【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 今日また不思議な夢を見た。
1週間前に守護霊に尋ねた答えが返ってきた。
声は宇宙人のような声で聞こえたけど、ちゃんと受け答えしていた。
もう半分起きてるような状態で、目の前にあったクッションが人物ように見えて
その人物と話してたみたい。
一番肝心な所は聞こえなかったが、そのあと尋ねるとラップ音で答えが返ってきたので、
たぶんそういう答えなのだろう。
自分としては残念だけど、そういう導きなので受け入れようと思う。
内容はプライベートなことなので控える。
今日はゾロ目数字を沢山目にした。これも守護霊との合図っていうはわかってるから、もう間違いないとおもう。
悟りを開くような人間はこんな不思議体験しょっちゅうします。 >>361
そういう板だからね。
実生活にうまく使えればいい能力だけど、使えてる人いるんだろうか? 無になってるのをキープするのが瞑想じゃないかな。
一瞬だけ無になったところで、それは日常で誰にでも起こるから。
なるべく思考が止まってる無の状態を保ち続けるのがいいんじゃないかな。 引き寄せと悟りって関係あるんだろうか?
今まで、108式の認識の変更って悟りのことだと思ってたんだけど
悟ったからと言って、引き寄せが上手く行くわけでも無さそうな人が多いから
引き寄せと悟りってあまり関係ないように感じている今日この頃。 >>368
ありがとう。
そこで、いつも下の画像を思い出すんだ。
何も考えてないのと、心を無にするのは違う…と
ミスターポポはおっしゃるわけ。
この、心を無にする、っていうのにものすごく抵抗があるんだ。無心というけど、心が無い状態って、魂も無い状態で、つまり、死と同等なのではないかという恐怖感や人間として駄目になってしまうんでないの感があって…
https://ameblo.jp/original-gn-drive/image-11078232654-11610735849.html >>370
無になることは、思考と感情が消えること。
でも思考と感情が消えても、意識はちゃんとある。
ちゃんとあるどころか、より明晰な意識になる。
明晰な意識になると、判断力、洞察力、深い落ち着きが得られる。
感受性も精神もより豊かに感じられる。
なので、無になることは無機質なロボットになることとは全く違うこと。
悟空の何も考えてない状態は、ただボーっとした状態。
ポポの言う無の状態とは瞑想状態。
ボーっとするのとは逆で、ある対象を集中して思考が止まってる状態なので、
意識が鮮明で明瞭になる。
ボーっとするのは意識がぼやけた状態。
無の状態とは普段より意識が目覚めてる状態。なのでまったく逆の状態。 宗教はなぜ、男女の愛、食欲睡眠、人間関係、社会生活、
それらを重視しないのか。
どれも生きていく上で重要なことなのに、
どの宗教もそれらに価値を置かない。
それには理由がある。
それらのものはすべて肉体があることによって生じるものだから。
宗教は魂や心という、霊的なものに価値を置き、それ以外のこの世のものは意味がないと言う。
実際に霊界に行ってみれば、男女愛なんてないし、食欲も睡眠も存在しない、
人間関係もないし、社会生活なんてものもない。
霊界で唯一実在するのは、魂のみ。魂の資質とは何か。
それは、心、気持ち、愛、そして様々な霊的能力。
それのみが存在するする。
なのでそれらを育むことで魂がさらに向上していく。
そのために宗教はあるから、上手な恋愛法や、人間関係や社会生活を営む方法を教えたところで、
霊界に戻ればまったく価値のないことになってしまう。
霊界に戻ったとき、価値があることは、魂の成長だから、
静かで安らかな心を育んだり、慈悲の心を育てたりすることが、
魂の成長につながり、それが本来の魂の霊の姿のあなたにとって一番価値のあるものと考える。
だからほとんどの宗教では、それ以外のものに価値を見出さない。 輪廻の前半では、飢餓や貧困で学ぼうとする。
生きることについて学ぶ時期なので、動物界のように、弱肉強食で生きるか死ぬかのような世界に生きる。
輪廻の中盤になると、男女愛や人間関係や社会生活で学ぼうとする。
そのため、彼らの人生は複雑な男女関係や社会生活で悩み葛藤し学ぶようになってる。
輪廻の終盤になると、自分の好きなことを探求したり、外界を遮断して自分の世界観を築き上げる。
自己探求をするようになる。
輪廻の最終段階、いよいよ解脱となると
精神世界の探求がはじまり、自己流に瞑想したり神を見出そうとしたり、
真理を探求するようになる。
自分が輪廻のどの段階なのか、この基準に当てはめてみると理解できます。 この世とは
飢餓や貧困や弱肉強食の世界を通して学び、
男女の恋愛や人間関係を通して学び、
社会生活を通して学び、
自己探求を通して学び、
真理の探求を通して学んでいきます。
そこまでが地上人生の学ぶべき課題です。
そのために地上世界は存在してる。魂の修行の場として。
植物や動物であった魂が、人間になるために、そして人間の魂が解脱していくために。
輪廻の最終段階を終え、無事悟りを開き解脱した魂は、
もう二度と地上に生まれてきません。もうすべて学ぶべき課題を終えたから。
こんどは霊界での探求が始まる。より深い真理の探求。
そこには肉体を持つゆえの不自由さがないので、より真理の探求に専念できるのです。 解脱した魂が、霊界でどのような生活を送るかわからない。
でも肉体を持たないゆえ、思念により一瞬で地球の裏側へ行けるような自由さを持つので、
そこから想像すると、例えば、別の惑星を探索したりだとか、
別の次元の世界の存在やその世界とこの世界のまたがる法則性を学んだり、
魂の霊的能力によって創造する力によって様々な物質界の生物を創造する計画に参画したりする。
肉体がないのでもう苦しみは存在しない。
痛みも悲しみも悩みも存在しないだろう。
なんという美しい世界なのだろう。自由な世界なのだろう。
ぼくはもうすぐその世界を訪れることができる。
なんと喜ばしいことだろう。 2500年前に悟りを開き、今現在は霊界かさらに上の神界で神のような威厳と気高きオーラを放っているであろう
仏陀の足元にぼくはようやくたどり着いたのだろうか。
