこのプロセスを経験したいからでもあり、今回の考察ともリンクしていて感動しました。