>>581
感じようとしたら感じられる対象が認識されるだけなんですよ
無しか感じない自分がいるでしょ
自分がいなかったら無しか感じないとすらわからないはずです
感られる対象ではなく、感じてる自分という主体を見抜くわけです
もっと正確には感じてる自分を知っている者であることを知るわけです
感じられる対象と感じている自分とその両方を知る者がわかるわけです
それは探して見つかるものではなく、いますでに在るものです
だって感じられるとか感じられないとか自分とか、そういうものをあなたも知っているでしょう
知っているのは知る者が在るからです

それを知るのは言語的におかしな話ですが探さないで見つけるんです
探して見つかるのは対象だけです
主体を見つけないといけないのですが、主体は対象ではないので見つからないのです
これは個人の領域を超えているので個人がどうにかできることではありません
だから教師によっては何もしてはいけないとか、ただ普段通りに生活しなさいと言っています

ただ恩寵というか機が熟せば何らかのタイミングでわかります
恩寵に導かれるように自分の執着やこだわりをなくしていくのが個人にできることなのではないでしょうか
私は誰かと日常つねに問いていたり、なるべく五感に捉われず私は在るにとどまるようにしていたり、個人性の捉われをなくしていけばわかるときにわかると思います