インド哲学系の実践をしてきた私から言わせてもらうと神秘体験も含めて体験はみな単なる認識の対象
自分自身と環境から作られた「私」という自己イメージのプログラムが崩れると無だの空だの自由だの一体だのそういう体験が起こる
要は自分を縛っている自己イメージが崩れた分だけ自由になるのだけれどそれを解釈する「私」がまだあるのでその「私」というフィルターを通して様々な体験となる
人によってそれらは神秘的な体験だとか悟りだとか勘違いしてしまうけどそれはただの体験
強烈な自己イメージが崩れた分だけ強烈な体験があるだけのこと

インド哲学や仏教でいう悟りは体験が誰に現われているか
体験と体験をする者という客体と主体のその両方が現れるなんでもないものをハッキリさせること
自分とはアートマン(対象にならない主体)だと分かることだし、さらにアートマンも現われているものであって、アートマンが何に対して現われているのかハッキリさせること
神秘体験も含め体験はただ現われてる現象世界の変化に過ぎないのでどうでもいい
どんなにすばらしい体験でもそれは生じて消える無常なものに過ぎない

体験が、体験と体験者の両方が、一体何に現われているのか
それだけが真摯に問われるべきただ一点

神秘体験は様々に素晴らしい なぜなら心には限界がないのでくらでもすばらしい体験を心に作り出す
しかしどんなに素晴らしくともそれはただの体験であり無常の世界の一コマ
対して悟りはあっけない
なぜならそれは体験ではなく素晴らしいとも何だとも言えない認識の対象にならない何でもない何かでしかないから
ただ体験や主客や相対的な一切から自由になれる