【私はいない】ノンデュアリティ ・ティーチャー総合3【無断転載禁止】©2ch.net
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気になったのは
その方の装いで
後で調べたのですが
白の麻布と言われるものでした。 迷惑顧みず自分勝手に個人のブログ化して連投して、何がノンデュアリティなんだか
キチガイめ クンダリーニ
守護霊
体外離脱
ノンデュアリティとはスレ違い ユング心理学では
顕在意識は氷山の一角で
その下に潜在意識があると言われていて
潜在意識には
個人的無意識と
その下に
集合的無意識があると言われています。
顕在意識
潜在意識 個人的無意識
潜在意識 集合的無意識
クンダリニー では
顕在意識と集合的無意識の間にある
個人的無意識の中の
習慣や思い癖と言われている
雑念のもとになるものを見せられました。
自分で気づいていない
でも多少は気づいていたものを
まざまざと見せられ
かなりキツかったです。 >>61
よくわかります。
Mさんはここで続けられますか?
新しくスレを立てられても良いと思います。 全てを失った時に全てを回復する。
臨死体験と同じですよね。 Mはいくら書いても書いてもキリがない、際限なく書きたいことが湧いてくる病気、
欲望の奴隷となっていることを ”よく眺めたほうがいい” >>63
調べている時に
臨死体験の方が書かれているものを読んで
似ているな。。と思いました。
色即是空 空即是色は
波動の法則で
空は波動の層かな。。と思います。 >>65
Mの独白スレじゃねえよ、いちいち思ったとか書く必要がない
ノンデュアリティから一番ずれてることばかり書いてる 結局、Mは観念の牢獄に閉じ込められてがんじがらめになっているだけ、
いくら書いても書いても、観念の強化、己の地獄を強化しているだけということ
まあ理解できないだろうな w ユングは
シャドウの中に黄金があると言われました。
雑念から
いろんなヒントを得られると思います。 >>68
雑念にエネルギーや価値を与えて、自ら牢獄に向かう気か
あんた理解力ないね、 まあスレタイに関係ない書きこみは控えたほうがいいよね 個人のブログじゃないんだから書き込むのをやめろということを守れないのは、
脳に障害のある人か、痴呆老人のいずれかなんだよな >>61
無意識の領域にある個人的傾向に向き合うのはかなりキツイですね
例えば考えない傾向や、動作に戸惑うこと、ズレたプライドなどなどの、無意識的発露がわたしにはあるようです
これらが対人関係上の問題を形成している
この中間のつっかえ、まあ、塞ぐものとでも呼べそうな層を融和へもっていくにはどうするべきであるのか
ここがまだまだ解決されないところです
やはり頻繁に覗かれる状況にシフトしつつ、この問題解決に当たらねばならない
感情は非常に根が深いものであると感じる 個人的傾向に向き合ってるのは 誰?
無意識的発露がわたしにはあるようです と言ってるのは 誰?
ここがまだまだ解決されないところです って誰が言ってるの?
問題解決に当たらねばならない と言ってるのは 誰?
根が深いものであると感じる のは 誰?
いいか
個人的傾向エネルギー
わたしにはあるようです、という一時的なわたしエネルギー
まだまだ解決されない、と言っている一時的なエネルギー
問題解決しなければならないエネルギー
根が深いと感じてるエネルギー
これらのエネルギーが何でもないものを一時的に通過しているだけなんだよ
だから、そのエネルギーを楽しんだり、俯瞰して見るだけでいい、たったそれだけのこと
怒りのエネルギーは怒りのエネルギーそのものに同一化すると
他者の怒り、自分の怒りと、本来存在しない自分と他者の間を飛び回って、怒りを伝搬するだけ
怒りの引き寄せがここで発生するだけのこと
しかしその怒りも、単なる一時的なエネルギーだから、俯瞰して見ればそれだけでいつか消える
人生喜んでなんかやってれば、喜びそのものになる
まあそれも俯瞰して見てもいいし、喜びに同一化して楽しんでみるのもいいだけ >>75
その方向で行くなら、すべては起こっているということになりますね
なるほどなあ
でも、やはり抵抗してるような気がするが、それもまた起こっているとww
そうなると感情の問題解消に取り組むのも、起こっていることになるので問題ないのでは わたしはわたしがいないが、あなたは私がいるなと言うことはありえなくなるでしょう
誰がしているのという問いは無意味になりますよ、その方向で考えていくと
しかし、問いには、あなたは、わたしがいるじゃないかという批判が含まれてませんか?
相手に個人を見るなら、すべてがエネルギーの現れ論法はどうなるでしょう
微妙なラインです
苦しみをめっそうとすることが、あるならそれはそうあるとなりませんか 頭の理屈でそうだ思えるのと
全く疑いなく本当にそうだとしか実感できないのでは
どちらも理解しているといえるが全く違う
他人が言うことを、なるほどなあと思っても
ほとんどの場合頭の理屈でそうだと思えているだけで
本当の意味ではまるで何も理解できていない >>80
わたしは個人の無意識的な傾向性、作られてきた習癖の瓦解について書いたのです
それに対して、それをしているのは誰ですかと批判的にも受け取れる意見があったのですね
そこで、そうなると、個人の習癖、傾向が瓦解していく過程がなく、すべてがエネルギーの現れとなりませんか?
その時に自己は見ないが相手は見るというのは、どうでしょうかね
本能の意味の理解とはなんでしょうか
すべてがエネルギーの現れなら理解など個人とはなんの関係もなくなります
むしろ、わたしの主張は、個人を問題視しているのです 内容がどうであるかは関係なく、
相手を理解するのではなく、
相手を理解しようとしてできない自分を理解するしかないという話
相手を理解できるのではなく、
誰しも自分しか理解できないという話
探求にとって相手はただの自分の鏡でしかないという話
対話に関して相手など「いない」 >>82
自分と相手が分かれるのは、個人の集積されてきた癖があるからだと感じるのです
そこには勘違いのプライドや動作における迷い、考えることがないということが、わたしにはあるということです
これらの無意識的な反応が、境界線、鎧と例えてもいいですが、そのような分離の壁を形成して対立を生むのです
現に、いま、あなたとわたしは不二であるのに個人の感情問題で苦しんでいるのです
私にとってはの話ですが、それを否定するなら、すべてが個人とは関係なくなります
そうなると、あなたは、存在しないものに何を説いているのかとなりませんか? 誰かに説いているとしたら誰しも自分の鏡としての誰かに説いているだけ
ちなみにあなたに別に説いてないよ
あなたの内容もまともに読んでない
アンカもつけてないでしょ
あなたの書いてるコト、それは全部あなたの感想だよね >>84
そうでしたか
勘違いしていました
わたしの意見が批判的に受け取られたように感じてしまったのです
わたしの感想というよりも、わたしが世界(他者)との間に作り上げている個人の傾向性が問題だと感じているので書いたのです
顕在意識と集合的無意識の間にあるというのがわたしと同じかはわかりません
この世界と仏の間に挟まった、わたしから言わせれば、頭の中のつっかえ棒が抜けることが、社会、世界、他者と、自己の統一であり、ノンデュアリティであると、わたしは見るのです まあ好きなことを何でも言えばいいけど
誰しも自分が思ったことや考えたことを口に出しているだけだよね >>86
もちろんそうです
わたしが他者の意見に、わたし自身の経験を投影して、わたしの思いを書いたのです
しかし、その元を辿れば、わたしの思いというのも他者の意見によるのかもしれません 何が対立を生むでしょうか
相手をわたしと感じないからでしょう
その分離の原因は個人の様々な心理傾向があるためではないでしょうか
それが相手を批判するのは、相手(意識の内容物かもしれませんが)をわたしとは離れた部外者とするからなのです
そこに愛はなく、怒りが出るのです 他者が批判的であるのは今日に始まったことではありませんし、批判がなくなることもあり得ませんので問題ありません
問題は、私個人の側が、その批判的攻撃に対して無意識の壁によって反応して苦しんでいるということであるのです
そうなので、ひとつあるには、自然だけではなく意識や世界やハートだけでもなく、他者の存在を許せるかどうかが非常に重要です
わたしにとってはの話ですよww
この問題は、勘違いのプライド、動作における迷い、考えないことにあるのです
さらに深く観ると、この、自己の反応は、なんらかの無意識的なもの、何かわからないが、そのプライドがなければならないものが、潜んでいるようである
その正体は知らないが、この抵抗を繰り返す私を滅することが、自己の不在であり、自由ではないかと感じているのです
それが正しいかどうかまでは、わかりません 方法として意志の停止した状況で現れてくるものを維持しようと再び意欲が志向性を見せるところを捨て続けていくことだと思います
ノンデュアリティの教えは方法を否定するかのように言いますが、実質の変化なくして、私の不在の、確信など訪れるでしょうか
有名な方も、表面上の解体との言葉で、変化を肯定的に捉えていると思われます
またムージも真我に留まり続けることを推奨しています マハルシは正に個人の傾向性が抜けるまで真我に留まりなさいと言ったと思います
真我は現れない隠されたものでありながらも、それが全体としての世界を写しているものであるのではないですか
空のようなものでしょう
そして、その真我は沈黙で表されてます
この沈黙点にあることが、表現の世界においては光輝を生み出し至福を体感させるのです
しかし、この光輝や至福、つまり世界と自己の同一性、主客一体、もしくは、クンダリニーの上昇による梵天との融合でもいいですが、このような現れの瞬間点を過去の記憶にイメージとして持ち歩き、維持しようという意志的活動が始まれば、たちまち苦しみに落ちるのです
つまり、私の側に、まだ、個人としての実感が残っているので、その働きを剥いでいくことがどうしても必要になるのではないでしょうか? わたし・自分が可愛いと思うと、苦が生じる
わたし・自分が可愛いと思うと、正当性を主張する
わたし・自分が可愛いと思うと、全体から分離する
わたし・自分なんて ”ない”のだから >>91 >>92
「クンダリニーの上昇による梵天との融合」
早いとこ入院したほうがいいんじゃないですか?
非二元はあんたは無理
まず医者に行くことが先決でしょ
頭が正常だったら、不特定多数相手にネットの匿名掲示板で自論の主張なんかしないんだよ 聞かれてもないのに自分の考えを他人に話すのは
自分を他人に認めてもらいたい思いの表れだろうね >>93
そうでしょうか
自分を愛せなければ人を愛せない
人間は自分自身が一番大切である
このように聞くこともあります
苦しくなるのは他人が苦しんでいる時のような気がします >>94
入院ですか、、、
クンダリニーの上昇という言葉が神秘主義的でおかしな人に映ったのですね
すいません
わたしはノンデュアリティのことを書くのは、どのようなことが興味あるのかわかるからなのかもしれません
とりあえず、わたしの考えは病人のように映るということもあるということのようです この世界が意識であり、その意識はハートにあるというのもトッピな思想だと思いますよ
また、ニンゲンは誰も実体がないなどというのも、もちろんありえない主張でしょう
しかし受け入れる人もいます
わたしは単に個人と世界の融合を書いたのであって、それよりも格段に低い状況に思えるのですが、それでもやはりおかしな人ですよね
そう思われても仕方ありません 人に認められたい欲求はもちろんありますよ
特にこのような好きな分野なら尚更です
しかし、まあ光とか書き出したら、そりゃあおかしな人に思われても仕方がないのもわかりますww 世界は胸から広がる意識にぐるっと抱きしめられており、その世界が自己なのです
これも不二と呼べるものではないかと考えているわけですが、そのことは限定された状態なので実質の苦しみがなくなったわけではない
そこで、わたしは、それを意識的に維持しようと生活してみましたが、意識の内容物に気を引かれるので、不可能であるのです
他者からの干渉がなければ、そのようにあることは可能ですが、いや干渉があっても短時間なら可能かもしれませんが、マハルシの描写は、これに近いような気もします
しかし、苦るしみを離れるには、この維持しているのでは無理なようです
なにか自分の殻をまもるものがある
間違いなくプライドのようなものをもっていることで他者との軋轢を生んでいる 人生はそんなにたくさん考えることなんてないのに
がんじがらめだな
もっと自分を愛すればいいのに 明日死ぬかのように生きなさい
永遠に生きるかのように学びなさい
ガンジー >>102
奪われることに抵抗するので考えてしまうのかもしれませんね
人々の怒りも苦しいですし、死の恐怖も凄まじいものがありますので 今の苦、今の楽、この時この場が、一番の至福の時至福の場、
今ここにすべて揃っている、だから何も必要ない、悟りも求めて違う場所に行く必要はない >>104
奪われることに抵抗しているとき・場が一番の至福の時
人々の怒りを感じているとき・場が、一番の至福の時
死の恐怖を感じているとき・場が、一番の至福の時
あなたにとっての至福の時は、あなたの苦しみ楽しみの中にしかない 悟りの探究者は、今この場の苦しみを否定してあらゆることを考えて逃避しようとする愚か者
悟りを探求しない人は、今この場の苦しみを肯定し、受容して逃避しない賢者 細かいことはどうでもいいんだ
苦を受け入れないで、あれこれウダウダ、うじうじやるか
苦をスパッと受容して、爽快に生きるか
それだけなんだよ
非二元なんて興味ない奴のほうが強かったりする ここは単なる臆病者の巣窟であっただけ
おしまい ♪ 自分と異なる者を恐れる者はついついお説教しがちだな >>103続き
今まで見えなかったものが
見えてきたりする。 >>107
釈迦の悟ったことは縁起でしょう
生があるから死がある
迷いがあるから悟りがある
こちらがあれば、あちらがある
こちらがなければ、あちらもない
そこで苦しみには原因があるとすると、この身と心であり、これがなければ苦しむことはない
としたのではないですか
これは超絶不可能な地点に思えます
仏教では肉体の死後も業報輪廻するのです
つまり、この、肉体と意識があるのは、これに愛着あるからであるが、この肉体と意識がなくとも、それ以前あった執着が消えていなければ、地獄や天含む六道へ生まれるのです 無我なのに何が輪廻するかとなりますが、この業、つまり、行為と結果が輪廻していくようですね
つまり、この心意識が、個性としてではなく、行為として成したことがらが転生していく
個人的記憶はなくなるわけです
しかし、行為の結果は残っており、延々と、苦しみに苦しまねばならぬことになるのですね
天にも寿命があるのです
神々も善行による福徳が尽きれば死す この業の輪廻から解脱する道を悟ったのがお釈迦様であり、この悟りは、もうあったのです
そこで道が説かれており、これを釈迦の教えた道、法などと呼ばれているのです
悟りの探求はすでに終えられており、その結果としての仏道が示されているのです
しかし、この仏道を行じずに、苦しみから逃れることはできません ところが問題があります
お釈迦様は仕事も家族も捨てよ
たったひとりで乞食して歩けと言います
生産活動も愛情活動もしてならん
こんなことが普通の人間にできるわけわりませんし、間に受けてやれば、死期がかなり早まることだし、第1、いまや、サンガはどこにもないのですから、教えを聞くこともできないw 2500年前の北インドの人々の文化では聖人に施すことは善行とされていたので、聖人に至ろうとする人たちは乞食して修行のみに専念できる環境にあったのかもしれん
そして、更にはお釈迦様自身から法を聞くことができ、戒めを与えられていたのですから、このようなことを現代日本では同じように成せるわけがありません
これは、単なる思いですが、、、 現代日本で仏道修行ですと言って、ひとり乞食して回ったら、通報されるかもしれませんw
そこで文化に合わせた変化が必要になってくるのですが釈迦の教えを損なうことなく文化に合わせた道を説けるような、悟りの境地にある人がどこにいるのかとなります
普通に考えて、仏教僧の人たちも悟りを否定したりしているような状況ですね
まあ、禅僧の方には悟りを主張されている人も見えますが、どうでしょう
そう聞いても確証など、ありません このような状況にあるので悟りが必要とされてきて、その探求があるのです
そして不二法門、ノンデュアリティの教えや、禅、キリストの教え、イスラームの教え、ヴェーダの流れの教え、あるいは古代の教えであったりする事柄を統合的に学びながら、一体、真理とは何だったのか
と現代の人々は再び、聖者の来訪を期待しなくてはならなくなっていると言えます
悟ったというのなら道を説くべきです
全世界の病める人々が死から救われるのですから >>114
何が輪廻していくかというと
個人的無意識の中の
思い癖かな。。と思います。
それでユングは
シャドウの中に黄金があると言われたと思います。
雑念は利己欲からくるので
ここの改心だと思います。 やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ 例えば
親は子供を授かると
多くを望んでしまいがちになるけれど
本当は
命の感謝と無償の愛だけでよかった。。とか。 すみません。
>>123は
>>121の続きです。 真我はこれですと言えないものです
名称は仮につけているだけです
涅槃、滅尽定、仏、真我、道など、更にたくさんの名称が付けられているだけです
それは智慧の完成によって知られるようになると言われています
そして智慧のあるものは大慈悲心があるものであるとのことです
認識上にないのですから、これです
と言うことはできず
沈黙によって表されてきたようです
しかし、沈黙の先に何かを見たなら切らねばならぬと言われます
仏を見たら仏を殺しと禅でも言われます ここで罠にかかります
認識上にない、これだと言いだす
しかし、認識上にないものを、これだと言えるはずがないのです
空をも空じる
有無を超えている
つまり何もないと見ることすらない、ものであり無とも有とも空とも、真我とも、なんとも知られることのないもの
ですから、これが、悟りだと言われるものは、すべてであり、同時に、すべてでない
そのように二つの矛盾を含みながら、どちらも肯定も否定もされないもの
つまり自我活動の停止、無心
と言う何かがあるわけではないのです
どうしても悟れないのが真実になります
悟れないから悟るわけです
その甚深微妙なゆえに、理解されないと釈迦は思ったそうです これを思念的に理解したわけではなく、感官と頭を完全制御して解脱したのが釈迦です
思念的に理解して道を歩んだのが、その弟子たちであり、一部の舎利仏や目連などが、生存中に悟ったようです
そして、その弟子たちで悟れなかったものたちも再生後に、悟ることのできるものもいたようです マハルシの話をしていたときも思ったけど
仏教や悟りに関しても自分の想像を含めた話をあまり断定的に語らないほうがいいのでは
自分が本当に体得して知っていることだけ話せばいいのに何故知らないことまで話そうとするのか >>128
その知られない、隠されたものが、自我の不在による安心なのですから、それを話すのですよ
いまここの活動や、背後の静寂や光、観照している意識を悟りだと断定するからです
断定的なのは、むしろ、こちらの方ではないですか?
わたしは、これだと表現できないものが、悟りであり、それは自我活動の停止であるが、その停止は、表現上に光輝を生むが、その光輝を維持しようと動けは、苦になるから違うと主張しているのです
そして、むしろ個人の傾向性、わたしで言えば勘違いのプライドや、動作における躊躇や、考えないでいること等々だろう
それに対して反対意見もありますので、わたしはわたしの思いを断定します
しかし、仏教やマハルシさんの教えに関して、と言いますが、どちらも自己の不在、肉体はわたしではないと主張しており、真我の実現、悟りによって、達成されるとします
これを知ることは、難しくないでしょう
これを実際に達成することは、まず困難なことに決まってます これを歩む道が古代にはあったけれども、今は、どこにもないではないですか
悟った人しか語ってはならない、断定してはならないと言いますが、釈迦が明方の金星を見て悟ったと普通に断言してる人がいます
その人は釈迦に聞いたわけではなく、書籍等から知識として知っているから話すのです
それはみんな、そうするしかしかたない
まあ、しかし、わたしは悟ってないと言明しているのですから読む人も、これは悟ってない人の意見にすぎないくらい言わずともわかると思います 摂理は一体となり
調和を保つように
常に完璧に動いていて
時には徳の高い方が
荷をおわされ
教えて下さることもある。。と感じる時があります。 だから
教えて下さったことは
大切にしたいな。。と思います。 空は摂理。
共生と調和。
調和するところに命があることを
魂は知っている。 全体性は自然の摂理だから
分離しているものはないのレス。 >>131の
「 徳 」とは何かというと
霊性です。 親和性で融合した霊の集合体が
類魂です。
集合的無意識の部分。 2次被害を防ぐためにも
防災の備えは大切だと思います。 これがインターネットの使い道か
広告、キチガイの妄想、ツイッター、なんか時間の無駄だよな
こんなネットに高い金かけてると思うとあほらしい 何にでも唾をかけずにいられないのは
本当は自分自信が許せないから
本当は、自分自信が嫌いだから ノンデュアリティ はアニミズムに似てるなぁ。。と思いました。
日本はもともと自然崇拝の
森羅万象あらゆるものに神が宿るという教えが
浸透している国だと思います。
血統霊統から子孫まで
過去と未来が同時にあるなぁ。。と思いました。 大和田菜穂さんが
ミステリーという言葉を使っていたけれど
僕もそう思います。
ミステリーって好き。 君たちの人生についてもそうだが、
学んだ所で知識が完結するとしたら、
それはつまらないだろうな。
知識は色鮮やかな世に浸され、そこを
渡り生きることで初めて価値を持つ。
新しいものとの繋がりを恐れてはいけない。
息をする為に。生きていく為に。 空が開放だとすると
道理を見通す智慧の実践
自律かな。。
まだまだ道は遠く
続くのであった。 全体性に生きる。
( 摂理に添う )
自立と自律で意識の統合です。 ノンデュアリティ の覚醒体験を読んでいると
精神的自立の過程であったりする。 精神的自立をしていくと
インディビジュアルティに
気づきます。 インディビジュアリテイか。
良い言葉だね。
私はバウンダリーと呼んだけれど、
その方が適切な言葉かもしれない。
人格とは、内圧と外圧に挟まれた、
一時的なエネルギーの滞留だ。
それが解ければ空。これは死の世界。
それが結ぶのが魂。これが生の世界。
生はインディビジュアルなものだ。
そしてその個別性を極めた先、人が神と重なる地点に
ノンデュアリティな状態がある。
これは、創造。生あって個なし。ただ結ぶもののみ。
そはつまり、いのち。 同じような事ばかり書いてないで、職人に弟子入りでもすればいいのに。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています