これからの時代はすべての人が悟る時代がくる。
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最近キンドル読み放題で、かたっぱしから手当たりしだいスピリチュアル系の本を読んでるんだけど、
驚くことにどの本も悟りや目覚めや覚醒や真我について書かれてあるんだ。
アセンションによって次元上昇した現在では出家や厳しい修行をせずに悟ることができるらしい。
悟りの方法はどれも同じ原理で、基本的にはラマナマハルシからの派生であるノンデュアリティの影響があるように思われる。
自我である思考や感情を感じてるのは誰なのか?と問うことで、観察者である真我に直接意識を向けようとする方法。
で、この観察者である真我こそ、神とか仏とか大いなるものと言われるものという。
その観察者の意識に目覚めることが悟りといわれる。
このスレではもう一般人が悟ることが容易になった時代で、悟りを求める皆様貴重な意見交換の場となれば光栄です。 自分なりにまとめた霊的真理とか書いていっていいですか?
完全オリジナルでは無論無いですが
(当たり前だ)
悟りの助けぐらいになると >>2
どうぞご自由にお使いください。
皆様の悟りを開く助けになるのであれば、ぜひお願いします。 宇宙の存在自体が奇跡であり
この世界の全てに意味がある
生かすも殺すもあなたしだい
(1/8) 世界は厳しい難しい寂しいが
強くなる賢くなる優しくなる
ことは努力すれば出来るはず
(2/8) 幸せとは現状に満足すること
競争に勝のが全てではないし
逃げ出して自殺するのも駄目
(3/8) 男は女を大切にし
女は男を大切にし
男は女を裏切らず
女は男を裏切らず
男は女に愛を求めず
女は男に愛を求めず
男は女に愛を与える
女は男に愛を与える
男は男の者
女は女の者
男は女の者
女は男の者
男は男を理解して
女は女を理解して
男は女を理解する
女は男を理解する
(4/8) 調和の意味──
愛(主観)
親切と礼儀
与えること
守ること
正義(客観)
法律と権利
間違ってること
正しいこと
正しいことを与える
間違ってる事から守る
間違ってる事を与える
正しいことをうばう
正義のある愛=愛のある正義
──調和
金の道徳律/自分がされたいことを人にせよ(キリスト)
銀の道徳律/自分がされたくないことは人にするな(孔子)
性悪説/人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ(荀子)
性善説/人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ(孟子)
(5/8) 状況を把握せよ
現在地を確認せよ
郷に入れば郷に従え
工夫する技術を学べ
使い方を熟知せよ
(6/8) 勝てない相手に剣を抜くな
安全な場所以外で油断するな
全員で協力せよ
最悪に備えよ
即殺せよ
(7/8) まずは簡単な事も疑うこと
知らないことを知ること
客観的に考えること
矛盾しないこと
証明せよ
(8/8) >>5 イデアルール
>>6 ガイアルール
>>7 ハピネスルール
>>8 トルテルール >>9 ハーモニールール
>>10 サバイバルルール
>>11 タクテクスルール
>>12 サイエンスルール
名前忘れてたので一応 ちなみに矛盾が完全に無いかどうかわかりません
参考にする程度しか価値がありません
書き込ませてもらってありがとうございます ついでに
宇宙の存在自体が奇跡で意味がある
世界中の全員が個性的で特別である
自分自身を理解して信じるのが自信
この三つを信条としてます >>4
バシャールの教えは瞑想にハマってたとき、ネットなどで調べて自然に行き着きました。 「人」の概念が適用されるのは
悟った人だけ
って事なの? >>18
どういう意味ですか?
悟っても人だと思います
超人になるわけじゃないし 最初の一歩
何事においても、最初の一歩を間違えるととんでもない方向へ行ってしまいます。
仏道の修行は自分が救われるためではなく、他の人のために尽くすことです。
この誓願から最初の一歩を、踏み出しましょう。
(永平寺) >>19
全ての「人」が悟る時代って書いてあるよ
人間じゃない、人間みたいな生き物は悟らないのかなって >>21
人間以外ですね
知性があればできると思います
どこまで共通かはわかりませんが >>20
それがそもそもの間違いだと気づかない?
自分のレベルを上げることが、全体のレベルを上げることに繋がる。
まずは、自分のレベルを上げることが肝要。
潜在意識では誰一人漏れることなく、繋がっている。
極悪な犯罪者や悪政を敷いている為政者であってもだ。 仏教の般若心経を読み上げてる
AIの動画があるけど
未来はそうなるのかなあ? >>17
バシャールの教えで瞑想をやっていたときに
ネットでラマナを知った、ということで良いでしょうか?
>>1にいくつか説明を加えると
まずラマナを教えの根幹はヒンドゥー教、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)ですが
ラマナの使用する言葉は聖典ヨーガスートラの概念も入っているので注意が必要です。
ラマナの教えに関しては日本語だと
「アルナーチャラの聖者」というサイトに多くの情報があります。
アドヴァイタの勉強にもなると思うのでよかったら参考に。
あとノンデュアリティの教師は、すべてではありませんがあまりオススメしません。
聖典等を勉強せずに教えた始めたため実用的な理論に乏しく
生徒たちが混乱しているという話を聞いています。
またラマナの教えは真我探求と呼ばれていますが
一般的に紹介されているものは初心者向けのプロセスです。
しかし同時に悟りのための強い欲望に恵まれた成熟した探求者向けです。
準備されていない心には、知識だけでは浄化は不十分です。 デヴィッド・R・ホーキンズ 他1名
<わたし> ―真実と主観性(覚醒ブックス)
この本読んだ人いますか?
内容はどうなんでしょうか?
自分もキネシオロジーを思想や能力やアレルギーの確認に使ってますが
間違うときもたまにあるんですよね >>25
バシャールではなくマハルシの間違いでしたすいません。
真我探求に詳しそうなので質問させていただきたいんですが、
瞑想をするとマインドが静まる感じがします。
想像や思考が消えてきて感情も消えてきて、純粋な意識のみの状態になる気がするんですが、
瞑想をやめてもその状態は半日か1日ほど保つような気がするんですが、
その状態で生活すると、思いやりとか想像力とか思考力とか消えてしまって、
みょうな静けさの内面の状態で生活するようになるんですが、
これって合ってるんでしょうか?
脳が活動停止状態で日常を送ってるようなそんな不自然な感覚があるんですが、
このままでいいんでしょうか? >>27
瞑想やりすぎてませんか?
禅病偏差魔境に注意
長くても一時間です >>28
瞑想ってやりすぎるのもよくないんですか?
悟るには長い時間たくさんの回数やればやるほどいいと思ってました。 『十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ』
『祓は祓清めの神様にお願いして北、東、南、西、の順に柏手四つづつ打ちて祓ひ下されよ。神国の乱れ、こえキから。世界の戦争、天災、皆人民の心からなり。人民一人に一柱づつの守護神つけあるぞ、日本真中、ボタン一つで世界動くぞ。』
『何も彼も、人民迄変るのが今度の大立替、食物も、衣類も、住居も皆変るぞと申してゐる時が来ているのぞ、いつ迄チョンマゲを頭にのせてゐるのか、ケンビキ今一度痛くなるぞ、そのケンビキ今度は東の方ぢゃ。』
『人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、
死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ。』
三種の神宝、十種の神宝を追記、その他 修正
一二三神示「裏」年表
https://i.imgur.com/77NLHCo.jpg >>29
心配なら指導者にやり方相談した方がいいですよ
いっぺんに長時間するよりすこしづつやった方がいいです
瞑想の場合は瞑想時間の合計で修行が進むようなので
長時間する必要はないかと 顕在意識で現実をコントロール出来ないのは力が数%しか出ないから
逆説的だけど望む現実を阻んでいるのは顕在意識そのものとも言える
何もしない考えないことによって邪魔することを控えて
強力な潜在意識さんにお任せする時間を設ける
そういう認識で瞑想すればいいと思うよ
後寝ることも行為だから瞑想にはあてはまらないと思う スレ主さんはまだいらっしゃいますか?
レスを貰ったのに返答を遅くて申し訳ないです。 本当に返答が遅くて申し訳ない。
今から書くことはラマナの教えから少し離れて
ヴェーダンタの教えを含むので、その点を踏まえて読んでください。
まずラマナの教えである真我探求は、“Be As You Are“の日本語版である
「あるがままに」等の書籍において様々な解釈がされていますが
本来はラマナとの対話で自己=意識のアイデンティティに気づくことのできない人が
心を内に向けることで直接的な気づきを得るために用いられました。
なぜなら本来の自己=真我はすでに解放されているため
解脱とはその知識で心にある自己認識を中心とした無知を破壊した結果だからです。
また上記の書籍では、真我探求が“私”感覚を解放することを真我実現と
言っていますが、同時にサマーディの章では
(原文ママではありませんが)拘束力のあるヴァーサナを非拘束にしない限り
サマーディを何年修練しても解脱は成就しないといっています。
なので繰り返しになりますが、真に重要なのは
自己知識と無知の破壊を可能にする浄化された心です。
実際にラマナの真我探求を実践している方のブログをいくつか知っていますが
彼らが進歩しているようには感じません。
これは真我探求の瞑想者が、真我とはその瞑想者を知る意識であることを
見逃しているからです。
つまりは瞑想者が瞑想者として真我探求で体験や経験を求めるので
ニルヴィカルパ・サマーディ(マインドが停止した自己の直接体験)で
直接知識を得るか、あるいは心が偶然自己のほうを向かない限り
単に真我探求が上手になるか、“私”感覚のない人になるだけです。
解脱が意味するのは人からの解放なので、知識の欠いた真我探求はおすすめしません。
だから>>27への返答は、もしあなたが仏教やキリスト教ではなく
アドヴァイタ・ヴェーダンタを実践するというのであれば
ヴェーダンタの理論と手段を学習し
カルマ・ヨーガによる心の浄化、上記を理解した上での
「無理のない」真我探求を行ってください。 なんて不自然な道だろうね。
自らの悔い改めから自らを正そうと入るものは幸い。 >>37
詳しい説明ありがとうございます。
浄化された心が大事と言っていますが、それは清らかな人格というようなことですか?
真善美に生きて清く生きるような心がけが浄化された心をつくり、
その心によって真我を探求するといいということでしょうか?
汚れた不誠実でネガティブな心で真我探求を行なっても、解脱には至らないということ?
それとも読み間違いしてるでしょうか? 只管打坐で悟り開けるって昔から言ってるんだからお前らもやれよ
自分が坐禅してるって事を忘れるまでひたすら坐禅しまくれ
悟り開けない奴ってのはテクニックとか理屈に拘ってるから結局「自我」の域を出ないんだよな 自分を否定する
神を否定する
自分を肯定する
神を肯定する
一番だめなの
>自分も神も受け入れない
でも普通の解脱だと
>自分は否定し神を肯定する
ですよね
自分も神も受け入れることはできないのですか?
自分を理解し受け入れることは自信につながります
自信を捨てろと?
自分を否定するために瞑想するのですか? 悟りの行法として今考えられるのは、マインドフルネス的なものになっちゃうかな。
念仏とか、座禅っていうのは、現代の一般人がそうそう出来るもんじゃない。
勘違いしてはいけないのは、念仏も禅も行住坐臥の行ということで、24時間の修行なんだよ。
永平寺の修行ってのは座禅だけじゃなくて、トイレや洗面のときも細かな規則を決めて、四六時中
意識が今に向けられるようにしてある。
ようは、今やるべきことの型を決めとけば、どんな想いが巡ろうと、今に引き戻されちゃう。
そんで最後は全面降伏するわけだ。 今このままであるしかないと。
その全面降伏のときが心身脱落ということだよね。 今に意識をむけると思考がとまる気がするけど、
今に意識を向けながら思考することってできるの?
今に意識を向けることを気付きとも言うけど、
聞こえてくる鳥の鳴き声や風の音や身体の感覚に意識を向けながら考え事ってできる?
