マインドフルネス 実行
実行したマインドフルネスを報告するスレです。
マインドフルネスとは「今」に意識を向けること。
歩行や呼吸、コップの上げ下げ、ドアの開け閉めなど、今に意識を向けるやり方は多種多様にあります。
仕事を一生懸命やる、スポーツに没頭する、なども、マインドフルネス的になっていたというものでも構いません。
継続しているうちに精神的に良い変化があったという場合も、合わせて報告してください。
マインドフルネスは究極的には悟りを目指すものです。
今に意識を向ければ向けるほど、「我」は消滅していきます。
「我」が消滅すれば、大自然の働きそのままの自分となります。
そうすると、自然自然に良いことが叶っていき、運命も好転し始めます。
当スレは実行したマインドフルネスの報告と、その後の心境の変化などを主体とします。
実行に関してのマインドフルネス論を語るのは結構ですが、マインドフルネス論を主体とする場合は、こちらのスレでお願いします。
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1523441929/l50 茶道は典型的なマインドフルネスです。
細かく決められた作法によって、意識が自然に「今」に向くようにします。
茶道を極めるということは、悟りに繋がると言えます。
念仏もマインドフルネスと言えます。
何があっても今唱えている念仏に意識が収束するようにします。
そのために行住坐臥、常に念仏を唱えるということになります。
座禅もマインドフルネスです。
意識を意図的に何かに向けるということではないですが、型を作ってそこにただ在るだけで、
「今そこ」から逃げられなくなります。
何を考えても、「今そこ」の座禅している自分に戻っていきます。 マインドフルネスを続けてやっていくうちに、だんだん調子がよくなって余裕が出てくると、
我欲の方に意識が向きやすくなっちゃうんだよね。
マインドフルに進めば進むほど、我欲に意識が向かう余裕もまた出てくる。
ジレンマみたいになってる。
マインドフルが進むと、ある一定のところまで行くと、そのままマインドフルネスを続けた方が気持ちが良くて、
元の思考の状態に戻りたくなくなるときが来る。
そのまま続けてればいいが、少しでも我欲の波に捉われると、
そこから崩れちゃう。
だから究極的には、マインドフルを保つためにある程度、自力的に我欲を捨てる覚悟もいるのかもしれない。
乗ってそのまま行ければしめたもんだが、それはすなわちただ今この時だけに意識を置き続けるということで
それはすなわち全てを捨てるということになる。
全てを捨てきる覚悟がなければ、ああしたい、こうしたい、が顔をのぞかせ、
それまでの成果を破壊する。
ここをどう乗り越えるかが課題だ。 マインドフルネスは24時間つづけられるものじゃないと意味がないんだけど、
そうすると、欲と両立しないってことになる。
禅堂では常に今に意識を向け続けるわけだ。
欲にもいろいろあって、時間的に短いもの、時間が長く強いもの、あるいは弱いもの。
マインドルネスにとって大敵なのは、欲が強く、時間の長いものだ。
欲に捉われてマインドフルネスが中断される時間が長ければ長いほど、
これまでの成果が水の泡になる。
以降も元からやり直しということにもなりかねない。
欲に中断されそうになったら、更に今に意識を向けていくこと努力を
しないといけない。
あと課題は、なんでもない時にうっかり忘れているというのをどうするか。
これは今に意識を置く手法を限定的にするのではなく、いたるところに今に意識を置くことが出来ると
手法を広くとることがいいかもしれない
手の動作、作業を丁寧にするのがいいかもしれない。 今日、正念相続という言葉を知ったんだけど、調べてみると、『四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、
常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいることが「正念」である』と出てくるね。
正念相続というのは意識を今に置き続けることで、まさに今、正念が相続出来ない状態にあるわけだから
的確なキーワードになってるわけだ。
正念相続とは道元の言う前後裁断と同じだろう。
前後裁断をつづけることが、正念相続ということになろう。
正念相続をさせるためには、やはり、欲を捨てていかないといけない。
欲に捉わられれば、正念相続が断ち切られる。
怒りや不安など、強い感情も同じように捉われてしまう。
これを防ぐには小刻みにマインドフルネスを掛ければいいんだろうか。
たとえば大まかなマインドフルネス、たとえば歩くとか、扉を開け閉めするとか、
そういう大きなことではなくて、たとえば鼻を掻いたり、姿勢を軽く直したときにそこにマインドフルネスを掛けるとか、
キーボードを打つ合間に指を軽く動かしてマインドフルネスを掛けるとか、深くはないんだが、
浅くて苦もなく出来るマインドフルネスを小刻みに入れてみるのもいいかもしれない。
忙しかったりすると、そのあとしばらく意識が戻ってこないことがよくある。
思考がフル回転したあとほど、戻りが悪い。 作業に打ち込むというのもマインドフルネスになるけれど、作業に打ち込んだ後、意図的なマインドフルネスに
戻るのを忘れてしまうことが多い。
テレビを見ることはマインドフルネスではないけれど、気を取られて意図的な
マインドフルネスを忘れてしまうという点では同じ。
非意図的も、意図的も、同じマインドフルネスなのに、切り替え時に思考の状態と同じようにギャップがある。
作業に打ち込んだ後、しばらく意図的にマインドフルネスをすることを忘れてしまう。
思考の状態からでも、作業(非意図的なマインドフルネス)をした後でも、すぐに意図的なマインドフルネスに
切り替えられるようにするのが課題だな。
ただ、別の角度からみると、思考の欲を捨てられないことが問題なのかもしれない。
切り替え時にそのまま思考状態に移ってしまうのは、あれしたい、これしたい、という思考の欲があるからかもしれない。
単に切り替えの問題ではなく、心が作業からそのまま思考に移ってしまってる。
もしも思考欲が無ければ、おそらく作業の途中でも意図的なマインドフルネスを織り交ぜながら、
終っても、マインドフルネスの動作にそのまま移ってるだろう。
思考欲を捨てるには決意がいる。
親鸞の念仏や、道元の禅では、たとえ思考欲を持ったままでも、行によってそのままマインドフルネスに
入っていけるようになってる。
とはいえ念仏は四六時中の念仏、禅は環境の遮断とやはり四六時中の行ということであるから、
他力の環境を作ってしまっているといえる。
自力・・・つまり意図的マインドフルネスは継続が難しい。
だけど思考欲さえ捨てれば、日常動作がそのまま行になるわけだから、
念仏や禅よりはるかに簡単に行が進みやすくなるだろう。 マインドフルネスというのはチラチラッとやっても効果は出ない感じだね。
やるんなら、一つ一つ丁寧に、意識を置いていかないといけない。
そうしてるうちに、ある時、意識が今の動きにピッタリしているような感じがするときがある。
すごく統一できてる感じで、元の思考状態に戻りたくなくなるときがある。
そのままやっていけばいいんだけど、あんまり欲、思考状態から離れると、
なにかのキッカケでまた思考や欲に埋まってきちゃう。
それで成果が台無し。
一からやり直しだけど、前回と同じような状況にはなかなか戻れない。
だから、やるんだったら、徹底してやり通す覚悟がないと・・・。
しかし、なかなかそこまでの覚悟が出来ない。
とりあえず、一つ一つの動作をより丁寧にする時間を増やす、より意識が今に入るようにする。
そういう時間を増やしていこう。 物が落ちて拾ったときによくわかるんだけど、通常は、落ちたものを拾うことしか考えてない。
原状復帰。 落ちたものがまた手に戻ればいいわけ。
なるべく素早く。
だから、落ちた瞬間、パッ!と拾う。
このとき意識は、落ちた瞬間と拾い上げた瞬間の、
二つのポイントしか意識されていない。
間がワープしちゃうわけだ。
このワープが大きいのが、無意識状態・・・ つまり、思考に支配された状態が強いということ。
思考、欲、にとって、ワープが大きければ大きいほど都合が良い。
逆に、ワープが小さければ小さいほど、思考は縮まっていく。
物が落ちたら、拾い上げる動作を丁寧に、一つ一つを意識していく。
手元に戻すまで丁寧にやるわけだ。
こういう考え方で、たとえば、隣の部屋に行って何かを持ってくるというとき、思考は持ってくることだけを考えて、
その間をワープさせる。
間の扉を開けるとか、その間のいろんな動作の意識が吹っ飛ぶ。
だから、思考の「目的」に捉われず、目的とは直接関係ない、途上の動作を一つ一つ丁寧に意識していく。
これが思考を封じ込めるためのやり方の一つだろう。
どんな時も、中間があると思えばいい。
思考の目的が立った時・・・ たとえば、コーヒーを飲もう・・
コーヒーを入れた状態が第一優先になるんじゃなくて、その間の、目的とスタートラインの中間を丁寧に意識していく。
砂糖を入れる、お湯を入れる、なんかもそうだし、スタート時点の「立ち上がる」ところから丁寧を心がける。
万事が万事こうやっていけばよい。 今日の朝方、良い夢を見た。
夢というか、あまりにもリアルで、現実以外の何物でもなかった。
去年無くなった親しい人がいたんだけど、いつも今どういう境涯にいるのか、
ちゃんと良い世界に行っているかとかが気になってたんだけど、
なんらかの連絡が取れればなぁ〜〜と常々思ってた。
それで昨日はとくにそうだったんだけど、一日が作業やらなんやら忙しくて、
意図せずともマインドフルネス的な一日になってた。
我がいつもよりかなり無くなってたと思う。
それで朝方、眠りからうっすら覚めつつあるとき、その人が部屋にいて、
「大丈夫?」と声をかけてきた。
自分の頭はいつも寝ているときと真逆の北の方角を向いて寝てて、しかし部屋の状況はまったく同じ。
ただ、朝方はかなり雲がかかった状態だったのにもかかわらず、そこではカーテンから薄日が透けてきてて、
外が晴れだということがわかった。
確かにそこにいるので、確実に自分は起きてるはずで、「あれ? 死んだんじゃなかったの?」って
思わず言いそうになった。
しかし言ったら向こうが気付いて消えちゃうといけないので、言わないようにして、
心の中では、「あれ? 確かに死んだはずだよな・・・ でも今確実に目の前に生きてる。 どうみても確実に。
死んだというのは夢だったのか・・・ おおー! 良かったー!」と思った。
死んだことが夢と思えるくらい、リアリティがすごすぎた。
そこで手を貸して、と言って、自分はまだ上半身を起こした状態で、その人の手を両手で握った。
「ああー、生きてる、本当に居る。」 という疑いもない感じだった。
そして、生前にしたことで常々謝りたいと思ってたことがあって、手を握りながら、「ごめんねー、ごめんねー」と繰り返した。
その時はただニコニコしてるだけで、過去のこと思い出してるような感じじゃなかった。
そこから段々本当に目が覚めてきて、「ああ、凄い夢を見たなー。」と思った。
これは夢というより、夢と現世の中間で、ほとんど現実に近い状態で、亡くなったその人と
アクセス出来たということだと思う。
夢の中のその人は非常に優しくて良い笑顔で、心境的に高い状態のような感じだった。
それは目覚めた直後、日ごろの悩みとかがちっぽけに見えるような感じがしばらく続いたんだけど、
それはおそらく、夢の中の世界が心境的に高い境地の世界だったからだと思う。
やがて日ごろの悩みに飲み込まれて、そういう感覚は無くなったけど・・・
とくにかく今日はその人の境涯が確認出来て良かった。
あれなれば大丈夫。 というか、こっちが心配されるくらいだった。
今まで心配だっただけに、安心できるいい夢だった。
いや、確実に夢以上のものだった。
これも最近、日ごろの生活がだんだんマインドフルネス的になっていることが
要因だったと思う。
相手が高い位置にいる場合、我の詰まった状態ではどうやったってアクセス不能。
我をクリアにすれば(今に意識を置けば)、心境的に高くなって霊的世界と良いアクセスが出来やすくなる。
これからもっとマインドフルネスを進めて、更なるアクセスが出来ればいいな。 目的が優先してマインドフルがスリップしてしまうという話をしたけど、このスリップに気付くというのはいいかもしれない。
「今」に気付く前にスリップに気付く方が効率がいいかもしれない。
目的を達成するための行動に移る前に、いつもだったらそのままスリップするところを、
ああ、このままいったらスリップする・・・ と気付くと、そこから一つ一つ丁寧に意識することが出来る。
今までだったらスリップするものを、ここから丁寧にやらないと・・ って気づいて、
意識が止まりやすくなる。
そうすると、目標まで飛ぶところを、次の動作でもう一つ一つ意識し始めることが出来る。
漠然とマインドフルネスをやってると、忘れている時間が長くなってしまうが、
こういう風に、目標とスタートの間がスリップしそうだ、と思うと、気付くと、
その都度、その中間を意識出来るようになる。
これはまあまあいいやり方を掴んだかもしれない。
今までよりマインドフルネスの頻度が高まってる。
このままいこう。 目標が起きた時に、目標とスタート地点の間が飛ぶぞ、と、すぐに意識して警戒するというのは
いいやり方だとわかった。
たとえば、コーヒーを入れよう、と目標が起きた時、同時に、ここから立ち上がってコーヒーを入れるまでの間が飛んじゃうぞ、と警戒することで、
立ち上がる時点から丁寧に意識しようと思える。
そういうように気を付けてると、万事が万事、目標とスタート地点の間を意識出来るようになる。
あっ、中間の今が飛ばないようにしないと、って。
これを今熟達していこうと思う
結構最近は、今を意識する頻度が高まってきた。
このやり方のおかげで。
あとは錬磨するだけだ。 今に意識を向けると思考が止まる気がするんだけど、
思考が止まる恐れみたいなのが出てくる。
これなんだろう 思考がないと身の危険が判断できないと考えてるからでは?
歩行禅とかやって、バランス崩した時とかに自分が考えるよりも先に体が動いて
思考が後からやってるのを体験しちゃうと、結構簡単に思考を手放せる
あと人との会話で何も考えてない時の方が面白いこと言えたり 価値観が変わる時に怖れは出てくる
思考が止まれば、エゴも止まる
エゴが止まっても肉体は死なないし、意識は止まらない
ということをよくよく味わい確かめてみる
最初から完全には難しいから
徐々にやっていけばいい
するとその怖れはエゴが死ぬことの怖れだったとわかる
エゴでない部分の自分は機能してることに気づき始める
怖れは消えていく
すると
こんなに苦しんで頑張った自分は偉いはず
苦しんで頑張ってる俺に給料よこせ
苦しんでる、頑張ってるオレ、俺、おれ、、、
というエゴこそが自分を苦しめていたんだ
ということが観えてくる
逆に言えば苦しんでも瞑想は深まらない
怖れが出てくるのは苦しみとは違う あなたが希望を求めているのなら、あなたは絶望を避けているのです。
絶望は、実際に存在するものです。
あなたは、その絶望を見ることができますか。
希望ではありません。それはただの空想、あなたが願うものに過ぎません。
そうではなくて、実際に恐怖と絶望を見ることができますか。
それを実際ありのままに見て、直接触れることができますか。
つまり、言葉を挟まず、何も恐れず、何も歪めないで、それを見つめるということです。
それが出来ますか。
どんな歪曲もなく「現にあるもの」を全く完全に見ることが出来れば、
全てが途方もない変化をとげるのを目にするでしょう。
それはもはや絶望ではなく、全く違ったなにかです。
J・クリシュナムルティ マインドフルネスっていうのは24時間の修行だから、仕事から帰って1時間瞑想をやった、くらいじゃ
また元に戻って何の役にも立たない
短時間の瞑想に、何か特別な効果を求めるというのは、マインドフルネスを誤って解釈してる人
そういう人は、技巧に走る
マインドフルネスは短時間では全く効果が出ないので、技巧に走って何とか効果を出そうとする
それがまたマインドフルネスと逆行するわけだ
軽く今を意識して、それが練れてくると、今までの思考の生活とマインドフルネスの生活との間に
あたかも薄い膜が張ったように、ちょっとでも思考の生活に戻ると、それが破れて
マインドフルに戻れなくなる
だから、マインドフルと思考の生活は両立しない
20%思考の生活を残して、あとはマインドフルネスにあろうというのはいいけど、
50%で半々というのは、マインドフルネスにはならない
やるんなら、うっすらとでもいいから、行住坐臥に行う
その間に少し外れる、少し思考の生活に戻る、でも、すぐにまたマインドフルネスに戻る
こういう風にやっていればいい
思考の生活に入った時に、長居をしないで戻す、ということを考えなければ、
そのまま思考に飲み込まれて、長時間戻って来れなくなる
そうすると今までのマインドフルネスが台無し
元に戻るまでまた一からやり直しで時間がかかる
だから、どこかの時点で決断が必要だ
思考の生活からなるべく離れていこう、と >>18の話は、油壷の話と同じ
舞台で、地方一番の美女が踊っている
そこに群集が集まってくる
踊りを踊っていると、さらに群集が集まってくる
そこに、我欲を持った、思考に捉われた男がやってくる
その男は、縁までなみなみと満たされた油のツボをもたされて、この群衆と踊り子の間を
一滴もこぼさず運ぶように命じられる
男の後ろには、剣を抜いたものがついており、一滴でもこぼしたら、
男の首をはねるという
この話の中で、群衆は思考であり、踊り子はその対象
踊り子が目を引くものであればあるほど、群衆は捉われる
その間を、油を一滴もこぼさず運ぶというのだから、運んでいる時は
踊り子は目に入らず、またその男は群衆の側にはいない
この話がいいのは、会場を出ていくというのではなく、群衆と踊り子の間を通っていく
というところ
ありのままでいるところにマインドフルネスを実行していくという
イメージになってる
少しでも踊り子に気を取られたら、結界が破れたように、とたんに踊り子を見る
群衆の側にまわってしまう
そこから鉢に意識を戻すのは大変
鉢を八割方満たした状態で運べば、まだ意識は鉢の方に向けられる
だが、五割にした状態だと、もうほとんど鉢を意識しないでも、油をこぼさずに運べる
踊りを鑑賞しながらでも、油をこぼさず運べる
瞑想を一時間やって満足して、また日常生活に戻っていくという人は、
その時は鉢を一生懸命運ぶが、一日のうちの大半は、演劇を見た状態で
過ごしてるというのと同じ
まったく意味がない
結界を破らないということがマインドフルネスで重要であって、ただ特定の短時間だけ統一すればいいというのは
マインドフルネスにはならない 結界ということになるとエゴだな
それを本当に24時間出来るかな?出来ないと思うよ 結界を維持するということになるとマインドフルネスとは真逆のことだ
そもそも、気づきが生ずることと、気づこう気づき続けようとすることは
本質的に全く違うことだ
ではなぜそういった真逆の方向性のメソッドがマインドフルネスとして紹介されているか?
それを24時間完璧にやろうとすればいずれ破綻する
頑張って頑張って、エゴの自分が破綻する
エゴの根性、精神力でエゴが自滅する
そして、ありのままに気づき続けることの出来る、エゴでない自分が出てくる
割と危険なメソッドだと思うので個人的にはオススメしない 思考に気付いてるのがマインドフルネスだから
思考生活は障害にならない
気付いていればいい 空理空論でいろいろ言うのはいいれど、それこそ、そられの空理空論では
24時間もつづけられまい
せいぜい一時間が関の山だ
マインドフルネスはもともと、どちらかというと小乗仏教的な流れで、最低限、意識を向けるという
能動的要素を必要とする
個人でやる場合には、更にその要素を必要とする
しかしそれは、気付く、意識を向ける、という程度のもので、集中や無心など(未来)の結果を求めるものじゃない
能動的な要素を排除すると言っている者も、思考の意味を誤って解釈して、思考とマインドフルが両立すると言ってるものも、
そもそも実践が足りない
実際にやっていれば、能動的要素と受動的要素の境界もハッキリ見えてくるし、(能動的な)思考とマインドフルネスが
両立しないということも分かってくる
まず、理論がわからずに実践は出来ない
理論がわからずに真似事ばっかりをやってる人が多い
酷い人は、一時間足らずの瞑想をやって、その間にエゴを越えた、と言って
マインドフルネスをやった、ということにしている
今日は一時間のマインドフルネスをやった、という言葉が、どれほどマインドフルネスと矛盾しているか
わからないといけない
当スレはこれにて閉鎖します
理論もわからないで難癖をつけ、マインドフルネススレを巡回して一言罵倒を繰り返すヤツがいるんだけど、
そいつにこのスレを発見されたので、今度つづけても益は無いと判断した スジが良ければ毎日一時間坐ったら悟れるけどな
実況中継式やってる連中なんか悟っても殆どが廃人寸前みたいなのばかりだ
ぶっ壊れたまま還ってこないやつも居るからな
解脱ではなく
それが真実だ、心の片隅に置いておくがいいぞ
健闘を祈る >>24
マインドフルネスは気付く程度のものだけど、小乗仏教の瞑想と自己観察はめっちゃハードだ
全然違うよ
>(能動的な)思考とマインドフルネスが両立しないということも分かってくる
じゃあ君は生活していないってことだねw
小乗の自己観察は24時間続けるものだけど、君その間えんえんと無思考なわけ?
そのレスも無思考で書いてんの?
そんなのがマインドフルネスだと思ってんの?
思考、チッタ、身体反応に気付いてるのがマインドフルネスだよ。両立しないはずがない
無思考って小乗の五禅のレベルだろ
マインドフルネスとぜんぜん別次元
君、なんでそれらを一緒にしちゃってるの? >>26
毎日一時間坐ったら悟れる云々の空想はもういいよ
小乗の高僧が君の話を聞いたら驚くだろうさ
甘いもんじゃないからな
白骨瞑想で五禅を得るステージなんか、その集中が三時間は持続しなきゃ無理だってのに
たった一時間の瞑想かいw
君、ほんとは偽指導者に騙されてない? >>28
> 白骨瞑想で五禅を得るステージなんか、その集中が三時間は持続しなきゃ無理だってのに
> たった一時間の瞑想かいw
空論よのう
まあ頑張って 「悟りとは無我である」というような、真実に関する命題というものは明快な美しさがありますから、下手をすると修行者はそこに観念的にとらわれてしまいがちです。
「世界は一切空で真実の姿は平等である」という、いわば自己完結した心地よい優等生の回答から抜け出ることができず、その結果、現実に働き出る救済的な力を持たないままの“スピリチュアルお坊ちゃん”で終わってしまうことになりかねません。
禅ではこのような状態に陥った者を「死漢」つまり、「現実に全く影響を及ぼさない死人」と呼んでいるぐらいです。
そんなわけで雲門和尚は、真っ白な美しい悟りに捕われるな、その悟りを抜け出ていけ、泥まみれの世界へ行け、という意味の代語をしたわけですね。 真の自己に至ったといっても、法執つまり「悟ったということに執着する思い」があるとエゴが残っているのと同じで、結局ダメなわけですね。
自分も他人もない境地が「真の自己」なのですから、「俺の悟り」「俺の境地」「俺のなしとげた修行」といったエゴのヒモがついた思いは、しょせんニセモノの悟りだ、ということです。 うんざりさせられることの一つに、霊界からの“高等な教え”ばかりを求めて、それを同胞のために役立てることをしない人がいることがあります。
人間は成長するにつれて大霊の摂理の働きを理解していくのであって、教えそのものに“高い”も“低い”もありません。
そうやって勿体ぶって真理の追求ばかりをしている人たちが、地上を少しでも住みやすい世界に、つまり飢えや渇きから解放し疲れた身体を癒せる家に住めるような世界にするために行動を起こすようになれば、
それこそ“最高の教え”を実践することになるのですが……
世間から隔絶し社会や同胞への義務、奉仕を果たさないで神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人たちは一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。 悟る人は30分すら坐らずに悟る
>>32-33
そう、結界を維持して24時間というのは全く逆 >>26
> スジが良ければ毎日一時間坐ったら悟れるけどな
で、君は悟ってんの?
>>24
> 悟る人は30分すら坐らずに悟る
で、君は悟ってんの?
ま、君の>>29-30のドアホな反応は、なにも悟ってないことを表してるね
知識のオバケ
妄想のオバケ
中身はすっからかん
宗教板のマインドフルネス板に、そんな奴がぎょーさんおるけど、君も同類やな >>29
誰が "禅定が悟り" なんて言った?
脳内妄想でイミフな現実を作らんといて
小乗は悟るためにヴィパサナーをやるが、五禅に到達してなかったらヴィパサナーも出来ない
>>30
集中の持続はテーラワーダの定石
空論だと言うなら君はテーラワーダの高僧をまとめて否定したことになるね
やっぱ偽指導者に騙されてたのか・・ 禅定は悟りじゃないけど、
悟りの修業には禅定が必要
そんなことも分からんと、妙な誤読をするとは呆れたわ >>31
大乗思想に執着する人の驕りを感じるレスだな
さすがテーラワーダを小乗(ヒヤーナ)と蔑視した大乗マインドだわ
救済的な力を持つも持たないも自由
どっちが上とか、そんなのは無いから
単なる選択
雲門和尚が、個で完結するテーラワーダを「捕らわれ」と断罪するなら
救済思想に捕らわれた者の問題にも言及すべきだ
始祖・釈尊も、大乗の救済理念は説いていない マインドフルネスで瞑想して心清らかになるけど、
根本的な性格は変わらないことに気づいた。
2年くらい瞑想マインドフルネスしてきたけど、
3日も瞑想しなければ今までの自分の自我がでてくる。
瞑想とはしょせん思考をとめて内面がリセットされるだけで、
根本の性格や考え方は何も変わらないことを悟った。
だからまた酒飲み始めるわ。
そのほうが幸せだよ だって、仕事とか家事だってマインドフルネスといえるんだよ
一生懸命仕事や家事をやってるやつは世の中に五万といるのに
なぜ悟れないのか?
戻っちゃうからだよ(笑)
仕事終わって一杯やろう、家帰ってテレビ見よう、仕事のストレスを家族に当たり散らす、
家事が終わったらテレビを見て、カラオケして、……
心の一大転換を目指そうとするときに、戻ってどうするんだと…
ましてや、仕事や家事より意識の統一力の低い瞑想をやったって、
変わるはずない
だから考え方を変えた方がいい>>41
マインドフルネスは短時間に集中するもんじゃない
ふんわりと今に意識を置くこと
ふんわりと今の動作に気付くこと
それを一日の出来るだけ多くの時間を保つようにする
戻ったらその時までの修練の成果は台無しになる
ちょっと戻るくらいならいいよ
ちょっとテレビを見る、ちょっとネットに気を取られる
でもそこに入り込んじゃったら戻れなくなる 台無しにはならない
むしろ、台無しになると思い込んでる事が煩悩だ しかし、戻ってこれなくなるのはダメw
あ、外れたな、と戻ることが出来ればオーケー
台無しにはならない
24時間などと無闇にハードル上げる必要もないが
戻れないのはダメです 最近精神世界界隈では悟りブームだけど、
そんなに悟りって簡単なものなのか。
修行者が一生かかっても達成できないほど雲の上のようなことじゃないのか。 >>42
じゃあ瞑想って一生飲み続けなければならない薬みたいなものか。
飲むのやめたら病が再発するから、今ここを意識しつづけてエゴが消えた状態を維持し続ける努力。
それを2年間してきたけど、まあ大変だった。
なのに3日もやめたらまた2年前の自分のエゴが出てくる。
何も変わってなかった。絶望した。
だからもう酒飲んで普通の人として生きようかと。
その方が楽かと。
なんで悟りとか覚醒とか目指して瞑想やマインドフルネスしてたのか。
コンプレックスや自信のなさをそういうもので誤魔化してたにすぎなかったんだ。 > コンプレックスや自信のなさをそういうもので誤魔化してたにすぎなかったんだ。
ここに気づかずにやってる人は多いと思うけど
そう見えたということは、これからそこを抜け出せるということ
二年間取り組んだことで、自己信頼感がいくらか上がったということでもあるんじゃないのかな
チキショー無駄だった、酒飲んでるわ!でいいと思う
最初から完璧なんか目指せないんだし >>46
一生飲み続けなければいけない薬ってことじゃなくて、ある一線を越えれば、逆にこちら側に戻ってきたくなくなると思う
実際、マインドフルネスやってると、チラチラそういうところまで行ったことがある
いい心境になってくるので、テレビやネットに入り込んで、崩したくなくなる
その境界線がハッキリ見えてくるんだよね
おそらくあなたの場合は短時間に瞑想やって、マインドフルネスをやってる自分に満足するというのが
目的になってたんじゃないかな
今の自分を強烈に変えたいと思うと、即座に変えたいと思うわけだけど、実際は長い年月掛けないと性格なんて変わらない
それをすぐにでも何とかしたい人は、瞑想で手っ取り早く「変わった」気分を得ちゃう
M.Fやってる人はそういう多いよね
ほとんどそんな感じだ
集中することが、今の自分から逃れることになってる
集中することで、負の性格が変えられたという感触が得られる
昔を思い返せば、そういえばオレもやってたな、と…
今はもうマインドフルネスの理を分かってきたから、そんなことはないけど >>46
今また元のように酒を飲むのはいいと思うよ
それもサイクルの一循環だと思う
狭く見ると、マインドフルネスの状態をなるべく崩さないようにしよう、ってことになるけど、
広い見方で見ると、ある時期、マインドフルネスをやってる時期があって、挫折して段々辞めていって、
そしてまたマインドフルネスをやり始める…
そういうサイクルになってる
それで段々煮詰まってくると、もう元には戻らなくなってくると思う
マインドフルネスを掴んでくると、だんだんサイクルが短くなってくる
だから今は考えるときだと思って、一旦リセットするのはいいかもしれない >>50
そういうものなのか。
もうマインドフルネスない人生から離れられないということか。 一旦マインドフルネスから離れても、また戻っていくよ
それが1年か10年かわからないけど…
悟った人がよく言うんだけど、人間は何生も生まれ変わりながら、最終的には悟りに至ると…
それは殺人犯だろうが同じ
そうやって悟った人が、今まで数えきれないほどいるわけだ
>>45
だから、やり始めの人にとっては、悟りは雲をつかむような話で、最初は全くわからないかもしれない
だけど、前生でさんざんやってきた人は、案外早く会得したりするかもしれない
前生でやってないと、何が何だかさっぱりわからない、ということも…
そういうレベルの差はあるかもしれない
マインドフルネスとか悟りに興味を持つような人は、だいたい前生でなんらかの修行をやってきてるでしょう
間違ったやり方でやってた場合は、いったん瞑想から離れて、リフレッシュする必要があるよね
離れて一旦下降するのも悪くない
人の魂はらせん状に上下を繰り返しながら、最終的には上昇していくといわれるから
必ずまたやりたくなってくるときがくるよ
ただ、マインドフルネスや悟りの方法は、基本的には簡単なやり方ということ
一生懸命集中して注意を凝らす…ってことじゃない
そこの原理を知ると、もっと楽になるよ あのね、途切れ途切れで、辛くなったからひさしぶりにちょっとやってみっか
みたいな感じでやっていっても進むからね
そんな絶対的な挫折と思わなくていいよw
マインドフルネスも色々あるから
マハシ式で上手くいかなかったらアナパナやってみたり、歩行瞑想取り入れたり
自分が続けやすいと思うのをやったら良いと思う
実況中継のマハシ式は挫折率も高いし、事故率も高いみたいだから ある程度までやってれば、多分二年もやってるなら
酒に溺れたり、女に溺れたり、ギャンブルに溺れたりということが
物凄く辛いものになってくると思う
世間では適当に他のことで紛らわして、見ないようにしてしまう
そうして見ないようにしても楽にはならないんだが、、、
瞑想やってるとそういうのに強く感覚するようになってる
それはもう解決寸前ということなんだよ
一つずつ、怖れずよく観察していくと道開けるから >>39
五禅が必要ないと思うのはいいけどね
それやったらテーラーワーダやヴィパサナを語るのはヤメとき
無知がバレるで
ただし君が仏教以外のマインドフルネスを語るのは構わんよ
ここはマインドフルネスのスレだしさ、各自の自由なマインドフルネスがあってもいい 四禅からがヴィパッサナーだよ
バオではそう説かれてる まあ、最低でも四禅から、と言われてるわな
生起と消えるプロセスが分かるようになるし ウ・ジョーティカ・セヤドーの自由への旅には
近行定からヴィパッサナーやっていいよと書かれてるんすけど?
ウ・ジョーティカ・セヤドーは無知なんすかね?
センパイ何者?
どちらの阿羅漢さまっすか?
それどころかスマナサーラ長老は禅定には入らせない まだ本で得た知識しかない人にはこの話はピンとこないさ
自分のやったメソッドしか知らない人もピンとこないらしい >>59
突っ込まずにはいられないエゴを観察したらどうやろ?
ツマラン突っ込みして修行に益するものがあるか?
突っ込んで心理的快楽を得るレベルで引っかかってる奴がヴィパッサナーを語れると思っとんのか?
修業を舐めんやないで
突っ込むなら有意義なツッコミをな
本質面のツッコミした方がええやろ
「言ってことが違う」と思ってるなら、言葉しか見えてないってことや
ヴィパッサナーの知識を詰め込んで、分かったフリをしてるってことだよ
知識で武装してんのバレバレやで
実践して禅定を体験してる人は、四禅五禅の部分に引っかからんだろ
五禅のとこを四禅に置き換えてくれてもええで
それが君の修業に役立つなら大いに歓迎するで >>58の突っ込みも下らんやろ
君はどうするって話や
君が修業を自分事として真剣やったら、ウ・ジョーティカ・セヤドーに対する突っ込み欲なんか、どーでもよくなる
ミャンマーのディーパンカラ・セヤレー僧は、四禅五禅から真のヴィパッサナーが始まる言うてる
四禅でも観察は可能だよ
四禅で捨と一境性になるしな
でも五禅の無思考と観察力は、四禅で不鮮明だった対象を鮮明にさせる
あとは修行者の向上欲やな
俺は五禅で初めてわかるものを希求する行者を応援したいね まずこのツッコミがどうでも良すぎる
次はダラダラと言い訳かみっともない
> 55 名無しヒーリング sage 2019/04/12(金) 16:25:54.40 ID:zLcJEwTJ
> >>39
> 五禅が必要ないと思うのはいいけどね
> それやったらテーラーワーダやヴィパサナを語るのはヤメとき
> 無知がバレるで
>
> ただし君が仏教以外のマインドフルネスを語るのは構わんよ
> ここはマインドフルネスのスレだしさ、各自の自由なマインドフルネスがあってもいい >>63
そのレスは「禅定を知らずに知識で禅定を語るのは無益」という意味や
分かるやろ? なんぼなんでも
せいぜい仏教以外のマインドフルネスを語れや
楽な方法なら「実践と体験」に則った話が出来るやろ、という親心
つまり>>61-62と同じ意味やね
実践しない知識を詰め込んで何の得があるん? 実践しない知識がお前を幸せにするんか?
そういう突っ込みは大事なことやろ?
だがお前みたいなやつは「どうでも良すぎる」「言い訳」という受け止めしか出来んわけ
>>58-59と同じレベルってことや
それは君の精神レベルの投影 何を言われても従前の思考習慣を変えることが出来んやつは
自身が愚か者という認識がないし、大事な話は脳に残らない
マインドフルネス以前の問題なんよ
知識だけのくせにマウント取ろうとするゲスな俗物が、悟りの道とか100年早いで
幼稚園からやり直せの段階や
相手に勝つことしか考えられない
やり返すことしか考えられない
しょーもない幼児の喧嘩レベルの精神で、禅定とかヴィパサナとか、アホかっちゅうの
「どうせ突っ込むなら、本質を鋭く突っ込めや」と言うてんのに、なんやお前、その糞つまらんレスは?
中実あること言えや 知識なんか本やネットで、いくらでも手に入る。ぎょーさん入る
その程度のもんでしかない
知恵比べして、俺の方が知ってるやの、お前の知識は間違ってるやの、どうでもええこっちゃで
そやけど「実践」に基づく知識は大事や
お前>>63の突っ込みのレベル、実践抜きのスピオタってことがバレバレじゃ ID:xxyq7WQvは何が突っ込まれてるかまるでわかってない
何も経験していないからだね >>64-66
放置しとこう
相手は耳を塞いでるから延々ループするだけ 「残念な人の思考法」 山崎将志
「バカの壁」 養老孟司 新潮文庫 本当に分かってる奴なら
>>30 空論よのう
>>34 悟る人は30分すら坐らずに悟る
>>39 五禅は必要ない
>>59 あれ?言ってること違うじゃん
という駄レスに終始しないと思う
分かってない奴は自分の現実を相手に映し出すんだね
だから放置がベストと言われる。説得が徒労に終わる
>>67の反応で確定でしょ
連日こんな調子だから病気だよID:WUvz+1Hnは。。。 本質をズバリ突っ込まれてるんだけどなぁ…ID:xxyq7WQvは 言えば言うほどぼろ出してんな
なぜスマとかの話を持ち出したか
五禅でヴィパッサナーやっちゃってるオレサマなら
わからなきゃなぁ
その物凄いエゴを手放してさ マインドフルネス程度の浅い瞑想は問題ないけど、
30分くらいする座る瞑想すると、内部に深く入りすぎるせいか、
瞑想終わって1日くらいは目の瞳が黒く深くえもいわれぬ不気味な瞳になってしまうんだけど。
べつに深い瞑想しようと思ってるわけじゃなく、
普通に座る瞑想で内面に意識向けて無になろうとしてるだけなんだけど、なぜかそうなる。
そういう目つきになると人から変に思われてる気がして悩んでる。 なんだろうこのわかってる体でダラダラと連レスして
ちょこっと何か言われるとブチ切れる耐性のなさ
それがヴィパッサナー瞑想っていうこと?
マインドフルネスではないよね 瞑想ってそもそも。
深い瞑想になることが瞑想できてる状態だよな。
マインドフルネスみたいに今に気づくことがなんで瞑想と同じなんだ?
瞑想は半意識状態になることだろう。
お風呂でリラックスしてボーってしてる状態や、
寝起きでぼーっとしてる状態が瞑想状態と似てると言われる。
なのにマインドフルネスやヴィパッサナーは今に気付くということと矛盾してるよな。
それともあれか、今に気づく行動を同じことを何度も繰り返してると次第にトランス状態になってきて、
半意識状態になってくるのか? 5chで何も理解してない人に一から十まで説明するのは無理だ あと、何であれ瞑想は常に明晰なものだ
対象が違うのであってぼーっとしているわけではない
ぼーっとするのが深いと思うのは勝手だが、それは瞑想ではないな 瞑想の本に書いてあったんだけど。
寝起きのあの状態が瞑想状態に近いって。 瞑想について、瞑想を知らない人に言葉で説明することは
間違ったイメージを与える
まあ、イメージから瞑想をやろうというのは妄想だ 勘違いしてると思うが、実況中継をすることは瞑想ではないぞ?
素人にとっては紛らわしい話だから、わからせるまで話す気はないが
マインドフルネス=ヴィパッサナー瞑想は瞑想だ
実況中継はその結果として現れる状態
その状態を意識的に行うということも効果的だとされている
というだけのことだ >>73
それは強迫神経症の典型だよ
もっとも、強迫神経症にはマインドフルネスが効果的なんだけど、
理を知らないから脅迫側に飲み込まれてしまってる状態
瞑想がありのままの今の状態からの逃避に使われているので、マインドフルネスとは真逆の方向に走ってることになる
理を先に学んだ方がいい 確かに強迫性障害の同僚が確かに黒目がでかくてそんな感じだが
典型例なのかね その人の理がなんだか知らんけど
モンキーマインドでググってみ
瞑想であれ実況中継であれモンキーマインドを止めることがまず第一だが
ボーッとすることではない
マインドフルネスが浅いと見えるのはここがわかってない
意識がいまここにないから、物事に過度に意味付けしてしまい
強迫的になる
あるがまま評価せず(意味付けせず)に気づき、観る
これを続けるために様々なメソッドがあり
総称してマインドフルネスと呼ぶ >>73
不気味な瞳になってしまう前に、他の強迫神経症が無かったかな・・・?
それを解決しようとして、瞑想を始めたんじゃない?
そしたら、不気味な瞳という、新たな強迫神経症が出てきてしまった・・・
という感じじゃない? >>86
たしかに今まで自分の目つきによって人を不快にさせてるんじゃないか?
という視線恐怖症みたいなのはあった。
たぶんその延長で今回の悩みがおこってるのかも >>86
マインドフルネスというのは、{今そのままであること}が目標なわけ
この言葉が矛盾していることがわかるかな……?
{目標}というのは、将来達成すべき結果だよね?
{今そのままであること}に{目標}はいらいないよね?
大局的に自分を変えたい、悟りたい、病気を治したい、性格を直したいっていうのはいいと思う
しかし、瞑想中にネガティブなものを変えよう、変えよう、とするのはいけない
瞑想中は{今そのままであること}
ネガティブなものひっくるめて今の自分なのだから、それを瞑想中に常に変えよう変えようとしてると、
今からどんどん分離していく
強迫神経症自体が今の自分からの分離が拍車がかかってる状態で、その思考のままマインドフルネスを捉えると、
ますます今のネガティブな状況から、離れる手段として使っちゃう
変革することを目標にしながら瞑想をしている… 良い結果を求めながら瞑想をしている…
これらは逆に言うと、今から離れる努力をしていることになる
つまり、今現状のありのままを、なんとかやりくりして、変えよう、変えようとしている
瞑想やマインドフルネス、座禅などの本当の目的は、無心になることじゃないよ
無心、有心を越えること
有っても無くても関係ないよ、という境地を目指すこと(この目指すというのは大局的な意味であるから、
瞑想中の価値判断と同一に扱ってはいけない)
たとえば、{不気味な瞳}であってはダメだ、人に変な風に思われてしまう、
{不気味}な瞳にならないようにしなくてはいけない… というのは目標であり、好転した結果を求めることであり、
今のありのままの自分の変革ということになる
今から分離していっちゃう
不気味な瞳で人から変な風に思われるかもしれないと思いながら、ビクビクしながら行動する…
それが{そのままであること}
それが{今に在ある}ということ >>87
そう、だから、ネガティブを無くそう、無くそうとして、どんどん捉われが深くなっちゃった状態
今のありのままの自分を離そう、離そうとして、逆にどんどん掴んじゃった状態
最初は小さな問題でも、ありのままにしていれば自然に消えちゃうものを、{これがあっては絶対にダメだ}{人に変な風に思われてしまうから、絶対に直さないといけない} って思って、
そこから良し悪しの葛藤が起こって、捉われがエスカレートしていちゃった状態
たとえば赤面恐怖症の人が、{顔が赤くなっては人から変な風に見られる}と思って、ちょっとでも赤くなることを気にする…
そうすると、赤くならないのは良い(調子がいい)、赤くなったらダメ(調子が悪い)、という相対的な価値判断が起こって、
結局、調子が良いのも、悪いのも、そのような二極は{赤面}を強く意識している状態なので、
ますます意識が{赤面}に向いてしまうことになる
それでますます赤面が酷くなっていっちゃうわけ
ドモリとか、強迫神経症的なものはみんなそういう原理になってる
だから、この相対的な二極の価値判断を越えないといけないわけ
赤面で恥ずかしいけれど、そのまま人と会っていく… 変えることが善だと変えようとしちゃう
{そのまま}というのは二極を越える態度なんだよ
こういう風にやっていくと、赤面はあるけれど気にならない、結果的に気ならないから赤面に捉われず、治っていく…
でも、治っても治らなくても、どっちでも大丈夫という状態…
それが相対を越えた道ということ
マインドフルネスはこの相対を越えた道を目指すんだよ
良し悪しの{良し}を目指すんじゃない >>88
とても参考になる。
これ目つきだけじゃなく他のことにも置き換えられる。
マインドフルネスとは今ここを100パーセント受け入れてる状態ということか。
だからもし目標を持つことで今を変えようとしてる時点で、今ここにいない状態になってしまってるということか。
だから心が落ち着かないのか。
この目つきを変えようとせず、そのままを受け入れろということか。
それを超えてそもそも目つきなど気にしないことが目指すところなのか。
でも目指す時点でそれは目的になってしまうことだから、難しいな。
つまり、何も変わろうとせず今ここにある現実を受け入れてる状態でいることが望ましい姿勢ってことかな。 >>91
いますぐ100%受け入れるなんて無理だからね
そう思い込んだら、そこにまた新しい混乱を生むだけ
〜なのか、〜ということか、とそれを憶えこんでそのように思おうとしても駄目
そんなこと妄想してもうまくいかない
余計に神経症こじらせるだけ
今の自分の目から見ると、自分の目的に合ってないように思えても
素直に坦々とメソッドを続けていくこと
まずそれ自体に集中し、強迫妄念を吹き飛ばせるまではやる
そうしたら、いくらか開けてくるものがある
けどそれは悟りではないので勘違いしないよう注意すること 頭で理解して考えてどうこうできるという事ではないんだよ
それをやり始めたら生まれてから今まで条件付けの多くに怒りや恨みを持ったりする
今ここに集中しているつもりが余計な執着をうんだりする
永遠の迷宮に入るよ
こういうイメージで、こういうリクツで、ということは全て参考程度にしたほうが良い 五禅とまで言わなくとも、どんなメソッドでもぼちぼちやってれば二週間から一ヶ月やれば
意識は明晰なままで思考がすーっと静まり返る様になるものだ
入門者から初級者になる
まずはそうならなきゃ何も始まらないし、マインドフルネスについて
何を読んでも教えられても納得いかないだろう
書かれている通り、言われた通り素直にやる人だけが初級者になれる
そこに理屈も知識も思考も説明もいらない 基本、入り口は肝心だからね
それだとまだ初禅にも至ってないが
そこで悟ったとか、思考止まったから五禅だぜとか
勘違いする人もいるので注意してほしいものだ >>91
そう、まったくその通り
心が落ち着かないというのは、良し悪しの二元で
葛藤をしているってことだよね
仏教的にいうと、この葛藤が人間の苦ということ。
>この目つきを変えようとせず、そのままを受け入れろということか。
受け入れるというのは結果論で、結果的に受け入れている状態になる、ということ
受け入れようとすることじゃなくて、そのままであるしかない、
ということはどういうことかというと、変な目つきを受け入れて、そのまま人前で堂々としろ、ってことじゃなくて、
変な目つきが人に変な風に思われるんじゃないかと、ビクビクしながら表に出ていく…
これは何も変更してないでしょ?
変な目つきを受け入れて堂々とするのでは、[堂々とする] 部分を変更しちゃうことになっちゃう
ありのままになって心を落ち着かせようとか、ありのままになって不安を無くそう、症状を無くそうってことじゃなくて、
不気味な瞳は人に変な風に思われるかもしれないという不安や恐怖を持ちながら、
何一つ変えるものもなく、そのまま表に出るってこと
で、そういっても頭で考えちゃうとまた二元思考に陥っちゃうので、簡単に、二元思考を中和させるために、
[ 不気味な瞳で不安や恐怖があるのは当たり前なんだ、ビクビクするのは当たり前なんだ、こういう風に恐れや不安を持つことが当たり前なんだ] という風に視点を変えて、
失敗とか、良くない状態とかを、排除すべき対象とするんじゃなくて、それで当然なんだと、そういう状態が当たり前なんだと、いう風にしていく…
これはいきなり出来るってことじゃなくて、だんだんそういう風に考えている内に、
ある時なるほど、こういうことを言ってたのかと、だんだんつかめる時が来る
無理に上達させようとするんじゃなくて、失敗したり、マズイ状況になって心が乱れたら、
これで当たり前なんだ、というふうにする
これでゼロ(当たり前)だから、何も変える必要がないよね? …ということになるわけ >>91
それで、強迫神経症への対処はそういう風に、今自分に起こるネガティブな状況は、ネガティブのままで当たり前なんだ、という風にしといて、
またそれとは別に、行としてのマインドフルネスを、地道にやっていけばいいと思う
内面を見るような瞑想なようなことをするよりも、個人的には{動き}に意識を持って行く方がいいと思うけどね…
強迫的な傾向のある人は、静的なマインドフルネスをすると、却って脇道に逸れるような気がする
日月神示でも、{ひ、ふ、み、よ…}と心の中で数えながら食べ物を食べると、心の病治るぞ、とあるけど、
あれなんかも完全なマインドフルネスだよね
動的なマインドフルネスといえる
二元性に捉われた瞑想というのは、その場で効果を求めるでしょう?
瞑想が終わったら成果が出てるようにする
心がスッキリしたとか、なんらかの効果が少しでも出ることを目標にして、それを積み重ねることによって
どんどん効果を大きくしていく…みたいな
だけどそれは本物じゃなくて、実際には見せかけの効果だけで、得るものがないんだよね
マインドフルネスというのはその場ではあまり効果が出ない
でも、つづけていくうちに、だんだん今を意識する時間が長くなってくる
どんなに浅くても、深くても、今に在る時間が長ければ長いほど、
だんだん効果が出てくる。
だから、強迫神経症を直接的に治そうとすると大変なので、当然だ、当たり前だ、ということに留めといて、
(それでも真意を掴むと二元性の葛藤が止んでかなり楽になっていく)
なるべく動的なマインドフルネスを習慣づけるようにする…
たとえば前の話に戻るけど、座禅というのはどういう風にするかというと、道元禅師の言ってるのは {只(ただ)}ということなんだよね
ただやりなさい、余物を交えるな、と…
余物というのは、今のネガティブな状況を変えようとする、心の計り事ということだね
だから、座禅している時は何かに集中するってことじゃなくて、雑念が出たらそのまま… イライラしたらそのまま…
足が痛くなったら、痛いなぁ… で、そのまま
何にも変える必要がない
何にも変える必要がないけれど、そうやって今に対する抵抗が自然に抜け落ちてくると、
{ありのまま、そのまま}に成りきってくる
そうすると、それが本当の無心とか、無我ということになる
まあ、これからだから、成果を急ぐんじゃなくて、理をもっと深めたり、成功と失敗を繰り返したり、
やったり止めたりしながら、少しづつ進歩していく感じでいいと思うよ
止めたからといって、失敗したからといって、そこでそれを否定しなくてもいい
それで当然なんだと、それで当たり前なんだと、そういう風に思えば楽になるよ 今の現状を変えようとするから苦しくなる。
今の自分を変えようとするから苦しくなる。
今の現状を受け入れ、今の自分を受け入れたら楽なる。
そのままありのままの今を受け入れるということだな。