狂った世の中と物質文明
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本音 正念場 が出てきた。
あなたの意見
本音ですね。
だから本音で答えた。
文句あるのか この者ら在日だから
わからんのです!
日本人ではないから。 お前らのようなのは
日本にいる必要があるのか
答えが必要だと思うが >>305
在日でも外国人でもない。
妄想が過ぎるね。 >>308
あんたのような者が戦争を引き起こすんだろう >>307
融合や調和の精神で生きていたらこのような発言はしないだろう 仲良くしましょう
日本は和の国です
みんな日本にとって必要な存在です いがみ合い対立しても物事は解決しません
競争が美徳とされるおかしな世の中です
ネットの世界でも煽り合い 対立の何と多いことでしょう
討論ではなく建設的な議論へ
対立ではなく相手の意見も認める融和 調和でなくては物事は解決しません
煽り合っても対立しても憎しみを生むだけです
そして憎しみは更なる憎しみを生みます 自分の宗教、自分の国、そういう自我執着心が自他対立を起こす 人間は天使にも悪魔にもなり得る生き物
元来 天使や悪魔というのは人間の心の状態を
表したものではないでしょうか
人間は人を愛して、正しいことを自分からすすんでやる=天使
人間は欲望のためには何でもやりかねない=悪魔 悪口は言えばスッキリすると思いがちですが、それは一時的なものであって悪口自体には良いことどころかデメリットしかなく、
ストレスや不平不満が溜まるとつい言ってしまいがちですよね。
脳科学では、脳は主語を理解できないとされていて、人に向けて言った言葉だったとしても、自分に向けた言葉として捉えてしまい、また昔から言われるように言霊といわれ言葉には力があり、
悪い言葉を言うと悪い影響を受け、脳にもネガティブなイメージが伝わってしまいます。
そこで今回は、悪口がもたらす恐ろしい言葉の効果、どのような影響がでるのかをお伝えします 言葉にはエネルギー(波動)があり力があり、自分の放つ言葉にはエネルギーがあり力があるので他人に言った言葉でも、
主語を認識できない脳の性質上、自分に跳ね返ってきてしまい他人に向けた言葉も自分のこととして捉えてしまうので、
悪口や、他人を非難する言葉を言い続ければ自分自身の気分をどんどん下げてしまい
自分が悪口を言われている気分にもなってしまい健康面でも悪影響を受けるので気を付けましょう。
悪口を言うと一時的にすっきりと発散されるとは思いがちですが、悪口ばかり言う人に幸せそうな人がいないと言っても過言ではなく、
自分のこととして脳が捉えて自己嫌悪に陥ってしまう状態になりやすくなるので、自分の口から出す言葉は、たとえ他人への悪口や不満、批判であっても言わない方が自分や他人のためにも良いです それから、人は鏡なので他人へ向けて発する言葉は自分に言っていることになり、
人に何を言ったのか思い返してみれば心当たりがあるはずなのと、言葉の力は、
悪口や文句のように悪い言葉を使えば悪影響を自分に及ぼし、自分の放った言葉通りになり、悪口や文句のたえない生活になっていき、
どんどん悪い方向へといってしまう危険があるのでぜひプラスの言葉を日々使い続けていきたいですよね。 悪口を言えば、自分が言われたこととして脳はとらえてしまうので、「あの人イライラするよね」、
「〇〇さんってバカなのかな?」と主語を言ったとしても自分自身を傷つけることになり、
自分自身を傷つけてしまい自己嫌悪に陥ってしまうので、どんどん周りの環境は悪くなっていきます。
悪口を言う方はスッキリするかもしれませんが、聞く方はとても疲れてしまうので、悪口を聞いていて、良い気分になる人はいませんし、
悪口やマイナスなことを言う人とは付き合いたくないので、だんだん友達が離れていき、類は友を呼ぶといわれるように悪口を言う同じ波動の人たちが集まり、
悪口ばかりを言って、次第に自分が悪口を言われる立場になってしまう悪循環に陥るので、このようなことにならない為にも気を付けたいことですよね。 また、悪口を言っていると人から信頼も信用もされず、悪口を言っている人に何を言っても裏で悪口を言われていると思われてしまうので、
自分が逆の立場だったらという意識を持ち相手を思いやる気持ちを持つようにこころがけましょう。
このように悪い言葉ばかり言い続けていると同じような人しか集まってこなくなり自分も裏で悪口を言われて、
どんどん悪い状況になってしまうので普段から他人を思いやる気持ちと行動をこころがけるのが結果的に自分自身を良い状態にできるのです。 あるものは、ただそこにある。
悪口は悪口になる前は、思考の形で、すでにある。
口に出さねば、亡きものになってくれる訳ではない。
周囲に出す事で、反応を体験し、別の解釈を示されて、初めてその異常な思考に、異常な環境に気付いて、そこから改善の道が拓ける事もある。
これも人間。
ネガに付き合いきれなきゃ、逃げ出すのも、また人間。
好きに選べば良いね。
しかし、いざ大切な人がそうなった時に、逃げてばかりだった人じゃ、その「まさか」の時に大切な人に気付きをあたう事、別の道を示す力は備わっているのだろうか? その地に属するものとして 者として
大事にするもの大切にするもの ある
大事にしているものが国や民族で異なります。
配置 役割 得意なことでもって対応。
現在での現況です。今までの流れや歴史を知らなければ。
白一色などありえません。
マスゲームなどない。争いの素今すぐやめよ。
白一色ならば国など存在意義無し。
それが王国だと思います。以前の。
白人至上主義が争いの素と思われる。
知識技術有るが、この地においての慣れ 習わし
則らない意思
白一色
旧体制としては
日本の習わしを知ると以前の事を知れると思います。
続々と海外から興味を示し習いたいと来る方々がいます。
どうしてでしょうね。
見えないけど存在する意思の力を示す時。でしょうか。
やりましょう 人間とは弱いもの
弱いから宗教や神様に頼って、すがってしまう
でも自分の心を強くするのもスピリチュアル
誰かに頼るのも分かるけど
結局どうするかは自分次第
結局一番頼らないといけないのは自分 >>327
白人至上主義ですか
いけませんよね
世界は白人だけのものではありません
多種多様な民族が暮らしています ルーマニアで痛ましい事件が起こったようである。
日本語を教えるために留学した日本人女性がその日のうちに強姦殺害されたという事件である 東京都内の大学に通う益野友利香さん(20)がルーマニアで殺害された事件で、地元警察は22日までに、殺人容疑で逮捕したブラッド・ニコラエ容疑者(26)の自宅から益野さんの携帯電話を押収したことを明らかにした。
地元警察や検察当局によると、益野さんの遺体は首都ブカレスト郊外の森に遺棄され、
40〜50メートル離れた場所で益野さんのスーツケースが見つかった。財布など金品はなかったという。 みなさん、ほんの数十年前まで、世界は白人種によって、
有色人種国家が植民地とされていたことは、ご存知のことと思います。
植民地支配された地域に住む原住民(有色人種)は、なぜ「支配された」のでしょう。
欧米の基本的思想は、人は神の子であるという思想です。
単純に図式化すれば、この世は「神>人>獣」によって構成されている。
神は、人や獣に対して、生殺与奪の権を持ち、人は獣に対して生殺与奪の権を持ちます。
だから、牛や豚は、人が殺して食べて良いのです そして欧米において「人」というのは、神との契約を守る者たちです。
逆にいえば、
「神との契約」を守らないのは、異教徒であり、「人」ではありません。
「人ではない」ということは、人の形はしていても、それは「獣」です。
日本昔話には、様々な「もののけ」が登場しますが、その「もののけ」を、殺戮するという物語は日本人はもちません。
数ある妖怪談義でさえ、最初から問答無用で殺されたのは、八岐大蛇くらいなもので、
あとは人と仲良くなったり、恋をしたりというのが、日本の「人以外のモノ」との接点です けれどみなさん、たとえばハリウッド映画などでバンパイヤ(吸血鬼)や、
リカント(狼男)などは、勇気ある若者によって、片端から殺されますよね?
