茶道とか、およそ「道」と名付けるものは、悟りを目指してるんだよね。
武道もそう。 華道もそう。
能は道と付いてないけれど、あれも究極的には悟りを目指してる。
一足一足を意識し、一つ一つの動作を慎重に意識している。
茶道は細かい作法によって、瞬間瞬間を意識させようとしている。
今意外に意識が飛ばないようにしている。
今意外に意識が飛んだ時が、「思考」ということだよね。

永平寺では風呂に入るのも、顔を洗うのも、トイレに入るのも、細かい規則が決まってる。
これによって寸時も意識が今から外れないようにするわけだ。
つまり、思考が働かないようにしている。
食事の時も細かく作法が決まっているし、座禅以外では作務に打ち込んだり、読経に打ち込んだりする。
永平寺では常に今に在る努力がなされている。
今と完全に一つになった時が、「無我・悟り」ということなんだよね。
また今と一つになるということは、「ありのまま」とも言える。
究極のありのままは、主体(我)がなくなるんだよね。

さて問題は、われわれ一般のものが、日常生活の中でどうやってこのような修行をするか・・・。
一つ一つの動作を意識するにしても、ついうっかり忘れて、普通に歩き、普通に食べ、気が付くと思考の世界に埋没している・・・
これがどうして起こるかというと、僧堂のようなところで隔離されて、思考(我欲)を断ち切れていない環境であることが問題なんだと思う。
たとえばインターネットやテレビ、あるいはゲームや食の楽しみ、その他もろもろの楽しみの中にいながら、
ある一時だけ今に意識を向けたとしても、根本的に欲(執着)に戻されるようなことになれば、
いつまで経っても今に意識を置くことが継続しない。
我欲と今に意識を置く行為は両立しないので、まず先に欲(執着)を断つ心構えを持つしかない(かもしれない。)

欲を完全に断って苦行のようなことをするのは、ちょっと違うかもしれない。
何事でも現実生活を無視することは、「ありのまま」から外れてしまう。
つまり、意図的な計らいというニュアンが強くなる。
修行が思考によって行われていることになり、修行すればするほど、思考が
強くなってしまうことも・・・

おそらく、テレビを見ててもいい、ネットをやっててもいい、しかし、パッと、「これしなきゃ!」「今これをやっといた方がいいな」と、
自分が今為すべきことが浮かんだら、パッとそっちに動ければいい。
それが執着がないってことだと思う。
ただ通常の状態では、映画を最後まで見てからとか、さきにネットをやってからとか、今あるやるべきことを
後回しにしてしまうのが常だろう。
こういうように、環境と決意が整っていないと、行ったり、引き戻ったりの
繰り返しになってしまうかもしれない。

考え方としては、二通りのやり方があると言えるかもしれない。
一つは、今この瞬間の動作を意識していく・・・・
もちろん、途中で途絶えることもあるが、24時間のうち、点を多くして、やがては線とするやり方だ。
もう一つは、今やるべきことが浮かんだら(我欲のない状態で。)、さっと動いていく・・・
大抵はみんな今やらなきゃいけないことは分かってる。
ゲームをするより明日の仕事の準備しないといけないのは分かってるし、早く寝ないといけないのもわかってる。
こういうように、善なる自分と悪なる自分が綱引きをやっているわけだから、善なる自分に従っていけばいいわけだ。
日常が今やるべきことに満ちてくると、思考が終息する。