【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 何ピキピキきてるんだこの人?
自分が悟ったというなら他人が何言おうと関係ないのに
ただ平坦に安らかに生ける屍として余生を暮らしていればいいと思うの >>307
フリーターって言ってもいろいろあるけど、35にもなって親の臑齧りじゃあ悟りとか以前に
「まず、自立した方が……」になっちゃう。
覚醒しても自立して、社会と調和しながら両立できてる人だったら、おぉ!ってなるけど。
覚醒した人って欲がなくなってしまうから、上の人も言うとおり「穏やかに生ける屍」みたいになっちゃうのかもね。
でもみんな、それを目指してるのか?と言われればそうじゃ無い気がする。 >>317
そこは、いいんじゃないかな?
出家してる坊さんなんかはフリーターですらないわけだし。
フリーターでMステ出てるミュージシャンもいるわけだし。
時代的にいろいろだから、そゆところは、置いとこかない?と思っちゃうかな〜。 そういう偏見ってあるでしょ。
こうあるべきっていう固定観念。
社会に植え付けられたのか、親に植え付けられたのか、そういう先入観というやつ。
そういう基準で他者を裁くのもいいけど、
それで自分の首を締めてることに気づいたほうがいい。
そういう思考で心を縛られて苦しんでるんだよ。
その偏見や固定観念から自由になる。その時初めて心の安らぎを感じる。
悟りを開いてからそういう偏見が一切消えた。
社会的弱者も強者もぼくの目からみたら一切変わりない。
真実の姿をみてください。妄想で真実の姿が見えなくなっています。 一度生まれてからの刷り込みが全部洗脳されると本当に驚くよね。 >>321
あぁ、ホントだ。私はいつの間にかこう在るべきってのにがんじがらめになってたわ。
悟るとそういう感じなるんだね。ホントに甲乙が無いというか。深く納得した。 ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
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死の恐怖は克服できた?
肉親や大事な人が死ぬことはあってももう悲しむことはない?
肉体に激痛が走っても重病になっても穏やかな気持ちになれる? >>321
うわー、素敵です。
でも現世的に他者に何もよい影響を及ぼせない薄っぺらさって、
命が尽きたときに本当に本人が望んだ結末になるのかな?
似非スピリチュアリストの誰かさんの話を持ち出していた時点で怪しいと思ってしまうのだけど。 仏陀や聖人が正しいと証明した話なんて現世で奇跡を起こしたくらいしかないからな。
奇跡を起こせない、それもフリーターで現世で何も影響力を持たないのに何か語る人って正直信じられない。
思考の転換的なものは頭の病気だといくらでもおこるしね。
精神の衛生にはいいんだよね。
スーハッハーって心の深呼吸だな。
価値観のちがいだねw >>325
自分が死ぬことに恐怖は感じない。
むしろ死が待ち遠しいと感じる。あの世に行くということは幸せなことだとわかってるので。
肉親の死については、悟りを開いてからまだ起こってないのでわからない。
悲しむかもしれないし、何も思わないかもしれない。
悟りを開く前はドキュメンタリー番組とか見たり暗いニュースを見ると悲しい気持ちになっていたけど、
今はそこまでの悲しみを感じなくなったように思う。
なんというか、そういう現実がその人の身の上に起こっているんだな、というだけで
それが良いとか悪いとか思わない。そういう現象が存在するだけで、それが幸不幸とは考えなくなった。
なので、ありのままの現実をそのまま直視するような感覚で認識してる。
だから悲しまなくなったのかも。
肉体に激痛だったり重病になったことが悟り体験以降ないので、わからない。
穏やかな気持ちでいられるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
でも、仕事でトラブルとか焦るような場面があっても、以前みたいに焦ったり動転したりしなくなったような。
いつも穏やな気持ちの落ち着いた状態でいられてるような。 >>328
興味深いレスありがとう
仕事はしてるようだけど人間関係に変化は起きたかな?
周囲の人とより親密になったとかあるいはその逆だとか
今まで出会ったことのない人との出会いが起こり始めたとか
それから古代文明遺跡に何か特別な見識が芽生えたとか
縄文土器の渦巻きに時間を超えたシンクロを感じるとか >>329
人間関係の変化は少しあったように感じる。
職場には沢山の人がいるんだけど、自分の好きなタイプの人もいれば、
苦手なタイプの人もいる。
そのなかで無意識に、好きなタイプには親切に、苦手なタイプには嫌悪感を出してたきがする。
そのため相手もそれを感じとって、鏡のように自分に対して好意悪意を返してきたように感じるけど、
悟りを開いてからは、好きなタイプの人や苦手なタイプという偏見が消えて無くなったような感じがする。
なので誰に対しても同じような平等な目で見るようになったので、
自分の苦手なタイプの人との関係がよくなった気がする。
あとぼくはバイトなんだけど、責任者とか社員とかの人に対して、前までは上下の位置関係を強く感じてたけど、
そういうのも感じなくなったというか。
なんかすべての人がみんな平等で、どんな悪人面の人も善人みたいな人も、同程度の親近感を感じられるというか。
なので、極端に言えば、家族とそこらに歩いてる赤の他人が、同じような親近感で感じられる、というような。
それは悟りを開いてから変わった所だと思う。
古代文明とか縄文土器をみて、何かインスピレーションが沸き起こってくるみたいなことはないかなぁ。 私なら
まるっきり鵜呑みにしてみるなら
悟ったという人を悟ったとして
その人の言うことなすこと見て聞いて
そんな人になりたいか
なりたくないか考えて
自分がこの世界に産まれて生きて
何をなしてどう生きて死ぬか
どんな望みがあるのか
ハッキリさせたいと思うだろうな >>330
どうやら好き嫌いの選別機能の縛りがなくなったという感じのようだね
好き嫌いの判断をつかさどる脳の扁桃核に何らかの変化が生じた
ということかもしれない >>332
私も同じような体験後、脳の中が変わったとしか思えなくて。
扁桃核調べてみよう。 やっぱり脳(特に左脳)の状態が変化してるってことかな。前々から出てきてた意見だよね。
ジルボルトテイラー氏の動画によると、彼女は左脳の機能不全で悟りのような状態になったそうです。 >>334
それは教えてもらって見たことあります。 マインドフルネスに戻ってほしいのは俺だけ?
このスレ、117、118あたりまではすごい参考になったんだけど。
この流れが続くのならブックマーク外すわ。 確かに。
悟った悟ってないの話よりもよほど現実的で役に立つ。 話題なんかは構わず話せば良いだけで
それじゃ嫌だみたいに言う人はこうじゃなきゃダメみたいな観念に縛られてるわけでしょ
他に話たいなら話せば良いだけなんだから(・∀・)♪
自分が欲しい話題が得られないのとスレのあり方はイコールじゃないと思うんだけどな 参考になる事はほぼ前半で出尽くしてるんじゃないかな?
後は実践した人の報告になっていく感じじゃない?
しかしマインドフルネスなかなか上手くいかない
如何に意識がアチコチに飛んでるのかを痛感するわ
もう少しイマココが増えてきたり変化があれば書き込みにきます マインドフルネスにしろ坐禅にしろ準備が最重要たよ
眠くならないようにしておくのはもちろんだけど座って足組んで背伸ばす動作とか物が見える聞こえるといった自分が問題なくやれてる事を実感してもう何もする必要が無いなって納得できたらそのままにしておけばいい
何もしないでいようとして坐るのではなくこれ以上何もする必要が無いと納得してから坐るってのがミソ マインドフルネスとか瞑想って無心になればいいんですか?
でも人間工学的に無心になるって不可能だと思うんですけど... 無心って、思考が止まってる状態のこと。
思考を止めるためにマインドフルネスや瞑想をする。
思考が止まれば実はどんな方法でもかまわないんだけど、
思考が止まる方法は1つしかない。
それは、今ここ、今この瞬間に起こってるある1つの対象を意識し続ける。
今している呼吸、今聞こえている音、今感じる身体の感覚、
どれでもいい、どれか1つ選んで感じ続ける。
すると思考がだんだん止まっていく。
思考が止まると感情も止まる。なぜなら感情は思考から生まれるから。
感情が止まれば、心は静かで安らかで穏やかになる。それがリラックス状態。
それが目的でマインドフルネスは行われる。そこまでがマインドフルネスの到達地点。
でもその先にいくと、その状態は真我の状態と言える。思考や感情の自我が消えた真我の状態。
真我の意識状態が生活の中で増えていくと、次第に自分の中の真我の割合が増えてくる。
そして最終的に100パーセント真我の状態となるとき、覚醒体験が起こり、
自我の消滅が起こる。それは悟り体験という。
その悟り体験によって輪廻転生を解脱し、仏陀となる。
それが仏教の根本の目的。そのために様々な修行や勤行が行われる。
でもそれでも悟りを開くことのできる人はごくわずか。
でもぼくはふかふかのソファーに座りながら、リラックス曲流しながら悟り開いちゃった。 歩き瞑想ってあるでしょ。
最初不思議だった。瞑想って半意識状態になることなのに、
なんで歩きながら瞑想状態に入れるのか?って。
それは自分が誤解してた。
瞑想というのは半意識状態になることじゃなくて、
1つの対象を観察し続ける集中状態のことなんだということ。
それを誤解してた。
瞑想って、目をつむってするイメージがあるから、どうしても半分寝てるような感じに思えるけど、
じつは逆で、目をつむりながら、全神経をある一点に集中し続けてる状態のこと。
だからボーっとするのとは逆で、超神経が研ぎ澄まされてるような覚醒状態のことを瞑想状態というんだ。
それを誤解すると、座禅組んでロウソクつけて見た目は本格的なんだけど、
半意識状態、変性意識状態に入ろうとしてしまう。そういう状態になることが目的になってしまう。
それは間違った瞑想。全然瞑想じゃない。瞑想とは真逆なので、瞑想を終えるとダルくなったり疲れを感じたりする。
本当の瞑想状態は、刀のように神経が集中して1キロ先の音も聞こえるくらい意識が目覚めてる感覚なので、
瞑想を終えると、なんとも清々しい目覚めのような気分になる。
それを意識して瞑想やマインドフルネスやってみるといいよ 瞑想やマインドフルネスはリラックスするものだから、
肩の力を抜いていリラックス状態で行うと思ってるけどそれ間違い。
瞑想やマインドフルネスの結果リラックス状態になるのであって、
行う前は適度な意思と集中力が必要だよ。
だから座禅は足を組んで背筋伸ばして、わざわざ緊張状態の体勢を作るの。
だから、瞑想すると眠くなるってことは本当はないんだよ。
眠くなんかならないよ。超集中状態が続いてるんだから。
ぎゃくに普段の状態よりも、目覚めてる状態なんだよ。
なので眠くなる瞑想してるっていうのは、さっき言った間違った瞑想しちゃってるんじゃないかな。
それか、肩の力抜きすぎてリラックスしすぎてるか。
ある程度の緊張感は必要なんだよ。精神統一状態だからね、瞑想というのは。 子供がゲームしてるとき、何か趣味に熱中してるとき、
登山家が山に登ってる時、洞窟探検家が洞窟を探検してるとき、
爬虫類研究家が爬虫類を追いかけ回してるとき、
その瞬間すべて、瞑想状態と同じ状態。
今この瞬間に集中して、思考が止まってる状態。
なので人は、自分のやりたいことしてるとき無意識に瞑想状態になってるわけ。
みんな様々な道で、違うやり方で同じものを目指すようになってる。それは悟り。
ボクサーはボクシングで、オリンピック選手は競技で、
ピアニストはピアノで、瞑想状態に入り、真我の状態でいる時間を長くしようとする。
その真我の状態が多くなるほど悟りに近づく。
みんな自分のやりたいことをやった結果、悟りに向かっていくシステム。誰かが作った。
その最短で合理的な方法が、瞑想。
仏教にも宗派によって色々方法あるけど、そんなのいらない。
家のソファに座って、聞こえてくる音を聞き続けてればいいだけ。 >>347
極限まで自分を追い込まないとゾーンに入れない印象があるんだけど、
