真我とか人は神という感覚がわかりかけてきた気がする。
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なんとなくだけど、世界はすべてわたしのような感覚がわかりかけてきたような気がする。 宇宙はわたしの中にすべてあるような感覚がたまにする。
仕事したり出かけていても、自分は1ミリも動いていないことが感じられるような気がする。 目をつむり誰かに心を向ければ、その人の心境が感じ取れる。
なぜこんなことができるのか、たぶん魂は1つで、
自分の中にその誰かも存在していて、というかその誰かも自分だから。 わたしは神ということがなんとなくわかる。
わたしというのはこの肉体やこの思考やこの感情じゃない気がする。
それらは脳が作り出した錯覚の自己像だとおもう。
本当のわたしはもっと大きい、それこそ宇宙レベルに大きいような感覚がする。
そしてそれが神であるということもなんとなくわかる。
内在神とか仏性とか言われるものの正体はこういうことなんだと思う。 わたしだけが神なのか?
いやそうじゃない。すべての人が神である。
これも正しくない。
すべての人がただ一つのものである。それが神と言われるものである。
この宇宙には色々様々なものが存在するように見えるけど、
ほんとは1つのものしか存在しない。それがわたしやあなたを含めた神と言われるものそれのみ。 わたしがだれかを意識すると、一瞬でその人の所までとんでいける。
これは霊視と言われるものだろう。霊もそのようにして移動するのだろう。
わたしの内面は時間とか距離が必要ない。
というか存在しない。
すべてがこの瞬間に存在している。
久遠の過去の出来事から、未来まですべて、わたしの中にあるということ。 わたしはすべてであり神ということはそのような感じでわかりかけてきた。
でも動物的肉体に宿る以上、本能的なパーソナルスペースや縄張り意識とか
自己防衛本能みたいなものはある。
でもそれはしかたないことだとおもう。
肉体に宿る以上食って寝なきゃならないように、それらの本能もどうしようもできない。
でも、心を静めたりふとした瞬間に、わたしはすべてであるという感覚が起こってくる。
この感覚はすべての存在との繋がり、繋がりというより、ありのまま、
それ以上でもそれ以下でもない、そのままですべてが完璧で完成されてるという感覚。 わたしはもともと完璧であり、完成されたものだった。
じゃあこの肉体のこの人物の私は完璧か?いいえ、完璧じゃない、不完全な存在。
でも、わたしは完璧なんです。今現在すでに完璧なんです。
人物としての私は完璧じゃありませんが、
ほんとうのわたしは完璧のように感じるんです。不思議なんですが。
わたしは神ということなので、神は完璧ということです。 このわたしは宇宙すべてで神のようであるという感覚は、
とても感覚的なものなので考えたり知識を得ることで理解できるようなものではないと思います。
この感覚は、直観のようなインスピレーションのような心から感じられるような感覚。
車を運転中にふと、布団で横になってるときにふと、仕事中にふと、
そのような感覚が起こってくるんです。 目を閉じて、ハートに意識を向けます。
するとハートが温かくなってきます。
そこは愛を感じ取る場所なので、もし誰かがあなたに愛を送れば、
その瞬間ハートが温かくなるのをリアルタイムで感じ取れます。
あの人があの人に抱いてる愛の心境も、意識を向けることであなたのハートで感じることもできます。
あなたのハートは宇宙の愛すべてです。 あなたの第三の目に意識を向けてください。
そこは宇宙すべての叡智が詰まっています。
あなたが第三の目に意識するとき、宇宙のすべては自分に存在することを知ります。
あなたは自分の内部に宇宙すべてを感じるようになります。
そのときから、あなたは一個の動物的人間とは別の、
神としての自覚が芽生えます。 あなたとわたしと神、それら実は同じものです。
同じものなのにどうして別のもののように思うのか。
それは今現在、肉体に宿ってるからです。
別々の肉体に宿ってるから、同じことに気づけなくなってるんです。
宿ってるけど、わたしのようにうすうす気づいてくる人もいます。
内的世界を探求するようになると、気づいてきます。
それまでほとんどの人は気がつかないまま、
自分と他人は別物で、遠くにいると想像する神仏に向かって祈ろうとします。
それは彼らが我々は同じ1つのものということに気づいてないことからくる錯覚です。 もし相手と仲良くやりたいのなら、外側にいる相手と仲良くなろうとせず、
自分の内側に感じられる相手と仲良くしてください。
もし神仏に願い事があるなら、神社仏閣へ行き外側の神に祈るのではなく、
自分の内側の神仏に祈ってみてください。
すべて叶います。すべてうまくいきます。
なぜならあなたの内部にしかその相手も神仏もいないからです。
というよりあなたそのものが、その相手であり神仏ですから。
なので自分の内側に働きかけるとうまくいき、外側の世界も変わりますよということです。
引き寄せの法則というのは実はこういうことだったんです。 物質世界の物理法則、自然界の自然法則、
宇宙の宇宙法則、それらすべてわたしです。あなたです。
あなたの内部にその法則すべてが存在してるわけです。
それに気づいた人が、超能力や霊能力、引き寄せの法則などを駆使することができるようになりました。 なぜ内的世界を探求する者が、そのような不思議な能力を使えるようになるかというと、
内的世界を探求することで、
自分の内部にはその法則が内在されてることに気づくようになるからです。
ほんとは内在されるというよりは、その法則も神であるあなた自身というほうが正確です。 ここまでを読んでいただければ、
自分は神であると自覚するのに、なぜ傲慢にならないかその感覚がわかると思います。
自分は神だと言うと、人は傲慢に捉えますが、そうじゃないことは読んでもらえればわかります。 この大いなる意識の感覚こそ、
キリストやブッダはじめ賢者や聖者が感覚として感じてきた感覚なのだと思います。
キリストはこの感覚を、あなたは神の子なんですよ、と言いましたし、
ブッダは、人間には仏が内在されてると言ったんだと思います。 キリストやブッダをはじめ、内的世界の探求者はなぜボロ服一枚しか持たなかったのか。
それは、他の物が羨ましくないからです。
なぜなら、すべては自分のものであるということを知っているからです。
すべてのものが自分であり自分のものであるのに、何を得るというのか、というそんな心境でしょう。 自分は確かに神の一部でもあるけど同時に別々でもあると考えてます
例えば自動車が全体でタイヤは一部です
でもタイヤは自動車の一部だし別々のものでもあります
(タイヤがなかったら自動車は走れない)
個人的には人間全員皆神の一部で特別な存在と見てます
自分だけが特別でもなく自分以外が無価値でもなく
(誰が欠けても神は不完全になりますね) 自我とはこの思考、感情、性格、そのような、脳によって生み出される
肉体的な自己像ということです。
自分はこういう考え方をしていて、こういう性格で、こういうタイプの人間です、
というそれが自我。
真我とは、わたしという意識そのもの、です。
たとえば瞑想で思考が完全に止まります、感情も完全に止まります。
その瞬間、自分の性格や感情や性別まで感じなくなるかもしれません。
なのにわたしという意識だけは存在し続けてることに気づきます。
それが真我です。
なので、真我はあなたが自分は自我だと思ってる間にも、存在し続けています。 病人がまた現れた。
妄想にも、意味のない妄想と
妄想によって、自己意識の人格形成に役立つものがある。 他者への感情を通じてしか、自己認識するしかない。
このため、自己意識によって、自己を判断することできない。 これがわたしってどうして思うのだろう。
目の前に愛車がある。これはわたしのものとどうしてわかる?
その車を売った1秒前と1秒後では、すでにわたしのものではないのに、
その車自体は何一つ変わってない。
そもそもわたしのものなど存在しないのではないか?
この家も服もその頭髪や身体さえ、ほんとにあなたのものなのか?
ほんとはあなたのものじゃないのかも。
じゃあわたしって誰、何?あなたってなんの物なの?
そう考えていくと、わたしの正体が見えてくる。
わたしというのは、意識。世界を認識する意識、それのみ。
その意識が、これこれを自分、これこれを自分のものと、勝手に認識してるだけ。 あなたは、その身体や性格や感情を自分だと思ってる。
あなたは、その家や車や服やバッグを自分のものだと思ってる。
でもそれは錯覚にすぎない。
ほんとのあなたはそれらじゃない。
ほんとのあなたは、あなたが見る世界すべて、それらすべてがあなた。
もしあなたが、庭に生えてる木を認識したとする。
それはつまり自分の中に木があるからこそ、認識できたということ。
もし自分の中に木が存在しなければ、木を認識することはできないから。
ということは、木はあなたである、といえる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています