>>736
あらゆるものが真我の現れという意味では真我によって全てがなされていたという言い方もできますが、
真我は全ての根源であって行為者ではないので行為という二元性においては自我が行為をしていたという言い方もできると思います
そのあたりは言葉で話せばどうしてもなんらかの矛盾が出ると思います

マハルシがよく話していたように真我はスクリーンで現象の全てはスクリーン上の映画だという例えで考えてみたらいいのではないでしょうか

体験内容と体験者はもちろん認識されますよ
だから自分が今や今まで何を体験したか言えるのでしょう
そして自分が体験内容と体験者である自分の両方を知っていること、それこそが自分がそれら体験内容と体験者の両方を知る者(アートマン)である証拠です
自分とは体験内容と体験者である自分という主客の両方を知る者、主客の対象にならない認識者(アートマン)なのです
あなたもそれをわかっているはずです
誰でもそれをわかっています
誰でも体験内容と体験者の自分という主客の両方を知っているからです
今までも今も、体験内容と体験者という主客の両方を対象にする自らは決して対象にならない主体であるからです