なんでこんなこと聞くかっていうと、
マインドフルで日常をおくるようと言うでしょ。
そしたら日常が瞑想になるって。
それには今ここに意識を向けるってことでしょう?そしたら思考が静まって瞑想状態になるってことでしょ。
でも人は学校や仕事で頭働かせないと生活できないんだけど。
学校では勉強で思考しなきゃならないし、仕事も同じだろうし。
社会生活送りながらマインドフルに生きるってどうすればいいのだろう 現代社会はディセンションした思考社会だから、思考を使わず社会生活するのは無理だと思う。
社会生活では思考、プライベートでは意識と二重生活するしかない。
このパラドックスを解消する策が、昔の出家文化だったけど、今の日本で出家した行者を養い支える文化は(ほぼ)無い。
お寺も何だかんだと世襲制だし。
現実と上手く折り合いを付けながら、道を探究し創っていくのが、パイオニアかな。 なお、
脳の思考が主体となり、感情や意識といった上位の感覚が軽視され、停止や抑圧された状態なのが問題であって、思考そのものが悪い訳じゃない。
意識を主体と理解し、その下のツールとして思考を使っていれば良いと思う。
瞑想とは意識を感じ主体となるスイッチを入れる為のツールであり、日常が瞑想とは日常的に意識が主人となっている状態だよ。 みんなそこが理解できないんだよね・・・
無為にして為す、ということが理解できない。
今に意識を向けるというのと、思考というのは両立しない。
なぜかというと、思考というのは時間の幅で成り立っていて、その時間の幅によって、
苦悩やあらゆる存在が成り立つことになる。
存在というのは時間の幅が無ければ成り立たないもので、それは苦しみも同じ。
継承されるもの。 継続されるもの。 時間の幅によってそれらが起こる。
時間の幅 = 思考 と言ってもいい。
思考が時間を作っていて、思考があらゆる存在を成り立たせている。
今に意識を向けるということは、本来の世界に意識を向けるということ。
この世界は、「今」しかないんだよ。
時間の幅は幻想なんだよ。
それら幻想を打ち破ることが、悟りということ。
打ち破るには、「今」と一つになればいい。
それで、思考がないと生きていけないというが、本来思考が幻想なんだよ。
そこに気付かないといけない。
思考=我。 輪廻を起こしているものと言ってもいい。
よくスポーツの世界でゾーンに入るという言葉があるけど、ゾーンに入るというのは、
意識が今に統一して、思考の余地が無くなった状態・・・ 完全に(本来の)世界と一つになった状態で、
すべてが完璧に整ってる。
我が無くなれば大我に繋がる。 真我といってもいいけれど、それらは思考を超越してるわけ。
無我になれば真我がすべて取り計らってくれる。
スポーツでも真に無我に至れば、超越的なファインプレーなんかが出る。
思考の世界でああだこうだやってもも、たかが知れてる。
人間の思考では自分の生活も世界も、うまくいかないわけ。
版画家の宗像志功が、自分が掘ってるんじゃない、と言っているのはそのことで、
宗像志功が版画を掘ってるときは、あれこれ考えて思考を働かせて彫ってるんじゃない。
無思考になった時にいい作品が出来るわけ。
およそ芸術でもスポーツでも、最高にいい作品、いいプレーというのは、
無思考から出てくるんだよ
これが無為にして為す、ということ。
もしも日常生活で、24時間がゾーンの状態だったら、それは素晴らしいことだよね。
すべてがファインプレー、すべてが最高の芸術になる。
思考でやってたら、それら微妙な状態がつまづいちゃう。 上手くいかない。
ただ悟りまで行かなくても、今に統一する意識が増えてきて、思考が減ってくると、
思考が働きながらも、より良い動ごきが出来たり、より良い日常生活が送れたり
ということがあるよね。
それは思考の働きで真我の流れをストップさせるということが少ないから
そういう風になるわけだ。 思考の問題とは、思考の偏重にあるのであって、思考の存在そのものではない。
生物界では無用な機能は発達するどころか、退化し消滅してしまう。
思考自体は必要不可欠の存在だが、思考による問題が多く発生するのは、思考の使い方に問題があるから。
そもそも人間は肉体(脳=思考)と意識(霊?真我?表現は人それぞれ)から成り立ち、両者を繋ぐ共通言語として感情があると思われる。
思考は肉体の状況を考えて言語化し、その言語に対して感情が反応し、その感情を読み取り3次元の世界が意識に伝わる。
意識が脳にフィードバックする時は直観を使用してくる。
スポーツ選手のゾーンの話題はこの直観で体が動いて成功する話。
しかし、思考無くして意識は肉体の情報を知る事は出来ない。
思考はスポーツで言えば基礎情報の取得、練習、創意工夫の工程で力を発揮する。
思考無しに一流の選手に育つ事はない。
直観は本番で力を発揮する。
ここで思考がしゃしゃり出ると物事は無残な結果になる。
しかし、いくら意識が偉大であっても練習で習得した力量以上の能力は発揮出来ない。例え完璧に直観を行使しても……である。
勘違いとはまさにこの点にあって、思考を止め直観を使う必要性があるのは本番だけなんだよね。
ただ現代人は思考に慣れ過ぎているから、本番ですら思考が抜けきらない人が多い。
本番で思考を使う=本番で練習するだから、当然、結果は酷い物になる。 さらに思考が過剰に暴走させて、これまでの経験を使い(あるはずのない)未来のシミュレートをアレコレしている人がいる。
ネガティブとは実は思考の属性であり、思考の仮想の想像など大抵、恐れだの、不安だの、不都合なハプニングなどだ。
こういう思考は、それに対応する強烈な感情を呼び出し、感情は意識への言語だから、その存在する筈のないネガティブが大量に意識に伝わる。
人間の苦≠ニは正にこの状態。
その正体は間違って使われた思考に他ならない。
だから(間違った)思考を止めよってなり、その手段の一つに瞑想がある。
しかし、正しい用法の思考は人間にとって必要不可欠。
思考が無いと人間界を理解できないし、訓練して適応も出来なくなる。
まぁ、思考を身に付け損なった人の話も聞いた事無いので、思考がないifの話は省略できる。 長々書いて何が言いたかったのかと言うと、
今ここ≠ニは、思考を向けるポイントを指している。
思考は今ここの情報を過不足なく意識に伝達する為にこそ用いる。
時間云々≠ヘ、過去や未来など、今ここにない物事に思考を用いるのは間違った使い方で苦≠フ原因であるって事。
用途を間違えなければ、苦も少なくて済むはず。
不必要な機能が付いているのではなく、重要なのは機能の使い方である。
長文スマソ エックハルトトールが思考と意識、意識と無意識という明確なすみ分けを行っている。
このE.Tのすみ分けが非常に分かりやすい。
通常、われわれが無意識状態というとき、意識不明とか、意識がしっかりしない、ボーっとしているなど、
主に思考が働いていない時の状態を指してる。
E.Tは逆に、思考が働いている状態を無意識状態と呼んでいる。
つまり、思考が働いている時が幻想の中に埋没している状態で、E.Tの言う意識状態というのは、
今に意識が向いている状態のとき。
たとえば、コーヒーを入れに行くとき、通常はコーヒーを飲むという結果だけを考えて、その間がすっ飛ばされる。
その間はいろんな想いが渦巻いたり、あるいはボーっとしているかもしれない。
椅子から立ち上がる時、立ち上がって一歩一歩歩くとき、コップを手に取るとき、置くとき、など、
その時の「今この瞬間」に対する意識がおろそかになってる。
つまりこれが無意識状態というわけだ。
通常人々は大体このような無意識状態に陥って生活してる。
つまり、思考の幻想の中に捉われて生活してるわけだ。
今現実の、今この瞬間の世界に気付いていない。 気付きが無い。
思考というのはストーリーを組み立てるということなんだよね。
ストーリーを組み立てるということは、時間の幅を要する。
たとえば病気の場合、過去の記憶、情報と、未来の不安などで、現在の病気の苦悩という
ストーリーが組み立てられている。
これは時間の幅が無ければ組み立てられない。
0時間という今この瞬間の世界では、病気の苦悩というストーリーは存在出来ない。
道元禅師が「覚知に交わるは証則にあらず」という言葉を言っているが、この「覚知」というのが
「思考」ということなんだよね。
本当に意識と思考が交代する時には、記憶が残らない。
とんでもないファインプレーをやった後には、その瞬間の記憶がない。
たとえば柔道の試合で、気付いたら相手を投げ飛ばしていて、一本取っていた・・・ だけど
その投げ飛ばした瞬間の記憶がないとか、
剣客の伊藤一刀斎が無意識のうちに刺客を切り捨てたという話もこれのこと。
あと、合気道の塩田剛三の話でも同じような話があって、ある時犬と自転車で散歩していたところ、急に角から車が飛び出してきた、
跳ねられたと思った瞬間、自分はボンネットの上に立っていたと。
その瞬間どうやったかが記憶にない。
あとでバンパーを見てみると、くっきりとペダルの跡がついていた。
おそらく、突っ込んでくる車のバンパーにペダルを合わせて飛び乗ったのだろうと。
こういう、真に無我に至れば、思考では到底不可能なことでもやってのける。
深いゾーンに入って思考の限界を超えるときは、思考によってとらえることが出来ない・・・ つまり、
記憶に残らないんだよね。
あと、たとえば物事を上達させるときに思考が必要かってことだけど、たとえば物事を上達させる時でも、
直観とか閃きとかいうものが必要になってくる。
何百回やってもコツを掴めない場合もあれば、たった一回のひらめきでコツをつかむような場合もある。
思考のクセが引っ込んで、今につながる意識に満たされていれば、こういうことがスムーズに行われる。
思考が関わらないってことは、やってる本人にしてみれば、自分がやってるんじゃない、
ってことになるんだよね。
「弓と禅」の本の中で阿波研造は 「それ」 といっている。
「それ」が行うのだと。 悟りを生きる ― 非二元へのシンプルなガイド ―(覚醒ブックス)
スコット・キロビー (著), 広瀬 久美 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/dp/4864512760/?coliid=I30VY830W15IR8&colid=36FYJI0S3L6N0&psc=0&ref_=lv_ov_lig_dp_it
上記の本を個人的にオススメするんだけど・・・断じてステマじゃないよ(笑)
約7年前にエックハルト・トールのニューアースを読み始めた事がきっかけで我流でマインドフルネス的な瞑想を始め
毎日朝晩極力欠かさずに続け、他のアドヴァイタ系の本を色々と読みながらある程度は人生が好転してたんだけど
最近は色々とあって何だか行き詰まった感じになっていて落ち込んでいたところに
久しぶりにニューアース以来の良書に出会ったと思った
まあでも、これはあくまでも個人的な感想で他の人が読んでみても当りになるとは限らんけどね・・・ ノンデユアリティの本を読み漁ってて気付いたのは、
すべては自分の中で起きているということ。
ふつうは外の世界に原因があると考えるけど、その原因を感じてるのは誰か?ということ。
自分がそれに気づいて感じてるってこと。ある人が嫌いだとする。
ふつうは嫌いな人のいる外の世界が原因だとする。
でもノンデユアリティの考え方では、その嫌いな人を感知してるのはそもそもだれか?
自分の内面で感じてるにすぎない。つまり嫌いな人というのは外の世界には存在せず、
自分の中に存在してるということ。
この理屈でいうと、自分の認知できる世界はすべて自分の内面に存在してるといえる。
この感覚が覚醒者の意識感覚らしい。
そして覚醒者は、自分の内命を望むイメージを描くことで、現実をつくっていく。
それが引き寄せの法則らしい。 伝統的な教えからすると
マインドフルネスだけしてエゴが消えればOKというのはまったく賛同できない。
具体的に言えば、エゴが消えても残りより微妙な形で存在するヴァーサナ
つまりは真我としての自己への無知から生じる欲望、恐れ、苦悩
心の撹拌して平安を乱すグナ(瞑想は心を安定させるが浄化しないので)
創造においてあるレベルの善悪でもって機能するカルマに対処するダルマ
その教えを表明している人物の功徳、生前カルマ
要するにその人がある修行をしなくても悟る事ができた理由等の影響を
まったく考慮していない。
またそのような人がいても経験のレベルは否定できない。
つまり彼らの言葉を借りれば、苦しむ人はいないが苦しみはある。
単にそういった状態を目指すだけでは、一部の人には実用的ではないか
あるいは不健康な悟りになる可能性がある。
様々なレベルの探求者に対応できる体系的な教えがないので
その観点から言えば、熟考して実践する価値があるようには思えない。 >>49
長文面白かった ありがとう
あれこれ考えるよりも今の一瞬が大切なのは同感やで
思考がなく直感的にやったほうがいい結果になると思うで
けど思考する過程も大切で、思考をなかったことにしていいわけじゃないんだよな
誰でも最初何かするときどうやってやるのかな、触るのかなって考えるのがこの世の普通やん
>>49さんの言う通りなんだけど肉体の器である以上
この「思考する過程」をどうしてもすっ飛ばせないと思ってるんや
仕方ないことなんだけど
気の遠くなるほどの回数重ねるといちいち思考するより直感でやったほうがいいってなって
>>49さんの説明したゾーンに入るわけやな
でもこれは悟りっていうより神人一体という表現のほうが近いかもしれん
まあ神人一体も悟りの中の1つだと思うけど
通りすがりですが失礼しました ねぇどうすればいい?
みじめな毎日だからこんな掲示板で犯罪者とか無職いじめて
うっぷんばらしするだけの不毛な日々
ゴキブリ未満の精神性
そこまで落ちたか
はやく死にたい
私だって株の損失だけでも正直死にたくなる
現実逃避でわざわざ無職ニート罵倒しても無駄
弱者でマウントしてるだけのゴミに未来なんてない
知り合いの女性は処女のまま閉経した
それも人生 >>51
ごめん、続き・・・大まかな感想は大体尼のレビューに同意するんだけど
トールもよく言及してた日常生活で意識的になるノウハウが具体的かつ理論的に説明がされてるんだな
最終章はノウハウをこなした結果、常に意識的になった状態の人向きの内容まで書かれているのにはちょっと驚いた
アセンション云々はひとまず置いとくとしても、こういった本が出版されてきたってことはスレタイみたいな話もあながち言い過ぎではないような気がするんだな 茶道とか、およそ「道」と名付けるものは、悟りを目指してるんだよね。
武道もそう。 華道もそう。
能は道と付いてないけれど、あれも究極的には悟りを目指してる。
一足一足を意識し、一つ一つの動作を慎重に意識している。
茶道は細かい作法によって、瞬間瞬間を意識させようとしている。
今意外に意識が飛ばないようにしている。
今意外に意識が飛んだ時が、「思考」ということだよね。
永平寺では風呂に入るのも、顔を洗うのも、トイレに入るのも、細かい規則が決まってる。
これによって寸時も意識が今から外れないようにするわけだ。
つまり、思考が働かないようにしている。
食事の時も細かく作法が決まっているし、座禅以外では作務に打ち込んだり、読経に打ち込んだりする。
永平寺では常に今に在る努力がなされている。
今と完全に一つになった時が、「無我・悟り」ということなんだよね。
また今と一つになるということは、「ありのまま」とも言える。
究極のありのままは、主体(我)がなくなるんだよね。
さて問題は、われわれ一般のものが、日常生活の中でどうやってこのような修行をするか・・・。
一つ一つの動作を意識するにしても、ついうっかり忘れて、普通に歩き、普通に食べ、気が付くと思考の世界に埋没している・・・
これがどうして起こるかというと、僧堂のようなところで隔離されて、思考(我欲)を断ち切れていない環境であることが問題なんだと思う。
たとえばインターネットやテレビ、あるいはゲームや食の楽しみ、その他もろもろの楽しみの中にいながら、
ある一時だけ今に意識を向けたとしても、根本的に欲(執着)に戻されるようなことになれば、
いつまで経っても今に意識を置くことが継続しない。
我欲と今に意識を置く行為は両立しないので、まず先に欲(執着)を断つ心構えを持つしかない(かもしれない。)
欲を完全に断って苦行のようなことをするのは、ちょっと違うかもしれない。
何事でも現実生活を無視することは、「ありのまま」から外れてしまう。
つまり、意図的な計らいというニュアンが強くなる。
修行が思考によって行われていることになり、修行すればするほど、思考が
強くなってしまうことも・・・
おそらく、テレビを見ててもいい、ネットをやっててもいい、しかし、パッと、「これしなきゃ!」「今これをやっといた方がいいな」と、
自分が今為すべきことが浮かんだら、パッとそっちに動ければいい。
それが執着がないってことだと思う。
ただ通常の状態では、映画を最後まで見てからとか、さきにネットをやってからとか、今あるやるべきことを
後回しにしてしまうのが常だろう。
こういうように、環境と決意が整っていないと、行ったり、引き戻ったりの
繰り返しになってしまうかもしれない。
考え方としては、二通りのやり方があると言えるかもしれない。
一つは、今この瞬間の動作を意識していく・・・・
もちろん、途中で途絶えることもあるが、24時間のうち、点を多くして、やがては線とするやり方だ。
もう一つは、今やるべきことが浮かんだら(我欲のない状態で。)、さっと動いていく・・・
大抵はみんな今やらなきゃいけないことは分かってる。
ゲームをするより明日の仕事の準備しないといけないのは分かってるし、早く寝ないといけないのもわかってる。
こういうように、善なる自分と悪なる自分が綱引きをやっているわけだから、善なる自分に従っていけばいいわけだ。
日常が今やるべきことに満ちてくると、思考が終息する。 >>56
内容紹介の説明文読んでると、本物っぽいな。
>思考のない気づきを認識することによって、
>思考をそれほど頼る必要はないことがわかります。
>私たちは気づきとして単純に存在することができます。
>それはこの上なく単純で努力のいらない生き方です。
>気づきは自然なものであり、努力を必要とせず、
>ずっと在り続けていることが体験的にわかります。
>思考のない気づきを体験的に知ると、
>自分の物語を以前ほど重要視しないで生きるようになります。
>その結果、自己中心性が自然にはがれ落ち、
>気づきが本当の自分であることを理解します。
>それによって、これまでずっと追求してきた安らぎ、自由、知恵、喜び、
>そして満たされた生活が訪れるのです。
ちょっと調べてみて、良かったら買ってみようか。 真我
これは人間の本体であり、意識体とも言われる。
それはこれまでの転生の叡智を持っていて、人間の時よりずっと発達し完璧な存在とされる。
そんな真我≠ェなぜ今日、この人体に宿ったのだろう?
カルマの清算の為?
赦し≠習得した真我にはこの手順を踏む必要は無い。
後進の指導の為?