要するに、彼らの思想においては、神を信じず、神との約束を守らない者は異教徒であり、
異教徒はバルバロイ(Barbaroi)であり、バーバリアン(Barbarian)です。
つまり、人の皮をかぶっただけの「獣(けもの)」なのです。
そして「獣」は、いくら殺しても、罪にはなりません。
殺人罪が罪になるのは、相手が「人」だからであって、「人ではない獣」は、いくら殺しても、むしろそれは当然のことなのです。
牛や豚を殺しても罪にならないのと同じことだからです。 バンパイヤやリカントは空想上の生き物です。
けれど、西欧人にとって有色人種(カラード)は、バンパイヤやリカントと同じ「獣人(バーバリアン)」です。
ですから、私達日本人も、有色人種ですから、バーバリアンです。
バーバリアンは、殺して退治し殲滅するか、養蜂よろしく使役して蜜を作らせる道具とするかのどちらかです。
この思想が、植民地支配の思想です。
簡単にいえば、国ごと養蜂場にしたのが「植民地」です。 植民地に住む原住民は、獣です。
ですから犬や猫に言葉を教えないのと同様、被植民地の人々に教育など与えません。
獣には、必要な「しつけ」をするだけです。
ほんの数十年前まで、そういう思想が、世界の支配者であった白人種にとっても、
される側の有色人種にとっても、普遍的かつ恒久的なごく普通の世界の「一般常識」だったのです。 ですから、初の黒人のパイロットが生まれたとき、世界はまさに驚愕しましたし、ほんの数十年前までは、米国においてさえ、
黒人には痛覚がないと本気で信じられていました。
私達は、釣りをするとき、魚の口部に釣り針を通しますが、
それは魚には痛覚がないと考えているからです。
同じことが、黒人や黄色人種についてもいえると、実際に考えられていたのです。
この事件に対して、幼気(いたいけ)な日本女性をレイプ殺害した方のルーマニア人たちはこう言っているという。 (もしこの子も銃を持っていれば、正当防衛で相手を殺すことができただろう。)
遺体が見つかった事件では、現地メディアが「日本人女性があまりに無防備で、今後の両国間の関係にも悪影響がある」と報じている。
聖心女子大学文学部英語英文学科2年・益野友利香さんは15日、日本語を教える研修のため現地を訪れていたが、
当初の予定では空港に着いた夜、そのまま約30分の距離にある駅までタクシーで向かう予定だったが、なぜか声をかけてきた男と一緒にタクシーで駅とは逆方向に向かってしまった。 益野さんが公の場で見かけられたのはこれが最後。彼女のTwitterも15日の「ルーマニア着いてから一人で深夜電車に3時間乗らなきゃだから、
それが最大の不安というか何というか辿り着けたら奇跡だと思う(>_<)」というつぶやきが最後の言葉となってしまった。
同国検察庁によると、26歳の男が益野さんに話しかけ、タクシー乗り場まで誘導し一緒にタクシーに乗ったが、
行き先は列車が出るノルド駅とは反対にあたる国道途中で下車。その脇の森林で強姦され、首を絞めて殺害されたという(男は犯行を否認)。 「被害者女性は英語を学んでいるということだったが、常識は学んでいなかったのではないか」
現地のメディアではこんなふうにも伝えられた。
ラジオ番組でも女性DJが「いきなり声をかけてきた男に従ってタクシーに同乗するなんて信じられない」と話している。 ルーマニアでは、ブカレスト空港周辺の治安の悪さがかつて社会問題と化していた。
白タクが横行しトラブルが絶えなかったことから、近年は空港に出入りできるタクシー会社が制限されている。
空港の入り口を出れば目前が許可されたタクシーの乗り場になっており、トラブルも激減。
正規のタクシーは車体のサイドに白黒チェックのライン模様入りで、料金メーターも明示するようになり、悪質な白タクと区別されている。
「益野さんが取るべき行動はただタクシー乗り場に行くだけだった。男と行動する必要は何もない」 現地メディアが伝える通り、益野さんがなぜわざわざ男と寄り添ったのか確かに分からないが。
ルーマニアでは民主化以降、ニセ警官による金銭トラブルや両替詐欺、スリなどの犯罪が増えており、
渡航には十分な注意が必要とされるが、今回のケースはそれ以前の問題で「日本では3歳になった少女に“知らない人について行くな”と教えることはないのか。
今回の事件では、本国に来る日本人女性が愚かだという宣伝になってしまった。
同じような事件が続発しないことを祈る」と同メディア 要するに、現地の白人たちは、レイプされる方が悪い。
殺害される日本人女性が悪いと言っているわけだ。
まあ、確かに子供のような可愛らしい女性だったかもしれないが、日本人に日本語を学びたいという国なのだから、
日本人には親切なのだろうと考えて、うかつにも親切そうな男に騙されてしまったということは考えられるだろう いずれにせよ、キリスト教国の白人は、一般人も犯罪者も、異人種や異教徒の被害者には冷淡である。
エンパシー(感情移入)がまったくないのである。つまり、彼らは自分の娘が強姦殺害されたというようにはまったく感じないということなのである。
ねず氏はこのことを言っている。
アメリカや欧州の比較的発展した国々ではまだしも、
東欧やニュージーランドやオーストラリアの田舎など、田舎の国や田舎の場所ほど、昔の白人文化や白人至上主義的時代背景の中で生きている。
自分と同じ白人以外見たことも会ったこともない。そういう世界で生きている。
アメリカでも田舎ほど教育がないわけだから、昔の人種差別時代の文化で生きているわけである。 ならば、欧州の田舎の貧乏国ルーマニアなら一層そうであるはずである。
体操の選手を見て、ロシアやベラルーシやルーマニアは美人ばかりだと日本人は好意的に見ているだろうが、逆に彼らからすれば、
我々日本人は異民族、異文化、異教徒としか見ていないのである。要するに、一言で言えば、「亜人間」と映っているわけである。一種の猿か類人猿である。
西洋人は何事も見てくれだけで判断する文明圏だから、そういうものなのである。
そういうところ、心理の根底にある、不合理なものを理解しておかないと、
こういう悲劇がいつも生まれるのである 外面の美しさや物やお金にとらわれてる人は
いつまでたっても低次元です
本当は全て己の内側から発してる
精神世界である事を理解していない
白人が作り上げた物質文明に生きてると
精神を忘れてしまいますよね 外人こそ亜人だな
べたべたするし無理
外国なんか絶対いきたくないでござる 白人世界では人間の容姿はかなり昔から一般人に至るまで重要視されてきました
彼らは私たち日本人と違って、人の容姿をとても気にします
例えば日本なら太った人や小さい人、不細工がいてもそれに口を出す人はほとんどいません、
思っていても口には出しません、それらは失礼に当たるからです
しかし白人は違います、彼らの世界では男は強くハンサムで、女は美人でセクシーでなければ、一人前の人と認められません
彼らの目からしたら、年頃になっても
なかなか成熟した身体ではなく貧相な日本人の体型は「奇形」にしか見られておらず、
猿や障害者のような位置付けです。
白人はアジア人を人間扱いしてません。
化け物や障害者、奇形児にしか見えないようです。 白人は外見至上主義だから
人の内面を見ようとする精神文化がまるで無い
日本は古くから精神文化が発達してたけど
戦後から白人の影響を受けて
外見文化が発達
容姿による差別やいじめが蔓延したね >>351
白人を誤解しすぎだし馬鹿にしすぎ
彼らだって精神性はとても大事にしますよ?
日本人こそモノの容器や包装の表面的な綺麗さに過剰にムダにこだわり
裏では平気でとんでもない量のゴミを出しまくり
自国だけでは処理しきれないので海外で片付けてもらってる恥ずかしい国ですよ?
間接的にコスト上げて日本での製造業をつぶし、どんどん貧乏になっていく茹でガエルの馬鹿揃い
100均=プラまみれの安かろう悪かろうをもてはやしてどんどん国を駄目にしてる
一方的で歪みまくった日本礼賛をやりたいだけならそこらのネトウヨと変わらない
ここではなくブログで勝手にやってなさい 確かに今の日本は無駄が多いです
無駄な物 使わない物 ゴミを大量に出す社会です
シンプルさが失われていますね 物がいっぱいあると、それが視覚的ノイズになって、必要以上に神経にさわります。
自分ではすっかり見慣れていると思っている、ぐしゃぐしゃの本箱や、洗濯物の山も、毎日同じように、脳に刺激を与えています。
それは視覚だけにとどまりません。脳は感覚器官から入るすべての情報をインプットして、必要なものとどうでもいいものに分けています。
たとえば嗅覚。匂いがたくさんありすぎると、やはり脳は疲れます。触覚も同じ。毎日、さまざまなものをさわるたびに、それは刺激になります。
生きるために適度な刺激は必要ですが、ガラクタによる、必要でもなく、重要でもない刺激はストレスを生むだけなのです 部屋の中に物がいっぱいあると、気が散ってしまい、やろうとしていることに集中できません。
私はなるべく1つ1つの家事に集中しようとつとめています。それでも、よく気が散ります。洗濯をして乾燥した衣類を居間に運ぶ時、台所を横切ります。そのとき、カウンターに余計なものが出ていると、そっちをしまいたくなります。
これを防止するため、物を出したらすぐに片付けて、気が散るものがそのへんに出ないようにしています。
何でも目に入ってしまうと気を取られてしまうのです なぜ物がありすぎると探しものが増えるのでしょうか?私の場合は、どこにしまったのかわからなくなり、探しまわっていました。
私はしまう場所を作りすぎて、かえって探しものをするタイプでした。
物をたくさん持っていたころは、外出時の荷物も多かったものです。バッグを持ち歩いているうちに、必要でないものがどんどん増えていきました。
しょっちゅう、家の鍵をどこに入れたか忘れて、玄関の前でバッグの中をあさるはめに。
そこで、ポケットがたくさんあるバッグを買いました。ポケットがいっぱいあると、物をいろいろ整理して入れられると思ったのです。 しかし、これは逆効果。ポケットがありすぎると、何をどこに入れるべきか考えなければならず、さらにますますどこに入れたかわからなくなるのです。細かく分類しすぎて、取り出しにくくなるわけです。
今はいつも同じバッグを使い、鍵を入れる場所も決めて、このようなストレスとは無縁になりました。 どんな小さなことでも、やるべきことをクリアすると、すごくスッキリしますね。未完了のことがあると、このスッキリする分と同じぐらい、心は重くなっているのです。
編みかけて1年以上たっているセーターや、読みかけてずっと放置している英語の教材などは捨てたほうが、精神衛生にいいです 物理的に部屋が散らかっていると、どんな作業をやる前にも「まずはざっと片付ける」作業をしなければなりません。だからよけいに時間がかかります。
やりたいことをさっとやれないのでこれがストレスです。
たとえば毎日使っている洗濯機のフタの上に物がのっていると、洗濯する前にいちいちどけなければならないのでうっとうしいですよね。
洗濯機の上に物をのせる人はいないと思いますが、これと似たようなことがガラクタがいっぱいの部屋では、日々起きているのです ガラクタがいっぱいあると、「これ片付けるのにどのぐらいかかるんだろう」「いったい誰が片付けるんだろう」「片付けないとどうなるんだろう」といった心配が生まれます。
人によっては、「あれはどこにしまったんだろう。必要なときに見つかるかしら」とか「あの書類はあの山の中にあるんだろうか」といった心配もします。
この手の心配は、本格的に深く悩んでいるわけではないのですが、毎日のように考えていると、やはりストレスになるのです。 先日読んだ、ドミニック・ローホーさんの本によると、ある著名なカメラマンが世界中をめぐって人の所有物の調査をした結果、
住民ひとりあたりの所有物の数の平均はモンゴルで300個、日本では6000個だったそうです。
この本はフランスで2005年に出版されたので、今はもっと多いかもしれません。洋服が安くなったので、服の数は増えているはずです。
6000個は大きな数字です。もし4人家族だったら、2万4千です。まあ、そのうちいくつかは共同で使っているとは思いますが。
このような大量の物が、日々、ストレスを生み出しているのです このような悪循環を断ち切るためには、やはりどこかで意を決して断捨離をするべきです 私たちは自分が想像する以上に、複雑な世界で生活しているため、ものごとをシンプルにしていくことは、かなり苦痛を伴う一方で、
シンプルさが希少であればあるほど、その価値は上がっていき、有益なものになっていきます。
「もっとこんなものがあったらいいのに」と考える暇もなく、新しいものが市場にあふれ、車やパソコン、病院、カフェ、そして結婚相手にいたるまで、
私たちの世界はいつも選択肢であふれていますが、スティーブ・ジョブズがiPodのボタンを嫌ったように、
物が一つ増えれば、
それだけその人の生活はどんどん複雑になっていきます さらに、選択肢が多過ぎることの不利益は専門家によって立証されつつあり、
「選択の科学」の著者であるシーナー・アイエンガー氏は、「十個以上の選択肢を与えると、選択した結果の満足度が下がる」という研究結果を発表し、
ハーバード大学の心理学者ダンギルバード氏もTEDの講演の中で、「選択肢が少ない方が幸せを感じる事ができる」と述べています。
私たちは日常的に、「何を選択するべきか」に時間や思考を費やし、選んだ時点で物事を達成した気になってしまいますが、
実際には次から次へと出てくる新しい選択肢に目を奪われているだけで、
本当の意味で「考えて」選択する機会は、日々少なくなってきているのではないでしょうか 2013年にアメリカで行われたインターネットショッピングに関するリサーチによると、90%の回答者がレビューを見て購入を決めているそうで、複雑過ぎる選択を放棄した結果、
見ず知らずの誰かの評価に頼ってモノを選んでしまうようになり、
それは自分の意志で選択をしているとはとても言えません。
「Frictionless Living」というウェブサイトを運営しているクリス・フィリップス氏は、シンプルでいることのパワーについて次のようにに述べています。
「処理できないほどの情報は混乱を招くだけ。選択肢が多ければ多いほど何も選べなくなる。」 モノが溢れている現代では忘れ去られつつありますが、古き良き日本では、シンプルであることを美徳とし、
世界中で翻訳された宮本武蔵の「五輪書」の中には、「Do nothing that is of no use(役にたたぬ事をせざる事)」という言葉があり、
自分の役にたたない事はしないように努め、シンプルでいることの大切さを説いています。
宮本武蔵は、他人の評判や余計な選択肢などには見向きもせずに、
シンプルに自分を磨き上げる事に集中していたとされ、次のような言葉を残しています。
「あれになろう、これになろうと焦るより、富士のように黙って自分を動かないものに作り上げろ。
そうなれば自然と自分の値打ちは他の人が決めてくれる。」 武蔵のように昔の日本人はシンプルである事の重要性を説いていましたが、
現代の日本社会では、シンプルさを大事にする伝統を失いつつあり、伝統的な日本のよさに注目しているのは、
むしろ海外の人たちだったりします。
日本には古くから、「禅」という考え方がありますが、茶道、剣道、書道、そして弓道など、
「道」とつく技能には禅の考えが基盤にあるとされ、これらは「シンプルに一つの道に専念し、一事を極めること」を良しとしています。
スティーブジョブズは禅の教えを愛し、シンプルでいる事の重要性を重んじていたのはあまりにも有名ですが、
他にマイケル・ジョーダンや映画監督のホドロフスキーなど、禅に影響を受けた海外の有名人を挙げれば、キリがありません 禅も断捨離もその根底にあるのは仏教であり御釈迦様の教えです
必要のない物は捨てるのです
お釈迦様は煩悩を必要のないものとして捨て去りました 煩悩とは金銭欲 物欲 地位欲 名誉欲
性欲 怒り 執着などです
これらを捨て去ることにより お釈迦様は人間としてシンプルに生きることが出来 心も体も軽くなったのです
涅槃に至るとか悟りを開くという言い方もします
要は仏教徒が目指すべきゴールです 多くの人々が、身体的特徴で他者を判断する。
その人がどのような身体的特徴を持っているかによって、
人々の対応の仕方は変わるのである
社会は美しいものこそ正義というステレオタイプな価値観が存在する
身体的に魅力のある人物は友人がよりたくさんいて、
より優れたソーシャルスキルを持っており、性生活も充実している。
「人は見た目が100%」はまるで嘘ではないのが現実 ルッキズム[1](英: Lookism)とは、身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことをさす。[2]。
身体的魅力はよいものと関連づけられる。他方、身体的に魅力がないことは悪いものと結びつけられる。
多くの人々が、身体的特徴で他者を判断する。その人がどのような身体的特徴を持っているかによって、人々の対応の仕方は変わるのである。
"美しきものこそ善"というステレオタイプに関する研究によれば、身体的に魅力的な人たちはそのルックスで得をする傾向にあったという。身体的に魅力的な人はよりポジティブな評価を受けるし、身体的魅力は能力の評価にも強い影響を与えていた[3]。
身体的に魅力的な人々はそのようなステレオタイプから利益を得ていたといえる。平均してみれば、身体的に魅力のある人物は友人がよりたくさんいて、
より優れたソーシャルスキルを持っており、性生活の頻度も多かったことが研究からわかっている。しかし、このような身体的魅力を持っていても、
主観的な幸福レベルにはなんら影響を与えないという 見た目で人を判断するのは、真実を覆い隠すマヤのヴェールにとらわれるのと同じだ(仏教徒の思想)。古代から比較的最近に至るまで、
ルッキズムに対する懸念は広く存在した。特に恋愛の場合にいえることだが、他者の外見はあてにならないし、他人の容姿をもとに判断したり行動するのは、
個人的に、もしくは政治的に軽率なこととなりうるからだ。見た目で判断する行為は一神教では禁止されているし("偶像崇拝禁止")、古代や中世の哲学でも批判されている。
懐疑主義、ストア派、キュニコス派、エピクロス主義、スコラ学は、外見の役割を避け、
重視するべきではないとする様々な理由を詳しく説明している しかしながら、ルッキズムという用語自体は1970年代にファット・アクセプタンス運動(英語版)の中ではじめて生まれた。
1978年のワシントン・ポストの記事では、ルッキズムという言葉は"見た目に基づいた差別"を表す用語として、"太った人々"によって作られたと主張されている[6]。
この言葉は、多くの主要な英語辞典にも掲載されている[7]。テラトフォビア、カコフォビア、ルッキズムという用語には重なる部分もある 新生児に対する研究によれば、生後14時間ほどの幼児も魅力的でない顔よりも魅力的な顔を好むという[10][11]。
このような嗜好は、猫のような人間ではない動物にまで及ぶ[12]。これらの発見から、
ルッキズムは人間の視覚システムの働き方という生得的な産物であることが示唆される[13]。
マサチューセッツ総合病院の心理学者であるナンシー・エトコフは、「私たちは、ルッキズムが、もっとも蔓延し且つ事実でないと否定されるタイプの差別の一つである世界に直面しているのです[14]。」
と述べている。 Angela Stalcupはいくつもの研究を引用しながら、「西洋文化では、かわいらしさに対してプレミアムが存在するだけでなく、十人並みの容姿に対するペナルティがあることは、
エヴィデンスが明確に示している。」と書いている[15]。容姿を根拠にした差別が恐怖や嫌悪の伝播へと転じたとき、これをカコフォビアと呼ぶ[8]。
カコフォビアは内面化し、他者ではなく自己へとその刃が向けられることもある[16]。 ダン・アリエリーの研究によれば、アメリカ人女性は高身長の男性とデートすることに著しい選好をみせる。
また、身長の低い男性が魅力的と判断されるためには、高身長の男性よりもはるかに多くの金銭を稼ぐ必要がある[17]。 20世紀初頭には、日本人は白色人種と比べて肉体的に劣っているとされた[52]。
高橋義雄は著書『日本人種改良論』の中で、日本人が白色人種と比べて10cm以上身長が低いことを嘆き、西洋人と日本人の結婚を推し進めることでこの体格差を埋め、
「肉体的に優秀で美しい日本民族」として日本人を「改良」するべきだと主張した[53]。また、1931年に開催された「ミス・ニッポン・コンテンスト」では、医学的な検査も選考に影響を与えており、
身長や体重の増進が強調された[54]。ジェニファー・ロバートソンは、このミスコンの裏に、女性を美しく「理想的で優秀な体格」をもつ「素晴らしい次世代」を産む母体として評価する優生学的な動機があったと指摘している[55]。
ファッション研究者の小山有子によれば、当時女性の体格の向上を図るために体育の導入、衣服の改良、正しい姿勢の啓蒙などが行われたという Lookism.netという「インセルのための掲示板」では、参加するメンバー同士でお互いの身体を論評し、整形手術などのアドバイスが行われている[57][58]。
過激なインセルの中には、社会や異性への恨みを吐露し、車や銃を用いた大量殺人事件を引き起こす者もおり、社会問題になっている[57][58]。
アメリカ形成外科学会の統計によれば、過去10年のうちに、男性が整形外科手術を受けるケースが急激に増加しており、
2017年だけでも1300万件以上の美容整形外科手術が行われたという[59]。ニューヨークのとある美容整形外科では、
4年前に比べて男性顧客の数が4倍になっており、男女比は4:1にまで及んでいるという[57][58]。手術は「男性モデル」、
「ボディビルダー」、「アスリートダディ」、
「自信に満ち溢れるCEO」になりたい人々に人気があるが[60]、一番人気なのは「男性モデル」パッケージで、「あご、胸筋、臀部の増強、脂肪吸引、
そして腕と肩の増強」が含まれ、金額は6000ドルから25000ドル程度であるという[57][58]。 2000年代初頭、韓国では就職活動を有利に進めるため、男性の9.3%、女性の22.3%が「リクルート整形」を行なっているという報道がなされた[61]。
2003年には、日本でも就職活動を行う大学生や再就職を目指す中高年男性がプチ整形を行なっているという報道がなされたという[62]。 アメリカ合衆国では1970年代まで、ルッキズムが法律に成文化されることもあった。
いわゆる醜陋法(英語版)[63]によって、病気を持っていたり、損傷を負っている人々が公共の場に姿を表すことが禁じられた。
病気や損傷は醜いと考えられていたのである[64]。今日、雇用機会均等委員会は極度の肥満を、障害を持つアメリカ人法によって保護するべき障害であると考えており、いくつかの都市では容姿に基づく差別を防止している[65]。
身長差別を禁止している州にはミシガン州があり[66]、マサチューセッツ州下院議員のByron Rushingによって身長差別を禁じる法律案が提出されたこともある[67]。地方自治体では、
サンタクルーズ[68]とサンフランシスコ[69]の二つが身長差別を禁止している。ワシントンD.C.は容貌に基づいた差別を禁止している[70 オーストラリアのビクトリア州は1995年平等機会法のもと、身体的特徴を理由とした差別を禁じている[71]。
中国政法大学のとあるグループは、身長や身体的特徴に基づく差別を禁止する法律案を起草している[72]。また、
カナダのオンタリオはオンタリオ州人権法(英語版)のもと、身長差別を禁止している 今この世界は、人生は非常にシンプルなものだ、ということを学んでいます。私達が学んだところによると、
この文明の中で一番難しいのは、人生は本当はシンプルなものだと信じることのようです。 私たちのふつうの観念で行くと以下です。
複雑でなければ価値がない。
たとえば私が本を買う時でも、本が厚ければ厚いほど価値があるように思ってしまいます。
本が薄くて、そして文字が大きく、余白が多ければ、それだけでなんだか価値が減ずるように思ってしまいます。
でも、そんなことはないんですね。
人生は本当はシンプルなんだから、価値と本の厚さは関係ありません 凄い共感出来るし参考になる
夏に部屋の模様替えでかなり整理したけど年末にもっかいやるかな 物質より精神を
機械より自然を
競争より調和を
お金より愛を
仕事より家族を
自己より他者を
大切にする社会へと脱皮しなければいけません 物質文明とは子供の文明です
欲望を具現化した文明です
一方の精神文明は人間の真 美 善を具現化する文明です 精神文明とは大人の文明です
我々は子供から大人に脱皮しなくてはいけないのです <自己肯定感が低いために、仕事ができる自分を認めない若者もいる。そうした社員に必要なのは、
口先だけの激励ではなく証拠に基づく説得だ>
日本の若者の「自己肯定感」が低い。内閣府の調査によると、アメリカやイギリスなど欧州の若者の80%以上、韓国の若者の70%以上が自己を肯定的にとらえているのに対し
、自己肯定感が高い日本の若者は、わずか40%台にとどまっている。実に、半分にも満たないという。
意欲・やる気という項目が諸外国と比べて著しく低いことはわかっていた。
しかし、自己肯定感がここまで低いとは驚きだ 死は生命にとって最高の発明――。こんな至言を遺した男の思想には、日本由来の「禅」が深く関わっていた。
なぜ内部基板にまで美しさを求めたのか これは、11年10月に亡くなったアップル創業者スティーブ・ジョブズの言葉である。
製品の外装だけでなく、内部のマザーボードにまで美しさを求めたジョブズは、チップや回路をもっとシンプルで魅力的な配置にしたいと考えた。
技術者たちはマザーボードをのぞく者など誰もいないと反論したが、これに対しジョブズが放ったのがこの言葉であった。
製品の本質を重視する彼の精神は、禅の一派である曹洞宗の開祖・道元の教えに通じるところがある。
たとえば道元の教えを弟子たちがまとめた『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』(岩波文庫など)には
「実徳を蔵、外相を荘(かくしてかざらず)」(内面をよくして外面を飾らない)という言葉が出てくる。 実際、ジョブズと禅には深い結びつきがある。
彼は青年時代から禅と接し、曹洞宗の僧侶である乙川弘文(おとがわこうぶん)老師に師事していた。
カウンターカルチャーが全盛を迎えた1960年代から70年代前半、若者たちは物質万能主義に疑念を抱き、
精神世界に関心を向けた。ジョブズも、72年に大学に入ると東洋思想に傾倒していく。なかでも仏教や禅には強い影響を受けた。
後年彼が語ったところによれば、「抽象的思考や論理的分析よりも直感的な理解や意識のほうが重要だと、このころに気づいたんだ」
(ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズI』講談社)という。 人生は複雑じゃない。私たちの方が複雑だ。
人生はシンプルで、シンプルなことが正しいことなんだ
by オスカーワイルド
私達の身体の中では
絶えず様々な反応がおこっています。
私達の抱く感情もとても複雑です。
ただ、人生はとてもシンプルなものです。
難しく考えるから複雑に見えるだけで
よくよく考えてみればシンプルです。 シンプルに考えられるひとつの参考材料として
抽象度を上げることを覚えておくといいと思います。
抽象度を上げると言うことは
例えば、チワワだったら犬、カラスだったら鳥
えんぴつだったら文房具、りんごだったら果物のように
考えるレイヤーを上げるのです。
普段から抽象度を上げるくせをつけ
抽象度を上げることになれておくといいでしょう。 人生は、とてもシンプルなもの
自分が今抱えている問題はとても複雑にみえるかもしれませんが
解決策はきっとあります
シンプルに考え、シンプルに行動し
日々ぶつかる壁を乗り越えていってください ネガティブな人は、複雑に考える習慣があります。
仕事でも私生活でも、物事を複雑に考えたがります。
「難しく考えたほうが社会人らしい」
「複雑に考えることが、努力と一生懸命である証拠」
「入り乱れた考え方のほうが、頭がよいと思われるだろう」
さまざまな理由や魂胆があって、複雑に考えることを好みます。
しかし、往々にして複雑に考えると、よい結果になりません。
まず考えるだけで疲れてしまいます。
複雑に考えると、頭脳のパワーが必要になるため、
時間や労力がかかって疲れやすくなります。 本来なら簡単に終わることを、自分から余計な遠回りをして、わざわざ難しくさせている状態です。
ごちゃごちゃ考えているうちに収拾がつかなくなり、考え方もネガティブに陥ってしまうのです。
ポジティブな人は、何事もシンプルに考える習慣があります。
シンプルであることが最良だと考えています。
一見複雑そうなことも、本質を見極め、単純化させます ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています