【水】(V)o¥o(V)【観】出張所
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観音の修行がどんなに優れているかをよく聞くがよい。
広き誓願は海のように深く、どれ程の時間をかけても人間の知恵には思いもおよばない。
何千億の仏たちのもとで、大いなる清らかな願いを起こした。 この菩薩の名を聞き、その姿を見て、心にしっかりとどめて空しく生きることがなければ、あらゆる苦しみは消滅する。 たとえ悪人が、悪意をもって燃えさかる火の穴に落とされても、観音の救いを心から念ずれば、火の穴はたちまち池に変わる。 あるいは大海の中を漂流して、龍や怪魚や鬼などに襲われても、この観音の救いを心から念ずれば、波の中に溺れることはない。 あるいは人に高い山の項きから落とされても、観音の救いを心から念ずれば、太陽のように空中にとどまることが出来る。 あるいは悪人どもに追われ、高い山から落ちても、この観音の救いを心から念ずれば、髪の毛一本傷つかない。 また強盗に囲まれ刀で殺されそうになっても、観音の救いを心から念ずれば、彼らの心はたちまち優しくなってしまう。 あるいは国王に捕えられ、刑場で処刑されそうになっても、この観音の救いを心から念ずれば、刀がばらばらに折れてしまう。 あるいは牢屋に入れられ、鎖につながれても、この観音の救いを心から念ずれば、たちまちに鎖は解けて自由となる。 あるいは呪いや毒薬のために命が危険にあっても、この観音の救いを心から念ずれば、殺そうとした人にそれらが戻っていく。 あるいは悪鬼や毒龍といったさまざまな怪物に出会っても、この観音の救いを心から念ずれば、どれもが害を与えないようになる。 もし猛獣に囲まれて、牙や爪で殺されそうになっても、この観音の救いを心から念ずれば、どこかへ走り去ってしまう。 とかげ、ヘび、まむし、さそりなどが毒気を吐いても、この観音の救いを心から念ずれば、念ずる声を聞くやたちまちいなくなってしまう。 天が轟き、稲妻が光り、雹が降り、大雨が降っても、この観音の救いを心から念ずれば、たちまちそれらは消散してしまう。 人々が困難にあい、様々な苦しみに苛まれるとき、この観音の優れた力が、人々の苦しみを救ってくれる。 神通力を全部備え、智恵に富んだ様々な手段によって、あらゆる方角にある国に姿を現わし、どんな国でも現われないことはない。 観音菩薩は様々な悪趣に出向き、地獄・餓鬼・畜生等による苦しみと、生老病死の苦しみを、神通力と方便によって滅ぼしていく。 観音菩薩は真実の観、清浄の観があり、広大な智恵の観、憐れみと慈しみの観が備わっている。だからいつも観音菩薩の出現を願い、その姿を仰ぎ観るべきである。 観音菩薩は汚れなく清らかな光に包まれ、太陽の如き智恵の輝きが全ての闇を取り除き、よく炎の風や火を吹き消し、世間を照らす。 憐れみの心は雷のように人々を守り、慈しみの心が雲のように人々覆う。 永遠の教えの雨を降らし、人々の煩悩の炎を鎮める。争いに巻き込まれ法廷に連行され、戦場で死の危険に晒された時、この観音の力を念ずれば、あらゆる敵はみな逃げてしまう。 観音菩薩は優れた音、世間を観る音、梵天の音、大海の音を持ち、世界のあらゆる音に勝る音を持っている。
したがって常にこの観音を念ぜよ。
一念一念に念じて決して疑ってはならない。 この観世音という浄い聖者は、苦しみや死の苦難が訪れた時に、最後の拠り所となるのである。
あらゆる功徳を持ち、慈悲の目をもって人々を眺めている。
その福の集まる姿は無量であり、だからこそ礼拝すべきである。 南無大慈大悲観世音菩薩
南無大慈大悲観世音菩薩
南無大慈大悲観世音菩薩 観世音菩薩
「観」はみる、ただ見るのではなく、よく観る。
「世」は世間の世であり、世の中の意味。
「音」は衆生の悩みや苦しみの声とか救いの音声。
観音様は無相であり、無我であるから
宇宙のあらゆるところに縦横無尽、
円融無碍(えんゆうむげ)に現れることができる。 悪い友と交わるな。
卑しい人と交わるな。
善い友と交われ。
尊い人と交われ。
ブッダのことば 「自灯明・法灯明」
私がいなくなっても真理の法は生きている。
自らを灯明とし自らを拠り所としなさい。
法を灯明とし法を拠り所としなさい。
仏陀 最期の言葉 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。