さて、この「法の書」の教えとは一体どのようなものなのであろうか?
 「法の書」は、オカルティズムの奥義書の殆どがそうであるように、象徴と寓意の塊で、そのまま読んでみても、意味不明のアホダラ経である。
 クロウリー自身も、解釈は難解であり、「よく理解できない部分もある」と認めてるほどのものなのだ。
 しかし、その思想は、以下のようなものであるという。

・キリスト教に代表される、人間が神に従うだけの「奴隷の宗教」の時代は終わり、人間自身が神と化す宗教の時代が始まる。

・人間は自己に内在する「真の意志」を発見し、それに従って生きなければならない。

 有名な「法の書」の一節、「汝の意志するところをなせ、それが法の全てとならん」は、決して「好き勝手に生きよ」という意味ではない。自分の心の中に隠されている「真の意志」を発見し、それに従って生きる」ということである。
 すなわち、人間の心の中には、誰もが「神性のかけら」を含んでいる。仏教で言うところの「仏性」である。
 しかし、たいていの人間は、この「神性」は、大量の煩悩の奥底に沈み隠れており、それが現れることはない。そこで、修行者は、なんとかしてこの「神性」とコンタクトをとり、それを引き出さなければならない。
 この「神性」とコンタクトし、引き出すことこそ、「守護天使との会話」であり「神との合一」のことなのである。

 すなわち、「真の意志」を発見し、それに従い生きることにより、人間は神と化す。
 そういう宗教こそが、キリスト教のような「奴隷の宗教」と取って代らねばならぬ。
 それが、「法の書」の思想であり、この人間自身を神と化すための新宗教として、「テレーマ教」を創始したわけである。。

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