仏陀は悟りを開いて輪廻転生を終えてからすでに2500年が経った。
シルバーバーチが地上をさって、つまり解脱して3000年が経った。
解脱して霊界での生活が始まっても、さらに魂は向上進歩していく。
仏陀もシルバーバーチも解脱してから、2500年3000年の期間にかなり成長しただろう。
霊界を卒業して神界に入ったのか、地球神界を卒業してさらに上の銀河系霊界に突入したのかわからない。
彼ら超高級霊、ぼくら人間からみたら神のようなお方の足元をようやく拝めるレベルになったのか。
ぼくもあと2500年後、3000年後には今現在の仏陀やシルバーバーチの域に達することができるのだろうか。
その時には、今現在地上に生きてる人たちも無事輪廻転生を解脱して、霊界での生活が始まってることだろうか。 輪廻転生を解脱する人は特別な人のように思われる。
でも、永遠の魂の視点で見ると、それはしょせん小学校を卒業する程度のレベルにすぎない。
小学校を卒業すると、こんどは中学校での生活が始まり、高校での生活、
というふうに魂の成長段階に応じて、住む世界も変わっていく。
魂は永遠とスピリチュアリズムでは言われてるので、
もしそれが本当だとすると、1億年後、10億年後も、ぼくやあなたの意識はちゃんとその瞬間にも存在してることになる。
もうその頃には、銀河霊界を卒業して、宇宙霊界へと入り、
星々の創造や運行を司る意識体になってるのかもしれないが、
その瞬間にもどんな形であれ、ぼくやあなたという意識は存在することは確かだ。
そして最終的には、この意識はスピリチュアリズムで言われる大霊と呼ばれる純粋なるおおいなる意識
つまり神に溶け込み、自分がようやく全宇宙を創造した神となるのであろうか。
その時には、もう向上の道が残されていない。
ようやく完成の域に達した魂は、退屈を感じ、自らの分霊を植物や動物や人間に宿し、
地上世界を経験しようとするのだろうか。 地上経験を体験するために、再び新たな宇宙を創造する。
この宇宙とは別の宇宙を新たな神になった神は創造する。
そして万物に自分の分け御霊を宿し、物質世界を体験させて修行することで
その完成された神の状態でいながら楽しみを感じる。
この説でいくと、宇宙は1つではなく無数の宇宙が存在することになる。
それぞれの宇宙にそれぞれの神が存在する。
この宇宙は138億年前に誕生したが、それは新しく神になった神によって新しく作られたものだろう。
その100億年前にも1000億年前にも、また別の神によって別の宇宙は誕生していた。
その宇宙がもし数億単位で存在してるとすると、もはやこの我々の住んでる宇宙など、
とてもちっぽけなものに過ぎない。
そして無限とも思われる星々には別次元で見えない生命体が存在しており、文明が発達している。
その中の地球という星。その物質世界の輪廻転生をようやく抜け出すことができた。
個人的には喜ばしいことだが、永遠の魂の視点から見ると、まだまだ未熟者で赤子のようで
まだまだ先は長いのだ、という思いになる。 悟りを開いてこのような感覚を感じた仏教の僧侶は、
曼荼羅という宇宙の図式を作った。それが中国から日本に伝わり真言密教になった。
このような世界観は他の宗派の仏教でも見られる。
なのでやはり真理ではないかと思う。
ぼくは悟りを開いて解脱したけど、実のところ人より人格が立派だとか
人間ができてるとか、優れてると思ったことがない。
客観的に見ても自分は人格者でもないし、愛の気持ちなんかあまりない。
つまり、悟りを開いて解脱することなんて、その程度なんだ。
解脱する人と、しない人の差なんてごくわずかほとんど存在しないようなもの。
じゃあなぜぼくが解脱できたか?それは解脱したかったから。
仏教の教えに興味出た時、スピリチュアリズムで魂は転生すると知ったとき、
思ったのは単純に、おれ早く卒業したい、それだけだった。
その10年後、ようやく卒業できたんだ。 霊も同じだろう。
この世になにかしら未練があって霊界にまだ行きたくない、まだこの世にとどまっていたい
と思う霊は未浄化霊として留まるし、未練ないし霊界に進もうと思う霊はスムーズに霊界に行く。
それと同じことじゃないかと。
この世でもっと物質世界を楽しみたい、もっと物質で色んな経験してみたい、と思う魂は、
お金持ちの経験してみたり、イケメン美女になって派手で快楽的な異性関係の人生を楽しもうとしたり、
社会的な成功をしてみたり、オリンピックやスポーツで自分の力を試してみたりする。
そういう人は輪廻を解脱できないんじゃなくて、実は本人の意志でまだしないだけなんだ。
つまり、まだしたくないの。まだ物質世界で楽しみたいの。卒業が嫌でもっと小学校生活を続けたいと思ってるの。
だから卒業しない。つまり輪廻転生から解脱しない。
じゃあ解脱したいと思う人はできるの?できます。
とくに今の時代は容易にできる時代になってます。 昔の時代は輪廻転生を解脱するなんて、ごく一部の仏教の修行僧に限られたことだった。
でも今の時代は、その輪廻転生や解脱のメカニズムが精神世界でわかりやすく学ぶことができる。
とくにぼくが悟りへの最短だと思うのは、ノンデュアリティー。
瞑想によってこの真我の感覚、ノンデュアリティーの教えの感覚を理解し感じれば、
それがもう解脱なんです。
解脱というのは、この世が実在しない世界、自分というのは存在しない、ということがわかること、
つまりこの世が嘘の世界だと見抜くことではじめて達成されること。
この世の嘘を見抜くにはスピリチュアリズムで霊界の実像を知るもいいし、
ノンデュアリティでこの世やわたしは存在しないと知るのもいい。
まずは霊的世界こそ実在で、この世や肉体の自分は本当のものじゃないと知ること。
そして瞑想で真我の感覚を味わうことによって、それを体感として知ること。
不思議神秘体験や霊体験でもいい。
それを数年続けてると、解脱できます。輪廻転生から解脱します。
解脱するには、普通に物質世界で生きて生活してるだけでは無理。
解脱したいなら、解脱したいと望むこと。そうすれば必ず叶います。
これが最後のあなたの地上人生にしませんか? 解脱できない、しない人の特徴を教えます。
長生きしたいと思う人、死にたくないと思う人、あの世は存在しないと思う人。
その人は解脱しません。来世がちゃんとあります。
解脱したぼくの心境は、
長生きしたくない、なるべく早く死にたい、あの世こそ実在の世界、という思い。
彼らとは真逆ですね。
でもそういう感覚になるんです。
長生きしたくなく、なるべく早く霊界に戻りたい、なぜならそこが本来の故郷で
この世の100倍美しくて幸せな世界だと知ってるから。
生きてることが辛いわけじゃない。
でもこの世界はそもそも本来いるべき場所じゃないから、はやくおうちに帰りたいという気持ち。
こういう気持ちを持つ人は解脱する人でしょう。
普通に考えてみればわかります。
解脱しない人は、この世がすべてと思ってるわけです。
だから解脱できないんです。
ぼくはあの世がすべてと思っていて、この世は存在しないと思ってるんです。
だから解脱するんです。
こんな簡単で単純でわかりやすいことありますか。
解脱したいなら、この世の執着をすべて捨てるんです。
長生きしたいとか、この世がすべてとか、そういう思いを捨てる。
それが仏陀が言ってた意味なんだ。執着するな、というのは
その地上への執着によって解脱が遅れてしまうぞ、解脱できなくなってしまうぞ、
ということを仏陀は言いたかったんだ。
その地上への執着を捨てるために、キリストは天の国の素晴らしさを説いた。
シルバーバーチをはじめスピリチュアリズムは、霊界の素晴らしさを説き、この世は苦しみの実在しない世界と説いた。
彼らが言ってるのはみんな同じこと。
長生きしたいとか、この世は楽しい世界でもっといたい、
という思いがこの世に執着を起こし、その思いによって輪廻転生から解脱できなくなってるんだぞと。
あの世の存在を信じ、素晴らしい世界、美しい世界と知ることで、
その世界を求めようとする。その気持ちがあなたを地上から引き離し、
解脱することができるんだぞ、ということなんです。 ここまで読んでくれた人は、もう半分輪廻転生から解脱したようなもんです。
あとは実践あるのみ。
一緒に解脱しましょう。ぼくと同じく今世が最後の転生となりますように。
この宇宙が138億年前に誕生し、地球ができて、生命が誕生し、
ようやくその生命に魂を宿す段階から、現在のこの人間の姿となるまで、
何万年何億年かかったでしょうか。植物や微生物だった頃から、一匹のミジンコやアリだった頃から、
一匹の魚や爬虫類だった頃から、一匹のネズミや鳥だった頃から、
一匹の豚や羊だった頃から、一匹の猿やゴリラだった頃から、
ようやく人間の類人猿としての魂となり、それから現代文明の先進国の人間となるまで、
どれほどの年月と再生を経てきたのでしょう。
そして、ついにようやく人間を卒業する時がきたのです。
それが今です。ついにあなたは一本の雑草だった頃から念願だった、
物質世界からの解脱を果たそうとしています。
植物や動物の頃からの憧れであった人間さえも卒業しようとしています。
新たな旅立ちのときがきました。
霊界の天使や菩薩達も祝福してくれています。 人間を卒業するんじゃなくて、
人間になるんだよ。
やっと人間になるんだよ。 幽霊とか神とか言ってるバカは頭いっちゃってるの?
霊も神も死後の世界も100パーセントないからな >>371
返信ありがとう。
この書き込みの、ある対象を集中して思考が止まってる、ってところなんだけど、
1これは何を対象とするのがいいんだろう?
なんでもいいのかな?
例えば呼吸の出入り、目を閉じると視える白い球、全身の身体感覚の外側にうっすら感じるオーラのようなもの…etc...
2集中していても、ものすごい思考の渦が、感情の波が、ある種の妄想のような甘美な快楽物質が、それぞれ入れ替わり立ち替わり、時には混ざりながら頭の中に押し寄せてくるんだ。
もうどうにもならないくらい台風の渦の中に巻き込まれたかのごとく、頭の中が暴風雨だらけで、集中段階になかなか行けない。これはどうすればいい?
3静寂と安心の時間は、ほぼ毎日に近く訪れるんだけど、それが長続きしない。上記のごとく渦巻く思考の中に振り回されてしまうんだ。
はっきり、あの静寂の完璧な時間を、ずっと続けて、それをベースの状態にしたいんだけど、それが上記のような暴風雨の時間の方が圧倒的に長すぎて、辛い、というのが今一番悩んでるところ。
助けてww 瞑想にこだわらないでスポーツやら温泉やらマッサージで硬さをほぐす しかし長文書いてる人は毎回自分は悟ったんだと言いたいわけかw
単に瞑想してるだけだろw
そして瞑想スレであるw
まぁ勉強は他をシャットアウトして勉強に集中するしかないんじゃないかな
他に気を取られるよりは瞑想は良いと思うけど
結局は勉強が大事だと思い込んでやるしかない >>387
1は、音でも、見えてるものでも、身体の感覚でもいい。なんでもいい。
つまり今この瞬間に意識を向けることができれば、どんな方法でもいい。
今この瞬間に気づいていればいいから、音に集中してみたり、見えるものを見続けたり、自分の感覚で変えていくのもいい。
2は、これはとてもよくわかる。
思考は止めようと思って止められるものじゃない。
瞑想しようと無になろうとすると、思考が沸き起こってくる。
でもその思考を観察していると、思考によって感情は発生してることに気づくはず。
なので感情を止めようとするんじゃなく、思考のみを対象とすること。
思考が止まれば感情も止まる。問題原因を思考一本化する。
思考のみを敵だとする。思考も感情もと色々止めようとすると、荒波に飲み込まれる。
思考さえ止まればもう勝ったも当然。
瞑想中に沸き起こる思考について、思考を消そうとしてはいけない。
消そうとして消えるものではないから。止めようとして止まるものじゃない。
もし瞑想中に思考が沸き起こってきたら、そのことに気づくことが重要。
あ!今思考してた!そう気づいたら再び、音なり身体に感覚なりに意識を向ける。
また意識が思考に向かおうとしたら、気づいて、意識を今ここの音や感覚に向ける。
その繰り返し。
ポイントは、思考に気づくことと、意識を思考から今ここへと引き戻す意志の力、
この2つ。 >>391
ありがとう。
さっそく教えてもらったポイントに気をつけて実践してみる。 >>391
思考の威力が激しすぎて頭割れそう
最後の抵抗的なものなのかな?
今ここが全く見えないぐらいの積乱雲のど真ん中にいる状態がずっと続くww
ほんと助けて >>393
やり方を変えてみるといいかも。
自分に合った方法を見つけたほうがいいと思う。
自分も色々試した。
マントラや真言を唱える方法や、インナーボディーを感じる方法や、思考を観察する方法や、
ロウソクの火を見続ける方法や、呼吸でお腹の膨らむ感覚を感じる方法など。
自分の場合は呼吸の瞑想は合ってなかった。
息が苦しくなるし、雑念思考が湧いてきてどうにもならなくなる。
自分に合ってた方法は、音を聞き続ける方法。
ユーチューブで瞑想音楽流しながら、その音を意識的に聞き続ける。
その音に全神経を集中させて、とにかくずーっと聞き続ける。
そしたら10分くらいで、思考は完全に止んで瞑想状態に入ることができた。
慣れてくると音楽も邪魔になってきて、部屋で自然に聞こえてくる時計の秒針の音を聞き続けたりした。
自我消滅体験直前の頃には、瞑想中に雑念がわくことはほぼなくなってた。
外出中や仕事中でマインドフルネスしてると雑念が起こったけど、
家でちゃんと瞑想するときは、瞑想中は思考はほとんど止んでたな。
もし違うやりかたでやってたとすると、今でも雑念思考がわいて瞑想って難しいと思ってたはず。
もちろん悟りも開けなかったとおもう。
自分に合った方法を見つけよう。色々試してみて、一番思考が止まる方法。
それが一番合ってるということ。 >>394
ありがとう。
教えてもらった音楽、音、呼吸…色々試したよ。
自分にあっていたのか、身体感覚とマントラはいい線いってるような気もしたよ。
ただ、それも気付けば頻繁に思考に戻ってしまってる…
普段歩きながらでも色々考えてたからか、元々空想癖があるからなのか……う〜ん…
難しいね…
なんでこんなに思考が走るんだろうね。
朝起きた瞬間から思考が走って、妄想気味で女の子のことを考え始めてたときに絶望的な気分になった。
一瞬前に夢を見ていたときの思考と全然違って、起きた瞬間、俗過ぎるというのか、自我過ぎるというのか、固体にこだわってる妄想というのか、とにかく、自分自身にうんざりしてしまうね… >>395
意識しか存在しない、あの完全な静寂の時間…
ずっとその状態でいたいのに、
なんでこんなに思考に振り回されてしまうんだろう…
修行が足りない…とかそういうことなのかな…? 連投ごめん。
無になることに、すごく抵抗がある。
何も無いと信じたくない、というのかな。
自我、自意識、思考、どれかわからないんだけど、それらが、何も無い、と言われることを拒否してるという感じ。
自意識の解体?そこもポイントなのかな?
よくわからないことばかり書いて、ごめん。
個人的にはすごく苦しんでいて、何か手がかりが欲しい状況です。 その悩みはよくわかる。
自分もまったく同じことで悩んでたように思う。
たぶん瞑想が上達してきたあたりだったとおもう。
真我と自我の分離が起こり始めるとそうなるのかも。
そこで真我こそ本当の自分なのだ、自我は偽者で実在しないんだ、と言い聞かせてた。
自我が消えつまり思考が止まり、真我の意識状態でい続けられることを信じてた。
そういう強い意志があったから、
思考を敵とみなし、瞑想中に思考が沸き起こっても相手にしないようにした。
自我が消えて無になるのではなく、
自我が消えて真我の本当の自分に目覚める。
もしかするとあなたは思考を止める目的の瞑想になってしまってるのかもね。
だから思考が止まると無になる、という思いが沸き起こってくるのかも。
自分は真我を開くための瞑想だったから、
思考を止めることで自我が消え、その瞬間に真我が開かれるという考えだったので、
思考が止まることは目的ではなく手段でしかなく、その先の真我の状態を感じ続けることこそが、
目的だったから。
もしそうなら、真我瞑想に切り替えてみるのもいいかも。
ムージの動画はとても参考になる。ラマナマハルシとか。 >>398
ありがとう。とてもわかりやすくて、本当に、ありがとう。
ほんと、普段の行いが良いとは思えないというか、他人に迷惑もかけてること多いし、こういうときに助けてもらえると、なんと言っていいかわからない。ありがとう、とか、感謝とか、ほんと、ありがとう。(語彙力アレでごめん)
>自我が消えて無になるのではなく、
>自我が消えて真我の本当の自分に目覚める。
>もしかするとあなたは思考を止める目的の瞑想になってしまってるのかもね。
>だから思考が止まると無になる、という思いが沸き起こってくるのかも。
確かに真我の目覚めについては、ほとんど全く考えてなかった…
そういえば昨日、頭の中が暴風雨のように荒れ狂っていたとき、ふと「目覚めろ目覚めろ目覚めろ」もしくは「目覚める目覚める目覚める」と無意識から言葉が出てきて、そう唱えていたときは、少し楽になっていた気がする。
真我と自我のせめぎ合いなのかな…今日も朝から頭の中に暴風雨が渦巻いていて、仕事どころじゃないw
休めばよかったよ… >>398
真我瞑想というのは、下記URLのやり方でいいのかな?とりあえずそれで今やってみてる。
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1033829765
ムージとラマナマハルシの動画は今いくつか見てるんだけど、その中きら気になったのをピックアップしたいので、少しレス遅れます。 真我瞑想は、基本的には思考を観察する方法かな。
パパジやムージのいうような。
思考を観察することによって思考が止まる方法。
その思考を観察してるものが真我。
でも方法はどうでもいいと思う。
真我になるという目標がきちんとあればいい。
その目的があれば、それに向かって無意識にその道に導かれていく。
心がけることは、真我を開くこと。それのみ。
そのための思考を止めること、という意識。
どんな瞑想法であれ、思考が止まって瞑想状態のときは真我の状態になってる。
なのでどんな方法であれ、その真我の状態を感じ続けることが真我瞑想。 無になることに抵抗を感じるなら、考え方を変えればいい。
無になるんじゃなく、観察者になる。
その思考に気づいてる観察者。
その音に気づいてる観察者。
その呼吸に気づいてる観察者。
その観察者こそ、真我そのもの。
つまり気づいて観察してる状態はすでに真我の状態になってる。
その状態を感じ続けること。
それは無になることじゃない。意識的に真我を体感するということ。
真我の状態はけして無ではないことが理解できるはず。
思考も止まり感情も止まるけど、意識はちゃんと存在していて、感覚もあり、
知恵もある、その本当の自分であるものを感じる。
それはけして自我のない人形のようなものじゃない。
思考を観察してる者、音を聞いてる者、呼吸を感じてる者、
その者を意識してみる。それは自我じゃない。思考が止まり自我が消えたのに存在するその者。
その存在を感じてみる。
それが真我を開く瞑想。 >>401
>>402
ありがとう。とてもわかりやすくて、少しずつ近づいているような気がするよ。
ムージの話は、その通りそうなんだよね、と思いながらいろいろ見てる最中。
動画の中には今自分が悩んでる苦しんでることとほぼ同じような内容を言ってる人もいて、こういう動画を見るのは初めてなんだけど、似過ぎてて驚いてる。 >>402
真我の状態、意識だけの状態が少しずつほんの少しずつ増えてきてるような気がする。
観察者という言葉が自分にはかなりフィットしてるのかも。
自意識が強過ぎると友人からよく言われていて、この自意識というのが、純粋意識と混同するというか、ある種観察者と癒着し続けようとしている感じがあって、とても厄介。
純粋観察者としての集中を続けて、なんとかこの癒着を剥がしたいところ。 気がつくと頭の中で、知ってる誰かとおしゃべりしてる。
なんなんだろう、このおしゃべりは…しゃべり過ぎ…
これも思考に分類されるのかな? 瞑想はそういう繰り返しなんだよね。
それで少しづつ思考が止まる時間がだんだんと増えてくる。
トレーニングみたいなものかもしれない。
だから仏教でも生涯をかけて修行に挑むのだし。
そんな簡単なものじゃないけど、それだけの価値はあるとおもう。
自分も頭の中のおしゃべりがひどい時があって、原因探したらどうやら日々の読書にあったらしい。
読書の習慣をやめたら、頭の中の独り言やおしゃべりが無くなったので、それが原因とわかった。
もしそれ以外に原因があるとすれば、ちょっと自分にはわからないな。 >>406
なるほど。自分は最近よく人と喋るよう心がけてるところがあるから、人と喋る時用に予行演習のようなことをしてるのかも。
予行演習だとタグ付けして、観察者視点を心がけます。
ありがとう。 思えば、子供の頃って思考なんか挟まずに、歩くときはもくもくと歩いて、水の流れの感触を感じてるときは延々と感じて、虫の音を聴いてるときはただただその音色を聴き続けていて…
そう思うと、いつからそういった純粋な思考の無い感覚を味わう時間が大幅に減ってしまってたんだろうね。
思考もしくは自我というのが、随分後天的な能力なのか、人間の社会的文脈でのみ存在する幻なのか…
詳しくはわからないけど、逆にある種の成長に必要な要素だったりしたりするのかな? 意味不明な質問かもしれないんだけど、真我が目覚めた後、自我みたいなものを使用、利用したりする?
おもちゃのように、陽気な自我を使って他人を楽しませるとか、真剣風な自我を使って真面目なふりするとか… >>409
そういうふうな、自分を演じるというのは無くなったかな。
自我があった頃は、場面によって演じてた所があったかもしれないけど。
今は、部屋でくつろいでるときと、外歩いてるときと、会社にいるときでは、
まったく何も変わらない。誰に接するときも、同じ自分で接してるとおもう。
まあもしかしたら無意識に変えてるのかもしれないけど、
意識的に変えようとはしてないよ。
自我を使おうとすれば使えるかな。わからないな。もしかしたら使えなくなってるかも。
自我を使うことで相手はその自我に反応して、自我がぶつかり合うので、
自我を使うことは幸せには繋がらない。それが愉快で明るい自我だとしても。
反対に自我があることで人間関係の苦しみが起こるように思う。
自我がないと相手の自我に反応しなくなるので、
一切の人間関係の悩みから解放される。
例えるなら、子供は老人をライバル視して敵視したり嫉妬したりしないでしょ。
大人は子供にそうしないでしょ。
それと同じ。自我がない人に対しては自我がある人は反応できなくなる。 >>410
>例えるなら、子供は老人をライバル視して敵視したり嫉妬したりしないでしょ。
>大人は子供にそうしないでしょ。
>それと同じ。自我がない人に対しては自我がある人は反応できなくなる。
言われてみると、なるほど確かにそうだとなる…が、ついつい幻の自分の自我に振り回されそうになってしまうな…
ここ二日は、教えてもらったアドバイスやポイントのおかげで、頭の中の暴風雨はかなり鳴り止んで、身体の中心にあるような静けさが身体全体にうっすらと拡がっているような感じで、随分落ち着いてきたところです。
横になってる時も座ってるときも、ふとしたとにに、音、色、身体感覚、で空を感じる時間が増えています。 >>411
それはよかったです。
あと自分の生活習慣を見直すのもいいよ。
例えばテレビを観すぎてたり、つけっぱなしにしてると
無意識にその映像や音声が刺激となり思考を働かせて自我を刺激してしまうし、
仕事が忙しすぎたり人間関係が複雑だったりすると、
それもまた心休まることがないのであまり良くないと思う。
でも瞑想が熟達して真我に目覚めてくれば、だんだんとそういうものから距離を置こうとするから、
自然に静寂や穏やかな環境を求めるようになるから、その自分の欲求に素直になればいい方向に行くと思うよ。 >>406
読書しないなら当然テレビとかインターネットも見ないってこと?
だとすると空き時間は何をして過ごすの?
ずっと瞑想、観察? >>413
読書もするし、テレビもネットもみるよ。
でもなんかすぐ飽きてくる。疲れるというか。刺激がとても不快なものに感じられる。
だから、お気に入りの1人がけソファーに座って物音ひとつしない部屋で
静寂を楽しむというか。
座って何もしないんだけど、その状態が満たされてるというか。
何もしてないけど退屈とは感じず、満足感と安心感と安らぎの中に浸るような。
お風呂に入ってリラックスするような感じかな。
目をつむって心にある安らぎの場所を感じて癒されたり、
人の心境を感じ取ったりして楽しんでる。
ベッドに横になってもそんな感じで、数時間が過ぎる。
何もしないでいる状態こそ、自分にとっては一番幸せで心地よいと感じられる。
たぶんそれが瞑想状態ってことなのかな。
意識的に瞑想してるわけじゃないんだけど。
そういう状態になってしまってるということかな。 それ堕落(°∀°)単に稼働してないだけ笑
稼働しながらもマインドフルネスでいたら良いんだよ 自我は思考によって生まれる。
つまり自我があることによって派生するすべてのものが、思考を止めることによって消える。
自我によって生まれるものとは、まず喜怒哀楽や様々な気分。
そして、他者と自分を区別して考える見方。それによって仲間意識や敵意志が芽生え、誰かを攻撃したり愛したり憎んだりする。人に対する恐怖心や不信感もこのせい。
あとは、社会依存。自分は社会的にどれほどのステータスがあり、どの地位にいるのか。
上回れば優越感をと尊大な気分を感じ、下回れば強い劣等感とコンプレックスを感じる。
相手と自分の上下関係を意識し、そう振る舞うことが正しいと思う。
あと自我があることによって生まれるのは、死や病気の恐怖、過去や未来を思うことによる不安や恐怖感。
それらすべては自我があることによって生まれる。
つまり、動物的肉体の脳神経から生まれる、動物的本能の名残みたいなもの。
そこには霊的なものは一切ない。
自我がある以上、幸せなど永遠に感じることはできない。
じゃあ幸せってどこにあるの?ここにありますよ。あなたの中にすでにありますよ。
ただ自我が邪魔して見えなくなってるだけです。
その邪魔な動物的名残の自我を消せば、あなたはその瞬間、幸せを手に入れます。 >>415
その通り。
テレビ見ながらネットしながら今ここに在れば同じようなもの。 過去のことを思い出して嫌な気分になることもない、
将来を案じて不安になることもない、
社会的に上か下かで優越感劣等感を感じることもない、
上下関係も敵も味方もない人間関係、
色々なことでイライラしたり怒ったり憎んだり嫌ったりしない、
死や病気を恐れることもない、
自分の嫌な性格や欠点も存在しない、
そんな状態の気持ち想像してみてください。
まるで天国にいるような心境じゃないですか?
そんな状態の幸せな安らぎと穏やかさと静かな心になることができるんです。
自我を消せば。
自我を消す、つまり思考を止めれば。
思考を止める、つまり瞑想です。
瞑想で思考が止まれば、自我が消え、その瞬間元々あったあなたの霊性が目覚めます。
その霊性こそ真我と言われるものです。
その真我の特性は、自他の境のないおおいなる意識、利他的な気持ち、
静かで、平和で、穏やかで、安らかな心境。
そのような状態の、イスに座ってるだけでまるで天国にいるかのような心地よさを感じられる、
その状態が24時間毎日続く。
それが本当の幸せ >>417
ヾ(・д・`;)違うなぁ
テレビもネットも本も塵や泥だよ
他のことで自力で花を実を咲かし得るんだよ
火を燃やすとはこのことだから火をつけなさい
瞑想じたいも泥に漬かっているようだね君は(°∀°)笑 魚が水のなかで飼われているようだね
カエルならオタマジャクシから足が生える頃だね
井の中の蛙では宇宙の姿と合一してるとは云えないものだよ
もうじきに大きな鳥が現れるから掴まると良いよ(・∀・)♪ 何十年もかけて肥大してきた自我を今さら消すなんて気の遠くなるような努力がいるだろ
結局のところ自殺が一番手っ取り早いのでは…? >>421
なんでそうなるw
自我を消すのを諦めたらどうだい ここで言われる自我なる存在は脳が担当する[思考]くらいに、思っていれば良いかな。
そして[思考]を捨てるのではなく。
[思考]の結果生まれる、次元が一つ上の[感情]を重視しなさい程度で良いかと。
今の価値観だと逆になるけど、[思考]が結論を出した内容で、生まれる[感情]も変化する。
直接干渉出来るのは、3次元の肉体では当然、脳の思考になる。
だからこそ現代人は感情を無視して思考に偏りがちになるが、材料の思考が粗悪品だと、生まれる感情もまたろくでもないレベル。
そうすると、そのうち本体たる感情が、何かと問題ある食材ばかり回してくる思考にクレームを入れるようになり、精神病理が発症する。
自殺なんぞしなくても、良質な感情を生み出す思考をすれば良い。
要は同じ現象を見て、与える評価でその人の幸福感は変わる。
悪意の思考で卑下するか、善意に解釈して、ましな考え方を採用するか程度の問題かと。 何者かになろうとしないでください。
自分の性格の欠点を変えようとしたり、
尊敬する人の性格的ないい面を真似ようとしたり、
自分をより立派な人格になるよう努力しようとしたり、
謙虚さとか、温厚さとか、慈悲深い人格になろうとしないでください。
なぜそれらがいけないかというと、
自我から生まれる性格を改善したところで、それはしょせん自我を改善するにすぎないからです。
そして自我はそう簡単に改善できるものではないので、その無駄な努力によって苦しみが生まれるからです。
では、どうしたらいいのか?
そのままのあなたでいてください。
何も変わらないでください。
そしてそのまま、自我を消すのです。
すると真我が目覚めます。真我はあなたの望む理想の人格的特徴をすべて含み超越します。
まるで神のような人格です。自我を消すことで、あなたの内にある神の性質が目覚めるのです。 自分が現状で心地よく浸れる
ことがあるなら
それはそれでいいじゃん
その心地よさや落ち着きを使って
更になにか目指したいものが
産まれてくれば目指せば良いんだし
ひとつの教えとかに
服従して帰依してるので無ければ
数多くの素晴らしい考え方とかに
振り回されずに
自分の感じてることを
大事にした方がよいと思うがなあ >>412
>>424
返信ありがとう。
静寂な場所を求めるのはほんとそうだね。
ただ、会社の他にもついついいつもの癖で繁華街というか都会というかに出掛けちゃって、そこで随分色々と刺激を受けてしまって、思考と感情が出てきたりして、頭にまた暴風雨のたまごみたいなのが出来てきちゃう。
都会も都会で好きだし、なんとか静寂な状態で楽しみたいとも思うんだけど…
切り替えなのかな…それとも、静寂の中で楽しむことも出来るのかな? まずは都会じゃなくて自然に浸かりなよ
話しはそれからだw
不感症じゃないんだから意識はあって然るものだ >>427
自宅付近は自然が多くて随分好きなんだけどね。
ちょっと行くと繁華街ばっかりでね。
かわいい女の子いるなとか、キツい顔したオッさんおるなとか、広告、欲しい服、観たい映画……
まあ色々と目移りしてしまうよ。 まああんまりコン詰めてやらなくていいと思うよ。
瞑想が苦痛になるなら、やらないほうがよっぽどいい。
基本は楽しいこと自分の好きなやりたいことを重視して。 >>429
確かにそうだね。
映画や服とか人と話してる時なんかも楽しいんだけどね、
一番満たされてる時は瞑想の深く落ち着いてる時というか、そういう時でね…
随分と八方美人というのか、落ち着きがないというのか、頭が混乱してるというのか…
いまいち整理がつかないんだよね。 そうだね
未来の自分も同じこと言うだろうね
でも何人目かの自分は気づいてる
気づいていても気づかなくても日本の日常はそのまま続いている >>431
う〜ん…難しい……
もうちょっとだけ翻訳してもらえるとありがたいです。 鏡を見るとそこに映る人物を自分と認識する。
その自分を基準として、外の人を見ると、自分よりおしゃれな人や容姿のいい人、
自分よりもダサくて容姿悪い人、自分より老けた人、若い人、
鏡に写る自分とはまったく別人のような人々がたくさんいる。
この自分とその人々とを比較してしまう。どうしても比較してしまう。
彼らより優位に立ちたいと思い、オシャレしたり髪型をキメたりする。
車も同じ。自分の車と認識する車がある。それを基準に、他の車を見ては比較するようになる。
この原理。すこし疑問に思わないか?
鏡に写るこの人物をもし自分だと認識しなければ、道に歩いてるたくさんの人が他人と思わなくなる。
なので自分と他人を比較しなくなる。優劣を作って優位に立とうとしなくなる。
もし自分の乗ってる車が借り物のレンタカーだとすると、その車と他の車を比較してどうこう言わなくなる。
鏡に写るこの肉体って、ほんとあなたのものなのか?
それを借り物だとしてみ。地上にいる間だけ借りてるレンタル肉体。
それを本当の自分だと思うか?もしこの肉体が自分だと思わなければ、あなたの意識はより大きくなる。
鏡に写る人物が自分じゃないとすると、じゃあ自分ってそもそもなんなの?という疑問が起こる。
自分じゃないものを自分と思うことができるあなた。
なぜなら機械的に作られた車を、自分のものと思い込むことができるから。
鏡に写るものを自分と思い込むことができるので、あなたはどんなものをも自分と思い込むこともできる。
全世界が自分と思えば、そう思えてくるし、逆に、自分の肉体さえ自分じゃないし
すべてが自分じゃないと思えばそうなる。
これはとても興味深いと思わないか? 鏡を見なくても自分と感じられるものがある。
それは性格だろう。
なんか自分はすこし気が弱いきがする。ネガティヴになりやすい、
喜怒哀楽が激しい。頑固で少し短気ですぐイライラする。
自分の感覚で感じられるそういう感覚を感じて、ああ自分ってこういう性格の存在なんだなと認識する。
今まで出会ってきた人との関係性からも、自分ってこういうキャラのタイプの人間なんだなと認識する。
これもよく考えてみると疑問に思えてくる。
例えば、あなたは病気になったとする。とても身体が重いダルい。
その感覚の状態が本来の自分と思う?
良いことがあってとても嬉しい気分のとき、嫌なことがあって暗い気持ちのとき、
どっちの自分が本当の性格?
ある人に会ってる時の自分と、別の人に会ってるときの自分の内面も変化してるだろう。
つまりなにが言いたいかというと、
これが自分と思える内面の性格というのはそもそも存在しないということ。
その場面場面で感じられる精神状態を自分と認識してるだけで、
基準となる元々のあなたの性格や精神というのはない。
ドラマや映画を見てその主人公に感情移入して感動する原理。
自分の感情じゃないのに、相手の感情がなぜわかるの?
これってもしかして、性格とか感情さえも自分のものというのさえ存在しないんじゃないの?
自分という肉体が存在しないのと同じ原理で。 今まであなたはこれが自分だと思ってきた。
鏡に映る自分、感じられる性格や感情。
この容姿とこの性格。これが自分自身。
だから一生懸命、この2つを磨いてきた。
必死にオシャレして、運動して健康食品食べて若作りして、容姿を磨いて、
良い人に思われようと、優しい人や楽しい明るい人になろうと努力してきた。
そうでしょ?
その自分のカテゴリーに社会的なステータスや車や家も含まれる人もいる。
そのぶん彼らは努力してきたでしょう。自分を高めるために向上するために。
でも今知らされました。
あなたが今まで自分と思ってたものすべて、あなた自身じゃなかったということ。
その真実が知らされました。
この真実を知るときどのような気持ちになるでしょう。冷静に見つめてください。
はたして、今まで自分だと思ってたものすべてが、自分じゃなかったと思うとき、
どういう気持ちになるのか。
がっかりしますか?今までの努力が無駄だったことに。
それとも、なんとも言われぬすがすがしさを感じますか? あなたは存在しない。
あなたのものなど何一つ存在しない。
あなたはそれを知りとても無価値に思いますか?
自分がとても非力で価値無いように思われますか?
自分なんて存在しないのだ、と絶望して川辺でたそがれてるあなた。
なのに川はとても美しくキラキラとせせらぎ、空は青く澄み渡り、
鳥のさえずりが心地よく聞こえてくる。
そのとき涙がこぼれてきます。
そしてようやくわかったのです。
わたしはすべてだった、のだと。 わたしはすべてだった。
これに気づくために、神さまはこの世界に病気や自然災害を用意してくれています。
肉体が病気になることで、自分は肉体ではなかったのだ、と気づき、
災害によって家が流されることで、自分のものなど存在しないのだ、と学ばせるために。
なぜこの世はこんな不幸なことがあるのか?もし神さまがいるとしたらなぜこんなものを作ったのか。
その理由は、あなたを偽の肉体や性格から解放させ、
わたしはすべてだったのだ、という気づきを与えるために。
自我から真我へ。小我からおおいなる意識へ。
地球に生まれてくるすべての人は、この学びのための学校に入校してるようなもの。
おおいなる意識に目覚めるための、学校です。
おおいなる意識に目覚めれば、もう卒業です。それが輪廻転生を解脱するといいます。 おおいなる意識に目覚めるためには2つの方法があります。
病気や災害などを経験することによって目覚める方法と、
瞑想などによって意識的に目覚めていく方法。
どうせ同じ目覚めなら、できるだけ苦しみの少ないほうがいいと思いませんか?
どうせみな地上に生まれてくる人間は、この1つの目的のために生まれてきているし、
何度も生まれ変わってくるほど、このことを学ぼうとしてるので、
できるだけ苦痛の少ない、簡単で最短な方法でおおいなる意識に目覚めたいものですよね。
それには1つしか道はありません。
瞑想です。瞑想さえすれば、社会生活や結婚や家庭生活すべてを捨ててもじゅうぶんなほど、
その意味はあります。
なぜキリストもブッダも、社会生活も家庭生活も捨てたのか。
それはこのことを身をもって教えてくれています。
瞑想でおおいなる意識に目覚めることは、この世のすべての価値を超越するのだ、ということを。 社会的に成功しようと努力してる人がいます。
結婚したいと望み婚活に精を出す人がいます。
スポーツでメダルを取るため日々トレーニングしてる人がいます。
あなたももしかすると、今現在なにか目標に向けて努力してるかもしれません。
それはまるでゲームの中でレベルアップしようとしてるようなもの。
いくらゲームの中でレベルが上がり、お金が貯まろうと、しょせんはゲームです。
そのためにいくら努力しようと、それは本人の自由ですが、それが現実に生かされることはありません。
言いたいのは、
ゲームの中の目標のために努力をするのではなく、ゲームをしてることに気づくことです。
ゲームをしてる何者かに気づくことです。
ゲームをしてる存在に意識を向けることです。
つまり、ゲームをしてる者になることです。
ゲームの中のキャラクターは今現在のあなたの自我です。
ゲームをしてる者は、おおいなる意識、真我といわれるものです。
おおいなる意識に目覚めると、ゲームは終わります。
輪廻転生というゲームはようやく終わるのです。
それまでずっと何度も何度も、死んでは復活し、リセットして繰り返し生きていきます。
違うキャラで違いステータスで、それが前世と言われるものです。
ゲームをしてる何者かに気づくことです。
それでようやく終わるんです。
もうゲームの世界の怖いステージとか、凶暴なキャラやボスにはこりごりでしょう。
だからもうゲームは終わるんです。
あなたのゲームはもう終わるんです。 ゲーム内の物には価値などありません。
だからキリストもブッダも、この世というゲーム内のお金や物質や社会的地位や名誉に
価値を置かなかったんです。
この世のものには1つも価値などない。だから彼ら賢者は身にまとう布切れ一枚しか持たなかったんです。
彼らが唯一価値を置いたもの。
それはこの世というゲームの裏側にある、本当の世界の存在、そしてゲームをやっている者の存在。
それらこそ本物の実在なので、価値を置きました。
それが、霊界とか、神とか、天使とか、仏とか、魂とか、言われるものです。
ゲーム内のこの世界ではそれらは架空のものだと言いますが、
実はそちらのほうが実在だったのですね。
海の中の魚に実は陸の世界のほうが本当の世界なんだよ、と教えても
そんなわけあるか、陸には水が存在しないのになんで呼吸できるんだ?と言ってるようなもの。
面白いですね。 ゲームなんて言い方バカ丸出しだね。
ゲームならキリストも救いになんか来ないよ。 >>433 〜
返信ありがとう。
おおよそ半分はすごくわかる!んだけど、あと半分がやっぱり整理がつかないというのか、不安定なんだ…
書いてもらった返信をもう少し読み込んでみる。 活動しながら瞑想状態、マインドフルネス状態?というのか…そういう風になれればと思ってるんだけど、何かまだ思考を使う癖みたいなものが残っているのか、日常の中で頭がグシャグシャっとする時があるんだよね。
映画や本やショッピングや…が楽しい、時も、半分かそれ未満かは前より瞑想状態の何かがピーンと静かに聴こえてる、感じてる、とは思うんだけど、これがなかなか100%にならないというかね… ちょっと順不同というか、まとまってない状態で書いてしまうんだけど、
例えば、服なんかは、肉体が借り物という感じで、自分はスタイルとかもいい方ではないんだけれど、着せ替え遊び?なのかな、借り物の肉体を使って遊んでる感じ。
で、その遊びがなかなか面白な〜と思ってる。
人と差を出したい、というのが一番には来てなくて、ただ楽しいな〜とか、明るい気持ちになるな〜とか、そんな感じ。 瞑想中、ある程度深いところまでいくと肛門の奥の筋肉がうねり出して集中できなくなるんですが、似たような人いますか? >>447
うねりはわからないけれど、とりあえずウンコしに行きたくなることは多々あって、瞑想→便所→スッキリ→瞑想は週に3、4回起こるよ。
チャクラ的にその辺りってなんかある場合だし何かあるのかも?
自分はチャクラに全く精通してないので、何もわからないが… 寝る瞬間に気付かないのと同じで自我を失う瞬間に気付く事もないんだよ
もし自我が消えたとか自称してるやつがいたらそれは嘘 >>433 〜
なんとなくわかったかも。
服選んだりは確かに"ゲーム"、もしくは"遊び"というところで楽しいと思ってるのかも。
本や音楽、映画もそうかも。
それがどうと言われると…う〜ん自分でもよくわからないけど… 三昧という言葉があってさ
読書三昧 音楽三昧 洋服三昧 瞑想三昧
まぁそれぞれが独立した別個のことだよ >>451
ああ、確かに。
そうそうだからかな、まあ服選びも本や映画も、遊びとして、三昧として、楽しいし、それはそれであってもいいんじゃないのかなって、そういう意味で、自分の中の整理がつかなかったのかもしれない。
常に感じつつ、〇〇三昧、でもいいんじゃないのかなって。
ごめんね、独り言のようなことばかり書いちゃって。 何かをしているというのは学びなんだよね
音楽なら演奏家を師とするのか楽器職人など
何かをするのはそれに準じる道に乗っているわけだね
音楽をとりあげたけど他の何がしかの事柄をするのもその道の学びがあるわけだ なるほど…
繋がるかどうかわからないんだけど、
なんとなくモヤモヤしてるのは、
空であり、全てであるってことはすごくしっくり来るんだけど、
その後、だったら、何にでもなって、例えば鳥になって、蝉になって、木になって、音になって、服になって、食になって…という具合に全身(全霊?)で楽しむ、というのか、遊ぶというのか、ってのが静寂のそれと相性がいいんじゃないのかなって思ったりするところなのかな…
う〜ん…まとまらないw つまり、静寂と完璧な時間と感覚、は素晴らしく良い、なんだけど、それそれですごく良いんだけど、ちょっと退屈だな、次は何して遊ぼうかなって、何かしらの発火点を作って、完璧な時間の上に遊ぶ、ってのがやりたい、のは自分だけなのかもしれないけどw……なんかそんな感じ。
気になってるのはバランスなのかもしれないけれど。
遊びと静寂のバランス。
教えてくれてる人は、教えを説くという遊びをしてくれてるのかもしれない、のかな?とか。
意味不明かなあ…⁇ と、まあこういうことを考えてるのが、思考、ってことで良くないのかな? セックス依存性なんだけど瞑想教えて
鼻呼吸にして呼吸に集中して何も考えないでぼーっとしてればいいの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています