マハルシは正に個人の傾向性が抜けるまで真我に留まりなさいと言ったと思います
真我は現れない隠されたものでありながらも、それが全体としての世界を写しているものであるのではないですか
空のようなものでしょう
そして、その真我は沈黙で表されてます
この沈黙点にあることが、表現の世界においては光輝を生み出し至福を体感させるのです
しかし、この光輝や至福、つまり世界と自己の同一性、主客一体、もしくは、クンダリニーの上昇による梵天との融合でもいいですが、このような現れの瞬間点を過去の記憶にイメージとして持ち歩き、維持しようという意志的活動が始まれば、たちまち苦しみに落ちるのです
つまり、私の側に、まだ、個人としての実感が残っているので、その働きを剥いでいくことがどうしても必要になるのではないでしょうか?