自ら求めない人には何をも教える事は出来ない。あくまで基本は自習。
自分の更なる発達の為ならば、理解できる。
生物の肉体は三次元の存在。しかし、肉体の脳の思考≠ヘ三次元に所属しない。
思考≠ヘ三次元の肉体が生み出す四次元の存在であり、四次元体以上の存在の材料=食料のようなものだ。
今の仮説は真我≠ヘ食事の為に人体に転生する。
その食料は思考≠ナある。
私達が肉体の健康の為、日常の食品に気を配るように、思考≠フ内容も真我には非常に重要になる。
今ここ∴ネ外の想像は妄想でしかなく、不安や恐れで思考が調理されてしまう。
今ここ≠ノ集中された思考≠フみが、健全な真我の高品質な食料となり、それによって真我の意識体は拡大するのかもしれない。 トールや他のノンデュアリティが言うには、
テレビとかゲームのような集中して楽しんでるときも思考が止まって我を忘れてる状態らしい。
酒飲むのも思考を止めることなので人は無意識に瞑想を求めてる。
でもだからといってゲームや酒ばかりたしなんでも悟りは開けない気がする。
でもテレビやゲームをやってるときは今ここに意識がある状態だから、それがすでに瞑想なんだろうけど。
じゃあ集中して歯磨きしたり今ここを意識して歩いたり、ゲームを集中して我を忘れたりすることで、
はたして真我に到達し悟ることができるのか?ってこと。
普通に考えて無理だろう?
普通に生きてる人はほとんどの普通の人のように普通に人生を終えて、
輪廻転生から抜け出すことも悟り開くこともできないと想像するよ。
やはり悟るには瞑想なり真我や神との合一などを求める探究心なり、
ある程度の修行みたいなのは必要なんじゃないかと思うんだ。
でもそれは昔の話であって、今の波動の上がった地球では修行や瞑想なしでも、
テレビやゲームをしてるだけで悟れる時代と言われたらそれまでだけど。 あとノンデュアリティで疑問に思うこと。
ムージやoshoの動画を見ると彼らは、神を信じてるかどうかわからないけど、手を合わせる仕草をよくする。
これは祈りのポーズなんだろうけど、何に祈ってるのか?
ノンデュアリティは神という用語は使用せず、自分というのは大いなる意識で
宇宙には大いなる意識しか存在しないという定義なんだろうけど、
自分自身が大いなる意識であると目覚めた覚醒者ははたして手を合わせて一体何に祈ってるのだろう?という疑問。
自分自身が神であると知ってるのに祈ることは自分自身に祈ってるということか?
そんな矛盾があるか?不二元とは神しかいないということでしょう。自分も神であるのに何に祈ってるの?
それとスピリチュアリズムでは神は宇宙を創造した大元の魂であり、我々の魂も神の一部ゆえ神の部分と言えるけど、
自我意識は神とは別に自分固有の意識があって、霊界の霊達も神に祈ったりするといわれる。
シルバーバーチなどの高級霊も神への祈りをするというけど、
この事実はノンデュアリティと矛盾してない?
例えば霊界には土地の神様とか仏様とか天使とか地上で神と呼ばれる存在の高級霊達がいるらしい。
彼らも大元の創造神に祈ったり賛美したりするらしいんだ。
なのに地上でノンデュアリティで覚醒した人たちは、
自分は意識であり意識は1つしかなく、神と自分と他人の意識は同じで1つのものという。
彼らは意識の中に世界が存在すると言って自分と世界の区別がつかなくなり、
すべてが自分であるという感覚になるらしいけど、
彼らにとって神を崇拝したりすることは意味ないことなのかな?自身がその神の意識であると気づいたのに、外の神に祈るということは?
自身が神と気づいたのに死んで霊界行ったら個霊として霊界で生活するようになって、
自分は神なんかじゃなく1つの個霊として存在するんだ、ということを知ることになるのかな? 知識ばかり求めても解脱は無理だろうね
自分のことのように困ってる人苦しみにある人を思える心を培っていかないと。
利他の実践なんてしたくない心が我だよ。自他を分ける心が我。
嫌いな人に親切にする時、困ってる人に手を差し伸べる時、
そういう時、真我の片鱗を見る。
やってみればわかる。
何年求道しても進歩がない人は楽な道を行こうとする我が邪魔をしてるんだろうね。
楽したい人には楽な道はないのだろう。 自我ガー真我ガー言ってる内は無理だろうね
修行ってのは頭でやるもんじゃないんだよ >>59
>そんな真我≠ェなぜ今日、この人体に宿ったのだろう?
真我は人間に宿るもんじゃなくて、大元なんだよ。 生き通しなわけ。
上にハイヤーセルフがあるから、下に写ってくる。
スピリチュアル的に言うと、上から神界、霊界、幽界、肉体界主に4つの階層があって(本当はもっと多い)、
もともと神界の波動が緩慢になってこの肉体界が出来上がってるわけ。
その間にいろんな汚れが付く。
たとえば、いろんな色付きのガラスを重ねて上から光を照らすと、下に写るのは汚い光ということになる。
一番上の純粋な光がなければ、下に写らないわけ。
一番下のガラスが割れたからといって、上の光が無くなるわけじゃない。
また下のガラスが形成されたら、光が伸びてくる。
この汚れが我であり、思考であり、カルマということ。
それを清めれば、すっきり上からの光が通る。
我の自分じゃなくて、神なる自分がすべてを采配する。 だから完璧なわけ。
神なる自分と言っても、個々に分裂している存在ということじゃなくて、宇宙と一体になってる状態・・・
だから、全く間違いがないんだよ。
>それはこれまでの転生の叡智を持っていて、人間の時よりずっと発達し完璧な存在とされる。
転生した範囲の叡智じゃなくて、それ以前に、宇宙の叡智なんだよ。
思考(我)が無くなれば宇宙と一体になるから、何も知らないことはない。
転生の叡智とはそのごく一部に過ぎないわけ。
また転生の情報が集積したものを阿頼耶識という。
これがいわゆる我の根本の情報の集積場所なわけ。
だからこの阿頼耶識を越えないと、我を越えることは出来ない・・・
つまり、悟りを得ることは出来ないわけ。
>>60
エックハルトトールが言ってるのはそういうことではなくて、テレビを見ていると無意識にテレビの思考と同化してしまう・・・
つまり、普通の思考状態よりも質の悪い状態に陥るってこと。
つまり、無意識に思考している ということになるわけだ。
テレビでもゲームでも、ストーリーを組み立てられなければ楽しめない。
ストーリーを組み立てるということは、時間の幅を生み出すということ。 これが思考なんだよね。
それで、テレビを楽しむには、今だけに意識のある状態では楽しめないわけ。
無意識のうちに時間の幅に埋没している・・・ 無意識のうちに思考でストーリーを組み立てて楽しんでる・・・
そういうことになるわけ。
ゲームやアルコールについても同じ。
それは今に意識がある状態と、まるで真逆の状態にある。
ただ例外はあると思う。
たとえばゲームを職人なみに追求している人。
こういう人は思考でゲームを楽しむというより、今に一生懸命になって技を磨いていたりする。
そういうものの深い状態になると、あたかも意のままにゲームをコントロールしているような不思議な現象も起きてくる。
ただ、その度合いは通常ゲームを楽しみながら技を磨くといった程度のものじゃない。
技の上達に苦痛を感じるくらいじゃないと、思考の楽しみを越えている・・・ あるいは、マインドフルネスの努力と同じだとは言えないよね。
ゲームをやってるのに修行のような苦痛を感じたら、大抵の人はやめてしまうだろう。
また、技術を上達したとしても、またそれによってゲームを楽しみ、思考に埋没してしまっては意味がない。
絶えず続けないと。
>じゃあ集中して歯磨きしたり今ここを意識して歩いたり、ゲームを集中して我を忘れたりすることで、
>はたして真我に到達し悟ることができるのか?ってこと。
>普通に考えて無理だろう?
歯磨き、歩行に集中するということと、ゲームを楽しんで我を忘れるということは全然違う。
では、歯磨き、歩行に集中して真我に到達し、悟ることができるのか・・・? というと、
それは出来ると思う。
あらゆる「今」に自分の意識を置くことが出来たら、もうそこには自分の「我」は無いから。 エックハルトトールがテレビのことについて語っているのは、
ニューアースの249ページを見てみて。 毎回思うのは、このスレならば建設的に話が出来る人がいるかもしれない、と思って書き込むんだけど、
やっぱり、同じところに結論が行き着いたって人にはなかなか巡り合えないってこと。
本当はこういうスレで、どういう修行をしてみたとか、こういうことをやったらこういう風に効果があったとか、
そういう風に具体的な手法で話しを進めていくのがいいんだよね。
それを期待するんだけど、毎回がっかりする。
手法というより、それ以前の話でつまづいてる感じ。
おそらくこの手の話しは不特定多数が対等に話が出来る掲示板のようなところでは無理だと思う。
個人が発信できる場・・・ ツイッターとか、ブログでしか成功しないだろうね。
だから、もし何か有用なものを掴んだ人がいたら、そういう価値のある情報をこういうところに垂れ流すんじゃなくて、
大切に発信した方がいい。
ということで、これで終わります。 そんなものは本当の悟りじゃないよ。
言葉を学知しているだけ。
マインドフルネスでは我を完全に滅することはできないよ。 自分自身を理解して受け入れることが自信じゃないかな
難しいけど
我を消すのでなく我を得ることが必要なのでは? 修行とは何事も全力でやる事だ
我を忘れるくらいにな
でもいきなりはできないだろうからまずは坐禅を忘我するくらいひたすらやれ(只管打坐)って言ってるんだよ ただ座って悟って何になるんだよ
だよね。
経験あるけど。
それから人のためにと生きるんだよ。
人間それからというだけのこと。 >>66
レスしてくれてありがとう
上記の本に書いてあることを試行錯誤しながら2週間ほど試してみたけど
結構手応えというか周りの空気が変わってきたよ
同じく尼から抜粋させてもらうけど
>ここで試していただきたいのは、一日を通してできるだけ頻繁に
>「思考のない気づきの中で休息する」ということを、毎日繰り返すことです。
>初めはほんの少しの時間で構いません。一回につき三秒から五秒ほどです。
>でもそれを繰り返してください。何回でも思い出した時にそうしてみてください。
これって結局、トールがよく講演会などで言っていたことを具体的にどうやるかってことなんだよね
思い出す度に気づき認識する・・・仕事や休憩中、風呂やトイレに入ってるとき布団で寝転んでるとき・・・
兎に角、変に理屈を頭でこねくり回すよりも試しにやってみてどうなるかを見れば良いんじゃないかな 真我は人間に宿るもんじゃなくて、大元なんだよ。 生き通しなわけ。
上にハイヤーセルフがあるから、下に写ってくる。
スピリチュアル的に言うと、上から神界、霊界、幽界、肉体界主に4つの階層があって
(本当はもっと多い)、
毎回思うのは、このスレならば建設的に話が出来る人がいるかもしれない、と思って書き込むんだけど、
散々建設的かつ客観的に申し上げてますが?
なんだったらその過去の実例のスレッドの内容記載しますが?
ホント、懲りないんですね 神界、霊界、幽界、肉体界主
建設的かつ客観的に納得できる内容で教えて下さい、お願いします >>66さん
悟りが起こったあとは世界や他者を変えたい、救いたいという欲望を持たないので
あなたが思っているようなことは難しいのではないかと思います。
彼らが他者にアドヴァイスをするのはダルマ(法)的な側面からです。
悟り病の人は違います。
あと名選手が名監督ではないように
悟った人が教師として優秀はわけではありません。
>>69さん
それは単に数ある方法の一つということでしょう。
宗教的な論駁をするつもりはありませんが
座禅、マインドフルネスをしてなんらかの経験、体験があったが悟らない
もしくは数十年に渡る修行でも悟ることができない人もいるので
いろいろな探求があるのではないでしょうか?
また過去の覚者、現代の教師については
出家等の理想的な環境、生前カルマによる影響があるので
座ればいい、マインドフルネスをすれば良いだけではない人がいるのも事実です。
「今にある」ことを妨げる要素として
マインドを過去や未来に走らせ、過活動、欲望を追求する心の潜在的傾向
人としてのアイデンティティを維持させる信念体系
これらに対処する手段が有効なのは事実です。 道も答えも一つじゃないからねぇ。
自分なりに仮説を立てて、自分の生き様で証明を試み、気付いた事、発見した事を積み上げるしかないと思うんだ。
先人が残してくれた記録は、ある人の人生をかけて発見した気付きではあるが、それがどれ程の偉人の記録であっても、一人の人の意見だし、その記録を熟読したって教科書を読むのと同じ。
教科書を完璧に記憶したとして、社会に出ていざ実践の段階で、知識だけでは役に立たない体験を誰しも体験済みと思う。
またどんな素晴らしい気付きを得たとしても、それを開示し共通の興味ある人たちが自由に推敲したり、添削したり出来る環境でないと、あまり発展性がありません。
体験から得た色んな気付きの種を様々な人が蒔いていれば、それを基に誰かがさらに発展した先の事象に気付いて学問が進むかもしれない。
一人の気付きなんて、知識の種に過ぎないのだから。 >>76
あえて言えば伝統的な一部の仏教、ヒンドゥー教はその答えです。
多くの人によって実証されてきたアイディアの結晶はすでにあります。
まあでも私は強制しませんし
探求初期は現代社会によって汚染された心が、怠惰、即時性を求める傾向にあるので
エゴを犠牲にする伝統的な教えはあまり尊重されません。 レスありがとうございます。
それなりに書物は読んでますし、これからも興味と直観が働いた本は読むでしょうが、社会生活をしながら探究出来れば…とは思っています。
昔の人達が出家して、同志達で共同生活しながら探究をしたのは理にかなった制度とつくづく思います。
意識が拡がってくると、どうしても重なって影響されますし。
人が密集して聴きたくもない話を聞かされる場面=朝礼の時の人々の不快な負のエネルギーの対処方法が今のテーマかなぁ。
遥か手前の俗な問題に取り組み中です。 エドガー・ケイシーですか。
面白そうなので書店を漁ってきます。
ありがとう。 >>75
いや、悟りによって執着をしなくなるのであって欲がなくなるわけではない >>81さん
確かに欲がなくならないというのは事実です。
もちろん無知から生じていた欲望は終わるので
もう少し分析が必要ですが、大雑把な言い方をするのであればその通りです。
ただ>>75が意味することは
彼は世界を今までの個々人が存在するという観点から
分割することのできない全体の現れと見なします。
そしてその点からは問題はありません。
(もちろん困っている人を見ても助けないというわけではありません)
だからここにクリスチャンがいたら申し訳ないのですが
ある伝統に沿った基準では、その人が世界は救いを必要としていると考えるなら
他者から見て、悟ったあとにイエスのような行動をとるのであれば
その人は理解がまだ完全でないことを暗示するということです。
繰り返しになりますが、それとは別に伝統や個人ダルマなどで活動する人もいます。 イエスは神に祈ってたってことは、まだ覚醒してなかったってこと?
ノンデュアリティの覚醒者は自分と神は1つと理解するらしいから。
自分が神なのに神に祈るわけないよね 一人の気付きなんて、知識の種に過ぎないのだから。
そのとうりだと思います。
自身が携わり関わっている部分 部門から
一事は万事
自身から発する波紋
周りに影響 波及 あなたの考え思いを
あなたの考えたとおりにする
やってみよ 桜が見ている
観察
空気空間
君の周り
何を吸って生きている
知れ そなたは頭が高いぞ
天狗ぞ
その鼻曲げて自分のにおいを嗅いでみるがよい エドガー・ケイシー買ってきた。
元々似たような考え方になってたので、非常に楽しく読めました。
カルマに関する考えが深まったかな。
子供時代
『カルマは前世の悪事の懲罰である』
??『その人生は懲役刑のようなもの』
ちょっと前
『カルマは復讐の法則である』
??『自分にボールが有る時に、赦す事で復讐の輪を断ち切り終わらせる事が出来る』
今
『カルマはかつての無理解を、今、体験しているのだ』
??『口で言って(理論で)理解できないから、体で理解させられている』
どんな事も、例え愚かに映る事も、人は必要があって敢えてそれをやっている。
(可能ならば)助けたり、支えたりたりが理想。
逆に追い込むような無知な行いをすれば、後にその必要性を体で学習する話。
この仮説で振り返ると、過去の苦悩がほぼ説明付いた。
相手の立場、必要性を洞察して、理解ある振る舞いが出来る限りは、例え手を差し伸べなくてもカルマにはならないのかもね。 矢印が?になってしまた。
まぁ、迷っているから間違えてないか。 全ての人は悟れど
人にあらざるものは悟ることなく
闇で蠢くばかり スレ違いですがガンダムの考察
ニュータイプはそれだけなら大したことないですが
サイコミュと組み合わすとコロニーレーザーを止めたりアクシズの落下を止めたりすごい効果を発揮します
でもガンダムF91の時代にはサイコミュは使われなくなりました
理由は唯一神を証明してしまったからじゃないでしょうか?
結局人にすぎないアムロでは隕石は止められないです
スーパーサイヤ人でもなければ不可能です
考えてください
自分に無限の精神力があり
物理に具現化するサイコミュもあり
今こそ自分しか救えない
その場合神ならどうするか?
F91の時代の前に人間は唯一神がいることを証明してしまったのではないでしょうか
ふつうに考えればそんなものは化け物としてしか受け止められません
何を考えてるのか?
行動指針は?
そもそも味方なのか?
人間わからないものは恐怖します
ではどうすればいいか?
結局人類はサイコミュ全てを禁止するしかしかたがなかったのでしょう・・・ 唯物論がなかったらな
これのせいで超能力の科学開発は大幅に遅れる
科学が科学の発展を押さえるのか・・・ 霊能者とかスピリチュアルな人間は霊的に程度が高いという考えが、現代の社会を混乱させているようです。
実際はそうとは言えないのです。ある神仏の熱烈な信者になったからといって、
それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それがすべてのカギです。
ブログを開設し、スピリチュアル本から剽窃した知識をならべて威張っている霊能者よりも、
経営者や経済学者、物理学者、芸術家といった、霊能とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いというケースがいくらもあるのです。
問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。
ヒーリングや金運セミナーなどと称して多額の金銭をむしり取る行為は霊格が低い証明なのです。 霊能者は常にハイヤーセルフと繋がってるわけだから当然この世での学びは捗る
一般人とは比べ物にならないほど今生で霊格が上がっていく ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています