マインドフルネス 実行
実行したマインドフルネスを報告するスレです。
マインドフルネスとは「今」に意識を向けること。
歩行や呼吸、コップの上げ下げ、ドアの開け閉めなど、今に意識を向けるやり方は多種多様にあります。
仕事を一生懸命やる、スポーツに没頭する、なども、マインドフルネス的になっていたというものでも構いません。
継続しているうちに精神的に良い変化があったという場合も、合わせて報告してください。
マインドフルネスは究極的には悟りを目指すものです。
今に意識を向ければ向けるほど、「我」は消滅していきます。
「我」が消滅すれば、大自然の働きそのままの自分となります。
そうすると、自然自然に良いことが叶っていき、運命も好転し始めます。
当スレは実行したマインドフルネスの報告と、その後の心境の変化などを主体とします。
実行に関してのマインドフルネス論を語るのは結構ですが、マインドフルネス論を主体とする場合は、こちらのスレでお願いします。
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1523441929/l50 茶道は典型的なマインドフルネスです。
細かく決められた作法によって、意識が自然に「今」に向くようにします。
茶道を極めるということは、悟りに繋がると言えます。
念仏もマインドフルネスと言えます。
何があっても今唱えている念仏に意識が収束するようにします。
そのために行住坐臥、常に念仏を唱えるということになります。
座禅もマインドフルネスです。
意識を意図的に何かに向けるということではないですが、型を作ってそこにただ在るだけで、
「今そこ」から逃げられなくなります。
何を考えても、「今そこ」の座禅している自分に戻っていきます。 マインドフルネスを続けてやっていくうちに、だんだん調子がよくなって余裕が出てくると、
我欲の方に意識が向きやすくなっちゃうんだよね。
マインドフルに進めば進むほど、我欲に意識が向かう余裕もまた出てくる。
ジレンマみたいになってる。
マインドフルが進むと、ある一定のところまで行くと、そのままマインドフルネスを続けた方が気持ちが良くて、
元の思考の状態に戻りたくなくなるときが来る。
そのまま続けてればいいが、少しでも我欲の波に捉われると、
そこから崩れちゃう。
だから究極的には、マインドフルを保つためにある程度、自力的に我欲を捨てる覚悟もいるのかもしれない。
乗ってそのまま行ければしめたもんだが、それはすなわちただ今この時だけに意識を置き続けるということで
それはすなわち全てを捨てるということになる。
全てを捨てきる覚悟がなければ、ああしたい、こうしたい、が顔をのぞかせ、
それまでの成果を破壊する。
ここをどう乗り越えるかが課題だ。 マインドフルネスは24時間つづけられるものじゃないと意味がないんだけど、
そうすると、欲と両立しないってことになる。
禅堂では常に今に意識を向け続けるわけだ。
欲にもいろいろあって、時間的に短いもの、時間が長く強いもの、あるいは弱いもの。
マインドルネスにとって大敵なのは、欲が強く、時間の長いものだ。
欲に捉われてマインドフルネスが中断される時間が長ければ長いほど、
これまでの成果が水の泡になる。
以降も元からやり直しということにもなりかねない。
欲に中断されそうになったら、更に今に意識を向けていくこと努力を
しないといけない。
あと課題は、なんでもない時にうっかり忘れているというのをどうするか。
これは今に意識を置く手法を限定的にするのではなく、いたるところに今に意識を置くことが出来ると
手法を広くとることがいいかもしれない
手の動作、作業を丁寧にするのがいいかもしれない。 今日、正念相続という言葉を知ったんだけど、調べてみると、『四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、
常に今現在の内外の状況に気づいた状態(マインドフルネス)でいることが「正念」である』と出てくるね。
正念相続というのは意識を今に置き続けることで、まさに今、正念が相続出来ない状態にあるわけだから
的確なキーワードになってるわけだ。
正念相続とは道元の言う前後裁断と同じだろう。
前後裁断をつづけることが、正念相続ということになろう。
正念相続をさせるためには、やはり、欲を捨てていかないといけない。
欲に捉わられれば、正念相続が断ち切られる。
怒りや不安など、強い感情も同じように捉われてしまう。
これを防ぐには小刻みにマインドフルネスを掛ければいいんだろうか。
たとえば大まかなマインドフルネス、たとえば歩くとか、扉を開け閉めするとか、
そういう大きなことではなくて、たとえば鼻を掻いたり、姿勢を軽く直したときにそこにマインドフルネスを掛けるとか、
キーボードを打つ合間に指を軽く動かしてマインドフルネスを掛けるとか、深くはないんだが、
浅くて苦もなく出来るマインドフルネスを小刻みに入れてみるのもいいかもしれない。
忙しかったりすると、そのあとしばらく意識が戻ってこないことがよくある。
思考がフル回転したあとほど、戻りが悪い。 作業に打ち込むというのもマインドフルネスになるけれど、作業に打ち込んだ後、意図的なマインドフルネスに
戻るのを忘れてしまうことが多い。
テレビを見ることはマインドフルネスではないけれど、気を取られて意図的な
マインドフルネスを忘れてしまうという点では同じ。
非意図的も、意図的も、同じマインドフルネスなのに、切り替え時に思考の状態と同じようにギャップがある。
作業に打ち込んだ後、しばらく意図的にマインドフルネスをすることを忘れてしまう。
思考の状態からでも、作業(非意図的なマインドフルネス)をした後でも、すぐに意図的なマインドフルネスに
切り替えられるようにするのが課題だな。
ただ、別の角度からみると、思考の欲を捨てられないことが問題なのかもしれない。
切り替え時にそのまま思考状態に移ってしまうのは、あれしたい、これしたい、という思考の欲があるからかもしれない。
単に切り替えの問題ではなく、心が作業からそのまま思考に移ってしまってる。
もしも思考欲が無ければ、おそらく作業の途中でも意図的なマインドフルネスを織り交ぜながら、
終っても、マインドフルネスの動作にそのまま移ってるだろう。
思考欲を捨てるには決意がいる。
親鸞の念仏や、道元の禅では、たとえ思考欲を持ったままでも、行によってそのままマインドフルネスに
入っていけるようになってる。
とはいえ念仏は四六時中の念仏、禅は環境の遮断とやはり四六時中の行ということであるから、
他力の環境を作ってしまっているといえる。
自力・・・つまり意図的マインドフルネスは継続が難しい。
だけど思考欲さえ捨てれば、日常動作がそのまま行になるわけだから、
念仏や禅よりはるかに簡単に行が進みやすくなるだろう。 マインドフルネスというのはチラチラッとやっても効果は出ない感じだね。
やるんなら、一つ一つ丁寧に、意識を置いていかないといけない。
そうしてるうちに、ある時、意識が今の動きにピッタリしているような感じがするときがある。
すごく統一できてる感じで、元の思考状態に戻りたくなくなるときがある。
そのままやっていけばいいんだけど、あんまり欲、思考状態から離れると、
なにかのキッカケでまた思考や欲に埋まってきちゃう。
それで成果が台無し。
一からやり直しだけど、前回と同じような状況にはなかなか戻れない。
だから、やるんだったら、徹底してやり通す覚悟がないと・・・。
しかし、なかなかそこまでの覚悟が出来ない。
とりあえず、一つ一つの動作をより丁寧にする時間を増やす、より意識が今に入るようにする。
そういう時間を増やしていこう。 物が落ちて拾ったときによくわかるんだけど、通常は、落ちたものを拾うことしか考えてない。
原状復帰。 落ちたものがまた手に戻ればいいわけ。
なるべく素早く。
だから、落ちた瞬間、パッ!と拾う。
このとき意識は、落ちた瞬間と拾い上げた瞬間の、
二つのポイントしか意識されていない。
間がワープしちゃうわけだ。
このワープが大きいのが、無意識状態・・・ つまり、思考に支配された状態が強いということ。
思考、欲、にとって、ワープが大きければ大きいほど都合が良い。
逆に、ワープが小さければ小さいほど、思考は縮まっていく。
物が落ちたら、拾い上げる動作を丁寧に、一つ一つを意識していく。
手元に戻すまで丁寧にやるわけだ。
こういう考え方で、たとえば、隣の部屋に行って何かを持ってくるというとき、思考は持ってくることだけを考えて、
その間をワープさせる。
間の扉を開けるとか、その間のいろんな動作の意識が吹っ飛ぶ。
だから、思考の「目的」に捉われず、目的とは直接関係ない、途上の動作を一つ一つ丁寧に意識していく。
これが思考を封じ込めるためのやり方の一つだろう。
どんな時も、中間があると思えばいい。
思考の目的が立った時・・・ たとえば、コーヒーを飲もう・・
コーヒーを入れた状態が第一優先になるんじゃなくて、その間の、目的とスタートラインの中間を丁寧に意識していく。
砂糖を入れる、お湯を入れる、なんかもそうだし、スタート時点の「立ち上がる」ところから丁寧を心がける。
万事が万事こうやっていけばよい。 今日の朝方、良い夢を見た。
夢というか、あまりにもリアルで、現実以外の何物でもなかった。
去年無くなった親しい人がいたんだけど、いつも今どういう境涯にいるのか、
ちゃんと良い世界に行っているかとかが気になってたんだけど、
なんらかの連絡が取れればなぁ〜〜と常々思ってた。
それで昨日はとくにそうだったんだけど、一日が作業やらなんやら忙しくて、
意図せずともマインドフルネス的な一日になってた。
我がいつもよりかなり無くなってたと思う。
それで朝方、眠りからうっすら覚めつつあるとき、その人が部屋にいて、
「大丈夫?」と声をかけてきた。
自分の頭はいつも寝ているときと真逆の北の方角を向いて寝てて、しかし部屋の状況はまったく同じ。
ただ、朝方はかなり雲がかかった状態だったのにもかかわらず、そこではカーテンから薄日が透けてきてて、
外が晴れだということがわかった。
確かにそこにいるので、確実に自分は起きてるはずで、「あれ? 死んだんじゃなかったの?」って
思わず言いそうになった。
しかし言ったら向こうが気付いて消えちゃうといけないので、言わないようにして、
心の中では、「あれ? 確かに死んだはずだよな・・・ でも今確実に目の前に生きてる。 どうみても確実に。
死んだというのは夢だったのか・・・ おおー! 良かったー!」と思った。
死んだことが夢と思えるくらい、リアリティがすごすぎた。
そこで手を貸して、と言って、自分はまだ上半身を起こした状態で、その人の手を両手で握った。
「ああー、生きてる、本当に居る。」 という疑いもない感じだった。
そして、生前にしたことで常々謝りたいと思ってたことがあって、手を握りながら、「ごめんねー、ごめんねー」と繰り返した。
その時はただニコニコしてるだけで、過去のこと思い出してるような感じじゃなかった。
そこから段々本当に目が覚めてきて、「ああ、凄い夢を見たなー。」と思った。
これは夢というより、夢と現世の中間で、ほとんど現実に近い状態で、亡くなったその人と
アクセス出来たということだと思う。
夢の中のその人は非常に優しくて良い笑顔で、心境的に高い状態のような感じだった。
それは目覚めた直後、日ごろの悩みとかがちっぽけに見えるような感じがしばらく続いたんだけど、
それはおそらく、夢の中の世界が心境的に高い境地の世界だったからだと思う。
やがて日ごろの悩みに飲み込まれて、そういう感覚は無くなったけど・・・
とくにかく今日はその人の境涯が確認出来て良かった。
あれなれば大丈夫。 というか、こっちが心配されるくらいだった。
今まで心配だっただけに、安心できるいい夢だった。
いや、確実に夢以上のものだった。
これも最近、日ごろの生活がだんだんマインドフルネス的になっていることが
要因だったと思う。
相手が高い位置にいる場合、我の詰まった状態ではどうやったってアクセス不能。
我をクリアにすれば(今に意識を置けば)、心境的に高くなって霊的世界と良いアクセスが出来やすくなる。
これからもっとマインドフルネスを進めて、更なるアクセスが出来ればいいな。 目的が優先してマインドフルがスリップしてしまうという話をしたけど、このスリップに気付くというのはいいかもしれない。
「今」に気付く前にスリップに気付く方が効率がいいかもしれない。
目的を達成するための行動に移る前に、いつもだったらそのままスリップするところを、
ああ、このままいったらスリップする・・・ と気付くと、そこから一つ一つ丁寧に意識することが出来る。
今までだったらスリップするものを、ここから丁寧にやらないと・・ って気づいて、
意識が止まりやすくなる。
そうすると、目標まで飛ぶところを、次の動作でもう一つ一つ意識し始めることが出来る。
漠然とマインドフルネスをやってると、忘れている時間が長くなってしまうが、
こういう風に、目標とスタートの間がスリップしそうだ、と思うと、気付くと、
その都度、その中間を意識出来るようになる。
これはまあまあいいやり方を掴んだかもしれない。
今までよりマインドフルネスの頻度が高まってる。
このままいこう。 目標が起きた時に、目標とスタート地点の間が飛ぶぞ、と、すぐに意識して警戒するというのは
いいやり方だとわかった。
たとえば、コーヒーを入れよう、と目標が起きた時、同時に、ここから立ち上がってコーヒーを入れるまでの間が飛んじゃうぞ、と警戒することで、
立ち上がる時点から丁寧に意識しようと思える。
そういうように気を付けてると、万事が万事、目標とスタート地点の間を意識出来るようになる。
あっ、中間の今が飛ばないようにしないと、って。
これを今熟達していこうと思う
結構最近は、今を意識する頻度が高まってきた。
このやり方のおかげで。
あとは錬磨するだけだ。