「人に騙された!」と思う時、騙した方が悪いという説と騙された自分が悪いという両方の捉え方が出来ると思います。そしてスピリチュアル的な立ち位置は当然後者、“騙された方が悪い”という立場をとるのですね。
何故ならスピリチュアルの要諦は“目の前で展開される現実は全て創造主たる自分が現実化している”というものだからです。
もしも前者の騙した方が悪いという説を取ると相手に責任を取らせようと思い立ちますが、この場合は主権が相手に移行してしまいます。
つまり相手が「そんなの知らね〜。俺は騙したつもりなんてないもん」とシラを切ってしまうといつまでもそのモヤモヤの中で苦しまなければなりません。

それがいわゆる“業”、恨みつらみや執念、執着といった三次元特有の出口の見えない想念に縛りつけられて自らを不自由にしていきます。
でも騙された自分が悪かったと思うことが出来ると、主権は現実を創造した自分の手に収まります。
人を騙すような相手に何かを依存して期待してしまった自分の盲目性はどこに起因しているのか、内面を深く辿っていくことも出来るでしょう。
そのような自己探求の訓練が続いていくと、“明晰性”というものが宿って簡単には人に騙されなくなるでしょう。

続く