【悟り】マインドフルネス瞑想法 【霊覚】
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マインドフルネスとは、歩行や呼吸、動作など、今行っていることに対して
意識を向けるという、簡単な手法です。
これは単なる健康法にとどまらず、悟りや、
霊性の向上にもつながります。 自我があった頃は、プライドとか見栄とかマウントみたいな感情があった。
自分のほうが上と思うことで優越感を感じるみたいな。
でも自我消滅してからそういう感情はほとんどなくなった。湧かなくなった。
人と自分を比較しなくなったというか、できなくなった。
そもそもこの自分というものがまるで空気のように感じるから。
自分が空気だから人も空気みたいに見えるから、比較しようがないみたいな。
比べるものじゃなくて、共通のものみたいな。
たしかに別物なんだけど、なんていうか自分と他者との境がわからなくなった。
なので同じ1つのようなものみたいに感じるので、マウントとかそういう感覚を感じない。 自我があった頃は魂のレベルとか霊格みたいなものにすごいこだわりがあった。
自分の前世とかオーラにも興味あって、自分の前世が多くて魂レベルが高いことを信じ、
オーラが人よりも優れてることを信じて、人と比べたりしてた。
自分はスピリチュアルに生きてるから魂レベルは高い、他者は愚鈍に生きてタバコ吸ってパチンコするから
レベル低いだろうと、そういう差別的な見方をしてた、正直言うと。
悟り体験で自我消滅してから、嘘のようにそれらに興味がなくなった。
自分の前世もオーラも魂レベルも、なんかすべてどうでもいいことのように感じられる。
まったく興味が湧かなくなってしまった。
たぶん自我がなくなったことで、自分がどういう人間であるかという興味自体なくなったのかも。 自分のオーラが金色に輝いていて、自分の前世が多く、
魂レベルが高くて、精神性が高い自分。
そういう自分に憧れるのは自我のせい。
自我がなくなれば、自分というものをそんな重要視しなくなる。
自我がなくなった心境の安らぎと静けさと平和は言葉では言い表せない。 それエライんか?
以前も以後も単に精神的に成長したとか
一つ悟ったくらいだと思うが
そっから先にどう生かすかだと思う >>169
そうだね。
悟り体験で何かを得たというより、失った感覚が大きい。
悟りで意識が肥大化パワーアップして慈悲の心が無限に湧き出るようになった、とかじゃなくて、
逆に今まであった自我を失ったことで、自我が持つすべての特質を失った感覚がすごい。
なので悟り神秘体験をした直後数日間は、放心状態のような無気力感、蒼白感みたいな状態が続いた。
今まであった自我がなくなったことで、自我エゴからくるエネルギッシュやパワーみたいなものも消えたから。
でもそのかわりに、心には深い深い安らぎと静けさ、深海のような静けさ、平和と安心感、
穏やかさ、そういう心の状態になった。
今までエゴが燃えていたハートの部分からエゴが消失したことで、
エゴの炎が消えて静かで安らぎになったようなイメージ。 なので悟りというのは、何かを得ることじゃなくて、逆に失っていくことなのかもと。
精神世界の探求者は、清貧とか粗食とか、雑務少なくしたり、
得るのではなく失うことを重視するけど、自我消滅も同じことなのかもと思った。
前世の回数がめちゃくちゃ多くて、オーラも金ピカに光らせて、魂レベルが人の何倍もあって、
自分は特別な人間で、というような思考は、自我から生まれるものであって、
真理は逆なんだろうね。
魂が成長していくほど、自我が薄れていくので、そのような思考から遠ざかっていくのかも。
自分はそこらの1匹のネズミに等しい。それくらいの意識感覚。
それくらい自我が消えてる。でも意識では自分やネズミや他者や世界や宇宙含めて、
大いなる1つの意識という感覚を持つ。
その大いなる意識感覚があるから、一個の人間の自分がどうあるかなんてどうでもよく感じるし、
他者や万物はすべて平等という感覚になる。
その感覚が慈悲というものじゃないかなぁ。 もう二度と情熱的に恋をすること(対象は人とは限らずね)はないだろうという仄悲しさを感じるよね。悲しくはないのだけど。
二元性への失恋のような。 >>172
わかる。
今はもうそこまでじゃないけど、悟り体験の数日間はほんとそんな心境だった。
今まで生きてきたこの数十年間を共にしてきた自分というものを失った感覚は、
ほんとそのような心境。
今までずっと連れ添ってきた相方と別れたような。
でも不思議と悲しくはないんだよね。 悟りとは得ることじゃなくて、失うこと。
自我を失うこと。自我を失うために修行者は様々なものを失おうとした。
家を失い、家族を失い、着るものを失い、友人を失い、食べ物を失い、
最後には肉体を失おうとする者までいた。
彼らが求めたのはそんなことじゃない。自我を失うことを求めてたんだ。
そのためには、それらすべてを失うことが必要と考えたんだ。
でもぼくはそれらすべて携えながら、自我を失うことに成功した。
というか結果として失ったわけだが。
彼ら修行者は大きな間違いを犯していた。物質的に失うことで自我まで失えるという間違った考え。
そこから清貧の思想や、托鉢や、苦行や、即身仏など、が生まれたんじゃないかと。
でもそんなことしても、悟りを開けない修行者はたくさんいた。 自我を失うと聞くと、まるで夢遊病者のような主体性のないようにイメージするだろうけど、
実際はぜんぜん違う。
自我が消滅しても、ちゃんと考えられるし、主体的に行動できるし、感情だってちゃんとある。
性欲も食欲もある。
じゃあ何が違うって?
自我を失ってみると、まず感じるのは、自分の事を言われても傷つかなくなったということ。
今までカチンときてたことも、何も感じなくなった。自分のことを言われてるように思わなくなったので
受け流せるようになった。
あとは、エゴみたいな尊大な自己中心性がなくなったような、
だからなんかとても謙虚で自然体でいられるようになった。
人の目もきにならなくなったので、自然体で家でくつろいでる状態で職場でもどこでもいられる。
前までは家の顔と外の顔を使い分けてたような。
そういう感じなのでトータルしてすごい生きるのが楽になった。 自我と真我について。
自我の消滅した真我の状態は誰もが体験できる。
マインドフルネスで深い精神統一状態になったとき。
イメージでは凸が自我の状態が、凹のような真我の状態になるような。
自我の攻撃性自己中心性が瞑想で消えると、そこには何もない大いなる意識しか存在しなくなる。
それが真我の感覚。
そして瞑想をやめると、その真空の真我にかぶさるように、ムズムズしたエゴや性格のクセや
偏った考え方や価値観が沸き起こってくる。
なので瞑想中は誰もが自我の消滅を体験できるのだけど、それは瞑想中の一時的なものにすぎない。
ぼくも悟り体験の前まではそうだった。瞑想中は自我が消えて真我の状態になるけど、
やめたら元に戻る。そのイメージが凸凹のような感覚で体感でわかるので。
でも、悟り体験をしてから、何度瞑想しても何度瞑想しても、凹から凸になることがなかった。
つまり真我の状態から再び自我に戻ることがなかった。
つまりもう瞑想の必要性がなかった。なぜなら瞑想で自我を消滅する必要がなくなったから。
つまり瞑想せずともずっと真我の状態でいつづけるようになってしまった。
自我が消えたことでそうなってしまった。
もう瞑想する意味がないので、やめてしまった。瞑想してもしないときとまったく変化を感じなくなったから。 そういうわけで、やはり自分はあの体験によって、
自我が消滅してしまったんだな、と感覚的に理解できた。
自我が消滅してからの物の見方も変わったように思う。
自我があったときは、自分なりの物の見方や価値観や偏見があって、
それを基準に世界を認識してたような気がする。
例えば、自分と相性の良さそうな人がいたら、この人は善人で、
自分と真逆なタイプがいたら、この人はいい人じゃない、みたいな。
これはこうだ、あれはああだ、みたいな。世間体というのか社会に刷り込まれた価値基準というか。
そういうものがすべて無くなったというか。
すべて消え失せた。
悟り体験の後から、そのせいで見る世界が平面に見えるようになったのかも。
すべての人が同じように見えて、すべての世界が同じように見える。
この人は特別とか、この世界は特別とか、そう感じなくなった。
なんていうか、絵の世界を見てるような、というか。
絵の世界は自我があって初めてリアリティーを感じるわけで、
自我がなくなった意識状態では、絵の世界は単なる絵でしかない、ような。 ここまで読んでもらえると、なんとなくわかるとおもう。
覚醒者の感覚が。
仏陀の感覚。
この一個の人間の自分という存在はネズミレベル。ハムスターみたいな。
その檻の中に入ってるハムスターをカゴの外から見てる大いなる何者かが、本当の自分みたいな感覚。
なのでそのハムスターが檻の中でどうしていようと、
本当の自分はもっと大きな、それこそ宇宙レベルに大きな存在という感覚。
その大きな意識ですごしてるので、小さなこの肉体の自分が偉くなろうが、貧しくなろうが、
高められようが低められようが、関係ないという感覚。
その大きな意識にとっては、そんなことどうでもいいように感じる。 その大いなる意識の感覚を説明すると、
空気のようなイメージ。
空気はこの世界すべてに蔓延してる。そしてすべての人に存在してる。
そのような感覚というか。
その空気すべてが大いなる意識そのもので、それがすべて自分であり、
その一部でもあるような。
空気に触れるものすべてわたしという感覚なので、
例えば道に落ちてる枯葉や石ころさえ、自分の一部のような感覚がする。
これは意識ということ。
自分が道に落ちてる枯葉や石ころを意識すると、それは自分を意識してるということ。
自分の意識が行き届く範囲すべてが自分という感覚。
その自分という感覚が自我の自意識から生まれる自分という感覚じゃなくて、
共通意識のような全体意識のような、普遍意識のような、大いなる意識から生まれる自分という感覚といえばいいのかな。
なので自我のような自分という感覚じゃなくて、
空気によって自分と他人は同じ空気によって繋がってる感覚がする、というような。
その繋がりが宇宙レベルまで行き届くので、自分は宇宙だと思う瞬間もあり、
それが神意識ということなら、神とは自分であり他者でありすべてであるということなんじゃないかなと。 自分は平行世界を移動しているかもしれない
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1532678756/
283また布団から起き上がる・・。2018/09/28(金) 03:03:18.40ID:sT6/Kabd0
云い忘れたこと、あったけどな、悟りってな、悟りの境地ってな、
全部、コマンドだからな・・・。いいかー。アシュタールのコマンド。
人間の色んな感情をサンプルとして採取してるんだよ。あやつらは。
それでな、過去に性格が良かった人とか、広い心の時のサンプルをな、
悟りを目指してる人とかに、ポチッとコマンド押すんだよ。
そうすると、コマンド打たれた人は、そうか、これが悟りか、、とか
思うんだよ。
もう、やめろよ。真面目に探究するの。
やっても、心境を与えられたり取られたりの繰り返しで結局、
神々に操られるだけだぞ。
まじ。俺、ある日、突然に悟りの境地をコマンドで打たれて
また、次の瞬間、平常時に戻らされた時あったもん。
そんなもんよ。害のない人間には時々、与えたりすんのよ。
彼らにとってもそういう境地を与えたりするの、マイナスじゃないの。 ぼくの言うことが理解できないかもしれない。
それをだからといって病気とかキチガイと思わないでほしい。
それはもしかしてあなたが理解できないから、というだけなのかもしれない。
理解できないことは、全部病気のせいにしないでほしい。
自分は自我消滅の体験をしたので、それによってどう変わったのか伝えようとしてる。
それだけ。それによって誰か1人でも気づきや学ぶことがあれば、それは大きな価値だから。 あまり長々と書いてしまってるので迷惑に思う人もいるかもしれないけど、
それはすいません。
そういうの関係なしに自分の体験談を黙々と書いてます。 瞑想は妄想ではない。自然との一体感もない。
妄想は、無意味で有害な体験でしかない。
瞑想の目的は、妄想を取り払うことであって、
妄想に浸ることではない。 たまにはこういう書き込みがあってもいいんじゃないの
幽界とか霊界とか仏陀になったとか
自分にも経験あるけど
何か凄い体験すると語りたくなるもんよ 自分語りですか。
ありがとうございます。
あまり参考になりませんでした。
それより、、、、 >>9~
>>20~
>>115~
この人の文章、また読みたい。
チャチャ入れたりする人(ホント邪魔)がいても気にせずカキコしてほしい。
少なくとも俺は真剣に読んでる。 >>179
すっっっごいわかる!わかるんだけど、何人かわかるかな〜?って友人に言ってみたんだけど、
は?
みたいになるんだよね…
だからさ、むしろ、みんなはいつのまにやら普通にその状態で成長してて、意識して自我を使って遊んでるだけで、自分はやっとそのことに気付けたのかな〜とかって思っちゃうワケ。 >>179
ごめん、長文。
繁華街とかで一人で歩いててさ、
なんかつまんねーなって気分で、モヤってたりしてるときに、ふいにどっかに座って、一瞬ぼんやりするとさ、
なんか突然、黄金の時間っていうか、何にも無いのにすべてが完璧だ、ってなってさ、意識はあるけど、自我はなくてさ?
色とりどりのビルや広告も鮮やかな色彩の喜びの演出に見えて来たりして、寂しいとか孤独だとかそういうのが全くなくて、ああ最高だなあ…って気分になるんだけど、
いつの間にかまた、多分上の書き込みである「自我のある状態」になっちゃうんだよね。。
そこで変に苦しんでたりして、アレアレっ?て離れようとするんだけど、上手くいかないときは、頭の中でぐるぐると自我と意識の混同みたいなのが起こって、すっごい疲れてしまって、結局黄金の時間が来ないのよ。 で、みんなは自我で遊んでんじゃん?
ワーとかキャーとか言ったりしてさ?
なんだけど、自分はそれ全くなくても完全に満たされてるから、みんなと全然遊べなくなっちゃうんじゃないかって思っちゃうのよ。
趣味で絵を描くとかそんだけで、それ以外ほとんどなんにもいらね、みたいになっちゃうってか、なってもいいもんだろうかみたいな、すんでのところを最近は行ったり来たりしてる。 ぼくは神秘体験したとき、悟りとは思わなかった。
自我が消滅したと感じた。
悟りと調べると、自我の崩壊とか自我の死とでる。
つまり自我が消滅することイコール悟りという定義なわけだ。
その定義でいくと、自分の体験した自我の消滅体験は、つまり悟り体験だったと言える。
ぼくは悟りを開いてしまったのだ。
仏教の修行僧でもないのに。仏教のお坊さんも開くことのできない悟りを、
こんなフリーターのぼくが開いてしまったとか、ほんと笑える。 あの釈迦牟尼仏陀が悟りを開いたのが35歳らしい。
ぼくが悟りを開いたのは去年なので34歳。
なんてこと!!
仏陀よりも若くして悟りを開いてしまったとかwどんだけだよ。
いや、今年36になるので、去年は35歳ともいえる。
ぼくは仏陀と同じ年齢で悟りを開いてしまったのか。
これはかなり感慨深いものがある。
もしかするとぼくは仏陀の生まれ変わりかも?いやいやそれは妄想だろう。
でも同じ年齢で悟りを開いたということは、
仏陀レベルの精神世界の魂のエリートともいえるかも? 仏陀は苦行につぐ苦行して、修行しまくって、断食してガリガリになっちゃうし、
それでようやく悟りを開いたというのに、
ぼくときたら、快楽的に生きてきて酒をやめる代わりに瞑想マインドフルネスしだして3ヶ月目で
突然悟りを開いちゃったとか。
仏陀を超えてるんじゃないのもしかしたら。 最近なんか鏡にうつる顔が仏みたいなんだよ。
浅田真央みたいなっていうか、元々仏顔じゃないんだけど
なんか仏顔になってきたっぽい。それがいい悪いじゃなくて。
あと目の瞳が、ラマナマハルシや大和田菜穂みたいな、瞳孔が開いてキラッと光るあの
覚醒者独特の瞳になってしまった。
だから、人と対面すると、相手は見抜かれてるみたいでドキッとする。
だから咳払いされまくるのがつらい。 あなたキリスト教で統合失調症になりかけた人でしょ。 自我消滅悟り体験してから、自分の性格というものがなくなった気がする。
自分はこういう性格と感じられるものが前はあったんだけど、
自我消滅と同時にその一個の人格みたいなのも薄れてしまったような感じがする。
性格や人格が消えた結果、残ったのは穏やかな静かな安らかな意識状態。
性格が消えて、そういう穏やかな意識のみが残るので、自然と仏顔になってしまうんだと思う。
悟る前は相性のいい人悪い人がいて、苦手な性格のタイプの人は自分と合わなかったりしたけど、
悟ってからは、相性というものが感じなくなったような。
人間が飼ってるペットと性格の相性が合わなくて困るってことはないでしょ。
そんな感じに感じる。種族が違うような。
または、次元が違うような。 精神世界に目覚めて10年以上経つけど、
そのほとんどは霊界の探求に費やされた。
シルバーバーチなどの霊訓を読み漁り、霊界の実像と霊界の生活を知ろうと熱心だった。
今思うと、それは、悟り体験により輪廻を解脱し卒業することによって霊界入りするので、
死後に備えた準備を今からしてるということなんだと気づいた。
人は睡眠中は霊界で死後に備えた準備をしてるらしいが、
自分の場合は生きてる現在、霊界の仕組みを知ることでも準備してる。
霊能力が使えるが、そのトレーニングも死後で使用するテレパシーや思念の使い方の
練習になってるのだと思う。
そう考えると、もう死の準備段階に入ってるということか。
いよいよ輪廻転生を解脱し、本格的に霊の世界に入っていくそのための準備か。
ワクワクしてきたー 今なら涅槃みたいな心境がわかる。
そりゃわかって当然。
だって仏陀だもんぼくw 本当に悟り開いた人は、なるべくわかりやすいことばで伝えようとする。
わからない人ほど、難しい言葉を並べようとする。
神とは大いなる意識。
自我は脳が作り出すまぼろし。
真我とは大いなる意識。
自分の中に仏がいるっていう意味はもうわかるでしょ。
自分の中には宇宙が存在するとか、神性があるとか。
もうわかるよね。
本当のあなたというのは、真我なの。大いなる意識のこと。
それを神という。それを感じた人が、人間の内には神や仏や宇宙があるっていうの。 それは成功体験でしょ(・∀・)♪
それってマラソン大会でゴール者に感想聞いたら
満足する人や次のレースに意気込む人だったりと色々
そういう意味でも至高体験の快感だけに酔っているのに分かった気になるのはないよ(ヾノ・∀・`) 部屋を模様替えしたり、新しいもの買っても数日たてば慣れてそれが普通に感じるように、
悟り体験も同じで、2週間くらいたったころから違和感が消えてきてそれが普通に感じるようになった。
1年経った今では、もうこの状態が普通で、違和感なく感じられ、
自我のある状態を忘れてしまっている。
ここに長々と書き連ねているのは、その当時の事を思い出して語ってるわけで、
今現在は実はもう自分が悟り体験したということすら忘れかけていた。
スピリチュアル精神世界にも興味なくなり瞑想もしなくなったので、
日々退屈に過ごしてた。 ぼくがお酒をやめて瞑想を本格的に行った方法を話すよ。
それまではほぼ毎日飲んでたけど、瞑想しようと決めた日から1滴も飲まなくした。
考えてみれば起きてるときはほぼ瞑想状態を意識してた。
家にいるときはテレビを消し、たまに瞑想音楽を流しながらイスに座って瞑想。
仕事中はマインドフルネスで今ここを意識しながら。
そうだなーイスに座ってする瞑想は1日5時間くらい。休みの日は一日中。
それを3ヶ月くらいずーっと続けた結果、悟り開いちゃった。 瞑想を誤解してる人が多い。
半意識でボーっとすることと思ってる人多いけど、それは瞑想じゃない。
逆なの。ボーっとするのとは逆で、すべてに神経が超敏感に張り詰めてる状態なの。
精神統一状態と言った方がいいね。
例えば、時計の針の音をずーっと意識的に聴き続ける。カチカチという音。
その音に全神経を集中させていると、次第に思考や感情が止まってきて、
自我が消えていく感覚がすると思う。その状態が瞑想状態。
お風呂場で目を瞑って気持ちよくなってボーっとして半意識半睡眠状態は瞑想状態じゃない。
それを誤解してる人多いから、いくら瞑想しても真我に到達しないし、悟れない。 ぼくはイスに座って瞑想をしたんだけど、なんで座禅を組んでしなかったか。
それはイスでの瞑想のほうが長時間続けられるし、足の痛みによって集中力が切れないから、
より効率的に瞑想できるから。
座禅組むと足が痛くなって瞑想どころじゃないし、長時間できない。
瞑想法は色々あって、どれも共通するのはある1つの対象をずーっと集中的に意識しつづけることなんだけど。
マントラを唱えたり、ロウソクの火を見続けたり、音を聞き続けたり、身体の感覚のある一点を感じ続けたり。
それらの方法は、自分に合った方法でいいと思うけど、
自分の場合は、色々試した結果、一番短時間で精神統一状態に入りやすかった、
ある1つの音を聞き続ける瞑想法を行った。
時計の音、クーラーの音、どれか1つ選んで、それをずーっと何時間も聞き続けた。 ある1の音を選んで、目をつむりその音をずーっと聞き続けていると、
次第に思考が静まり、ごちゃごちゃしてた内面が、次第に静かに空白になっていく感覚がすると思う。
その感覚が、自分の場合は、凸凹のように感じ取れた。
瞑想前は凸で、瞑想中は凹というように。その感覚で、今日は瞑想できたな、とか
今日はあまりできなかったな、というのが理解できた。
もし、瞑想前と瞑想中で、その凸凹のような内面の変化を感じ取れない場合、
それはちゃんと瞑想状態に入れてないということなので、やり方を変えるなり、
より集中状態になるように改善したほうがいいと思う。 その凹の瞑想中の感覚こそ、真我の感覚。
自我が消えた状態の感覚。
その感覚を何度も何度も感じつづけると、自分の意識が次第に自我から真我のほうへ移行していく。
瞑想をやめるとまた自我が湧き出てきて、またごちゃごちゃした内面に戻るので、
道歩いてるときは、歩き瞑想したり、仕事中ははマインドフルネスしたりして、
なるべく真我の状態で生活するようにつとめた。
そのような毎日を3ヶ月くらい、毎日ずーっと続けた。 瞑想についてのやり方とか知識は、本よりもネットで調べて自分なりに学んでいった。
ある程度真我の感覚をつかめ出すと、次第にラマナマハルシなどの覚醒者の悟りのようなものに興味がうつっていった。
最初はお酒をやめる代わりにマインドフルネスをやってみようというそんな深い考えじゃなくはじめたんだけど、
3ヶ月目くらいにはラマナマハルシとか、その弟子のパパジ、その弟子のムージの動画を見て、
その動画で学んだ。真我とは何かのか、自我とは何なのか。
ラマナマハルシのわたしは誰かと問い続ける瞑想も行った。
起きているうちはずっと、わたしは誰か?と問い続ける。
そして、ある日ネットで発見した、ラマナマハルシの瞑想法を行ったところ、神秘体験をして自我の消滅を体験してしまったというわけ。 その神秘体験の時のことを話す。
まずいつも通りイスに座り目をつむり時計の音に意識を集中して、真我の状態に入る。
そしてネットで見つけたラマナマハルシの瞑想法を実践してみた。
わーたーしー、わーたーしー、わーたーしー、と繰り返し心の中でつぶやく。
すると心臓あたりのハートのところに違和感が出てくる。
ラマナマハルシによれば自我はハートのあたりにあるらしく、
わーたーしー、と言うとその自我の部分が反応してくるのだ。
わーたーしー、わーたーしー、と繰り返しとなえ、自我が発生するハートの部分を感じ続けていると、
次第にハートのあたりが熱くなってきて、すごい違和感を感じ、
それと同じタイミングで、上下左右がわからなくなるくらいの強烈なめまいが起きた。
今まで味わったことのないくらいの強烈なめまい。イスをグルグル回されてるかのような強烈なめまい。
その間ずっと背後に気配を感じ、背中あたりに温かみのような保護のような感覚を感じた。
その瞬間は、何だこれーーーーーーーー!!!という驚きと恐怖しか感じなかったけど、
とりあえず身を委ねてみようと思った。 何分経ったわからない。5分10分、あるいは20分経ったか。
その強烈なめまいが次第におさまってきて、
最後にはめまいが全て消えて、元に戻った。
それとともに、ハートに感じてた違和感と熱もまったく消えてしまった。
わーたーしー、わーたーしー、と再びとつぶやいてみても全くハートが反応しなくなってることに気づいた。
なんか心にぽっかり穴が空いたような、自我が抜け落ちてしまったような感覚。
その自我のあったハートの部分には熱が消え去ったかわりに、
とてつもない深い安らぎと静けさ、平和と穏やかな、深い深海のような安心感が宿ってることに気づいた。
そのとき、直感で思ったのは、終わったのだ、ようやく終わったのだ、という
なんとも言えない安心感、ホッとしたような。 いつもは瞑想をやめると真我の状態から自我に戻る瞬間がわかり、その感覚がわかるのだけど、
その神秘体験の直後に、瞑想をやめてみても自我に戻る感覚が一切ないことに気づいた。
ずーっと真我の状態で瞑想中の精神統一状態が続いてる感覚。
なので、耳鳴りがずーっと聞こえてくる。
この耳鳴りは今まで気づかなかった音が、悟りで真我の状態でいられるようになったことで、
今ここをずーっと意識してる状態になったことで聞こえてくる音のように感じられた。
その神秘体験は深夜に起こったので、寝て起きたらまた元に戻ってるだろう、と思ったのだが、
起きても元に戻ってなかった。
なんか自分が少し違うような、自我から生まれるバイタリティやエネルギッシュやパワーみたいな、
利己的な感情から生まれるエゴのパワーみたいなものが一切ぱったりと消えて無くなってしまった感覚なので、
神秘体験直後数日間は、蒼白感のような、虚脱感みたいな、貧血みたいな感覚だった。
でもそれが苦痛というわけじゃなく、とても清々しく安らぎの心境といったらいいのか、
病み上がりで公園を散歩してるような、ああいう清々しさというか。 朝起きてまずはじめに一緒に住んでる母に、報告した。
あのさ、おれ、悟り開いちゃったんだけど。
母は言った。おまえとうとうキチガイになったか。変なこと言うな。と。
その夜の神秘体験のことを話せば話すほど、母の怒りは増してきて、
部屋を追い出されてしまった。
その態度にいつもなら自分も怒りの感情が湧くのだけど、
そのときは一切怒りの感情が湧かなかった。怒りを感じる自我がもうすでに存在しなかったから。
1人部屋に戻りイスに腰掛けると、深い安らぎと癒しと清浄な気持ちになってくる。
まだ強烈な耳鳴りがしている。ためしに瞑想してみたが、瞑想前と変化がまったく感じられなくなってることに気づいた。
そのとき思った。瞑想状態が24時間ずっと続いてるということか?
その瞑想状態から再び自我の状態に戻ることは、もう二度となかった。 それから数日間は日課になっている瞑想を続けていたのだけど、
瞑想前の状態とまったく変化がないため、だんだんしなくなっていった。
というかもう必要ないもののように思えた。
神秘体験直後に感じた、ああ終わったのだ、ようやく終わったのだ、という感覚は、
覚醒者がよく言う、探求の終わりということなのだろうか。
瞑想を行なっていてついに自我が消滅したことで、もう瞑想する必要ない、という思いから、
終わったのだ、と思ったのか。
それとも、自我の消滅による悟りを開いたことで、輪廻転生を解脱したということで
転生が終わったと感じたのか。わからない。
だけど、その神秘体験から瞑想も精神世界の探求もやめてしまった。
というかそれまであった探究心が一切消えてしまったとうか。
なぜ無くなったのかわからない。なんかすべてのものに興味が薄れてしまった。
真理だけじゃなく、物質的な世界のことにも関心がなくなってしまった。
だから何も興味なくボーっとベッドに横になっていると、
まるで涅槃のような気持ちになってくる。 興味深い
母親のくだりは笑ったけど
どんどん書いて それから2日後、はじめて明晰夢を見た。
現実が霞むほどに、リアリティーのある夢。
夢の中で夢と気づき、自分の意思で自由に行動できる。
ためしに道に歩いてる女子校生のスカートをめくってみた。ちゃんとめくれた。
そこから先も行なったが、あやふやになり正確には見えなかった。
まあそこはぼくも男なのでどうしてもそういう事を試してみたくなるのだが、
とにかく肉眼で見る世界よりも何倍も鮮やかで美しく輝いた世界だった。
その夢には死んだ祖母も出てきた。その家から流れるクラシックの曲も念じることで変えられた。
場面は変わり、なぜかラーメン屋で新作の試食をしてるのだが、味覚もちゃんとあった。
そのあとはラーメン屋から出て、人の乗ってるスクーターをかっぱらってすごい速度で駆け抜けるのだが、
まるで飛んでるかのような爽快感。最終的に行き着いた先は水辺のある公園。
その水の輝きが今でもおぼえてるほど、キラキラ輝いていて本当に美しかった。
ぼくはこれが夢だとわかってたので、ためしに近くにいた老人に話しかけてみた。
すいません、これって夢の中ですよね?
すると何者かに頭を撫でられた。そして目がさめた。
そしてようやく起きて、うわーーー明晰夢を見ちゃった、と思い。
その話を母にしようと母の部屋に駆け込んだ。
すると前日とは違って、母は落ち着いて話を聞いてくれた。
たぶん夢に死んだ母の祖母が出てきたので、その話を聞くのは嫌じゃなかったのだろうと思う。 実は自分は悟り体験の2年前から霊能力が使えだした。
そのときにも不思議な夢を見た。
その夢の体験を、オカルト板で、宇宙は数字でできている、というスレを立てたら
どうやらまとめサイトに載ったらしく、ユーチューブにもアップされてる。
興味あれば見てみてほしい。
霊能力が使え出したときは、あれは多分アカシックレコードの夢だったと思う。
お前の使える能力はアカシックレコードの情報だ、ということを知らせる夢だったんだろう。
で、
自我消滅した悟り体験のあとに見た夢の明晰夢の意味は、
あのリアリティーからすると、夢のこちらの世界のほうが真実のリアルの世界で、
おまえの今いる世界は、絵の中の世界なんだぞ、ということなのかなぁ。
確かに神秘体験の後から、なんか現実に現実感がないというかリアリティーが感じられなくなったようにも思う。 このリアリティーを感じられない感覚を感じた釈迦さんは、
一切皆空、色即是空みたいな、そういうこと言ったんじゃないかなぁ。
ほんとなんか平面に見えるんだよね。霞んでみえるような。
この世はなんか実態がない感じがするね。 >>218
> だから何も興味なくボーっとベッドに横になっていると、
> まるで涅槃のような気持ちになってくる。
これこれ、これよ。
これがずっと続いてもいいんだけどな〜、ってなるんだけど、さすがに人間界に生きてるものとしてどうなのよ?ってなってくるんだよな〜… >>214
ラマナマハルシのわーたーしーのやり方が具体的に書いてあるサイトってある? >>225
グーグルで、ラマナマハルシ、瞑想、で検索すると、上から3つ目のサイト。
ラマナマハルシ真我の探求方法、というサイト。 このサイトは小難しく書かれてるけど、
自分はもっとシンプル。
わーたーしー、とつぶやくとハートに違和感でてきて、
それからはハートが熱くなって、強烈なめまいがしてきて、
全身が強烈なエネルギーに包まれてるような感覚になって、
何者かの気配を背後に感じて、
それが10分くらい続いたあと次第におさまったら、
ハートにあった自我の部分が消えて無くなってた。
自我が消滅した。
直後は、蒼白感と虚脱感ととてつもない安らぎと落ち着きと安心感と静けさを感じた。 今、数ヶ月ぶりに瞑想してみたけど、
やっぱり瞑想前と瞑想中で変化がない。
神秘体験前は、凸凹のような瞑想すると自我がへっこむような感覚あったけど、
今は瞑想前からすでにへっこんでるような感じだわ。
もう悟りを開いてから、24時間ずーっと今ここ、今この瞬間に意識がある状態になってしまってるんだわ。
ずーっと真我の今ここ状態でいつづけてるというわけか。
これを何と説明すればいいかわからないけど、
1年経った今じゃこれがもう普通になってしまっていて、
逆に自我があったときの状態を思い出せないわ。 なんだよ何年前からの話かよ(・∀・)♪
でその日からの進歩はどうなんだよと言いたいが
結局スレの主題のような成功体験だけが語られてたらそれで良いのかもな
と言いたいが書いてある内容は
単に落ち着いたんだなくらいのこと(°∀°)ダヨナ 今はもうまったく精神世界のことにも興味がなくなり、
瞑想もしなくなった。
あの自我消滅体験をしたあと、次はどこへ進めばいいのかずっと考えていた。
自我消滅の後に、何かあるのか、考えてみたけど思いつかない。
自我消滅まではある程度、覚醒者の体験などで道は示されていたが、
その先は誰にも経験したことないので、ほんと困った。
なので今は目の前の雑務をこなし、ただ無目的に日々を送るだけになっている。
精神世界に熱心だった頃の、あの情熱や希望みたいなのがなつかしい。
でも最近気づいたことがある。
自我が消滅したハートの部分。そこは普段は深い静けさと安らぎが感じられるんだけど、
霊視などして、人の愛などを感じると、そのハートの部分がとても温かくなることに気づいた。
もしこの先さらに進化すべき道があるとすれば、そのハートの部分にとても温かい愛がずっと宿り続けることかなとおもう。
そこに愛の慈悲の心が湧き出てくるんじゃないか?と想像してるけど、
それもどうだかわからないでいる。
今までの人生、スピリチュアル精神世界に目覚めて導かれて、自我消滅悟り体験まで10数年、
すべて自分の意識じゃなく背後の存在に導かれていたとすると、
この先どのように進めばいいのかも、きっと道を示してくれるはずだ。
それまで待っていようと思う。日々とりあえず自分の興味あることをやるだけ。
そしたらきっと次の道を示してくれるはず。 今までのことを考えると、自分の願いはすべて叶ってきたように思う。
はじめてオーラの泉を見て、江原さんの霊視能力に憧れ続けてたら、
実際に3年前から使えるようになった。
瞑想をはじめて悟りを開きたいと思ったら、ほんと悟りを開いた。
2chのまとめにのりたいと思ったら、ほんとまとめに載った。
それらすべて精神世界関連の願い事で、物質的な願い事はまったく叶ってない。
金持ちになりたいとか、フェラーリに乗りたいとか。
精神世界関連の願い事は叶うということか。
ぼくは最後に大きな夢みたいな願いを持ってる。
それは憧れみたいなものなんだけど、
ラマナマハルシやムージみたいな霊的指導者になりたいという願いがずっとある。
キリスト、ブッダ、グルジェフ、和尚ラジニーシ、サイババ、ラマナマハルシ、
パパジ、ムージ、クリシュナムルティ、彼らのように霊的な覚醒を促す指導者になりたいと。
でも自分は人前に立つの苦手だし、大勢の前で話すのは緊張して苦手だから嫌なんだけど、
でも彼らみたいなのに憧れがある。
だからその真似ごとみたいな感じでここ2chで語ってるとおもう。 もしこのぼくの最後で最大の願い事である、
霊的指導者になるという夢がもし現実になるとすれば、
それがぼくの残された人生での、最後の使命なのだろうと思う。
悟りを開いて輪廻転生を解脱して、まだ残りの人生半分ある、
この退屈でヒマな時間が、霊的指導者として教え導く時間だとするとつじつまが合うような気もするし。
でも現実的に考えて、霊的指導者になるというのは、かなり無謀な夢でもある。
でもムージの動画とかみると、ああいう感じになりたいなぁと思うし。
でも人前に立つのは苦手だし。無駄に霊視できるけど、自分のことしかみてないし。
あ、そうだ。霊的指導者にもなりたいけど、江原さんに憧れてるんでスピリチュアルカウンセラーになりたいと思ってた。
まあそんな感じで、覚醒体験や霊視能力で、人の役に立てたらなぁ、という願いがあるってこと。 >>235
個人的に頼んだらカウンセリングしてくれる? >>237
カウンセリング一度もしたことないから無理。
霊視は霊視スレで見たことあるけど。
もう疲れたし当たらないからやめた。
江原さんレベルの能力はないし。
ちょっと感じる程度だから。守護霊とかオーラも見えないし。
でも江原さんは謎だよなぁ。
あんなに大きい使命あって霊格高そうなのに、瞳が覚醒者のそれじゃないんだよなぁ。
目の瞳はいたって普通の人なんだよ。
どうなのかね。
江原さんはまだ悟り開いてないってことか?てことはまだ転生はあるってことか?
じゃあ悟り開いたぼくのほうが上ってこと?でもそんなわけないしなぁ。
もしかすると前世ですでに悟りを開いた人は、今生では瞳が覚醒者のそれにならないのかなぁ。
江原さんは真我とか宇宙意識とかは感じないのだろうか? 覚者の方が上とか、仏陀だからすごい的な文章は、何がしかの我が残ってるような気もするんだが、どうかな?
他の部分は面白いけど、さりげにマウント態勢にすぐ入るのが木になる。。 だよね(・∀・)♪
仏陀に会ったことも知らないわけで要は主観で仏陀は凄いとなるけど
いや別に仏陀一人で社会は成り立ってなくて他の人たちもが重要なわけでさ
つまり至高体験の価値づけも主観なわけだけども
正直その価値は努力相当な位で進んだ分だけ人にアドバイスできるよくらいだろうね
ただその涅槃だ仏陀レベルだってのも
単に主観でしかないから自我の強弱なんてどうでも良いけどな
そこが目安ではないと思うけどな
一番始めに書いたけど社会を成り立たせる一人で入れば良いんだからね(・∀・)♪ >>239
我がまだ残ってるかな?
霊格が上だから偉いとかいう意味じゃなくて、覚醒段階の話だよ。
もしずっと憧れてた江原さんより、悟りにより覚醒段階が進んでしまったのなら、
逆転現象だなと面白く思っただけ。
覚醒段階はマウント意識に関わらずちゃんとあるとおもうから。
その覚醒段階の話をしただけ。
覚醒段階がなぜあるかと思うと、スピリチュアリズムでは霊格という概念があって、
魂にはそれぞれ覚醒段階があるらしいんだ。
それを何段階とちゃんと定義してる霊訓もある。インペレーターだったかなぁ。
そのようなので、その霊格による覚醒段階の話を例え話として江原さんとぼくに当てはめてみたんだよ。
そこで純粋に疑問に思っただけ。
江原さんとムージみたいな覚醒者は、どっちのほうが霊格的には覚醒が進んでるのだろう?と。 覚醒なんて千差万別
みんな同じ所からスタートして同じ道順でゴールする訳ではないよ
我が消失して覚醒とするか、クンダリニ昇華させてを覚醒とするか
それより我が消失したのにどうして外側と比べるのかな?比べる事って我があるからこそじゃない? 江原なんて言動にブレのある偽物やん
それを信じてどうこうって正直笑わせるねw
悟るって、真実がわからないけど精神的に平坦になるだけのお話?
お笑いでしかないんですけどwww >>241
そういう前提があったんだね。
自分はスピ系の本やウェブ知識がほとんどなくて、禅の悟りをベースに考えてたから認識にズレがあったんだね。 >>151
>>207
>>235
で退屈だ〜ってさんざん言ってるけど、覚醒すると退屈になるものなの?
もっと満たされた気持ちになるのかと思ってた
そんなに退屈になるのなら覚醒しなくてもいいかなって思えてくる >>244
フラットと言っている割に序列をつけるって面白いね
普段がどうでもいいなら、それ以外もどうでもよくない?
こいつ元々マウントしたい人だから本物かな?w >>235で
> あ、そうだ。霊的指導者にもなりたいけど、江原さんに
> 憧れてるんでスピリチュアルカウンセラーになりたいと思ってた。
> まあそんな感じで、覚醒体験や霊視能力で、人の役に
> 立てたらなぁ、という願いがあるってこと。
と言っているのに
>>238
> カウンセリング一度もしたことないから無理。
> 霊視は霊視スレで見たことあるけど。
> もう疲れたし当たらないからやめた。
はブレてないだろうか
覚者にしては筋が通ってないというか
そんなものなの? >>243
自分も悟る前までは、悟りを開くイメージって、
自分の中に仏が宿るとか、無限に慈悲の心が湧き出てくるとか、
黄金の光のエネルギーが全身に満たされたり、価値観が180度変わるものだと思っていた。
でも実際、自分が体験したのは、そのどれでもなかった。
前の自分と何も変わらない。変わらないどころか、逆に何かを失った感覚が強い。
自分の中にあった自我というものを失った感覚。
それによる、感覚の変化はすこし感じる。でもそれがいいか悪いのかは正直判断できない。
自我がなくなったことで、世界が平面に見える感じがする、
自分という存在がネズミレベルのような空気のような価値のないもののような感じがする。
世界も自分もなんか、価値がなくなってしまったような感じがするんだけど、
その価値のないものの背後にある大いなる意識のようなものを感じられるようになった、というか。
その大いなる意識はたぶん、悟る前にも自分の中にもあらゆるものに存在してたと思うんだけど、
自我のせいでその精妙な感覚を感じられなかったように思う。
自我がなくなったことで、その精妙な感覚を感じ取れるようになって、
無の自分の中に、その空気のような大いなる感覚が漂う感覚というか。
その大いなる意識の感覚は、エネルギッシュでパワーのあるようなものじゃない。
マイナスイオンみたいな優しい静かな空気のような、穏やかなものとして感じられる。
空気のようなもの。
なので言葉で言えば自我のなくなった、自分という空間の中に空気が流れ込んでくるというか
漂ってることに気づいてきた、というのか。
つまり、空気の中に空気が入ってきたという、そんな感覚かなぁ。
なので存在そのものは存在しないような感覚なんだけど、
その大いなる意識がすべてのような。 >>245
退屈だー、と思うのは目的がなくなっちゃったから。
それまでは自分の人生を精神世界に捧げるくらいの強い情熱で、
精神世界やスピリチュアルを探求してきた。それがとてもワクワクして楽しかった。
本屋行って、精神世界コーナーに行くだけでワクワクしてた。
さらに自分の魂を高めることができる、何年後にはどれだけ魂が成長してるだろう?と
希望みたいなものがあった。
だから悟り体験前は、そういう気分だったので退屈とは感じなかった。
瞑想にハマり、悟る直前までその心境は変わらなかった。
でも、悟り体験をして、ああ終わったのだ、もう探求すべきことはないのだ、と心から感じたときに、
それから一切の探究心や興味や希望が消えてしまった。それがほんと不思議なんだけど。
もうすべて学ぶべきことを終えてしまったという感覚なので、
精神世界コーナーで本を眺めても、なんか今の自分にとってはすでにどうでもいいことのように感じられてしまうんだ。
もちろん物質的な事柄も、もう自分にとってはどうでもいいことのように思えるので、
とにかく退屈だー、という気持ちしかない。
でも退屈でヒマで嫌だー、という感じじゃなくて、
退屈でヒマでいるその状態ですべてが満たされてるような感じというか。
なので退屈なんだけど、気持ち的には穏やかで静かなんだ。
何もすることなくても、それ自体ですでに満足してるというか。
探究心があったころのワクワク感や刺激もいいけど、涅槃みたいな今の心境も悪くないとおもう。 >>247
ブレてる?
江原さんみたいなスピリチュアルカウンセラーになりたいけど、
自分の今の能力はそこまでじゃないので、試しに2chで霊視しても外れたから、
霊視はできないよ、ということ。
でも本当はもっと霊能力パワーアップして江原さんレベルくらい
前世や守護霊やオーラが見えるようになれば、スピリチュアルカウンセラーになりたいのになー
っていう夢なんだ。 >>246
246の文章は、244に言ってるの?それとも悟った退屈だ〜って言ってる人に言ってるの?
ちょっと文章の意味がよくわからんかった。すまん。 >>250
無我というか自我が空というのか、言葉は人それぞれかもしれないけど、その後に、それでもこれだけはしたいってのが、向こう側(後ろでも前でも上でも下でも良い)から来ると思うんだよね。
そこが、大事なのかなと思うんだ。
でさ、悟りとかスピとか全然興味ない人でもさ、その向こう側から来ることを純粋に受け取って生きてる人って結構いる気がするんだよね。というか、それが普通でしょ、的な人というのか。
だから自分はスピ系の知識皆無ってこともあるけど、やっと普通の人間としてのスタートラインに立てたんじゃないかって思ったりもするんだよね。
俗な言葉で乱暴に片付けちゃうと、こじらせてただけじゃん?とかってことなんしゃん?とかってさ。 >>238
覚醒者の瞳って、例えば誰だったら覚醒した人の瞳してるの?
美輪さんとか? >>253
和尚ラジニーシとか、クリシュナムルティとか、
ラマナマハルシとか、ニサルジダッタマハラジとか、
パパジ、ムージとか、エックハルトトールとか、大和田菜穂とか。
彼らは全員、悟りを開いた経験のある覚醒者と言われる人たちなんだけど、
その瞳に共通したものを感じられるんだ。
瞳孔が開いてて、妙なキラッという光があって、眼光の鋭さと真理を見抜くような眼差し。
ほんと独特な瞳をしてるんだ。しかも全員に同じような共通した瞳なんだ。
そしてなぜか、自分も彼らと同じような瞳になってしまってるんだ。
この瞳のせいで相手をドキっとさせてしまうのがわかるから、
人に不快を与えてしまってるようで、
普通のような目になるように心がけてるんだけど、なかなか瞳のキラッとしたのが取れなので、
私生活を送る上ではかなりデメリット。 >>254
大和田さん知ってるけど、確かに目力ハンパない人だよね。
「私はいない」とか「なにもない」とかばっかりで、言ってることは高度すぎてついていけないけど、覚醒したら理解できるんだろうか?
そして大和田菜穂と仲の良い阿部敏郎とか雲黒斎とかはその眼を持ってると思う? >>255
阿部敏郎も雲黒斎も名前は知ってるけど、顔は見たことないなぁ。
でもまあ、さっき名前出した彼らのような独特の目の印象を彼らにも感じるとすれば、
同じようなものじゃないかなぁ。 大和田菜穂はほんのすこし動画見たくらいなので、
詳しくどんなこと言ってるかあまりよく知らないけど、
わたしはいない、とか、なにもない、っていう感覚はぼくのレス読んでもらえれば
なんか少しわかってもらえるとおもう。
ぼくも、わたしはいないと感じる、というか自我が消えたことで人間としての自分がネズミレベルのような
空気のような価値ないもののように感じられる。
このことを、わたしはいない、と表現してるのかなぁ。
なにもない、っていうのは、悟りを開いてからなんか世界が無価値で平面のように感じられ、
実態がないように感じるので、そのことを、なにもない、と表現してるのかなぁ。
よくわからないけど。
わたしはいないし、なにもないんだけど、大いなる何かが感じられて、
それがほんとの自分のような、宇宙のような、神のような、全体のような、
そんな感覚なんじゃないかなぁ。 お世話になってる易者さんが言ってたけど、神仏縁のある人は顔に出るって言ってた
のっぺりした仏像みたいな顔って >>257
水を差すようで恐縮なんだけど
いわゆる悟りと呼ばれる「自分も世界も一つで、隔たりの無い状態」とか「自我が無い状態」
って瞑想して昏睡に近い状態になったから、
すなわち脳の障害なんじゃないかという疑念が消えないんだけど、そのあたりについてはどう思う? >>260
ごめん、自分は仏教とか全く詳しくないんだよね。
釈迦も 途中で切れてしまった。
釈迦は般若心経で「すべてに実体はない。」とか「すべてはエネルギーだ」とか「諸行無常の流れの中で、我々の脳が勝手に実体があるように勘違いしている」というようなことを述べているのは知ってる。
そして、それはまぁ確かにそうだなぁ。とは思ってる。
ただ、それは理性でも納得出来ることだよね。
それと悟りとは脳の障害なんじゃないか?っていう疑問とは直接結びつかないように思う。 >>259
瞑想者とか沖縄のシャーマンとかの脳は調べたら脳波がちょっと違うみたいなのは、ドキュメンタリーなんかでもやってるよね。
それと同じように、障害というかどうかはわからないんだけど、松果体が大きくなってるとか、ある部分の脳神経が弱くなってるとか、そういうのはあるような気はするなー。 >>259
もし脳に変化があるとしたら、それは脳の障害じゃなくて、脳の進化なんじゃないかなぁ。
意識が覚醒するにつれて、脳の使われてなかった場所が使われ始め、
霊能力や超能力が出てきたり、
その先にはさらに脳が進化して自分と外界の壁を感じなくなる悟りみたいふうになるんじゃないかな。
よくわからないけど。
自分が悟り体験した経験でいうと、脳が変化したとは感じなかったけど。
思考や考え方は前とまったく同じだから。もちろん知能も変化無いと思う。
よくわからないなぁ。 >>264
なるほどねー、脳の進化か。
確かに263が言うように松果体が発達た人はテレパシーが出来るようになるとか、霊が見えるとか、そういう話良く聞くよね。
あとは脳はメモリーじゃなくてチューナーとしての役割の方が大きいとかね。
ただ、マスターが良く言うように一気に我が落ちるとか、簡単なことに気付けていなかっただけで気付けば一瞬とか、一気にガラガラ変わるメカニズムについては脳の発達だと説明がしづらい気がするんだけど……脳の回路が一気に生成されるってのはなんだかよく分からない。
まぁ、もう少し勉強しますわ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています