【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 >>410
>例えるなら、子供は老人をライバル視して敵視したり嫉妬したりしないでしょ。
>大人は子供にそうしないでしょ。
>それと同じ。自我がない人に対しては自我がある人は反応できなくなる。
言われてみると、なるほど確かにそうだとなる…が、ついつい幻の自分の自我に振り回されそうになってしまうな…
ここ二日は、教えてもらったアドバイスやポイントのおかげで、頭の中の暴風雨はかなり鳴り止んで、身体の中心にあるような静けさが身体全体にうっすらと拡がっているような感じで、随分落ち着いてきたところです。
横になってる時も座ってるときも、ふとしたとにに、音、色、身体感覚、で空を感じる時間が増えています。 >>411
それはよかったです。
あと自分の生活習慣を見直すのもいいよ。
例えばテレビを観すぎてたり、つけっぱなしにしてると
無意識にその映像や音声が刺激となり思考を働かせて自我を刺激してしまうし、
仕事が忙しすぎたり人間関係が複雑だったりすると、
それもまた心休まることがないのであまり良くないと思う。
でも瞑想が熟達して真我に目覚めてくれば、だんだんとそういうものから距離を置こうとするから、
自然に静寂や穏やかな環境を求めるようになるから、その自分の欲求に素直になればいい方向に行くと思うよ。 >>406
読書しないなら当然テレビとかインターネットも見ないってこと?
だとすると空き時間は何をして過ごすの?
ずっと瞑想、観察? >>413
読書もするし、テレビもネットもみるよ。
でもなんかすぐ飽きてくる。疲れるというか。刺激がとても不快なものに感じられる。
だから、お気に入りの1人がけソファーに座って物音ひとつしない部屋で
静寂を楽しむというか。
座って何もしないんだけど、その状態が満たされてるというか。
何もしてないけど退屈とは感じず、満足感と安心感と安らぎの中に浸るような。
お風呂に入ってリラックスするような感じかな。
目をつむって心にある安らぎの場所を感じて癒されたり、
人の心境を感じ取ったりして楽しんでる。
ベッドに横になってもそんな感じで、数時間が過ぎる。
何もしないでいる状態こそ、自分にとっては一番幸せで心地よいと感じられる。
たぶんそれが瞑想状態ってことなのかな。
意識的に瞑想してるわけじゃないんだけど。
そういう状態になってしまってるということかな。 それ堕落(°∀°)単に稼働してないだけ笑
稼働しながらもマインドフルネスでいたら良いんだよ 自我は思考によって生まれる。
つまり自我があることによって派生するすべてのものが、思考を止めることによって消える。
自我によって生まれるものとは、まず喜怒哀楽や様々な気分。
そして、他者と自分を区別して考える見方。それによって仲間意識や敵意志が芽生え、誰かを攻撃したり愛したり憎んだりする。人に対する恐怖心や不信感もこのせい。
あとは、社会依存。自分は社会的にどれほどのステータスがあり、どの地位にいるのか。
上回れば優越感をと尊大な気分を感じ、下回れば強い劣等感とコンプレックスを感じる。
相手と自分の上下関係を意識し、そう振る舞うことが正しいと思う。
あと自我があることによって生まれるのは、死や病気の恐怖、過去や未来を思うことによる不安や恐怖感。
それらすべては自我があることによって生まれる。
つまり、動物的肉体の脳神経から生まれる、動物的本能の名残みたいなもの。
そこには霊的なものは一切ない。
自我がある以上、幸せなど永遠に感じることはできない。
じゃあ幸せってどこにあるの?ここにありますよ。あなたの中にすでにありますよ。
ただ自我が邪魔して見えなくなってるだけです。
その邪魔な動物的名残の自我を消せば、あなたはその瞬間、幸せを手に入れます。 >>415
その通り。
テレビ見ながらネットしながら今ここに在れば同じようなもの。 過去のことを思い出して嫌な気分になることもない、
将来を案じて不安になることもない、
社会的に上か下かで優越感劣等感を感じることもない、
上下関係も敵も味方もない人間関係、
色々なことでイライラしたり怒ったり憎んだり嫌ったりしない、
死や病気を恐れることもない、
自分の嫌な性格や欠点も存在しない、
そんな状態の気持ち想像してみてください。
まるで天国にいるような心境じゃないですか?
そんな状態の幸せな安らぎと穏やかさと静かな心になることができるんです。
自我を消せば。
自我を消す、つまり思考を止めれば。
思考を止める、つまり瞑想です。
瞑想で思考が止まれば、自我が消え、その瞬間元々あったあなたの霊性が目覚めます。
その霊性こそ真我と言われるものです。
その真我の特性は、自他の境のないおおいなる意識、利他的な気持ち、
静かで、平和で、穏やかで、安らかな心境。
そのような状態の、イスに座ってるだけでまるで天国にいるかのような心地よさを感じられる、
その状態が24時間毎日続く。
それが本当の幸せ >>417
ヾ(・д・`;)違うなぁ
テレビもネットも本も塵や泥だよ
他のことで自力で花を実を咲かし得るんだよ
火を燃やすとはこのことだから火をつけなさい
瞑想じたいも泥に漬かっているようだね君は(°∀°)笑 魚が水のなかで飼われているようだね
カエルならオタマジャクシから足が生える頃だね
井の中の蛙では宇宙の姿と合一してるとは云えないものだよ
もうじきに大きな鳥が現れるから掴まると良いよ(・∀・)♪ 何十年もかけて肥大してきた自我を今さら消すなんて気の遠くなるような努力がいるだろ
結局のところ自殺が一番手っ取り早いのでは…? >>421
なんでそうなるw
自我を消すのを諦めたらどうだい ここで言われる自我なる存在は脳が担当する[思考]くらいに、思っていれば良いかな。
そして[思考]を捨てるのではなく。
[思考]の結果生まれる、次元が一つ上の[感情]を重視しなさい程度で良いかと。
今の価値観だと逆になるけど、[思考]が結論を出した内容で、生まれる[感情]も変化する。
直接干渉出来るのは、3次元の肉体では当然、脳の思考になる。
だからこそ現代人は感情を無視して思考に偏りがちになるが、材料の思考が粗悪品だと、生まれる感情もまたろくでもないレベル。
そうすると、そのうち本体たる感情が、何かと問題ある食材ばかり回してくる思考にクレームを入れるようになり、精神病理が発症する。
自殺なんぞしなくても、良質な感情を生み出す思考をすれば良い。
要は同じ現象を見て、与える評価でその人の幸福感は変わる。
悪意の思考で卑下するか、善意に解釈して、ましな考え方を採用するか程度の問題かと。 何者かになろうとしないでください。
自分の性格の欠点を変えようとしたり、
尊敬する人の性格的ないい面を真似ようとしたり、
自分をより立派な人格になるよう努力しようとしたり、
謙虚さとか、温厚さとか、慈悲深い人格になろうとしないでください。
なぜそれらがいけないかというと、
自我から生まれる性格を改善したところで、それはしょせん自我を改善するにすぎないからです。
そして自我はそう簡単に改善できるものではないので、その無駄な努力によって苦しみが生まれるからです。
では、どうしたらいいのか?
そのままのあなたでいてください。
何も変わらないでください。
そしてそのまま、自我を消すのです。
すると真我が目覚めます。真我はあなたの望む理想の人格的特徴をすべて含み超越します。
まるで神のような人格です。自我を消すことで、あなたの内にある神の性質が目覚めるのです。 自分が現状で心地よく浸れる
ことがあるなら
それはそれでいいじゃん
その心地よさや落ち着きを使って
更になにか目指したいものが
産まれてくれば目指せば良いんだし
ひとつの教えとかに
服従して帰依してるので無ければ
数多くの素晴らしい考え方とかに
振り回されずに
自分の感じてることを
大事にした方がよいと思うがなあ >>412
>>424
返信ありがとう。
静寂な場所を求めるのはほんとそうだね。
ただ、会社の他にもついついいつもの癖で繁華街というか都会というかに出掛けちゃって、そこで随分色々と刺激を受けてしまって、思考と感情が出てきたりして、頭にまた暴風雨のたまごみたいなのが出来てきちゃう。
都会も都会で好きだし、なんとか静寂な状態で楽しみたいとも思うんだけど…
切り替えなのかな…それとも、静寂の中で楽しむことも出来るのかな? まずは都会じゃなくて自然に浸かりなよ
話しはそれからだw
不感症じゃないんだから意識はあって然るものだ >>427
自宅付近は自然が多くて随分好きなんだけどね。
ちょっと行くと繁華街ばっかりでね。
かわいい女の子いるなとか、キツい顔したオッさんおるなとか、広告、欲しい服、観たい映画……
まあ色々と目移りしてしまうよ。 まああんまりコン詰めてやらなくていいと思うよ。
瞑想が苦痛になるなら、やらないほうがよっぽどいい。
基本は楽しいこと自分の好きなやりたいことを重視して。 >>429
確かにそうだね。
映画や服とか人と話してる時なんかも楽しいんだけどね、
一番満たされてる時は瞑想の深く落ち着いてる時というか、そういう時でね…
随分と八方美人というのか、落ち着きがないというのか、頭が混乱してるというのか…
いまいち整理がつかないんだよね。 そうだね
未来の自分も同じこと言うだろうね
でも何人目かの自分は気づいてる
気づいていても気づかなくても日本の日常はそのまま続いている >>431
う〜ん…難しい……
もうちょっとだけ翻訳してもらえるとありがたいです。 鏡を見るとそこに映る人物を自分と認識する。
その自分を基準として、外の人を見ると、自分よりおしゃれな人や容姿のいい人、
自分よりもダサくて容姿悪い人、自分より老けた人、若い人、
鏡に写る自分とはまったく別人のような人々がたくさんいる。
この自分とその人々とを比較してしまう。どうしても比較してしまう。
彼らより優位に立ちたいと思い、オシャレしたり髪型をキメたりする。
車も同じ。自分の車と認識する車がある。それを基準に、他の車を見ては比較するようになる。
この原理。すこし疑問に思わないか?
鏡に写るこの人物をもし自分だと認識しなければ、道に歩いてるたくさんの人が他人と思わなくなる。
なので自分と他人を比較しなくなる。優劣を作って優位に立とうとしなくなる。
もし自分の乗ってる車が借り物のレンタカーだとすると、その車と他の車を比較してどうこう言わなくなる。
鏡に写るこの肉体って、ほんとあなたのものなのか?
それを借り物だとしてみ。地上にいる間だけ借りてるレンタル肉体。
それを本当の自分だと思うか?もしこの肉体が自分だと思わなければ、あなたの意識はより大きくなる。
鏡に写る人物が自分じゃないとすると、じゃあ自分ってそもそもなんなの?という疑問が起こる。
自分じゃないものを自分と思うことができるあなた。
なぜなら機械的に作られた車を、自分のものと思い込むことができるから。
鏡に写るものを自分と思い込むことができるので、あなたはどんなものをも自分と思い込むこともできる。
全世界が自分と思えば、そう思えてくるし、逆に、自分の肉体さえ自分じゃないし
すべてが自分じゃないと思えばそうなる。
これはとても興味深いと思わないか? 鏡を見なくても自分と感じられるものがある。
それは性格だろう。
なんか自分はすこし気が弱いきがする。ネガティヴになりやすい、
喜怒哀楽が激しい。頑固で少し短気ですぐイライラする。
自分の感覚で感じられるそういう感覚を感じて、ああ自分ってこういう性格の存在なんだなと認識する。
今まで出会ってきた人との関係性からも、自分ってこういうキャラのタイプの人間なんだなと認識する。
これもよく考えてみると疑問に思えてくる。
例えば、あなたは病気になったとする。とても身体が重いダルい。
その感覚の状態が本来の自分と思う?
良いことがあってとても嬉しい気分のとき、嫌なことがあって暗い気持ちのとき、
どっちの自分が本当の性格?
ある人に会ってる時の自分と、別の人に会ってるときの自分の内面も変化してるだろう。
つまりなにが言いたいかというと、
これが自分と思える内面の性格というのはそもそも存在しないということ。
その場面場面で感じられる精神状態を自分と認識してるだけで、
基準となる元々のあなたの性格や精神というのはない。
ドラマや映画を見てその主人公に感情移入して感動する原理。
自分の感情じゃないのに、相手の感情がなぜわかるの?
これってもしかして、性格とか感情さえも自分のものというのさえ存在しないんじゃないの?
自分という肉体が存在しないのと同じ原理で。 今まであなたはこれが自分だと思ってきた。
鏡に映る自分、感じられる性格や感情。
この容姿とこの性格。これが自分自身。
だから一生懸命、この2つを磨いてきた。
必死にオシャレして、運動して健康食品食べて若作りして、容姿を磨いて、
良い人に思われようと、優しい人や楽しい明るい人になろうと努力してきた。
そうでしょ?
その自分のカテゴリーに社会的なステータスや車や家も含まれる人もいる。
そのぶん彼らは努力してきたでしょう。自分を高めるために向上するために。
でも今知らされました。
あなたが今まで自分と思ってたものすべて、あなた自身じゃなかったということ。
その真実が知らされました。
この真実を知るときどのような気持ちになるでしょう。冷静に見つめてください。
はたして、今まで自分だと思ってたものすべてが、自分じゃなかったと思うとき、
どういう気持ちになるのか。
がっかりしますか?今までの努力が無駄だったことに。
それとも、なんとも言われぬすがすがしさを感じますか? あなたは存在しない。
あなたのものなど何一つ存在しない。
あなたはそれを知りとても無価値に思いますか?
自分がとても非力で価値無いように思われますか?
自分なんて存在しないのだ、と絶望して川辺でたそがれてるあなた。
なのに川はとても美しくキラキラとせせらぎ、空は青く澄み渡り、
鳥のさえずりが心地よく聞こえてくる。
そのとき涙がこぼれてきます。
そしてようやくわかったのです。
わたしはすべてだった、のだと。 わたしはすべてだった。
これに気づくために、神さまはこの世界に病気や自然災害を用意してくれています。
肉体が病気になることで、自分は肉体ではなかったのだ、と気づき、
災害によって家が流されることで、自分のものなど存在しないのだ、と学ばせるために。
なぜこの世はこんな不幸なことがあるのか?もし神さまがいるとしたらなぜこんなものを作ったのか。
その理由は、あなたを偽の肉体や性格から解放させ、
わたしはすべてだったのだ、という気づきを与えるために。
自我から真我へ。小我からおおいなる意識へ。
地球に生まれてくるすべての人は、この学びのための学校に入校してるようなもの。
おおいなる意識に目覚めるための、学校です。
おおいなる意識に目覚めれば、もう卒業です。それが輪廻転生を解脱するといいます。 おおいなる意識に目覚めるためには2つの方法があります。
病気や災害などを経験することによって目覚める方法と、
瞑想などによって意識的に目覚めていく方法。
どうせ同じ目覚めなら、できるだけ苦しみの少ないほうがいいと思いませんか?
どうせみな地上に生まれてくる人間は、この1つの目的のために生まれてきているし、
何度も生まれ変わってくるほど、このことを学ぼうとしてるので、
できるだけ苦痛の少ない、簡単で最短な方法でおおいなる意識に目覚めたいものですよね。
それには1つしか道はありません。
瞑想です。瞑想さえすれば、社会生活や結婚や家庭生活すべてを捨ててもじゅうぶんなほど、
その意味はあります。
なぜキリストもブッダも、社会生活も家庭生活も捨てたのか。
それはこのことを身をもって教えてくれています。
瞑想でおおいなる意識に目覚めることは、この世のすべての価値を超越するのだ、ということを。 社会的に成功しようと努力してる人がいます。
結婚したいと望み婚活に精を出す人がいます。
スポーツでメダルを取るため日々トレーニングしてる人がいます。
あなたももしかすると、今現在なにか目標に向けて努力してるかもしれません。
それはまるでゲームの中でレベルアップしようとしてるようなもの。
いくらゲームの中でレベルが上がり、お金が貯まろうと、しょせんはゲームです。
そのためにいくら努力しようと、それは本人の自由ですが、それが現実に生かされることはありません。
言いたいのは、
ゲームの中の目標のために努力をするのではなく、ゲームをしてることに気づくことです。
ゲームをしてる何者かに気づくことです。
ゲームをしてる存在に意識を向けることです。
つまり、ゲームをしてる者になることです。
ゲームの中のキャラクターは今現在のあなたの自我です。
ゲームをしてる者は、おおいなる意識、真我といわれるものです。
おおいなる意識に目覚めると、ゲームは終わります。
輪廻転生というゲームはようやく終わるのです。
それまでずっと何度も何度も、死んでは復活し、リセットして繰り返し生きていきます。
違うキャラで違いステータスで、それが前世と言われるものです。
ゲームをしてる何者かに気づくことです。
それでようやく終わるんです。
もうゲームの世界の怖いステージとか、凶暴なキャラやボスにはこりごりでしょう。
だからもうゲームは終わるんです。
あなたのゲームはもう終わるんです。 ゲーム内の物には価値などありません。
だからキリストもブッダも、この世というゲーム内のお金や物質や社会的地位や名誉に
価値を置かなかったんです。
この世のものには1つも価値などない。だから彼ら賢者は身にまとう布切れ一枚しか持たなかったんです。
彼らが唯一価値を置いたもの。
それはこの世というゲームの裏側にある、本当の世界の存在、そしてゲームをやっている者の存在。
それらこそ本物の実在なので、価値を置きました。
それが、霊界とか、神とか、天使とか、仏とか、魂とか、言われるものです。
ゲーム内のこの世界ではそれらは架空のものだと言いますが、
実はそちらのほうが実在だったのですね。
海の中の魚に実は陸の世界のほうが本当の世界なんだよ、と教えても
そんなわけあるか、陸には水が存在しないのになんで呼吸できるんだ?と言ってるようなもの。
面白いですね。 ゲームなんて言い方バカ丸出しだね。
ゲームならキリストも救いになんか来ないよ。 >>433 〜
返信ありがとう。
おおよそ半分はすごくわかる!んだけど、あと半分がやっぱり整理がつかないというのか、不安定なんだ…
書いてもらった返信をもう少し読み込んでみる。 活動しながら瞑想状態、マインドフルネス状態?というのか…そういう風になれればと思ってるんだけど、何かまだ思考を使う癖みたいなものが残っているのか、日常の中で頭がグシャグシャっとする時があるんだよね。
映画や本やショッピングや…が楽しい、時も、半分かそれ未満かは前より瞑想状態の何かがピーンと静かに聴こえてる、感じてる、とは思うんだけど、これがなかなか100%にならないというかね… ちょっと順不同というか、まとまってない状態で書いてしまうんだけど、
例えば、服なんかは、肉体が借り物という感じで、自分はスタイルとかもいい方ではないんだけれど、着せ替え遊び?なのかな、借り物の肉体を使って遊んでる感じ。
で、その遊びがなかなか面白な〜と思ってる。
人と差を出したい、というのが一番には来てなくて、ただ楽しいな〜とか、明るい気持ちになるな〜とか、そんな感じ。 瞑想中、ある程度深いところまでいくと肛門の奥の筋肉がうねり出して集中できなくなるんですが、似たような人いますか? >>447
うねりはわからないけれど、とりあえずウンコしに行きたくなることは多々あって、瞑想→便所→スッキリ→瞑想は週に3、4回起こるよ。
チャクラ的にその辺りってなんかある場合だし何かあるのかも?
自分はチャクラに全く精通してないので、何もわからないが… 寝る瞬間に気付かないのと同じで自我を失う瞬間に気付く事もないんだよ
もし自我が消えたとか自称してるやつがいたらそれは嘘 >>433 〜
なんとなくわかったかも。
服選んだりは確かに"ゲーム"、もしくは"遊び"というところで楽しいと思ってるのかも。
本や音楽、映画もそうかも。
それがどうと言われると…う〜ん自分でもよくわからないけど… 三昧という言葉があってさ
読書三昧 音楽三昧 洋服三昧 瞑想三昧
まぁそれぞれが独立した別個のことだよ >>451
ああ、確かに。
そうそうだからかな、まあ服選びも本や映画も、遊びとして、三昧として、楽しいし、それはそれであってもいいんじゃないのかなって、そういう意味で、自分の中の整理がつかなかったのかもしれない。
常に感じつつ、〇〇三昧、でもいいんじゃないのかなって。
ごめんね、独り言のようなことばかり書いちゃって。 何かをしているというのは学びなんだよね
音楽なら演奏家を師とするのか楽器職人など
何かをするのはそれに準じる道に乗っているわけだね
音楽をとりあげたけど他の何がしかの事柄をするのもその道の学びがあるわけだ なるほど…
繋がるかどうかわからないんだけど、
なんとなくモヤモヤしてるのは、
空であり、全てであるってことはすごくしっくり来るんだけど、
その後、だったら、何にでもなって、例えば鳥になって、蝉になって、木になって、音になって、服になって、食になって…という具合に全身(全霊?)で楽しむ、というのか、遊ぶというのか、ってのが静寂のそれと相性がいいんじゃないのかなって思ったりするところなのかな…
う〜ん…まとまらないw つまり、静寂と完璧な時間と感覚、は素晴らしく良い、なんだけど、それそれですごく良いんだけど、ちょっと退屈だな、次は何して遊ぼうかなって、何かしらの発火点を作って、完璧な時間の上に遊ぶ、ってのがやりたい、のは自分だけなのかもしれないけどw……なんかそんな感じ。
気になってるのはバランスなのかもしれないけれど。
遊びと静寂のバランス。
教えてくれてる人は、教えを説くという遊びをしてくれてるのかもしれない、のかな?とか。
意味不明かなあ…⁇ と、まあこういうことを考えてるのが、思考、ってことで良くないのかな? セックス依存性なんだけど瞑想教えて
鼻呼吸にして呼吸に集中して何も考えないでぼーっとしてればいいの? なんか止まってしまったんだけど…
個人的にすっごい悩んでるような感じなので、何か適当でもいいのでなんかアドバイス的なものあれば欲しいです…結構ガチ… >>461
あの状態をベースに、いろんなことを楽しみたい。
三昧と言い切ってしまえばそうなんだけど。
我がベースではなくて、あの状態をベースにいろんなことに取り組むと、もっと楽しめるよな〜って。
なので、日常生活で、ある種の瞑想状態にありながら、各種の何某に取り組めるといいな、と思ってるよ。 それって
何でも興味持ったもの
ガンガンやる人は
そういう経験
とっても味わっている気はするよ
また現実もあり得ないほどの
喜びを感じさせてくれると思うよ
傍目にはうまくいこうと行くまいと
関係なく
自分の中で喜びを得てる人いるからね >>462
じゃあ書いてあるようやれば良い
悩みは解決したか?他にあるか? >>463
返信ありがとう。
ここで教えてもらったことを参考に色々試しています。
おそらく移行期というか中途半端な状態でどっちつかずの現象が起きてるのかな、と思っています。
ある時ふと、思考が、頭の中のおしゃべりが、消えて、ただ見えている、という状態にもなったりするんだけど、やっぱり20分そこらしか続かなかったりして…
昨日も頭の中が大混乱で何でそんなこと考えてるのかもわからないのに、それがずっと続いて暴走気味に頭を支配したりして…異性の妄想とかでね…
趣味で絵を描くんだけど、描いてるときは、おしゃべり、思考が、小さくなる。瞑想中は思考が暴走するときもあるけど、コツを掴んで来たのか、無の状態が続くことが多くなってきた。
服を選んでいるときは無心。ずっと良いものないかなって探し続けているのに一点集中してる。楽しいからかな。
四六時中服選んでれるならいいんだけど、そうもいかないから、普段の生活でそんな状態になれればいいなと試行錯誤中です。
今の所、自分は意識を、胸の中心辺りに集中させると"思考が思考できない状態"になるんだなと気付いて、なるべくその状態をいつでも保てるように意識しています。
何かご感想頂ければ幸いです。
よろしくお願い致します。 瞑想って要はなにも考えないことですよね?
人間工学的になにも考えない状態というのは不可能だと思うんですけど
できてる人は本当になにも考えてないんですかね? >>465
それ普通のことだよ
食べ物食べれば必ず歯を磨くように汚れるからね
それに君の場合は自分で書いてあるように課題と解決の視野がすでにあるだろ
いい加減悩み相談うざいよ
もっと困ってる人は世の中にたくさんいるんだよ感謝しなよ
瞑想なんだから自分でとことんやれ君に付き合うのは気持ちが悪い
>>464を君は無視したけどそれが答えだよ >>466
その問い自体が1つの主題と答えがすでに決められてるわけだ
しかし1つなわけないだろ?色々だよ狭めるなよ >>468
その色々を教えてくださいよ
わからないんでしょ?w 目覚めた人って将来のことは全く不安にならないの?
保険にも入らない人間ドックも受けない風邪予防もしないセックスの時もゴムなんか使わないで常に生中出しなの? >>466
広い意味での瞑想は、パターン行動からの脱却になる
多くの現代人は一日の生活パターンが決まっていて
無意識のうちにそれを繰り返すだけで一日が終わってしまう
そういうパターンの繰り返しに忙殺されると、存在すること、生きることの意味を自問しなくなる
瞑想という形を取ることで、真剣に、いろんなことを「自問」するのである
通勤電車の中で考えるだけでもいいし、歩きながら考えるのもいい
ただ、幅を広げていろいろと深く考えることが大事
昼飯を何にするとか、仕事で何をするとか、そういうことではない
つまり、あぐらをかいて「瞑想」の形を取っていても、そういうパターンの雑念から逃げられなければ
それは瞑想になっていない
雑念から逃げられない人は、何も考えない「無の瞑想」がお薦め
雑念(パターン行動の残骸)を振り払って自分を見つめ直すきっかけになる
眼マスクをして、周りを見てみるといいかもしれない
周りを「見る」意識が変わる。耳から入って来る情報も変わる
普段無視していた音が聞こえてくるようになる 気付くのと気付こうとすることは本質的に全く違うこと
あれ、これ、それ、ここ、自分、と注意を向けていても気付きにはならない
それは思考フル、雑念フル
一説によればそれを続けていくといずれ目論見は大失敗して、
その時にマインドフルネスになるといわれる
そのコースでもマインドフルネスになれるということだが、道中はマインドフルネスではないことに注意して欲しい
マインドフルネスとはそのような雑念フルとは違う意識状態のこと
そうならないと「いま」に気付き続けるとかは不可能です
マインドフルネスや瞑想で無になろうとするでしょ。
ありのままの現実を受け入れて、判断しないようにするでしょ。
無になることを意識して生きて、なるべく思考を働かせないで今ここを意識して
生きていくようになるでしょ。
ふと疑問に思ったんだけど、それって引き寄せの法則からしたら何も引き寄せないことにならないかな?
願望実現なんかは、24時間ずっとその願望を潜在意識に焼きつくまで抱いてるとおもうんだけど、
マインドフルネスはその逆で、思考が止まって今ここに全力集中してることだよね。
そういう生き方では思考が止まってる以上、何一つ引き寄せない人生になってしまうんじゃないかと。
つまり何も変化のない変わりない、平凡で穏やかな人生になるだけなんじゃないかと。
それよりも自分の思うような憧れの理想の人生をつくっていきたい場合は、
そのような願望を抱き続けることが大切だとすると、
瞑想やマインドフルネスを日々行うことは、逆に障害になるんじゃないかと思うんだけど、違うかな? 駒場祭で超能力者どうしの合同結婚式を行います。
米田武くんと柏木章子ちゃんと多賀翠ちゃんに私、橋本淑子を含めて現在四組の参加が決まっています。
これからは私達超能力者も堂々と世間に出て超能力を使って活躍する時代です。
超能力者どうしの素晴らしい合同結婚式にしたいので、ふるってご参加下さい。
参加、参列については橋本淑子まで念、テレパシーでご連絡ください。
橋本淑子 >>474
そもそも引き寄せの法則が正しいかどうかも不明だしな
もしそんな真理があるならとっくに天才や聖人が見抜いて布教してるはずだ
実際のところはこの世界は半分引き寄せで半分偶然で半分反作用なんじゃないかな >>474
今の叶ってない現状はすでに潜在意識に積もり積もった思考の癖からできているから、それをクリアにしていくのが瞑想だよ。
潜在意識がごちゃついてるといくら願望を刷り込んでも意味ないからね。 >>474
いまここにちゃんと生きてる人が引き寄せられるんじゃね 自分が求めていることを
はっきりさせることも大事だろうね
現実にあるもので満たされることも
たくさんあるだろうからね まず引き寄せなんてこと考えていたらマインドフルネスにはならない 引き寄せはストーリーの世界
マインドフルネスやってればストーリーは自然に生じてくるのがハッキリするから引き寄せは無意味になる というかマーフィとか読めばわかるけど、そんな思いとか考えとか
卑しい次元でやったって引き寄せなんか出来ないのはわかれよ
マインドフルネスで汚い思いを捨ててそれからやる、というのはありだろうな 物質世界での自我の願望を叶える為に引き寄せるんだからマインドフルネスとベクトルは真逆なんだろうな
うまく行けばいくほど自我が膨らんでいきそうだしキリがない >>484
真逆というか、我欲がなくならなきゃ引き寄せなんか無理だと思うよ
スタート地点が我欲パンパンの自分だと考えてるのがおかしい 否定してるわけじゃなく、>>484が正解で、ほぼ真逆と言ったら良いかな
我執を薄めていって気分を楽にするのがマインドフルネス
我執の薄い状態で目的に飛躍するのが引き寄せ
スタート地点が逆、ベクトルが逆だと思う 霊覚なんてものは妄想、我執による現象でしかない
それにしがみついたら魔境だよ
そして、神秘的なだけに自己絶対化が起きてしまう
麻原がそれだ >>7
時間の概念ですけど、アインシュタインの相対性理論では
空間と時間が一つの塊として存在していて、分けて考えることは出来ないそうです。
>>41
今を精神と時の部屋のようにとてつもなく拡げるってことですか?
例えばそのシェルターの話だと、具体的には最優先に何をするべきなんですかね? >>190
子供の頃の感覚をふいに思い出したときに、全てに満ち足りたような気分になる時あります。
でもそれって、恋をしている人が恋人待ってたりするときに感じてるような多幸感と同じようなものではないかって思います。
子供の頃って自我あるんですかね、エゴはすごいと思うんですけど、
子供の頃やたらと時間が長く感じていたのは、今という瞬間にすごく集中出来ていたからでは?
一人遊びに夢中になって、自分の世界に入りきってる状態とか。 >>491
幼稚園や保育園時代でも園児の中で可愛いコや可愛い先生とか自分の中で芽生えるから3歳過ぎたあたりからもうエゴに操られ始める中 心地よかったり楽しかったことを
思い出したり、それを繰り返したり
することができるようになり
意識してそれができるようになる
現実が望んだ結果が起こる事に気付き意識して望む結果が得られるように
行動できたりすることにも気づく
どんどん気付いて現実を
望むように変えていけると気付いていく
言葉を覚える前だと思う
自分なりに説明するなら
こんな感じかなあ 2歳位で物心がつくからね
自我の目覚めは早い
それまでは只メシ食って昼寝して大小便していた
無心で動けていた >>493
確かこの計算でいくと時間の感じ方は人生80年として19歳が折り返し点になるんだね
だから年取ると時間が経つのが速く感じる様になる 誰でも2歳頃までは無心で縁によって自在に活動してる
だけどそれを自覚する力はないから周りの影響で自我が芽生えてしまう
そして自我が自分を遮るから不自由になる
だから只管打坐でもう一度元に戻す 気づきの瞑想で、ある程度の結果出してる人みつけた。
このスレの住人的にどう思うかは分からないけど、ひとつの在り方として
参考にはなるかも知れない。
セクシー美女が瞑想や悟りについて普通に語っててワロタ
https://fate.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1543989417/ まず自分の動画見たら波動上がる、みたいなこと言ってるから駄目
言わされてるんだろうけど
体験しましたと口で言ってるが、8〜9割方、本の受け売りをやってるだけだね
1〜2割くらいは体験したと感じてる、本人は
だからどの話も本当に肝心な事が言えてない
あげつらえばきりがないけど
こんな事やるのは墓穴掘ってるようなものだ
ぶっちゃけ商売だろ?
広報担当が貼りに来てるんだろ?
金のために若い子を不幸にするような真似しちゃいけない 自分は仏教系なので、もともとスピ系には興味がなかったし
これからも転向する気はないのだけれども、この子は自分で
体験して話してるな、と分かったので。
自分の体験に全体として照らしてみて、大丈夫と判断したので
照会しようと思った。 三昧に入ったことあるから、こういう話が本当だということは知ってる。
三昧体験の以前は、私も信じていなかった(というか、ないと信じていたという方が正しいのだけど)から、そういう反応は昔の自分と同じだから、赦すよ。 経典の中に、ブッダの神通や神変の話は沢山出てくるし、
色界、無色界の話も沢山出てくる。
私は、少なくともその一部については本当だったことを自ら確認しました。
まだ確認できていない居ない段階の人がこの話を聞けば、
それは仏教ではないとか、レベルが低いとか、迷信や詐欺であると解釈することもあると思う。
経典が、読み手によっては一部は本当で、一部は詩的、文学的表現であると解釈されるのと同じ事情による。
しかし、それはたしかにある。 宣伝必死だね
彼女も君も肝心なことが言えてないニセモノ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています