苫米地氏本人の胡散臭さはともかくとして、
苫米地理論の汎用性は認めねばならないね。
例えばクリヤヨガのイダ・ピンガラ・スシュムナの構造とチベット仏教におけるそれとは、
明らかに「解剖学的」位置に違いがある。
で、どちらが正しいのか、でよく論争になったりするのだが、
苫米地理論だとどちらも正しいしどちらも間違っている、ということになる。
それはそう設定されているだけだから、という理屈ね。
チャクラなんかもそれぞれの体系によって3つだったり5つだったり7つだったり様々だ。
どれも人間がそう設定したものに過ぎないという説明で間に合う。
気というのも同じだ。
それはプラーナやルンと同一視されたりもするが、やはり微妙に働き方が違う。
元々そういうエネルギーが存在するのではなく、
そう設定してそれに臨場感を与えることでそれを実感できるようになる、ということ。