「悟りとは無我である」というような、真実に関する命題というものは明快な美しさがありますから、下手をすると修行者はそこに観念的にとらわれてしまいがちです。

「世界は一切空で真実の姿は平等である」という、いわば自己完結した心地よい優等生の回答から抜け出ることができず、その結果、現実に働き出る救済的な力を持たないままの“スピリチュアルお坊ちゃん”で終わってしまうことになりかねません。

禅ではこのような状態に陥った者を「死漢」つまり、「現実に全く影響を及ぼさない死人」と呼んでいるぐらいです。


そんなわけで雲門和尚は、真っ白な美しい悟りに捕われるな、その悟りを抜け出ていけ、泥まみれの世界へ行け、という意味の代語をしたわけですね。