ゾーンに入るには努力が必要と思いますか? >>342
チガウチガウ(-д- 三 -д-)ソウジャナイ
ソウダソウダ(o・ω・o)ソウナンダ
どちらもok(・∀・)♪
雨が降れば傘をひろげて歩く人がいる
傘ではなくてカッパを着る人もいる
まして何もなく雨にうたれて遊ぶ子供もいる
人の心は人それぞれその時に無為自然になるものだよ( ´∀`)σ)∀`)コーヒークチクセェョ 仏陀は苦行したけど悟れなかったと言ってるよね。
けど、欲に身を任せた生活もダメだと言っている。
両極端にならず中道である事を説いたのが仏陀です。
二元論は避けましょう。
ここからは私の理解ですが、中道を実践するにはそもそも中道とは何かを知るための智慧が必要で、智慧を得るには瞑想が必要。
瞑想によって自身を理解し、世の中の因縁を理解する。
それには苦行とはまた違う努力が必要なんだと思います。 私は中道は実践するものではなく到達するものだと思ってる。 >>351
ゾーンに入るための努力とは、変性意識に入るための努力といえる。
そもそもそれ自体が間違ってる。
瞑想の到達点は、今この瞬間を感じることであって、
変性意識状態になることは瞑想じゃない。
今ここを感じ続けてるとそういう状態になることもあるが、
それが到達点ではないし、目的でもない。
そこを勘違いしてしまうと、変性意識状態ゾーンに入ることが目的になってしまい、
そのための努力という自我から生じる考えが起こる。
そもそも瞑想に努力など必要ない。
今その状態でその体制で、今聞こえてくる音を意識してみる。身体の感覚を感じてみる。
それがすでに瞑想状態なんです。 今日また不思議な夢を見た。
1週間前に守護霊に尋ねた答えが返ってきた。
声は宇宙人のような声で聞こえたけど、ちゃんと受け答えしていた。
もう半分起きてるような状態で、目の前にあったクッションが人物ように見えて
その人物と話してたみたい。
一番肝心な所は聞こえなかったが、そのあと尋ねるとラップ音で答えが返ってきたので、
たぶんそういう答えなのだろう。
自分としては残念だけど、そういう導きなので受け入れようと思う。
内容はプライベートなことなので控える。
今日はゾロ目数字を沢山目にした。これも守護霊との合図っていうはわかってるから、もう間違いないとおもう。
悟りを開くような人間はこんな不思議体験しょっちゅうします。 >>361
そういう板だからね。
実生活にうまく使えればいい能力だけど、使えてる人いるんだろうか? 無になってるのをキープするのが瞑想じゃないかな。
一瞬だけ無になったところで、それは日常で誰にでも起こるから。
なるべく思考が止まってる無の状態を保ち続けるのがいいんじゃないかな。 引き寄せと悟りって関係あるんだろうか?
今まで、108式の認識の変更って悟りのことだと思ってたんだけど
悟ったからと言って、引き寄せが上手く行くわけでも無さそうな人が多いから
引き寄せと悟りってあまり関係ないように感じている今日この頃。 >>368
ありがとう。
そこで、いつも下の画像を思い出すんだ。
何も考えてないのと、心を無にするのは違う…と
ミスターポポはおっしゃるわけ。
この、心を無にする、っていうのにものすごく抵抗があるんだ。無心というけど、心が無い状態って、魂も無い状態で、つまり、死と同等なのではないかという恐怖感や人間として駄目になってしまうんでないの感があって…
https://ameblo.jp/original-gn-drive/image-11078232654-11610735849.html >>370
無になることは、思考と感情が消えること。
でも思考と感情が消えても、意識はちゃんとある。
ちゃんとあるどころか、より明晰な意識になる。
明晰な意識になると、判断力、洞察力、深い落ち着きが得られる。
感受性も精神もより豊かに感じられる。
なので、無になることは無機質なロボットになることとは全く違うこと。
悟空の何も考えてない状態は、ただボーっとした状態。
ポポの言う無の状態とは瞑想状態。
ボーっとするのとは逆で、ある対象を集中して思考が止まってる状態なので、
意識が鮮明で明瞭になる。
ボーっとするのは意識がぼやけた状態。
無の状態とは普段より意識が目覚めてる状態。なのでまったく逆の状態。 宗教はなぜ、男女の愛、食欲睡眠、人間関係、社会生活、
それらを重視しないのか。
どれも生きていく上で重要なことなのに、
どの宗教もそれらに価値を置かない。
それには理由がある。
それらのものはすべて肉体があることによって生じるものだから。
宗教は魂や心という、霊的なものに価値を置き、それ以外のこの世のものは意味がないと言う。
実際に霊界に行ってみれば、男女愛なんてないし、食欲も睡眠も存在しない、
人間関係もないし、社会生活なんてものもない。
霊界で唯一実在するのは、魂のみ。魂の資質とは何か。
それは、心、気持ち、愛、そして様々な霊的能力。
それのみが存在するする。
なのでそれらを育むことで魂がさらに向上していく。
そのために宗教はあるから、上手な恋愛法や、人間関係や社会生活を営む方法を教えたところで、
霊界に戻ればまったく価値のないことになってしまう。
霊界に戻ったとき、価値があることは、魂の成長だから、
静かで安らかな心を育んだり、慈悲の心を育てたりすることが、
魂の成長につながり、それが本来の魂の霊の姿のあなたにとって一番価値のあるものと考える。
だからほとんどの宗教では、それ以外のものに価値を見出さない。 輪廻の前半では、飢餓や貧困で学ぼうとする。
生きることについて学ぶ時期なので、動物界のように、弱肉強食で生きるか死ぬかのような世界に生きる。
輪廻の中盤になると、男女愛や人間関係や社会生活で学ぼうとする。
そのため、彼らの人生は複雑な男女関係や社会生活で悩み葛藤し学ぶようになってる。
輪廻の終盤になると、自分の好きなことを探求したり、外界を遮断して自分の世界観を築き上げる。
自己探求をするようになる。
輪廻の最終段階、いよいよ解脱となると
精神世界の探求がはじまり、自己流に瞑想したり神を見出そうとしたり、
真理を探求するようになる。
自分が輪廻のどの段階なのか、この基準に当てはめてみると理解できます。 この世とは
飢餓や貧困や弱肉強食の世界を通して学び、
男女の恋愛や人間関係を通して学び、
社会生活を通して学び、
自己探求を通して学び、
真理の探求を通して学んでいきます。
そこまでが地上人生の学ぶべき課題です。
そのために地上世界は存在してる。魂の修行の場として。
植物や動物であった魂が、人間になるために、そして人間の魂が解脱していくために。
輪廻の最終段階を終え、無事悟りを開き解脱した魂は、
もう二度と地上に生まれてきません。もうすべて学ぶべき課題を終えたから。
こんどは霊界での探求が始まる。より深い真理の探求。
そこには肉体を持つゆえの不自由さがないので、より真理の探求に専念できるのです。 解脱した魂が、霊界でどのような生活を送るかわからない。
でも肉体を持たないゆえ、思念により一瞬で地球の裏側へ行けるような自由さを持つので、
そこから想像すると、例えば、別の惑星を探索したりだとか、
別の次元の世界の存在やその世界とこの世界のまたがる法則性を学んだり、
魂の霊的能力によって創造する力によって様々な物質界の生物を創造する計画に参画したりする。
肉体がないのでもう苦しみは存在しない。
痛みも悲しみも悩みも存在しないだろう。
なんという美しい世界なのだろう。自由な世界なのだろう。
ぼくはもうすぐその世界を訪れることができる。
なんと喜ばしいことだろう。 2500年前に悟りを開き、今現在は霊界かさらに上の神界で神のような威厳と気高きオーラを放っているであろう
仏陀の足元にぼくはようやくたどり着いたのだろうか。
仏陀は悟りを開いて輪廻転生を終えてからすでに2500年が経った。
シルバーバーチが地上をさって、つまり解脱して3000年が経った。
解脱して霊界での生活が始まっても、さらに魂は向上進歩していく。
仏陀もシルバーバーチも解脱してから、2500年3000年の期間にかなり成長しただろう。
霊界を卒業して神界に入ったのか、地球神界を卒業してさらに上の銀河系霊界に突入したのかわからない。
彼ら超高級霊、ぼくら人間からみたら神のようなお方の足元をようやく拝めるレベルになったのか。
ぼくもあと2500年後、3000年後には今現在の仏陀やシルバーバーチの域に達することができるのだろうか。
その時には、今現在地上に生きてる人たちも無事輪廻転生を解脱して、霊界での生活が始まってることだろうか。 輪廻転生を解脱する人は特別な人のように思われる。
でも、永遠の魂の視点で見ると、それはしょせん小学校を卒業する程度のレベルにすぎない。
小学校を卒業すると、こんどは中学校での生活が始まり、高校での生活、
というふうに魂の成長段階に応じて、住む世界も変わっていく。
魂は永遠とスピリチュアリズムでは言われてるので、
もしそれが本当だとすると、1億年後、10億年後も、ぼくやあなたの意識はちゃんとその瞬間にも存在してることになる。
もうその頃には、銀河霊界を卒業して、宇宙霊界へと入り、
星々の創造や運行を司る意識体になってるのかもしれないが、
その瞬間にもどんな形であれ、ぼくやあなたという意識は存在することは確かだ。
そして最終的には、この意識はスピリチュアリズムで言われる大霊と呼ばれる純粋なるおおいなる意識
つまり神に溶け込み、自分がようやく全宇宙を創造した神となるのであろうか。
その時には、もう向上の道が残されていない。
ようやく完成の域に達した魂は、退屈を感じ、自らの分霊を植物や動物や人間に宿し、
地上世界を経験しようとするのだろうか。 地上経験を体験するために、再び新たな宇宙を創造する。
この宇宙とは別の宇宙を新たな神になった神は創造する。
そして万物に自分の分け御霊を宿し、物質世界を体験させて修行することで
その完成された神の状態でいながら楽しみを感じる。
この説でいくと、宇宙は1つではなく無数の宇宙が存在することになる。
それぞれの宇宙にそれぞれの神が存在する。
この宇宙は138億年前に誕生したが、それは新しく神になった神によって新しく作られたものだろう。
その100億年前にも1000億年前にも、また別の神によって別の宇宙は誕生していた。
その宇宙がもし数億単位で存在してるとすると、もはやこの我々の住んでる宇宙など、
とてもちっぽけなものに過ぎない。
そして無限とも思われる星々には別次元で見えない生命体が存在しており、文明が発達している。
その中の地球という星。その物質世界の輪廻転生をようやく抜け出すことができた。
個人的には喜ばしいことだが、永遠の魂の視点から見ると、まだまだ未熟者で赤子のようで
まだまだ先は長いのだ、という思いになる。 悟りを開いてこのような感覚を感じた仏教の僧侶は、
曼荼羅という宇宙の図式を作った。それが中国から日本に伝わり真言密教になった。
このような世界観は他の宗派の仏教でも見られる。
なのでやはり真理ではないかと思う。
ぼくは悟りを開いて解脱したけど、実のところ人より人格が立派だとか
人間ができてるとか、優れてると思ったことがない。
客観的に見ても自分は人格者でもないし、愛の気持ちなんかあまりない。
つまり、悟りを開いて解脱することなんて、その程度なんだ。
解脱する人と、しない人の差なんてごくわずかほとんど存在しないようなもの。
じゃあなぜぼくが解脱できたか?それは解脱したかったから。
仏教の教えに興味出た時、スピリチュアリズムで魂は転生すると知ったとき、
思ったのは単純に、おれ早く卒業したい、それだけだった。
その10年後、ようやく卒業できたんだ。 霊も同じだろう。
この世になにかしら未練があって霊界にまだ行きたくない、まだこの世にとどまっていたい
と思う霊は未浄化霊として留まるし、未練ないし霊界に進もうと思う霊はスムーズに霊界に行く。
それと同じことじゃないかと。
この世でもっと物質世界を楽しみたい、もっと物質で色んな経験してみたい、と思う魂は、
お金持ちの経験してみたり、イケメン美女になって派手で快楽的な異性関係の人生を楽しもうとしたり、
社会的な成功をしてみたり、オリンピックやスポーツで自分の力を試してみたりする。
そういう人は輪廻を解脱できないんじゃなくて、実は本人の意志でまだしないだけなんだ。
つまり、まだしたくないの。まだ物質世界で楽しみたいの。卒業が嫌でもっと小学校生活を続けたいと思ってるの。
だから卒業しない。つまり輪廻転生から解脱しない。
じゃあ解脱したいと思う人はできるの?できます。
とくに今の時代は容易にできる時代になってます。 昔の時代は輪廻転生を解脱するなんて、ごく一部の仏教の修行僧に限られたことだった。
でも今の時代は、その輪廻転生や解脱のメカニズムが精神世界でわかりやすく学ぶことができる。
とくにぼくが悟りへの最短だと思うのは、ノンデュアリティー。
瞑想によってこの真我の感覚、ノンデュアリティーの教えの感覚を理解し感じれば、
それがもう解脱なんです。
解脱というのは、この世が実在しない世界、自分というのは存在しない、ということがわかること、
つまりこの世が嘘の世界だと見抜くことではじめて達成されること。
この世の嘘を見抜くにはスピリチュアリズムで霊界の実像を知るもいいし、
ノンデュアリティでこの世やわたしは存在しないと知るのもいい。
まずは霊的世界こそ実在で、この世や肉体の自分は本当のものじゃないと知ること。
そして瞑想で真我の感覚を味わうことによって、それを体感として知ること。
不思議神秘体験や霊体験でもいい。
それを数年続けてると、解脱できます。輪廻転生から解脱します。
解脱するには、普通に物質世界で生きて生活してるだけでは無理。
解脱したいなら、解脱したいと望むこと。そうすれば必ず叶います。
これが最後のあなたの地上人生にしませんか? 解脱できない、しない人の特徴を教えます。
長生きしたいと思う人、死にたくないと思う人、あの世は存在しないと思う人。
その人は解脱しません。来世がちゃんとあります。
解脱したぼくの心境は、
長生きしたくない、なるべく早く死にたい、あの世こそ実在の世界、という思い。
彼らとは真逆ですね。
でもそういう感覚になるんです。
長生きしたくなく、なるべく早く霊界に戻りたい、なぜならそこが本来の故郷で
この世の100倍美しくて幸せな世界だと知ってるから。
生きてることが辛いわけじゃない。
でもこの世界はそもそも本来いるべき場所じゃないから、はやくおうちに帰りたいという気持ち。
こういう気持ちを持つ人は解脱する人でしょう。
普通に考えてみればわかります。
解脱しない人は、この世がすべてと思ってるわけです。
だから解脱できないんです。
ぼくはあの世がすべてと思っていて、この世は存在しないと思ってるんです。
だから解脱するんです。
こんな簡単で単純でわかりやすいことありますか。
解脱したいなら、この世の執着をすべて捨てるんです。
長生きしたいとか、この世がすべてとか、そういう思いを捨てる。
それが仏陀が言ってた意味なんだ。執着するな、というのは
その地上への執着によって解脱が遅れてしまうぞ、解脱できなくなってしまうぞ、
ということを仏陀は言いたかったんだ。
その地上への執着を捨てるために、キリストは天の国の素晴らしさを説いた。
シルバーバーチをはじめスピリチュアリズムは、霊界の素晴らしさを説き、この世は苦しみの実在しない世界と説いた。
彼らが言ってるのはみんな同じこと。
長生きしたいとか、この世は楽しい世界でもっといたい、
という思いがこの世に執着を起こし、その思いによって輪廻転生から解脱できなくなってるんだぞと。
あの世の存在を信じ、素晴らしい世界、美しい世界と知ることで、
その世界を求めようとする。その気持ちがあなたを地上から引き離し、
解脱することができるんだぞ、ということなんです。 ここまで読んでくれた人は、もう半分輪廻転生から解脱したようなもんです。
あとは実践あるのみ。
一緒に解脱しましょう。ぼくと同じく今世が最後の転生となりますように。
この宇宙が138億年前に誕生し、地球ができて、生命が誕生し、
ようやくその生命に魂を宿す段階から、現在のこの人間の姿となるまで、
何万年何億年かかったでしょうか。植物や微生物だった頃から、一匹のミジンコやアリだった頃から、
一匹の魚や爬虫類だった頃から、一匹のネズミや鳥だった頃から、
一匹の豚や羊だった頃から、一匹の猿やゴリラだった頃から、
ようやく人間の類人猿としての魂となり、それから現代文明の先進国の人間となるまで、
どれほどの年月と再生を経てきたのでしょう。
そして、ついにようやく人間を卒業する時がきたのです。
それが今です。ついにあなたは一本の雑草だった頃から念願だった、
物質世界からの解脱を果たそうとしています。
植物や動物の頃からの憧れであった人間さえも卒業しようとしています。
新たな旅立ちのときがきました。
霊界の天使や菩薩達も祝福してくれています。 人間を卒業するんじゃなくて、
人間になるんだよ。
やっと人間になるんだよ。 幽霊とか神とか言ってるバカは頭いっちゃってるの?
霊も神も死後の世界も100パーセントないからな >>371
返信ありがとう。
この書き込みの、ある対象を集中して思考が止まってる、ってところなんだけど、
1これは何を対象とするのがいいんだろう?
なんでもいいのかな?
例えば呼吸の出入り、目を閉じると視える白い球、全身の身体感覚の外側にうっすら感じるオーラのようなもの…etc...
2集中していても、ものすごい思考の渦が、感情の波が、ある種の妄想のような甘美な快楽物質が、それぞれ入れ替わり立ち替わり、時には混ざりながら頭の中に押し寄せてくるんだ。
もうどうにもならないくらい台風の渦の中に巻き込まれたかのごとく、頭の中が暴風雨だらけで、集中段階になかなか行けない。これはどうすればいい?
3静寂と安心の時間は、ほぼ毎日に近く訪れるんだけど、それが長続きしない。上記のごとく渦巻く思考の中に振り回されてしまうんだ。
はっきり、あの静寂の完璧な時間を、ずっと続けて、それをベースの状態にしたいんだけど、それが上記のような暴風雨の時間の方が圧倒的に長すぎて、辛い、というのが今一番悩んでるところ。
助けてww 瞑想にこだわらないでスポーツやら温泉やらマッサージで硬さをほぐす しかし長文書いてる人は毎回自分は悟ったんだと言いたいわけかw
単に瞑想してるだけだろw
そして瞑想スレであるw
まぁ勉強は他をシャットアウトして勉強に集中するしかないんじゃないかな
他に気を取られるよりは瞑想は良いと思うけど
結局は勉強が大事だと思い込んでやるしかない >>387
1は、音でも、見えてるものでも、身体の感覚でもいい。なんでもいい。
つまり今この瞬間に意識を向けることができれば、どんな方法でもいい。
今この瞬間に気づいていればいいから、音に集中してみたり、見えるものを見続けたり、自分の感覚で変えていくのもいい。
2は、これはとてもよくわかる。
思考は止めようと思って止められるものじゃない。
瞑想しようと無になろうとすると、思考が沸き起こってくる。
でもその思考を観察していると、思考によって感情は発生してることに気づくはず。
なので感情を止めようとするんじゃなく、思考のみを対象とすること。
思考が止まれば感情も止まる。問題原因を思考一本化する。
思考のみを敵だとする。思考も感情もと色々止めようとすると、荒波に飲み込まれる。
思考さえ止まればもう勝ったも当然。
瞑想中に沸き起こる思考について、思考を消そうとしてはいけない。
消そうとして消えるものではないから。止めようとして止まるものじゃない。
もし瞑想中に思考が沸き起こってきたら、そのことに気づくことが重要。
あ!今思考してた!そう気づいたら再び、音なり身体に感覚なりに意識を向ける。
また意識が思考に向かおうとしたら、気づいて、意識を今ここの音や感覚に向ける。
その繰り返し。
ポイントは、思考に気づくことと、意識を思考から今ここへと引き戻す意志の力、
この2つ。 >>391
ありがとう。
さっそく教えてもらったポイントに気をつけて実践してみる。 >>391
思考の威力が激しすぎて頭割れそう
最後の抵抗的なものなのかな?
今ここが全く見えないぐらいの積乱雲のど真ん中にいる状態がずっと続くww
ほんと助けて >>393
やり方を変えてみるといいかも。
自分に合った方法を見つけたほうがいいと思う。
自分も色々試した。
マントラや真言を唱える方法や、インナーボディーを感じる方法や、思考を観察する方法や、
ロウソクの火を見続ける方法や、呼吸でお腹の膨らむ感覚を感じる方法など。
自分の場合は呼吸の瞑想は合ってなかった。
息が苦しくなるし、雑念思考が湧いてきてどうにもならなくなる。
自分に合ってた方法は、音を聞き続ける方法。
ユーチューブで瞑想音楽流しながら、その音を意識的に聞き続ける。
その音に全神経を集中させて、とにかくずーっと聞き続ける。
そしたら10分くらいで、思考は完全に止んで瞑想状態に入ることができた。
慣れてくると音楽も邪魔になってきて、部屋で自然に聞こえてくる時計の秒針の音を聞き続けたりした。
自我消滅体験直前の頃には、瞑想中に雑念がわくことはほぼなくなってた。
外出中や仕事中でマインドフルネスしてると雑念が起こったけど、
家でちゃんと瞑想するときは、瞑想中は思考はほとんど止んでたな。
もし違うやりかたでやってたとすると、今でも雑念思考がわいて瞑想って難しいと思ってたはず。
もちろん悟りも開けなかったとおもう。
自分に合った方法を見つけよう。色々試してみて、一番思考が止まる方法。
それが一番合ってるということ。 >>394
ありがとう。
教えてもらった音楽、音、呼吸…色々試したよ。
自分にあっていたのか、身体感覚とマントラはいい線いってるような気もしたよ。
ただ、それも気付けば頻繁に思考に戻ってしまってる…
普段歩きながらでも色々考えてたからか、元々空想癖があるからなのか……う〜ん…
難しいね…
なんでこんなに思考が走るんだろうね。
朝起きた瞬間から思考が走って、妄想気味で女の子のことを考え始めてたときに絶望的な気分になった。
一瞬前に夢を見ていたときの思考と全然違って、起きた瞬間、俗過ぎるというのか、自我過ぎるというのか、固体にこだわってる妄想というのか、とにかく、自分自身にうんざりしてしまうね… >>395
意識しか存在しない、あの完全な静寂の時間…
ずっとその状態でいたいのに、
なんでこんなに思考に振り回されてしまうんだろう…
修行が足りない…とかそういうことなのかな…? 連投ごめん。
無になることに、すごく抵抗がある。
何も無いと信じたくない、というのかな。
自我、自意識、思考、どれかわからないんだけど、それらが、何も無い、と言われることを拒否してるという感じ。
自意識の解体?そこもポイントなのかな?
よくわからないことばかり書いて、ごめん。
個人的にはすごく苦しんでいて、何か手がかりが欲しい状況です。 その悩みはよくわかる。
自分もまったく同じことで悩んでたように思う。
たぶん瞑想が上達してきたあたりだったとおもう。
真我と自我の分離が起こり始めるとそうなるのかも。
そこで真我こそ本当の自分なのだ、自我は偽者で実在しないんだ、と言い聞かせてた。
自我が消えつまり思考が止まり、真我の意識状態でい続けられることを信じてた。
そういう強い意志があったから、
思考を敵とみなし、瞑想中に思考が沸き起こっても相手にしないようにした。
自我が消えて無になるのではなく、
自我が消えて真我の本当の自分に目覚める。
もしかするとあなたは思考を止める目的の瞑想になってしまってるのかもね。
だから思考が止まると無になる、という思いが沸き起こってくるのかも。
自分は真我を開くための瞑想だったから、
思考を止めることで自我が消え、その瞬間に真我が開かれるという考えだったので、
思考が止まることは目的ではなく手段でしかなく、その先の真我の状態を感じ続けることこそが、
目的だったから。
もしそうなら、真我瞑想に切り替えてみるのもいいかも。
ムージの動画はとても参考になる。ラマナマハルシとか。 >>398
ありがとう。とてもわかりやすくて、本当に、ありがとう。
ほんと、普段の行いが良いとは思えないというか、他人に迷惑もかけてること多いし、こういうときに助けてもらえると、なんと言っていいかわからない。ありがとう、とか、感謝とか、ほんと、ありがとう。(語彙力アレでごめん)
>自我が消えて無になるのではなく、
>自我が消えて真我の本当の自分に目覚める。
>もしかするとあなたは思考を止める目的の瞑想になってしまってるのかもね。
>だから思考が止まると無になる、という思いが沸き起こってくるのかも。
確かに真我の目覚めについては、ほとんど全く考えてなかった…
そういえば昨日、頭の中が暴風雨のように荒れ狂っていたとき、ふと「目覚めろ目覚めろ目覚めろ」もしくは「目覚める目覚める目覚める」と無意識から言葉が出てきて、そう唱えていたときは、少し楽になっていた気がする。
真我と自我のせめぎ合いなのかな…今日も朝から頭の中に暴風雨が渦巻いていて、仕事どころじゃないw
休めばよかったよ… >>398
真我瞑想というのは、下記URLのやり方でいいのかな?とりあえずそれで今やってみてる。
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1033829765
ムージとラマナマハルシの動画は今いくつか見てるんだけど、その中きら気になったのをピックアップしたいので、少しレス遅れます。 真我瞑想は、基本的には思考を観察する方法かな。
パパジやムージのいうような。
思考を観察することによって思考が止まる方法。
その思考を観察してるものが真我。
でも方法はどうでもいいと思う。
真我になるという目標がきちんとあればいい。
その目的があれば、それに向かって無意識にその道に導かれていく。
心がけることは、真我を開くこと。それのみ。
そのための思考を止めること、という意識。
どんな瞑想法であれ、思考が止まって瞑想状態のときは真我の状態になってる。
なのでどんな方法であれ、その真我の状態を感じ続けることが真我瞑想。 無になることに抵抗を感じるなら、考え方を変えればいい。
無になるんじゃなく、観察者になる。
その思考に気づいてる観察者。
その音に気づいてる観察者。
その呼吸に気づいてる観察者。
その観察者こそ、真我そのもの。
つまり気づいて観察してる状態はすでに真我の状態になってる。
その状態を感じ続けること。
それは無になることじゃない。意識的に真我を体感するということ。
真我の状態はけして無ではないことが理解できるはず。
思考も止まり感情も止まるけど、意識はちゃんと存在していて、感覚もあり、
知恵もある、その本当の自分であるものを感じる。
それはけして自我のない人形のようなものじゃない。
思考を観察してる者、音を聞いてる者、呼吸を感じてる者、
その者を意識してみる。それは自我じゃない。思考が止まり自我が消えたのに存在するその者。
その存在を感じてみる。
それが真我を開く瞑想。 >>401
>>402
ありがとう。とてもわかりやすくて、少しずつ近づいているような気がするよ。
ムージの話は、その通りそうなんだよね、と思いながらいろいろ見てる最中。
動画の中には今自分が悩んでる苦しんでることとほぼ同じような内容を言ってる人もいて、こういう動画を見るのは初めてなんだけど、似過ぎてて驚いてる。 >>402
真我の状態、意識だけの状態が少しずつほんの少しずつ増えてきてるような気がする。
観察者という言葉が自分にはかなりフィットしてるのかも。
自意識が強過ぎると友人からよく言われていて、この自意識というのが、純粋意識と混同するというか、ある種観察者と癒着し続けようとしている感じがあって、とても厄介。
純粋観察者としての集中を続けて、なんとかこの癒着を剥がしたいところ。 気がつくと頭の中で、知ってる誰かとおしゃべりしてる。
なんなんだろう、このおしゃべりは…しゃべり過ぎ…
これも思考に分類されるのかな? 瞑想はそういう繰り返しなんだよね。
それで少しづつ思考が止まる時間がだんだんと増えてくる。
トレーニングみたいなものかもしれない。
だから仏教でも生涯をかけて修行に挑むのだし。
そんな簡単なものじゃないけど、それだけの価値はあるとおもう。
自分も頭の中のおしゃべりがひどい時があって、原因探したらどうやら日々の読書にあったらしい。
読書の習慣をやめたら、頭の中の独り言やおしゃべりが無くなったので、それが原因とわかった。
もしそれ以外に原因があるとすれば、ちょっと自分にはわからないな。 >>406
なるほど。自分は最近よく人と喋るよう心がけてるところがあるから、人と喋る時用に予行演習のようなことをしてるのかも。
予行演習だとタグ付けして、観察者視点を心がけます。
ありがとう。 思えば、子供の頃って思考なんか挟まずに、歩くときはもくもくと歩いて、水の流れの感触を感じてるときは延々と感じて、虫の音を聴いてるときはただただその音色を聴き続けていて…
そう思うと、いつからそういった純粋な思考の無い感覚を味わう時間が大幅に減ってしまってたんだろうね。
思考もしくは自我というのが、随分後天的な能力なのか、人間の社会的文脈でのみ存在する幻なのか…
詳しくはわからないけど、逆にある種の成長に必要な要素だったりしたりするのかな? 意味不明な質問かもしれないんだけど、真我が目覚めた後、自我みたいなものを使用、利用したりする?
おもちゃのように、陽気な自我を使って他人を楽しませるとか、真剣風な自我を使って真面目なふりするとか… >>409
そういうふうな、自分を演じるというのは無くなったかな。
自我があった頃は、場面によって演じてた所があったかもしれないけど。
今は、部屋でくつろいでるときと、外歩いてるときと、会社にいるときでは、
まったく何も変わらない。誰に接するときも、同じ自分で接してるとおもう。
まあもしかしたら無意識に変えてるのかもしれないけど、
意識的に変えようとはしてないよ。
自我を使おうとすれば使えるかな。わからないな。もしかしたら使えなくなってるかも。
自我を使うことで相手はその自我に反応して、自我がぶつかり合うので、
自我を使うことは幸せには繋がらない。それが愉快で明るい自我だとしても。
反対に自我があることで人間関係の苦しみが起こるように思う。
自我がないと相手の自我に反応しなくなるので、
一切の人間関係の悩みから解放される。
例えるなら、子供は老人をライバル視して敵視したり嫉妬したりしないでしょ。
大人は子供にそうしないでしょ。
それと同じ。自我がない人に対しては自我がある人は反応できなくなる。 >>410
>例えるなら、子供は老人をライバル視して敵視したり嫉妬したりしないでしょ。
>大人は子供にそうしないでしょ。
>それと同じ。自我がない人に対しては自我がある人は反応できなくなる。
言われてみると、なるほど確かにそうだとなる…が、ついつい幻の自分の自我に振り回されそうになってしまうな…
ここ二日は、教えてもらったアドバイスやポイントのおかげで、頭の中の暴風雨はかなり鳴り止んで、身体の中心にあるような静けさが身体全体にうっすらと拡がっているような感じで、随分落ち着いてきたところです。
横になってる時も座ってるときも、ふとしたとにに、音、色、身体感覚、で空を感じる時間が増えています。 >>411
それはよかったです。
あと自分の生活習慣を見直すのもいいよ。
例えばテレビを観すぎてたり、つけっぱなしにしてると
無意識にその映像や音声が刺激となり思考を働かせて自我を刺激してしまうし、
仕事が忙しすぎたり人間関係が複雑だったりすると、
それもまた心休まることがないのであまり良くないと思う。
でも瞑想が熟達して真我に目覚めてくれば、だんだんとそういうものから距離を置こうとするから、
自然に静寂や穏やかな環境を求めるようになるから、その自分の欲求に素直になればいい方向に行くと思うよ。 >>406
読書しないなら当然テレビとかインターネットも見ないってこと?
だとすると空き時間は何をして過ごすの?
ずっと瞑想、観察? >>413
読書もするし、テレビもネットもみるよ。
でもなんかすぐ飽きてくる。疲れるというか。刺激がとても不快なものに感じられる。
だから、お気に入りの1人がけソファーに座って物音ひとつしない部屋で
静寂を楽しむというか。
座って何もしないんだけど、その状態が満たされてるというか。
何もしてないけど退屈とは感じず、満足感と安心感と安らぎの中に浸るような。
お風呂に入ってリラックスするような感じかな。
目をつむって心にある安らぎの場所を感じて癒されたり、
人の心境を感じ取ったりして楽しんでる。
ベッドに横になってもそんな感じで、数時間が過ぎる。
何もしないでいる状態こそ、自分にとっては一番幸せで心地よいと感じられる。
たぶんそれが瞑想状態ってことなのかな。
意識的に瞑想してるわけじゃないんだけど。
そういう状態になってしまってるということかな。 それ堕落(°∀°)単に稼働してないだけ笑
稼働しながらもマインドフルネスでいたら良いんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています