【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 瞑想マスターさんのおかげでとうとう悟りました!
ありがとうございました! >>899
体験するのは容易じゃないし感動も凄いから、
コツ掴んだら皆んなに言って周りたくなるのも
絶対的な自信持っちゃうのもわかる
>>891
瞑想マスターさんにはこういう考え方もあるとだけ
ちょっと目を通してみてほしい
スマさんは口の悪さはあるけど大目に見て
http://umakoshi.hatenablog.com/entry/20170105/1483646279 >>901
禅定は数回あるかないかの神秘体験のようなものだが、
わたしの真我瞑想は毎回その幸福感に入る。
瞑想で無になったところにわたしを念じれば、内側から愛や安らぎや温かさが湧き出てくる。
禅定の神秘体験とはまた別だとおもう。
泣いている子供が布団にくるまり、自らを癒そうとしてるとき
内側から温かい安心感のような平和で安らぎのような気持ちが湧いてくる、
あのような感覚で毎回必ず湧いてくる。
真我を意識する瞑想は必ずそうなる。
真我を意識しない瞑想はそうならない。ただ無になるだけ。
ただ無になるだけの瞑想は、瞑想を終えると心にぽっかり穴が空いたような清々しさを感じる。
真我から愛が湧き出る瞑想をすると、瞑想を終えると胸が温かくなり
全身がエネルギーに包まれたような幸福感で満たされる。 うん、知ってる
それは半年も続けば良いほうだろう
いずれ消えるよ 泣いてる子供が自らの内にある真我で癒されるとき、
座禅組んで背筋伸ばしてマントラ唱えるか?
そんなことしなくても真我はそこにある。
テレビ見てる状態でも、車運転してても、何してても、
自らの内を意識するだけで、真我は開かれ、
そこから無限のエネルギーが湧いてくる。
それは愛であり、安らぎであり、自信や信頼であり、勇気であり、
温かさであり、光であり、希望。 ニューソート系かな
日本だと生長の家
最高の人生を創る瞑想方法 ―神想観―
http://seinenkai.jp.seicho-no-ie.org/shinsokan-meditation
念ずることば
吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る。此処がこのまま実相の世界である。
神の無限の知恵の海、神の無限の知恵の海、神の無限の知恵の海・・
神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、神の無限の愛の海・・
神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、神の無限の生命の海・・
神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、神の無限の供給の海・・
神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海・・
神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、神の無限の調和の海・・
この大調和の実相の世界にいて吾れ神の子として神より
無限の生かす力の供給を受うけつつあるのである。
神の無限の生かす力自分の中に流れ入る流れ入る流れ入る・・・・。
満たされている。生かされている。満たされている。生かされている。
ありがとうございます、ありがとうございます・・・・。
もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり。
(以下順次繰り返す) 未だ有身見でしかないのだから悟ってはいないな
マハルシほかの聖者が開いた悟りではないよ
「わたし」を念じてそれで満足しているうちは
あと、禅定がほんの数回というのはブログ主が仏道修行者ではなく西洋哲学の
人だからだろうな
何回でも入れるよ 無になる瞑想ではただ無になるわけではない
今のレベルで無と感じていてもそれより深いところは有であることが観える
それを何階層か観ていかなければ悟れない
「わたし」を念じて反応があるならば
その「わたし」は誰なのかを探求しなければならない
それは、今はまだ「無」と認識している領域の事になる
まだまだ瞑想の入り口じゃのうw マインドフルネスからの禅定には何度でも入れるし
喜悦感、軽楽感、楽感、いずれも強力に感じる
しかしそれも捨てる
なぜなら、それは苦の裏表でしかないからだ
楽あれば苦ありということ
その喜や楽は本当の幸せでも悟りでもない
しかし、自分で抜けられるのであれば多少はその感覚を楽しんでもいい
今の瞑想マスターは深酒をしてるようなものだと考えればいい
抜けられないと、その喜悦、楽が強いほどやってくる苦は大きく感じられる
強烈な自己陶酔の後は強烈な自己嫌悪に陥ることになる
喜悦が生じた時、少し勘のいい凡夫なら悟りとは中庸であるはずだと考える
勘の悪い凡夫はその強力な喜び楽の感覚を悟りと勘違いする
「そんな脅しに乗るものか!」と一度今の喜び楽しみ安らぎに身を委ねてみるのもいいだろう
それが無くなって苦しみが生じた時はこの一連のやりとりを思い出して立ち直るといい 私は、お釈迦様の冷静で頭良すぎる様子を悟りだとおもってたから、
自分が禅定体験しても「これは悟りじゃない」と思えたな。
逆に、「こんな体験があるなら悟りも本当にあるはずだ!」って思った。
ただ、お釈迦様がすごく鬱っぽくて寂しそうなイメージがあったから、
「お釈迦様もこれを体験してればあんなに寂しそうな人じゃなくなれたのに」とか思ってた。
あとで色々調べて、お釈迦様もあれを体験して「これは悟りじゃない」と思ったようだと知り、
余計なお世話と身の程ということも知りました。 余計なお世話だろうかね、、、
瞑想マスターは元来は自信のない人だっただろうと思うんだよな あ、余計なお世話っていうのは、私のお釈迦様への心配のこと。
逆に、瞑想マスターさんが本当に善かれと思って啓蒙してるんだろうことがよくわかるw 解脱したらその時完全に自分でわかりますよ。
それがないならまだ解脱には到っていないということです。 >>900
どういった方法、流れで悟りに至ったか聞かせてください。 思考はすべてのネガティヴな想念を生む。
そしてポジティブな想念も生むが、それはネガティヴと同類なのでけして幸せにはならない。
恐れ、不安、嫉妬、罪悪感、弱さ、怒り、敵意、攻撃性、臆病、
邪悪、意地汚さ、傲慢、ずる賢さ、性格の悪さ、
それらすべては思考から生まれる。
思考を静めれば、それらの活動がストップする。
それらが存在しない内的世界には、とてつもない安らぎと平和と愛と癒しと調和の心が自分の中に存在してることに気付く。それのみが存在することに気付く。
それらは元々ハートあたりに存在していたのだが、思考の活動によって生まれるネガティブなもので見えなくなっていただけ。
なので思考を静めれば、その真我の神の心が見えて感じてくるので、
ちゃんと瞑想ができると、瞑想後はまるで仏様になったかのような平和で慈悲で調和で癒しで愛の心になる。
もしそういう心にならないとすると瞑想の仕方が間違ってるということなので見直したほうがいい。
日常においてもなるべく思考は活動させないほうがいい。
そのため過度な刺激のある映像は避け、つとめて内面の静寂の真我を意識することが大切になる。
瞑想は座禅なんて組まなくていい。背筋も伸ばす必要ない。
ただ重要なのはリラックスできている体勢ということ。
座禅で背筋伸ばすととてもじゃないがリラックスできない。これでは正しい瞑想が逆にできないということにほとんどの瞑想者は気付いていない。
それよりもリクライニングチェアで背もたれに寄りかかりながら瞑想したほうが、100倍真我の心を開ける。 ちなみに瞑想マスターのおれはソファーに持たれて足組みながらとか
ほおづえ付きながら瞑想もする。もちろん猫背で背もたれにもたれて。
瞑想に姿勢など関係ない。
瞑想音楽を流す必要もないし、お香もたく必要ない。
それらはすべて外的な物で、外的な物に意味はない。
目的は思考を静めることだから、思考さえ静まればどんな状態でもどんな体勢でも構わない。
そういう体勢とかやり方にこだわると、とたんに瞑想が辛いものになる。だから続かない。
瞑想はもっと気楽で、テレビみながら、ふと思考を静めて真我を感じてみたり、
車運転しながら思考静めたり、そういう柔軟に瞑想はできる そんなあなたには公衆トイレで瞑想することをおすすめするよ。 >>916
色々教えてほしいから、マスターのスレ建ててほしい
ここはマインドフルネスのスレだから、住み分けって大事 つまりね、
>目的は思考を静めることだから、思考さえ静まればどんな状態でもどんな体勢でも構わない。
>そういう体勢とかやり方にこだわると、とたんに瞑想が辛いものになる。
>それらはすべて外的な物で、外的な物に意味はない。
>瞑想に姿勢など関係ない。
と、言ってるわけだけど…、この人は安楽な姿勢に拘ってるわけ。
形に捉われるなと言いながら、安楽な形に捉われてる。
それはどういうことかというと、少しでも瞑想しにくい状況が出てくると、
途端に瞑想が崩れることを意味してる。
環境によって瞑想が崩れるというのは、真の瞑想じゃないわけ。
>そしてポジティブな想念も生むが、それはネガティヴと同類なのでけして幸せにはならない。
このポジティブとネガティブを越えるというのならなお更、環境が良いとか悪いとか、姿勢がやりにくいとか、やりやすいとか、
そういうことに捉われちゃいけない。
どこでも、どんな姿勢でも、瞑想が出来なきゃいけないわけ。
よく見ると言ってることが矛盾してるのよ。 自分がどういう人間かということを忘れてください。
自分はこういう性格でこういうクセがあってこういう人物像だろうという思考を捨てるんです。
しかし瞑想中もその凝り固まった自我は思考から消えることなく、
純粋な意識というものを感じられずにいる。
そのときは、脳で考えている自分の性格や短所というものを、瞑想中に観察してみる。
ジーッと見つめるようにその思考を観察してみる。
するとその自我の思考は次第に静かになり、残るのは観察しているその意識のみ。
純粋な意識のみが残る。
そのとき瞑想中には、自分が誰かさえわからなくなる。
性格や人間性そして性別やもっといけば人間かどうかさえわからなくなる。
純粋なる意識そのものになる。それが真我の意識。
その純粋な意識の中には、安らぎと愛と調和のみが存在する。
人とは元々そういう存在だったんです。純粋な意識そのもの、つまり神だったんです。
それが肉体をまとい汚れた人間生活によって間違った自分像というものを思考によって出現させ、それを妄信して生きている状態なので、それは苦しいです。
例えていうなら、自分がゴキブリやドブネズミと思いながら生きてるようなもの。
でも本来のあなたは神なんです。そのゴキブリだと思ってる自分の思考を止めてください。
すると純粋なる意識が感じられます。それが本当のあなたです。それが神の発見です。
内なる神はあなたです。その心には愛と安らぎと調和しか存在しません。
どうも瞑想マスターでした。 マインドフルネスやヴィパッサナー瞑想の短所として、
この純粋なる意識というものを焦点に当てないので、
自我が消えることがなかなか難しい。
どうしても思考を止めて無我になることだけを焦点にしてるので、
真我の純粋なる神の意識に目覚めることはほとんど無理といっていい。
真我に目覚めるには、この自分という自我を見ている自分の意識というものに焦点を当てる必要がある。
意識が意識されたとき、意識に光が当たったとき、その意識は覚醒し、自分は神の意識であると知る。
なので意識を意識しない瞑想はリラックスの手段でしかない。
しかしマインドフルネスやヴィパッサナー瞑想でも、それに気付いている意識を意識したとたん、覚醒する。
真我瞑想となる。
例えばマインドフルネスで今聞こえてる音や感覚に気付いてる、
ただ気付いてるだけじゃなく、その気付いている自分の意識を意識してみる。
この感じているのは誰か?とたずねる。感じてるのはわたしだ、と言う。
そのわたしの意識を感じるんだ。
ヴィパッサナーでも同じふうにする。呼吸にあわせて膨らみ縮みとラベリングするだろう。
そのときこの膨らみ縮みを感じてるのは誰か?と観察してみる。
思考が静まり自我が消えてるのに、意識はある。この意識を感じるんだ。
これが覚醒方法。これをすると誰でも簡単に覚醒できる。数ヶ月で。
でもしないと、ほとんどの宗教の修行僧のように一生を悟れないまま終わる。
なぜならこの方法を知らないから。間違った方法でやってきたから。
正しい方法を知れば、あとは簡単。純粋なる自分の意識を感じればいいだけ。
瞑想中も、日常生活中も、四六時中この意識を感じ続けるようにすればいい。 自分はこういう名前のこういう容姿のこういう性格のこういう人間なんだという思い込みがなくなり、
自分は意識だったんだ。
純粋な意識そのものだったんだ。
その意識は神の意識だったんだ。
と理解する日が来たとき、あなたは覚醒し悟りを開きます。
それまで辛抱強く、そして楽しみながら、霊的な道を歩んでいきましょう。 > ヴィパッサナーでも同じふうにする。呼吸にあわせて膨らみ縮みとラベリングするだろう。
しないよw
誰がそのメソッドを推奨しているかな?
いつまで藁人形叩いているんだ? >>915
幸せも不幸の裏表だから意味がないと思ってたけど別物と考えていいんですかね?
何も感じない、だから不安もないけど安らぎもない、そういうことかと思ってました。
安らぎや心の平安がたどり着いた先で得られると思うと救いがあります。 >>931
それは仏道修行者がよくする誤解である。
ブッダの説いた中道に原因があるのだろう。
思考から生じるネガティブなものは、不安、怒り、焦り、嫉妬、などの悪感情。
そして思考から生じるポジティブな感情もある。
やる気、熱意、バイタリティ、強さ、快楽、愛欲、
それらも思考から生じるが、けしてネガティブなものじゃない。
だけどネガティブとポジティブは表裏一体なので、
それらもいずれは苦しみが生じる。
やる気があればやる気がなくなるとしぼむし、快楽も愛欲も、無くなれば渇望になり苦しくなる。
ブッダはそのように言ったのだろうと思う。思考から生じるものに幸せはない。
本当の幸せは、それらの思考を静めたときにハートあたりに静かに感覚として感じられる。
静かなおおらかな安らぎの気持ち、すべてを優しく包み込むような慈愛の気持ち、
すべてが満たされているような満足感と幸福感。
それらはけして消えることがない。なぜならこの真我はあなたの魂が存在したときから永遠に存在してるのだから。
この心境で生きることが本当の幸せであり幸福であり、感謝と愛の気持ちをもって生きることができる。
そしてまた思考が働き自我が動き出すと、自我のポジティブネガティブな感情によって
それらの真我の性質はモヤで見えなくなってしまう。 内観すればモヤモヤなどか晴れるというのは、別に真我と関係がないんだ
僕らのやってるヴィパッサナー(マインドフルネス)とはそういうものだから
釈迦の教えでもある
もちろん真我とか「わたし」なんて念じない 真我の愛や安らぎや調和のエネルギーはけして枯れることがない。
この感覚が失われるときは、思考が活動し感情の荒波にかき消されてしまっているから。
真我のこの愛や安らぎは無限に永遠にあなたの内から湧き出ている。
あなたが思考を静め自分の内に向かうとき、真我はいつでもあなたの心にあることに気付くだろう。
よく瞑想や心を海の波や深海や湖面に例えるが、そんなもの。
感情で波立っていると、真我の心が見えなくなってしまう。
思考を静めて感情が消えると、真我の心が見えてきて、
慈愛、安らぎ、調和、幸福感、静かな自信、そういう真我の心が湧き出てくる。 >>934
モヤモヤが晴れるのは、思考活動が停止し内面がスッキリしたからだろう。
でもそれだけでは、内面が清らかな空白感のような状態の瞑想で終わってしまう。
その先がある。
真我に到達することで、無限に愛や安らぎや調和が湧いてくる。
そこまでいくのが本当の瞑想。 歳を取ると人は丸くなって性格が温厚で柔和で優しくなるだろう。
その理由は老化によって思考活動が弱まることで、
思考が静まり、それによって真我の心が開いてくるからなんだ。瞑想と原理は同じ。
子供や思春期は一番思考活動が盛んだから、凶暴で動物的で感情的でずる賢かったりするだろう。
そして心には愛とか優しさとかあまりない。無邪気な純粋性のみがある。
動物のような純粋性。でも純粋性と真我は違う。
純粋はもちろんいい事だけど、それはまだけがれを知らないというだけで、
それが神の性質かといったらそうじゃない。
神は純粋なもの、そして不純なもの、その両方が含まれる。
なので人が神になるには、動物や子供のままではいけない。
様々な経験をし、沢山の前世を経験し、すべての経験をし終えて、
最終的に汚れを落としていき、最後は真我のみの心になる。
そのときその人は、子供のような純粋性を持ちながら、すべてのものを知っている者となる。
それが神への道。人が初めての転生から最後の転生、輪廻を終えるまでの道のり。
もし今生で瞑想に明け暮れているなら、彼らはもう汚れを落として純粋になる最後の段階なのだろうとおもう。 >>936
マスターがやってるのってここの有分心を見ていく瞑想じゃないの?
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
神秘体験したっていうとブッ飛ばされる禅宗とは違って、
原始仏教では何度も繰り返し禅定状態に入れるように指導されてて、
そしてその後の道筋もはっきり示されてる。
マスターかなりコツ掴んでるみたいだから、
いっそスピリチュアルから仏教に転向してみては?
そして悟ってそのコツも教えてほしい。 瞑想マスターくんは都合よくチェリーピッキングして、
弱い敵を勝手に作り上げて、そいつの何がいけないという根拠も示さず
「俺が駄目だといってるから駄目」と強弁してるに過ぎないんだよなぁ
しかも、ラベリングやれなんて誰も言ってないし藁人形論法だし
そこまで詭弁をまくしたてるのもマインドフルネスが相当に気に入らないんだろう
どうぞ自分のブログかスレ立てて
そちらでやって下さい >>938
そこに真我を仮定する理由が全く無いんだよね
君はしきりと境地を語りたがるが、我々マインドフルネス勢からすれば
「各々が瞑想で確かめるべきこと」
なのであって、語る必要のないことなんだ
何故そんなに自らの境地を語りたがるのだろうか? 雑念に気付けば囚われないってのはわかるんだけど
その雑念に対し良し悪しの判定、ジャッジをしない
というのが難しいんだけどなんかコツないかな
一般的なマインドフルネス(ググれば出るような)って不要な雑念、ストレスを消し去る為、とかそういう所あるじゃない
その心がいかんのか あーやっぱジャッジしまくってる
しかもそのジャッジにジャッジしてはならんとは
瞑想の良し悪しジャッジもいかんのだよな?
難易度高すぎるぜ… >>943
それは最初は無理ですが、失敗してるということに気付いてるなら
それはそれで進んでいきますよ
まずはわーっと頭の中に浮かんでいる雑念が静まるところまで行くことです
これも最初からは難しかったでしょう?
これが安定して出来てきたら対象を観る(感じ取る)ことは出来るようになってきます
本当に「ありのまま評価なし」ではないにしても、対象があれば消えていくまで見届けることです
だんだんありのままに近づいてきます
それまで間(数週間〜数カ月かな?)に、喜悦感、軽楽感、などが出てきます
それらを捨てることで、ありのまま、評価せずの状態になります >>945
うおおマインドフル超集中!(なんだかわからないが幸せ)みたいになるのも落とし穴ですよねこれ
あれこれ考え込むのもどうかとおもうので極力考えない、今だけに集中、の二点に専念しようと思います 自分の頭の中にあるものを、ただ文章を連ねて人に押し付けるってのは
スレ的には良くないことなんだよな
妄想スレになっちゃう この社会は高度な煩悩で出来ている
それ故人々の苦しみも大きいのだな 瞑想マスターは好意的に解釈すれば、みんなに目的地の風景イメージを共有したい
ということだろうけれど まじで取り組むなら5chもやめた方がいいな
この何気ない書き込みも不必要な煩悩で出来ている 瞑想中、無になったとき誰かを思うとその人になった気分になる。
自分がその人になってしまったような気になる。
もしその無のときに、神を思うと神になったような気になるかな。
それが神意識というやつかも。
自分は神だったとこに気付くってそういうことなのかな。 それは邪見ですな
そもそも無ではないし、妄想でしかない >>942
自分が経験したと主張することって、誰にも論理的に証明する必要がないんだよな
ただ、愛を感じたとか、神の意識に合わせろとか、具体性のない話しを繰り返せば
自分が深淵な世界を知っている者として振る舞える
カルト宗教の教祖みたいなヤツは、ほとんどこの手法だろ
もし本当にわかってるのなら、上から目線で一方的に論拠のないようなことを吹聴しまくるんじゃなくて、
きちんと論理だてて、誰にでも納得できるように説明しないといけない
それが出来ないで教祖のように振る舞うんなら、よそでやれってことだ 瞑想のコツはすべての執着を捨てる。
瞑想はじめたら、色々雑念が浮かんでくる。
今日起きた事、明日のこと、心配事、気にしてること。
それらによって思考が働いてしまい、深い瞑想に入れなくなっている。
それらの思考によって気分が暗く重くなっている。
だから瞑想を始めたら、まずそれらの執着を一つ一つ捨てる作業をする。
現実は変わらないから、心の中で捨てていく。
それを放棄します。執着しません。と言いながら。一つ一つ手放していく。
そしてすべて捨て去ったとき、心は無限の解放感を感じ、
ハートから全身に安らぎと愛のエネルギーが広がっていく。
今まで感じた事ないような安らぎと愛の無限のオーラが肉体をこえて広がっていく。
それは真我の心が開かれたということ。
この安らぎの境地に達することこそ瞑想の醍醐味である。 宗教的な儀式、聖典、作法、それらが真我からあなたを遠ざける。
あなたは外にいる神仏を崇拝し、グルや教祖を指導者と仰ぎ、
聖典や仏典を神聖視し熟読し、それらの内容を自分の信念とし、
その宗教的な作法や儀式や瞑想法によって、神を求めようとする。
しかしそれらすべてが、あなたを神から遠ざける。
なぜならそれらすべてはあなたの思考活動によって信じられているのであって、
思考から神は発見することはできない。
神は思考をすべて捨てたところにいる。それはつまりそれらの宗教的なものを捨てたときに発見される。
あなたが宗教的な神への執着を捨てたとき、
宗教的な聖典への執着を捨てたとき、
宗教的な儀式への執着を捨てたとき、
あらゆる宗教的な信仰心を捨てたとき、
そして世俗のあらゆる執着を捨てたとき、
ようやく神は発見される。真我はあなたと一つになる。 わかりました!神聖なる瞑想マスターのレスを熟読しそれを自分の信念とします! あなたが善悪と信じてる事も捨てる。
宗教的に禁止とされてること。
社会的に法律違反とされてること。
または宗教敵に善とされてること。
社会的に良しとされてること。
それらの概念も捨てる。
もしあなたがスピリチュアルに生きていて、肉を食べないような信念を持つようにしていたり、
逆にある善行を徳のために自分に課している場合、
その信念も思考によって生まれるわけで、思考が働いてる以上神を発見することはできない。
それらの信念も捨て去ったとき、その自分の心に残るもの。それが神です。
神はこれはいい、これは悪いとは定義しない。
なぜならすべては神なのだから。神の心はすべての執着を捨てたときに、あなたの内に見えてくる。 >>954
あなたのレスは孤立しているんですよ。
何が愛が広がっていくですか。
自分が主張することばっかり考えていて、
人のこと考えてないじゃないですか。
もっと他人と調和したレスをしたらどうですか。
語ることの前に、まず行いを正しましょうよ。 神はただ在る。
あなたが精神的に成長しようと必死に山を登っているときも、
神はただそこに在る。
あなたが数百年走り続けようと、神は1ミリも動いていない。
必死に瞑想しようと、神に近づくため念仏を唱えようと、
神は1ミリも近づくことはないし、離れることはない。
神はすでにそこにある。あなたはすでに神と一つであったことを知る。
神であるあなたが、必死に瞑想して100年修行しても見つからない。
ただ自分に気付くとき、わたしは神というものだったことがわかる。
あなたは星空を見上げたとき、それすべてが自分であると知る。
人々を見たとき、それが自分であると知る。
あなたはすべてであって、あなたでないものなど一つも存在せず、
あなたは神と言われるものそのものだったことに気付く。
そこにはただ気づきがあるだけである。深い瞑想で発見されるようなものではない。
神は気づきだった。あなたが気づいてるその意識そのものだった。
それが真我である。それは大いなる愛と安らぎと調和の感覚である。 この神意識はどのように感じられるか。
自分の意識が届く範囲すべてが神の空気の中にいるような感じか。
その空気自体が自分でありもっと大きな何者かのもののような感じがする。
この意識はとても解放的で包括的ですべての思考が静まっていて、
安らかで愛にみたされ心地よい幸せな感覚がする。
これが真我の意識なのだろう あなたは自分が何者だと思っているだろうか?
日本人のこの両親の元に生まれたこういう名前のこういう性格の人間、
と思っているだろう。
神意識の自分は、自分のことをそのように考えない。
自分とは大いなる意識であり、それは愛と安らぎと調和という性質のものである。という感じ。
もちろん人間的な存在の自分というものも思考を働かせれば出現する。
思考を働かせればこの性格もクセも考え方も物の見方も出てくる。
でも現在は普段ほぼ思考が働いてない状態なので、
自分は意識であり愛と安らぎと調和という性質の存在、という感覚が感じられる。 悟ろうと神を発見しようと頑張ることをやめてください。
神はあらゆる努力や頑張りを放棄したところに存在します。
熱心に瞑想をしたところで神は発見できません。
神を発見することを諦めたときに。神は見つかります。
なのであらゆる願望を捨ててください。
あらゆる努力も捨ててください。
何かになろうともしないでください。
これは矛盾してるようですがそういうものなんです。
池にいる魚のようなものです。
必死に探そうとバチャバチャすると魚は逃げていってしまいます。
そっと覗き込むと魚は純粋にその姿をあらわします。
神もそういうものです。必死に探そうとすればするほど神は見えなくなります。
探すのを諦めたとき、神はその姿をあらわします。
なのでけして神を探そうと探求しないでください。
神はすでにそこにあるのです。
そこにあるものをそっと感じるだけでいいんです。 あなたが理想とする理想的人物になることを放棄してください。
人格者や善人になろうとしないでください。
思考によってこうなろうと思った人格はしょせん思考によって生まれた偽の人格ということを知ってください。
あなたの理想とするブッダやキリストや聖者の人格は、
彼らの自我が消え真我が目覚めたその真我の性質そのものです。
なのであなたがすることは、善良で慈悲深くあろうとすることでなく、
思考を静め自我を静めることだけでいいんです。
すると真我は自然と内からでてきて、その神のような性質をあらわします。
これが慈悲か、これが人類愛か、自分のように隣人を愛するとはこういうことか、
すべてがとても自然に理解できます。
なのであなたはそういう理想的人物に近づこうとせず、
自分の思考を静めることだけに専念すればいいんです。
思考が静まれば、あなたの動物的肉体に依存した性格も消えるので、
神なる性質そのものをあらわします。
その姿を鏡でみるとき、そこに仏様のような表情のあなたが写ります。 真我の状態とはどれほど幸福感のあるものか。
部屋で一人壁に向かって何もしてない状態でも、愛と安らぎで全身が満たされるほどです。
歩いてるとき、すわってるとき、横になってるとき、
何もしてないとき、24時間ずーっとこの幸福感に包まれています。
ハートから無限に湧き出てきてそれが全身に行き渡って、肉体数メートルまで広がっている感覚です。
なので楽しいことやワクワクすることがもう何やっても何も感じないんです。
逆に辛い事苦しいこともなにも感じません。
あるのは絶対的な安らぎと愛と幸福感のエネルギーのようなものに包まれた感覚。
不安や恐れなど存在しません。それらの真我のエネルギーで闇さえも消えてしまいます。
もう何もしたくないくらい怠惰になります。何か楽しいと言われてることをすること自体がめんどくさいんです。
今ここに存在してるだけで幸福感に満たされて頭がボーっとするほどですから。
この世のすべての快楽を合わせても、この幸福感にはかないません。
それほどまでに強烈なエネルギーです。
全身が神の愛につつまれたようなそれくらいの感覚です。 人の嫌がることはしないの。
宗教板に行きなさい。
善良で慈悲深く感謝して人のためにと社会に出て働きなさい。
いつまでも同じことを繰り返し言ってないで前に進みなさい。 【超悪質!盗聴盗撮・つきまとい嫌がらせ犯罪者の実名と住所を公開】
@高添・沼田(東京都葛飾区青戸6−26−6)
※盗聴盗撮・嫌がらせつきまとい犯罪者のリーダー的存在/犯罪組織の一員で様々な犯罪行為に手を染めている
老義父は息子の嫁の痴態をオカズに自慰行為をし毎晩狂ったように射精をしている/息子の嫁をいつもいやらしい目で見ているエロ老義父なのであった
A井口・千明(東京都葛飾区青戸6−23−16)
※犯罪首謀者高添・沼田の子分/いつも逆らえずに言いなりになっている金魚のフン/親子孫一族そろって低能
低学歴で醜いほどの学歴コンプレックスの塊/超変態で食糞愛好家である/醜悪で不気味な顔つきが特徴的である
B宇野壽倫(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202)
※色黒で醜く太っている醜悪黒豚宇野壽倫/低学歴で人間性が醜いだけでなく今後の人生でもう二度と女とセックスをすることができないほど容姿が醜悪である
異臭を流し込んでくるなどの嫌がらせを何度も繰り返ししつこく行ってくる嫌がらせ犯罪者である
C色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103)
※色川高志はyoutubeの視聴回数を勝手に短時間に何百何千時には何万回と増やしたり高評価・低評価の数字を一人でいくつも増やしたり減らしたりなどの
youtubeの正常な運営を脅かし信頼性を損なわせるような犯罪的業務妨害行為を行っています
※色川高志は現在、生活保護を不正に受給している犯罪者です/どんどん警察や役所に通報・密告してやってください
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111
D清水(東京都葛飾区青戸6−23−19)
※低学歴脱糞老女:清水婆婆 ☆☆低学歴脱糞老女・清水婆婆は高学歴家系を一方的に憎悪している☆☆
清水婆婆はコンプレックスの塊でとにかく底意地が悪い/醜悪な形相で嫌がらせを楽しんでいるまさに悪魔のような老婆である
E高橋(東京都葛飾区青戸6−23−23)
※高橋母は夫婦の夜の営み亀甲縛り食い込み緊縛プレイの最中に高橋親父にどさくさに紛れて首を絞められて殺されそうになったことがある
F長木義明(東京都葛飾区青戸6−23−20) 第三者視点から見るとあなた方のほうが、特定の人に執着しているように見える。 初心者もすっかり引いちゃったな、まだ見てるかな?
呼吸、数える、歩行、その他何でも良い
ゆっくりとその行為に没頭する練習を毎日続ければ思考は止まる
「わたし」である必要はないよ
それはいずれ捨てないとならないので、特別な意味を持たないもののほうがよい
ある程度思考が止まるようになったら、また来て下さい 質問した初心者が再度来るまで、長文マスターは放置しますかね しかし >>957−964 あたりは、結構いいこと言ってるんだよな。
初期のレスより良くなってきてる。
ただ、ハート云々ってのは気に入らんな。
しらべてみると、ハートから愛が、エネルギーが。。。と言ってるやつが
意外といるね。
そういうところからの受け売りをつぎはぎしてるのか、
もし実体験が少しでも入ってんのなら、スレから排除しようというのは
良くないんだけどな。
よく、そういうスピリチュアル的なことって、一度神秘的体験をしてから、
また元に戻っちゃうってこともある。
元に戻った場合は、その時の素晴らしい体験を語りたくなっちゃうんだよな。
体験はしてるんだけど、元に戻ってるから執着は強い、みたいな。。
現時点だはまだどっちか不明だな。 過去ログざっと読んでみた
「ここはマインドフルネスのスレだから、ヨガの話をしたい人はヨガのスレに行ってください」と言う人がいて苦笑いした
ヨガだって一つのマインドフルネスなんだけどね
表面しか見てない人がマインドフルネスを長文で語ってほしくないね >>957-964だって観念ばかりじゃないかなぁ
なにも捨てる必要ないよ
気付いて、見守ってりゃ十分だよ
消えるものは勝手に消えるから、「捨てろ」と説教したって意味がない
かえって囚われてしまう
長文君は全ての信念を捨てろと言ってるけど、「捨てる」という判断の中にもうジャッジが入ってる
「信念は幻想に過ぎない」という"信念"に引っかかってるから、ああいう矛盾を作っちゃうんだよね 正しくは、ヨガで終わるならマインドフルネスではない
かな
それは訂正するよ >>976
> ヨガで終わるならマインドフルネスではない
あなたはヨガをよく知った方がいいよ
ヨガはあなたが考えてるほど底が浅くない。
マインドフルネスという用語はアメリカの研究者がパーリ語のサティを翻訳したものだけど、まじで上辺だけの浅い訳語だと思う。
新語みたいなもんだな。
だから後の研究者や指導者の解釈もあり、今ではマインドフルネスの解釈にも幅があるけど、経験や感覚に注意を向ける点で概ね共通している >>975
なるほど、確かに放棄しろというのは違和感があるな。
結果的にそうなるんであって、出来ないうちに自分からやるもんじゃないからな。
マインドフルネスが進んで行くうちに自然にそうなるというんならわかるんだけど。 ヨガにとって「経験と感覚に注意を向ける−観照」は全ての出発点。
初歩中の初歩だ
>>976さんはラージャヨーガとジュニャーナ・ヨーガとタントラヨーガをよく研究したらいい。
タントラのアンタルマウナ行なんか、もろにマインドフルネスだ。
しかもヨーガにとって、それは初歩レベル。
ヨガの呼吸もポーズも瞑想も、思考・感覚・経験に意識を向ける観察が無かったら成功しない
ヨガで終わるなら?
あんまし無知を晒すと、スレ住民に笑われるよ
マインドフルネスで終わるなら・・・が正解だ >>973
私もハートを強調する必要性は感じない。
現世を豊かに心安らかに生きようという目的の中ではハートも大切だけど、マインドフルネスは全部を俯瞰してる状態だからね
気付いてる状態
ハートが無くても、愛が小さくても、心が穢れていても、全てに気付いてるのが観照だから。
まあ「結果的」にハートが満たされた状態は起こり得るけどね 観察はヴィパッサナー、サティは気づきなどと訳されてるんですが
サティはヨガではないよね
マインドフルネスとはサマタ、ヴィパッサナーといったヨガ的な瞑想に始まるが
釈迦の悟りがヨガを超えてる以上、マインドフルネスはヨガに終わらないもの
少なくとも仏教、マインドフルネスの立場からはそうだけどな
どうもヨガ優位的な考えの方は我々が捉えてるようなサティの実態を
ご存知ないのではないかと思う
だから「真我」を念じることはいずれ邪魔になるから捨てたほうが良いですよと言ってるんだ
「真我」を観察対象にして、見ていれば消えていく、でもいい
執着しないことを捨てると言ってるだけだから >>980
あなたは「観」と「止」を知識だけで捉えてるでしょ?
テーラワーダ仏教のヴィパッサナー実践者がよく勘違いする、盲点なんだよね
禅がヒントになるかも
座禅する瞑想的な行と日常生活での動禅は本来同じ。
サティは「気付いてる状態」。
日常生活でも瞑想中でも、ただ気付いてる状態。
でもあなたは「観」の概念に引っかかってるから、生活と瞑想を別々のように考えてる
「観」を深めるには「止」を深める必要があり、「止」を深めるには「観」を深める必要がある。
ヨーガはその全ての階梯を有している。
あなたのヨガに対する見解は断片的すぎる >>982
> 釈迦の悟りがヨガを超えてる以上、マインドフルネスはヨガに終わらないもの
あなたがヒンシュクを買った理由がよく分かるよ
マインドフルネスという概念は、仏教を断片的に切り取ったもの
ヨガを断片的に切り取ったもの
マインドフルネスというレベルで終わる限り、仏教の悟りに近付けないし、ヨガの悟りにも近づけない
そろそろ気付こうね
私はヨガ優位主義者じゃないよ
仏教が優位でもいいし、ヨガが優位でもいい。つーか「どうでもい話」だよ。
あなたこそ「どちらの方が優れているのか?」というつまらない欲念に執着してる
だからしつこく「ヨガで終わるなら」というフレーズを繰り返すわけだよ 瞑想の方法が被ってるのはわかった。
詳しい人、自分が気になるのは
ヨガで到達できる最高地点がお釈迦様にとっては
悟りとは思えなかったって点なんだけど、
その到達点の違いをわかりやすく
教えてもらうことってできる? 真我など仮定せずにも観察(ヴィパッサナー)は出来る
観察をしていけばサティが現れる
そこに意識を向けることは観察と同じ働きをするよ
しかし、そこで「わたし」などと念ずると瞑想マスターが言うようなことは起きる
全的な気付きからは遠ざかるが、やはりそれも消えてなくなる
よって真我にしがみつくのはマインドフルネスではないとわたしは言ってる
知識ではなく、やってみればわかることなんだがなぁ >>986
言葉が足りなかった
瞑想で観察をしていると、やがて日常的にサティが現れる >>986
ヨーガで説いている真我とは「観察者」のこと。
だから真我は求めるものではない
結果的に真我がただ現れる、というだった
時代背景も考えた方がいい
当時はバラモン信仰が根付いてたんで、真我や神々への信仰に囚われる行者が多かった
本来の真我は「しがみつくもの」「もとめるもの」ではない
単なる現れだし、全体的な統合 >>985
仏典だって釈迦が書いたものじゃないから、その判断は難しいなぁ。
釈迦牟尼の教えが後世で宗教化されると、「優位性」という我欲に引っかかる人が現れるし、「仏陀の悟りはヨーガを超えていた」という神話を創作する
個人的には、どうでも話だけどね。
ひとつのヒントになりえるのはラマナ・マハルシという覚者。
ジュニャーナ・ヨーガの成就者だけど、「彼の悟りはレベルが低い」と批判する人はそんなにいないでしょ?
つーか究極の覚者という呼び名も高い
けれど仏教とヨガは、真我の定義づけが異なるよね
仏教には縁起思想があるから、真我を認めない
でも不二一元論やラーマナ・マハルシが説いた真我は、個という枠じゃないんだ。
全体性を意味してるんだ
なので仏教のニルヴァーナと本質的に同じじゃないかと思う。私見だけどね。 >>988
その立場にわたしはかなり近い
大抵のマインドフルネスのメソッドはサマタとヴィパッサナー(もどき)が合わさったもの
そこから始めていくからね
ここの流れで言えば
ヴィパッサナー(もどき)がダメだ、ラベリングがダメだ、って言うけど
それはヨガ的、サマタ的なものなのだから否定することないじゃん?
と思うわけです
一方で真我については上に書いた通りだし
だから瞑想マスターはマインドフルネス(状態)の手前に居るというのがわたしの見解
それだけをとれば悪いことではないけど、あたかも悟ったんだとアピールするのは良くない
マインドフルネス=仏教の悟りはまだまだ先のこと >>989
そこは瞑想マスターの言っていたことへのわたしの意見ですから
瞑想マスターの説いてたこととずらして反論されても議論にはなりません >>992
それを言い訳と言うんだよね
あなたの話は、瞑想マスター話の枠に収まりきってなかったからね
「釈迦の悟りはヨガを超えている」
「マインドフルネスはヨガに終わらないもの」
「ヨガで終わるならマインドフルネスではない」
これが間違いだと言ってる。
あなたが本当に注意深くあるなら、「瞑想マスターさんの話で終わるならマインドフルネスではない」と書くだろう 瞑想マスターの話は断片的だが、ID:TpEzfAaEさんの話も断片的だね
マインドフルネス=仏教の悟り
という定義もおかしい
サティは仏教の教えの断片だし、研究者が英語に訳したとき深い意味が失われた >>990の続きだけど、ニルヴァーナの意味も変化していった。
本来は生命欲に象徴されるような「煩悩」の焔が消えた境地
ラマナ・マハルシが語った真我にすごい似ている
マハルシは「生命の営みは心の働き」「その心を真我に統合し、心の欲がすべて消えて、輪廻が無くなる」という道を説いた
なので本質は仏教と一緒だと思うね
でも>>989の説明のように、真我を我執の対象にするヨガ信者が多かったんだよ
だから仏教側も、そういった囚われを批判し、「釈迦の方が優れてる」というストーリーを創作したんじゃないかなぁ・・ >>990
それなら良いでしょう
「真我」がマハルシの言う「that」であるとするなら
あるいはあなたの言ってる
> 結果的に真我がただ現れる、というだった
それは涅槃ではないですよ
以上です >>995
それなら、瞑想マスターはマハルシを正しく理解していなかった
という事でいいのかな? >>996
あなたは本当に断片に囚われるね
何に執着してるのか知らないけど
真我がただ現れるとは、「生命の営みが出来ない全体性」ということ
全体性においては、陰陽という命の活動原理がないから、煩悩も現れない
本来の涅槃の定義だ
大乗仏教では涅槃の定義が壮大になったけど、本当は「ただ煩悩が消えた境地」。 >>997
私は正直、瞑想マスターには興味がない
あなたが好きなように決めたらいい
私は単にヨーガの定義のズレを指摘したかった。それだけですよ 涅槃寂静に至り、全ての認識作用が消えてしまった後
その涅槃が観察対象となるとする流派もある
パオではそう指導していると聞いたことがある
だから、もしかするとマハルシは「わたしは誰?」を説い続けそこに言ったかもしれないが
恐らく彼がごく稀な天才だったからと考えるほうが妥当でしょう
二禅三禅あたりで真我を体験したと勘違いすることは
体験者なら理解できること
その境地を誇大にアピールすることは本人にとって良いことではないです レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。