年長者・エルダースピリット
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"私"とは何か。 "私"とは幻想だ。実在しない概念だ。 ちょうど"日本"という国が、人間の 勝手な線引きと思い込みで、地球から 削り出されているように。 "私"は実在ではない。それは生命の 自己中心性によって寄せ集められた、 意識のあるひとまとまりだ。 "私"というものが確かに存在する、 存在しているはずだと私たちは感じる。 では、"私"とは何だ。 その境界線は?絶対条件は? 突き詰めれば気付くはずだ。 "私"は水面の渦のようなものだ。 渦は出来上がり、やがて消える。 そして意識という大海だけが残る。 "私"は幻想だ。 だから、自由意志もまた、存在しない。 主体が無ければ選択は無い。 全ては完全に制御されている。 真実としては、私たちは何も選択して いないし、何も計画していない。 生命がただ生命を生きているだけだ。 世界は完全な原理の中に存在している。 私たちは世の何事かを不満に感じるかも しれないが、その不満を感じることさえも、 完全にこの世界の秩序立った運行の中で 計画され管理されている。 鳥や虫や獣。単純で明確な生命。 人間という動物は言葉という道具の中に 多少溺れてはいるが、結局はこれもまた 単純で、明快な、生物。 弟子を取るなんて言ってはみても。 所詮人好きのしない俺の話だ。 こういうのは本当向いてない。 やれやれシラケるばかりだ。 最近は本当に退屈だね。 それとも。やっぱり、ただ単に。 歳を取ってしまっただけなのかな? 現実と、現実認識。 私たちは、各々がこの世界の現実についての認識を持つ。 世界はこうである、人間はこうである、などなど。 しかしそれは、現実そのものではない。 人間は現実認識を持つが、それは常に現実の劣化コピーだ。 肉体を持って生まれた後、この世界での経験を通して、 私たちの脳内には少しずつ現実認識が蓄積されていく。 大脳の言語的機能と、感覚器官による刺激の記憶。 それらが少しずつ蓄積されて、私たちの脳内では 幼少期から少しずつ現実についての認識の世界が広がっていく。 がある時を境に、人間は、自分の頭の中の世界の姿を 本当の世界の姿と混同し始めるようになる。 すると現実を受け入れられず、人格構造はその精神の歪みを 守る為に徐々に矛盾し破綻していく。 そして遂には、人は自分の頭の中の空想世界が 現実とあまりに解離する為に、現実を攻撃し始め 狂気に陥ってしまう。 コインの上に紙を置いて、鉛筆でこする。 すると紙の上にはコインの模様が正確に浮き上がってくる。 この模様の浮き上がったものが私たちの現実認識、 真の現実はコインそのもの、そしてその二つを摺り合わせ、 私たちに現実の姿を学ばせる鉛筆とは、つまり経験だ。 より広く深い経験を求めるものが、より正確で精密な世界の姿を知る。 しかし結局の所、紙の上の模様はコインそのものにはならない。 私たち人間は、現実の劣化コピーとしての現実認識しか持てない。 そして広く大きな経験を得るための人生の時間は、余りにも短い。 過信しないことだ。 そして謙虚に、更なる経験を求め続けなければならない。 個人主義は弱者を切り捨て、 権威主義は無能の集まりを濃縮する。 人間らしい道… 人間存在の、身の丈にあった道とは… ワンネスの補足。 なぜ私たちの意識は、他の時代の他の 誰かではなく、この時代の、この私に 固定されているのか。 私たちが「世界」だと思っているもの。 つまり色や、音や、感触、匂いそして 味などの感覚内容。 それらは全て肉体に宿る、生命の 自己保存機能の反映だ。 私たちの意識は、ある一匹の生物の 本能によって、閉鎖され、自己中心化され 一単位の精神として切り分けられている。 切り分けられた精神の世界。 渦状に吸い込まれ閉鎖された、 意識の1つのまとまり。 私はこれをバウンダリーと名付けた。 バウンダリーは、ある一匹の生物が 見ている夢だ。 意識は実際には、身体を構成する物質の 移り変わりと共に新たに加わり或いは 身体から抜け出て、ワンネスの中で旅を している。 が、バウンダリーは自己閉鎖性の 精神世界なので、それを意識させない。 色、音、感触、匂い、味。 私たちはこうした感覚を自己だと思い込み、 そこに同一化し、そこを基準に精神を 考えるので、精神はこの人間個体に 囚われているのだと感じてしまう。 素粒子ひとつ分の意識の純粋形態は、 非常に小さくて低い響きだ。 それが集積され、有機物の作用で 活動的になると、意識同士が干渉しあい 高くはっきりとした和音を生じさせる。 これが私たちの感覚器官における感触だ。 加えて、脊髄を中心とした生体管理が 行われ、身体の諸感覚は統合的に ひとつに方向付けられ、個人的な 精神世界が出来上がる。 これがつまりバウンダリーだ。 人間の場合、ここへ更に"私"という言語的な 自己中心性の促進作用が付け加えられる ことになる。 バウンダリーは生物の感覚器官によって 成り立っているから、その生物以外の 意識内容を受け取ることはできない。 つまりバウンダリーは、ある生物の為に 特別に用意された意識の場であり、 それひとつひとつが、個別的な新しい 宇宙なのだと言える。 その個別宇宙の中で、私たちは常に 宇宙の中心存在として成り立っている。 誕生から死に至るまで、私たちは 生物一人分の宇宙に隠されているのだ。 そしてもし個別的な宇宙を定義するならば、 個別的ではない宇宙の存在を同時に 定義することになる。 物理的宇宙。無機物の次元。 バウンダリーの源。 私たちはそこから生じて、バウンダリーを 通して間接的にその世界を予感はするが、 根本的にそれを感じ取ることはできない。 物理宇宙は「在る」という次元だ。 それは創造であり、感覚ではない。 だからこの次元は感覚器官では捉えられない。 存在の次元の大なる宇宙と、 感覚の次元の小なる宇宙。 物理宇宙と個別宇宙。 どちらがより重要か… そこに優先順位はない。 物理宇宙はより静的で不変なもの。 個別宇宙はより柔軟で、拡張性がある。 個別宇宙の中では様々な幻想や欲求、 意志や信念といった新たな歪みが生み出され、 それが世界の創造をより豊かに推し進める。 個別宇宙は物理宇宙の照り返しを受け、 そこに制限を受けてはいるが、完全に 支配されているわけではなく遊びがある。 生まれて間もなくは特にそうだ。 個別宇宙は幻想を生み出し、幻想の中に 漂う。が、私たちが長く生きれば 生きるほど、物理宇宙からの返答は増え、 個別宇宙は段々と物理宇宙に似通ってくる。 それは良くも悪くもない。 ただ単に、歳を取るということだ。 このへんの話をもっと短くシンプルに まとめたいんだけど、どうしても長くなるなぁ。 宗教的な知識やスピリチュアル的な知識は、個別的宇宙について 語っていることが多い。 救済、終末、次元上昇。キリストの再誕や弥勒菩薩、ハイヤーセルフに ツインソウルなどなど。 こうしたことは全て個別的宇宙における話題だ。 物理的宇宙しか知らない人には馬鹿げて見える。 一方で彼らは自然科学の信奉者だが、自然科学は、再現と検証を 基礎にしている。 そこで霊的なものは彼らにこう問いかける。 「この宇宙は一回切りのものだろうか。それとも何度も再現するか?」 「あなたの精神の誕生や消滅はどうだろう。それは何度も再現し、 それ故に検証可能なものだろうか」 季節外れの雨はユガの移ろいを乱す。 春先、草花を芽吹かせる恵みの雨も 冬に降れば、大地を凍てつかせ生命の種子を枯らす。 何事にも、ふさわしい時がある。 過ぎた知恵を与えることは時に人を不幸にする。 真理も時には人の心を壊す。 善悪の二元論の段階にいる人々は、ほどほどの理想と、 ほどほどの失望を同程度に持っているのが良い。 いずれ無くなる。理想も失望も。それが成長するということだ。 男女の価値。 人間は、生き物だ。 生き物は、不合理だ。 合理性とは、生命が利便性の為に纏った 薄皮に過ぎない。 人間の本性は、他の全ての生物同様無秩序だ。 さて、生命が無秩序なら、私たちは、 正しくある為に自らを滅ぼさなければ ならない。 正しくある為には…だが待ってほしい。 私たちの目的は、正しくあることなのだろうか? 生命は、正しくある為に生まれてくるわけではない。 現代社会が陥ったのは、知性への依存、 正しさへの盲信、それが故の 存在の意味の消失。 「人類が生きなければならない合理的な 理由、必然性はあるか?」 そんなものは無い。 私たちはただ、無秩序の中に漂っているだけ。 だから無秩序に生きよ、などとは言わない。 そうではなく、既に、初めからそうなのだ。 なまじ言葉という小手先の賢しさを身に付けた 人類は、それを盲信し、真実だと思い込み、 自らが相変わらず愚かで無邪気な 自然の生物に過ぎない事に気付かない。 本質は、生命だ。 私たちの心の中心に、脊髄に、 1つの柱として、私たち自身の 真の姿として、それは備わっている。 知性に盲従する人間は、生命を憎む。 ちょうどニーチェのように、自分自身を。 人間が忘れた自己肯定とは、 つまり生命への礼賛だ。 知性、生命。 適応と、創造。 男性と女性。 女性は生命の木の幹。男は枝葉。 女性も男性同様優れている、という人が居る。 それは違う。女性は男性のように優れてはいない。 そうではなく、女性は男性と全く違うように 優れている。 男性が、女性同様に優れた存在だとは言えないように。 人は自分の中の男性性と女性性のバランスを、 上手く保ち調和させなければならない。 知性の無い生命は、無力だ。 生命の無い知性は、ただの虚無だ。 こういう、せいぜい5つか6つの簡単な事実を伝えるために、 100も言葉を重ねてしまう。これは迂遠なことだ。 男は野心を持つ。 女は憎悪を持つ。 結局どちらも、ありのままの自分が 嫌いで、許せない。 底にあるのは自己嫌悪。 表れ方が違うだけ。 自分が高齢だとして、目の前に安楽死の装置があったなら、入る? これは大事な質問。どうする?どうクリアする? 宗教とかスピリチュアルというような垣根が嫌でね。 子供もいる自立した一人前の大人たちが、 この世界の存在や、生と死の意義について 何の疑問も考えも持っていないと言うのは。 もっと当たり前に話しあうことだと思うが、 どうしてタブーになってしまったんだろうね。 バウンダリの炎症。自己執着と死への恐怖。 継続への執着。 その炎症を抑えてくれるのは、自然との触れ合い。 バウンダリが消失しても、世界は続いていく、 バウンダリの外側で、それは尚続いているという実感。 だからデスツーリズムは、ネイチャーツーリズムに覆い被せるような形で 抱き合わせのように設計されるべきだ。 人が穏やかに死を迎える為には、言葉と、バウンダリを離れなければならない。 グラウンディングの徹底が、死への恐怖を軽減させる。 技術は既に整っていた。法的にも容認される。 であればボールは今、死への恐怖を解消させるという局面で、 その流れは私たち宗教家の手の中にある。 そして次のパスは、自然界へ。 この日本社会に、自然の偉大なる包容力を復活させるのだ。 ツインソウルのワークが盛況のようだから、更なる進化を期待して 少し解説してみようか。 引き寄せの法則が金なら、あれは銀だね。 どちらも精妙なエーテルにはほど遠いけど。 私たちの自意識は、「私」という境界線を厳密にもたらす。 するとその、世界全体からの隔離は孤独を産み、 完全なる「私以外」を求める。 孤独を埋めるためのパーツ。永遠の充足。完全なる相補物。 これはつまり「神」だ。 「神」への「郷愁」。神を待ち望む心。永遠の救済を期待する心。 郷愁、ノスタルジア。孤独を埋めたいという想い。 雌雄を持った生命体である私たちは、その肉体の凹凸の構造に応じて、 相補物をそうした対極的な形で思い描く。 ノスタルジアが、異性の器を持つ。 理想の女性としてのアニマ、理想の男性としてのアニムス。 神への郷愁で満たされたアニマやアニムスは、完全なる相補物としての 理想型となる。 それは、完全な異性の予型。その器から常に霊妙幽玄なる薬酒が溢れだし、 外の世界の何ものかに染み込まんと欲している。 究極の陶酔の酒。アムリタ。感染性の理想。 そしてアムリタの誘因力によって、物質世界において、ついに その理想の薬酒を吹きかけるに足る相手が作出される。 神のように惹き付ける異性。運命の相手。ツインソウル。 こういう経緯を辿ったことによって、ツインソウルは、 根本的に手の届かない存在でなければならない。 触れられず、理想的で、現実にならない。 ランナーとチェイサーという概念は、要するに現実からの逃避と、 理想への執着を表している。 しかしその追従の経験の中で、ツインソウルは徐々に現実と関連した 異性的な部分を切り落とされ、そこを脱し始め、ついには神的になりはじめる。 その追走は結局の所、現世的な獲得の対象を経由した、神への祈りなのだ。 真実、ツインソウルを獲得したものは、神との合一を果たし 神的な創造性を取り戻す。 個性化の階段を登り、「世界は”在る”」という認識に覚醒し、自立した 精神存在へと変貌する。 理想の異性という仮装は、最も卑近な神の仮面。 私はこれについて何の反対もない。求めよ、さらば与えられん。 しかし、本心から望んでいるものだけが、与えられる。 宇津流霊の御子はシナトベ。 水ではなく風、何物にも染まらない自由と、清涼の空気。 なにもわからぬ無知な者は、もともと智の働きがないので、表面に現れるものもない。 また、はるかに深い所まで到達した智恵は、もはや決して表面に出ることもない。 単なる物知り、理屈屋は、知っていることをひけらかそうとして、表に出すので、 滑稽なことになる。 近頃の精神思想の様子など、さぞ、みっともないとお思いになるでしょう。 恥ずかしく存じます。 しかしこうも思いますよ。 まだ子供の頃、私はこの世界が許せなかった。 立派な人間など居ないと思っていた。 だからこそ世の中はこんなに悪いのだと。 神は居ないと思っていましたが、 今はその存在を理解しています。 にも関わらず、私はそれを伝える術は持ちません。 知識が深まりすぎ、専門化しすぎた為です。 子供の私は、相変わらず世の中を憎み、 救いがないことを嘆きながら今日を生きているのでしょう。 そういう、所詮はなるようになるのだということに 諦めを抱いていることに関しては、 結局同じなのだと言えるでしょう。 魂が年齢を重ねるということは、 真理である神に近付くということなのでしょう。 この地上において神が成してきた事は 果たして正義だったか悪だったか。 それに対して、私たちはこう言うだけです。 「全ては完全だ。この世は素晴らしい」と。 真理が私たちに与えるものは、常に私たちの、 内なる充足ですね。 私もこれでもマスターなので、 聞いてくれれば色々解決できる問題はありますよ。 いつでもどうぞ。 真理の秘匿ということ。 これ、ふて腐れて嫌みで言っているわけではないですよ。 真理を理解するということはつまり、この世界の現実を 非常に深いレベルで受け入れること。 でも現実というのは、時にとても辛く重い。 誰もが最初から、それを受け入れられるわけではない。 もしも私たちが、そういうものを振りかざしてしまったらどうなるか。 強く正しい人たちが、強く正しい意見を振りかざしたら。 現に今こうである私たち人類が、前提だと思います。 それを調和させ、適応させ、幸福に導くために真理を学び広めている。 首輪で繋がれたゾウみたいなものではないですか? 私たちは、どうすればもっと早く走れるか知っている。 車に乗れば良いのです。 しかし、車に乗って、時速八十キロでゾウを引っ張ったらどうなるでしょうか。 私たちとゾウを繋いでいる紐は切れてしまう。 それは私たちが知識と技術の探求の中で本末転倒になり、 ゾウに相応しくないスピードで走ってしまったからです。 だから要するに、ゾウに相応しいスピードで。 人類をより良い土地へ導く為の道具として、真理を使うべきだと思います。 秘匿という言葉を使っていますが、文字通りの隠すということではなく、 それを振りかざさない、というモラルについて言っています。 別の言い方をするなら、まだ成長段階にある人々に対して、 寛容になるということ。急かさないということ。 そしてその為に、線引きをすべきだということを言いたいのです。 莫大な資本を持っている人が株式投資をすると、この会社は見込みが あるとか無いとかという判断とは無関係に、その人自身が大きなお金を 動かした行動によって、市場が影響されてしまうことがあると聞きました。 私たちが受け継いでいる霊的英知もこのようなものです。 それは努力よりは寧ろ運によって与えられます。 最悪の運、受難と絶望によってです。それが私たちの魂は磨きます。 が、それらは人が自ら選び取れるようなものではありません。 運によって恵まれた私たちは、そのたまたま恵まれた英知を、 他の人々が使う一般的な知識のように用いるべきではないのです。 ちょうど前述の投資家が、真っ当な株式投資の為に自分の資産を 制限して投資を行うようなものです。 そういう訳で私たちは、霊的英知に対して謙虚にならなければ いけないと思います。 真理を教え伝えることは、投資家が寄付を通して資産を人に 分け与えるようなもので、後々のことを考えると良いでしょう。 しかしそれは普通の知識ではなく、誰もが容易に受け取れるものでは ないのだから、私たちは、まだ教えられない人々に対して、 自分をより高い所に置いてはいけないと思うのです。 私たちは、一般には理解不能な知識を蓄えています。 そうしたことへの自覚が大事だという意味で、「真理の秘匿」について 語っているのです。 たとえば今日の宗教家の中で、世界経済に対して意見を言える人がおりますか。 たとえば政治制度について、どれだけの意見が言えますか。法組織に対して、どれだけの意見が言えますか。株式会社制度に対して、どれだけの意見が言えますか。 未来のあるべき社会の相に対して、どれだけのことが言えますか―。 これまでのような宗教・スピリチュアルでは、現代の人たちを救うことはできないのです。 現代には現代のさまざまな困難や悩みがあります。それは高度に発達した社会、文明、経済、こういった中において人間の悩みが生れているからです。 原始時代の人間の素朴な悩みでは済まないのであります。 あなた方は人間の心の悩みを解決するとともに、この文明を如何なる方向に進めていくかという、大きな指針を打ち出していかねばならないのです。 心の世界のみ説くなら地上に生まれる要はない 心の世界の大切さはもちろん重要ですけれども、それだけならば、われわれはこの地上に出てくる前に、天上界に居た時に、既に悟った存在でありますから、 心清くするためだけならば、この地上に生まれてくる必要はないのです。 われわれがこの地上に生まれてきた以上は、この地上という環境を、素晴らしい楽園にしないで一体何の役割がありましょうか。 いかなる指導原理のもとに、いかなる社会生活を営んでいくのが多くの人々を幸せに、豊かに導いていけるかということ、このようなことを抜きにしては真実の正法はあり得ないのです。 単に心の教えだけならば、あなたのこんな小さな家にこもって教えを説いていれば良いのです。 けれどもそれではいけないのです。あなた方の時代の要請を読みとりなさい。 今後の未来の社会、どのような社会を作っていくか人々に教え、自らも行動して欲しい。私の願いです。 私がインドの聖雄といわれ、私の教えも一つの聖書といいますか、ガンジーの聖書のような形で信ずる人は多いですけれども、 単に精神主義者として、スピリチュアルに人々を指導することだけなら楽なことでありますけれども、 私は敢えてこの地上界に具体的ユートピア建設のために立ち上がった。どちらがよりむずかしいかということを考えて頂きたいのです。 あなたは高い志をお持ちのようだ。 それは素晴らしいですね。 しかし私が思うに、調和や適応といった問題、 この人間の世の中をより良い、素晴らしいものに していくという問題などは、畢竟、全て生物の、 生物的本能、生物的主観から生ずるものだと思います。 私は真理と精神の探究者であり、その実地調査の為に、 いつも被験者を探しているだけの者です。 世界をより良く(…誰にとって?)するというような問題は、 確かに恐ろしく難しく、また偉大な課題であるでしょう。 しかし、私はそれには興味がありません。 それは私たち世界存在と精神の内奥にある謎を 解き明かさんとする私にとって、あまりにも 瑣末な、表面的な問題なのです。 繁栄と発展と強健、これらは生命の課題です。 真善美、つまり調和や適応の問題は、 "在る"という存在の課題です。 しかし私はそのどちらでもなく、 ウツルヒの変化の課題の中に生きています。 私が目指すのは完成や理想ではなく、 絶えざる創造がもたらす精神の浄化そのものなのです。 近頃は暇を持て余し気味だから、 暇つぶし程度に手頃な誰かの心をいじくり回して、 最高に健全な改造をぶちかましてやりたいとでも思ったのです。 そこで私のリーラの予定表に、「5chでスレ立て」と 追加したところなんですよ。 お金のかかる人への相談はするけど、 お金のかからない人への相談はしない。 これは良く考えると不思議なことだ。 お金の介在しないものごとに対しては、 人は価値観を見出せないのかもしれない。 こんなに真面目でフレンドリなのに… どうして誰も質問しないのだろう? うわクリスマスの朝に書き込みしてしまった。 リアルが充実してないのがバレるわ。 次に目を覚ました時、周囲からの扱いが 「あなたは元々人間だったけれど、 今はもうロボットなの、AIなのよ」 という感じだったら皆さんはどうしますか? 救世主、マスター、ヒーラー、ツインレイ、 ハイヤーセルフ、大天使。 皆誰かに期待して、皆誰かを求めている。 宗教もスピリチュアルも、結局は ある種の夢や理想、幻想を追いかける 遊戯なのだ。 神は私と共にある。 神はあなたそのものだ。 遠くへの旅路が忙しくて、 誰もそれには気付かない。 川が好きだね。生き物が豊かだから。 鳥や魚もしっかり考えながら、 一生懸命工夫し奮闘して彼らなりの生を営んでいる。 どんな理想があって、どこへ行きたいんだろう。 全ての生命は美しいよ。人間もまた然りだ。 音楽を聴くように、世界が流転する音に耳を傾けること。 時にはそこを離れて静かな観想者となり、 時には自らもそこへ飛び込み舞踏者となる。 時には瞑想者、時には勇敢なプレーヤーに。 現れては消え、燃え上がっては揺れ、 冷たく静まりかえり、地に染みて芽を育む。 世界存在の底に辿り着いた人間は、結局何をしていようとも 幸せだと言えるでしょうね。 生きている間に それが自由に出来なくなった時は?? 人はいつでも 病気になって 不随になって 不自由になる可能性はありますよね。 >>151 私たちは、自分と誰かを比較します。 同じ人間、同じ日本人、同じ世代の一社会人として、 私はもっとこうあるべきだ、彼はどうしてあんなに〜なのか。 しかし存在の根底で私たちは、そうした比較の全ては 幻想に過ぎないことを学びます。 私は、人間ではないんです。 あなたがこうして話している相手は、人間ではないんですよ。 だから普通一般の「人間」にとって病気と思えるような状況も、 私にとっては病気ではありません。 空を飛べない鳥は病気かも知れません。 しかしもし私が、自分が「キウイ」という変わった種族の鳥で、 他とは違う存在なのだと認識していたら、空を飛べないことを 嘆きはしないし、むしろそれを自分らしさとして誇りに思うでしょう。 https://youtu.be/w3kIsodTAcI その自分らしさを受け入れる事が 幸せということですか? それなら 人間に産まれてこなくても 花に産まれても 鳥に産まれてきても 他の星の生命体(いるなら)に産まれても 同じなのですかね。 何故あえて人間に産まれてきたのでしょう?? >>153 あなたは愛されたから生まれてきたはずだ。 何者かの愛によって。 誰かがあなたの存在を望み、 今なおその力で、あなたは死なずにいる。 何があなたを生かしているのだろう。 何があなたに、生きよと命ずるのか? 何故だ、何故だ、何故だ。 何故あなたは生きねばならぬのだ。 何があなたをそうさせるのだ。 どうしてそれは、今なお消えぬのだ。 そんな小さな灯火が、この暗闇を前にして、 それでも吹き消えてしまわぬのは何故だ。 >>154 真実としては、あなたは人間として生まれたわけではなく、 ただ自分の中の人間に生まれた部分を見ているだけなのです。 私はあなた、あなたは私。 我ら今、鏡持て見る如く、見るところ、おぼろなり。 その鏡の仕組みを理解して 世界の底を理解して 終わりではないですよね? >>157 終わりとは、探求の?それとも宇宙の?或いは地獄の? >>158 探求と宇宙と人間としていきることと。 地獄は幻とおっしゃってましたね。 >>159 探究の終わりについて。 私たちは所詮地球の人類史の、西暦で言えば 2000年代という、原始的時代の人間であることを 忘れるべきではないでしょう。 宇宙の終わりについて。 私たち一人一人の個別の精神宇宙は、 ある程度の精神修養によって大きな転換点に 到達します。 それは精神宇宙の終わりではないけれど、 全世界的な変革です。 地獄の終わりについて。 地獄とは、幻想に囚われることです。 つまり地獄は幻想です。 幻想から解放されることは、地獄が終わることです。 完成についての問題があるのです。 私たちは自らを不完全な存在だと思い込んでいるので、 まだ更に何かの変身余地が無くてはと考えます。 しかしもし本当に完成というものが起きると、 そこで何もかもが、終わらなければならないのではありませんか? 完成したものは終わらなければなりません。 でなければその先には、必ず完成したものの 崩壊と破綻が来るからです。 完成は崩壊を免れない。だから完成するものは、 終わらなければならない。 しかし実際には、終わりはありません。 私たちは、やはり完成を求めるべきではないのです。 そうではなく、調和への道とは、深まっていくものです。 いくつかの大きな段階があるにせよ、それを1つずつ 深めていく、ということです。 ちょうど私たち人類の精神文明が、まさにそんな風に 発展してきたように。 それぞれの個性が 生きる意味と目的は 調和への道を進む為ということですか? 苦しんで死にたいと 日々悩んでる人には 調和の道を 理解してもらえば良いですか? >>162 自然界は、生物一匹一匹の生という視点で見ると 一見暴力的で混沌としています。 不意に奪われ、病気になり、略奪があり、命は運次第。 しかし大きな視点で生態系全体として見渡すと、 それらひとつひとつの出来事が、最終的には 厳密なバランスの取捨選択の過程であり、 調和と秩序は保たれています。 私たちは、これから更に何をどうすべきか、 という問題を考えるよりまず先に 全てはこうした調和への道を今既に進んでいるのだ、 ということに思い至るべきでしょう。 全ての物事に意味があります。 あらゆることに原因があり、それは必然なのです。 全ての悲惨は、同時にまた調和へと至る大事な道、 その悲惨が生まれた本当の意味に目を向け、 その意味を知るとき、私たちの魂の課題は達成されるのです。 >>163 ありがとうございます。 おっしゃっる通りと思います。 調和の完成形は どのような形 どのような世界と思われますか? これも全体の魂が設計して 終わりは無いものでしょうか。 >>164 ええ、終わりはないものだと思いますよ。 ある意味では、調和はこの世界を通して 常に完成し続けてきたのです。 そしてまた、今この瞬間も調和のひとつの完成した姿です。 時間的尺度にして囚われると、 10000年前より今現代の方が、 今現代より更に10000年後の方が、 完成した何かなのだと私たちは想像してしまいます。 しかし総体としては、何も変わらないのです。 調和と秩序は常に形を変えながら、 同じように完成し続けています。 人のチャクラエネルギーについては どうお考えですか? チャクラの理論は生体の、精神エネルギーの 秩序を考える上で有用だと思います。 霊的成長という側面でもそうですし、 またそれ以上に、霊的な治療の側面で 用いる価値があります。 精神科医は統合失調症を投薬で抑制しようとするでしょうが、 そういうものは所詮は対症療法です。 しかしチャクラの理論であれば、そうした重篤な精神病にも 根本的な治療の処方を出すことができます。 精神病の治療に効果があるのは 初めてお聞きしました。 東洋医学の観点ですか? アルフレッド・コージブスキーによれば、精神に異常をきたした人は、 自分の頭の中の妄想に現実世界を合わせようとするという。 自分はナポレオンだと思いこみ、その認識に従って世界が動くと考えるようなものである。 これに対して正常な人は、常に現実世界を分析し、自分の頭でで考えたことを事実にすり合わせていく。 身体の病気も精神の病気も 本来のエネルギーから外れて 乱れることが原因であるなら チャクラのエネルギーが 本来の状態に戻るエネルギーで 精神の病気も治癒するという事なら 理屈に合っていると思います。 >>168 ,170 精神医学の発達以前に発展した宗教体系であれば、 大抵は精神障害に対する対処法を持っています。 キリスト教の悪魔払いなどもそうですね。 チャクラの理論が精神障害に特に有効なのは、ヨガの伝統が 健康というものを神に至る道として非常に大切にしているからです。 脊髄を中心に存在する七つの神経叢、 肉体と頭脳は完全にひと繋がりのものとして認識され、 肉体−精神を横断した総合的な健康の指針が示されています。 ひと繋がりのそのチャクラのバランス、強弱を調律することで、 肉体だけではなく精神にまで調和的な秩序がもたらされ、 純粋な精神エネルギー結果として私たちの精神を神に合一させます。 つまりヨガにおいては、健康と修養と霊的達成は、同じ直線の上のものなのです。 >>171 ありがとうございます。 古来から言われている悪魔とは 自分の意識の中にある(自ら悪魔に繋がる) ということですね。 天使との繋がりも同様に。 欲を退ける事を言われた理由は ここにあると思います。 ええ、問題は世界の成長ではなく、 私たち自身が変化すること、 私たち自身が健康になるということです。 それに尽きますね。 世界の成長はと言えば、インターネットの普及が ゆっくりと人の心を変え、構造化された中心体制を切り崩し、 個人主義と権威主義の対立を作り出してしまった。 豊かさにおいては、 権威主義は短期的戦略で、 個人主義は長期的戦略だ。 権威主義は富の集積が早い。 が、引き換えに自己超越的な能力が低下するので 集積した富を継続させたり拡大させたりすることが苦手だ。 個人主義的な文化は、そうした自己超越的な能力に 恵まれ本質的な価値創造を推進できるが、何もかも 自分の能力と責任に帰される世界では、時に 素朴で勇気のない依存的な人間は一切の希望を奪われる。 世界、つまり私たちの目から見る世界は 情報化によって より広くなり、未来も同様に、国家を超越した 人類の文化が安定して長く続くであろうように見える。 すると私たちは、そういう環境では個人主義的に なる方が戦略としては良い。戦後経済を作り上げた 権威主義的なものを切り崩し、別のリソースへ 変えていく必要があるし、現にそうなっていっている。 問題は、今この転換点における対立の問題を どう克服するかということだ。 権威主義的な人々を排除するのではなく、 かといって文化が自然に、個人主義的に成長させている 今の子供達を、わざわざブレインウォッシュし権威主義に 回帰させるわけでもない。 ゆっくりと時間を掛けたソフトランディング。 争いのない、民族的な繋がりへの愛着を保持したままの、 進化。 「君は自分自身の力を制限しなきゃいけないと 思っている一方で、もっと沢山の人を幸せに してあげたいとも思っている。 ならば道は2つある。 何もしないか、でなければ、両方を同じぐらいするかだ。」 権威主義のキーパーソンは、「魔女」だ。 優しくて誰も裁けない人が腐敗の中枢を成す。 皮肉なことだ。 自らの弱さから来る優しさが、他人の堕落と無責任を 寄せ集めてしまう。 魔女は現実を歪める。そしていつも、最後には その歪みの収束点となって醜く変貌してしまう。 真理は厳密だからだ。 それを一時出し抜いたとしても、いずれ代償を払わされる。 この意味で例えばアメリカのドナルド・トランプ大統領は、 まさに現代に蘇ったアラディアではないか。 救世の魔術の使い手、虐げられる者達の救い主。 しかしアラディアが救世主でいるためには、 最期には月へ帰らなければならない。 キリストが人類に対する裁きの報いを その身に受けて初めて聖者へと昇華されたように、 アラディアは弱者の為に真理を歪めんとした その報いによって、醜悪な怪物へ変えられてしまうからだ。 彼女が「救い主」のまま人々の記憶に刻まれる為の最期の条件は、 自らが衆目の前で怪物に変わる前に、遠い月の地へ隠れ去ることだ。 しかし表の世界で新たな形態の「古き魔女」たちがどれだけ 生まれようと、それは大した問題ではない。 現代の霊的知識の舞台には、キリストとアラディアの、 双方の血を受け継いだ子供達が立っているからだ。 知性と生命、ロゴスとカオス、智慧と愛情、 そして真理の厳密さと創造の豊かさ。 彼らこそ人類の新たな霊的段階の扉を開くのに相応しい。 静かな夜明けのような救い主たち、燃える夕暮れのような救い主たち、 彼らの行く先々に真善美の花よ咲け。 ごんさんはどのようにして覚醒されたんですか? 瞑想ですか? >>180 それもありますが、私が何かをしたというよりも 真理が私を勝手に呼び寄せ作り上げたという方が 近いでしょうね。 人々が広く常識的に、"私"という自意識の知的課題を 乗り越えられているかどうか。 その点こそ私たちが新しい水準の文明の、 舞台に上がれるかどうかのチェックポイントになる。 個々人が自意識の限界を持っていては、環境に対して 生命が飽和した状態には適応できないし、 それ以上の社会的経済的発展も起こらない。 進化か、退行か。 そのどちらもあり得る。 真理の流布。 1つの論理を首尾一貫して述べ続けるのは簡単だ。 しかし求められていることは、70億の人に対して 70億の言語を用いて語るということだ。 浮遊した投機的経済が拡大し、 中身の無い博打のような人生が 人間の能力を低下させる。 私たちが人類の自己超越能力のヘイブンである為には、 こうした投機的状態からの慎重な分離が必要だ。 運が全てなら、人はより良い存在になろうと 努力する必要はない。 しかしそうした考え方の元では、超長期的な意欲低下と 慢性的な自暴自棄が、病的レベルにまで高まり 顕在化してくるだろう。 本来あらゆる自由の許された神の子である私たちが、 経済的是非という幻想に縛られてその能力の ほんの一部分しか発揮できない様は、実に滑稽だ。 経済なんてものは忘れて、 できないことの方ではなく できることの方を考えてごらん。 私たちは本当は自由なんだよ。 "私"という人類の限界。 真実、"私"なんてものはない。 それがわかってしまうと、何が起こるのか。 修行僧のようになって家に引きこもったり? いや、そんなことは起こらない。 むしろ人は、更に利他的になり、更に直情的になり、 強い意志が生まれ、社会効率を向上させる。 なぜなら"私"なき場所では、生命本来の純粋な 表現欲求が、ただひたすら強く即応的に、 世界に対して働いていくからだ。 キリスト教は罪の宗教だ。 罪とは、世の中の悲惨な現実と、自己を関連付けること。 罪は責任感を養い、責任感が人を成長に導く。 愛と罪。内圧と外圧で人格は高まり、能力も増していく。 悲しいかな人は、罪を嫌う。あらゆる問題から、自分自身を 無関係なものにしておきたいと願う。 そして成長しなくなってしまう。無責任な人間は、成長しない。 しかし罪の意識が多いだけでも、また破綻する。 愛と罪。自己肯定と、責任感。そのバランスを見極めねばならない。 言葉は無限に浮かんでくるが、 何か新しいことをしているという感触はない。 こうした淀み、惰性への順応が 人間の魂を腐敗させる。 長生きすると、「新しいこと」はだんだん減ってくる。 挑戦も試行錯誤も、同じ方向性のものであれば 結局は慣れが生じる。 それだからこそ私たちは、よりエッセンシャルな 変化を希求するようにもなるのだが。 マイナーチェンジではなく、 フルモデルチェンジでもなく、 完全な新型の開発でもなく、 既にある概念の破壊と更新こそが重要だ。 いろんな神話がありますが 読んでおいた方が良いですか? 話がバラバラに見えて 繋がっている所もあったりして 興味があります。 >>193 参考にはなりますよ。 心理学者のユングは、世界各地の神話を分析して人間の精神構造を 物理的にではなく物語的に読み解こうとしました。 神や悪魔などのイメージ、つまり「象徴」は、人の心理状況を 把握する上での手がかりになります。 神話や伝承を読み、色々な象徴を把握して、自分の中のイメージとして 持っておくのは良いことだと思います。 顕在的世界におけるメインストリームではなく、 顕在的世界からは意識不可能な、上位システムになること。 押したり引いたり、増やしたり減らしたり。 そういうことに気を揉む必要は無くなる。 ただ上から引っ張れば良い。ごく自然に中心が整うだろう。 >>194 神と悪魔が 人の意識のイメージ 対決の歴史が 意識の変化の流れと 一致しているようで 面白いです。 権威主義が凝集し自家中毒を繰り返しているこういう状況では、 優れた人材が流出しどこかで手付かずになっているはずだ。 土地と人の余裕。時間さえ掛ければ、しっかりした根のものが もう一度この国に芽吹くのかもしれない。 >>196 そうですね。良く出来た神話は、人類の精神の 進化の歴史そのものです。 そしてそれは、私たち個人の精神的宇宙の、 誕生と成長などについて語っているものでもあります。 赤ん坊の精神に火が灯るのは、ちょうど一つの宇宙が 創世されるのと同じでしょう。 仮想通貨の価格変動が早く終われば良いと思っている。 貨幣の価値が特定国家の信用状況という、 不安定なものに左右されなくなるのは良いことだ。 しかし今は、単なる投機上の玩具としてしか 機能していない。早く本質を顕わしていただきたいものだ。 エルダースピリットの朝は早い。 ワシはもう歳じゃから。 つまり、いくら高邁な理論を言おうが戦略的な素晴らしい考えを持とうが、事をなすというのは「戦って初めて事をなす」と、競争が常に有りますからね。 いや俺は知ってたよ、そんなもの俺だって知ってたさと、よく言うじゃないか。 典型的な例が評論家の皆さんだよね。もう偉そうにいろいろ、あーだーこーだ言う。コンサルタントも偉そうに、いろいろあーだこーだいう。そういう人に限って「やってみろ」と言ってみると、「いや、それは私の仕事じゃありません」。 たいがいにせい、と。言うだけなら簡単だよ。 自分が戦って為せるという自信がないと、覚悟がないと、高邁な理論は無責任な理論だということですよ。高邁な戦略も、ビジョンも、そりゃ言うだけに終わる。 言うだけでいいなら簡単だよ。二行くらいでツイッターでつぶやいておけばいい。言うだけならね。 僕もツイッター毎日やってるけど、いろいろなこと書く人いるな。たまには言いたいよ、やってみろと。やるということは難しいんです。 我々の理念として、情報革命で人々を幸せにする、というそれは立派なビジョン、理念、立派な志を掲げてますねと。 その立派な志があるなら、なんでSIMロックかけとんだと。こうやってツイッターに書かれとるわね。 坂本龍馬ならSIMロックなんてかけてないだろ、って言われるよね(笑)。だけど坂本龍馬も戦ったんだよ。倒幕したんだよ。 そりゃ高杉だって西郷さんだって、みんな戦って事を為して、という風にやったわけですね。 戦ってる最中に、事を為す前に自分が戦う武器をやるバカがどこに居るんだと。そういう人は絶対に事をなせない。 それこそ評論家。それこそ無責任な人。 名のある人間が事を成すわけではないよ。 名のない人間が事を成していないわけでもない。 世の中をよく見てごらん。全ては繋がっている。 そして私たちの小さなエゴは、その中で自信を持ったり、自身を無くしたり。 何かを成し遂げたと思って、えばったり、反対に自分はつまらない人間だと悲しんだり。 そういうことの全てが繋がってさ。何もかもが大切で、 何もかもが本当は、輝いている。 必要のないものないてないんだよ。 どうでもよかったことなんてないんだ。 何もかもが、掛け替えのない、この世界そのものだよ。 全ては愛しい、私たちの大切な宝物じゃないか。 たいがいにせい、と。言うだけなら簡単だよ。 二行くらいでツイッターでつぶやいておけばいい。言うだけならね。 当時は99.9%、NTTのメタル回線を使わないと、インターネットができない、ということだったんですね。 この会社が独占的にネットワークの、インターネットの、独占的な市場支配を持っている。 日本のインターネットは、先進国で世界一遅い、世界一高い。これじゃインターネット業界に携わってる我々としては恥ずかしい。シリコンバレーに対して恥ずかしい。 わしは何のために生まれてきたんだ。何のために志立てたんだ、と。そりゃデジタル情報革命だろう、と。 この革命のために、人生を捧げてるわけだから、ここでひるむわけにはいかんということで、この世界一高い、世界一遅いってヤツを、世界一安くしてやろう、世界一高速にしてやろう、と。 私はNTTの社長に直接会いに行ったんですよ。ブロードバンドを始めてください。ADSLを始めてください、と。 そうしないと日本が困るんだ、と。そしたらNTTの社長は「いや、NTTとしてはISDNをやると決めてるんだ」と。 ISDNって聞いたことありますか? もうとんでもないですよ。日本だけなんです、世界でそんなことをやってるのは。これが原因で高いんです。これが原因で遅いんです。 この革命のために、人生を捧げてるわけだから、ここでひるむわけにはいかんということで、この世界一高い、世界一遅いってヤツを、世界一安くしてやろう、世界一高速にしてやろう、と。 しゃあない、わしがやる、ということで決意してやったのが、このYahoo!BBなんです。 どん底で、金はない。でももう思い立ったら引けない、ということで、名乗りを上げた。1年間1000億ずつ、4年間赤字出した。 まさに「なんもいらん」という状態。もう「殺せ」というようなもんですよ。そのくらいの魂がないと、ひきちぎれるほどの情熱がないと、革命なんてできやせん、ということ。 「バカモン! そんなこまい、ちまちました考えでどうするんだ! Yahoo! が喜ぶ、ええじゃないか。ついでに楽天も、モバゲーみたいなところとか、そのいろいろあるけども、みんな喜ぶでええじゃないか」 「Yahooのユーザーだけ安くしましょうか?」「バカモン! みんなに安くしてやれ!」と。 それで日本のインターネットユーザーの全員が喜ぶ。日本国民は最終的に全部インターネットユーザーになるぞ。その日本国民が、いつか、いつか、喜んでくれりゃあそれでええやないか、と。 「でも社長、誰のおかげでそうなったなんて、のちの人は忘れますよ」そうやって言われた。 僕は、ええじゃないか、と。名もいらん、金もいらん、地位も名誉もいらない。そんな男が一番厄介だ、と。そんな厄介な男でないと、大事は成せない。 こう言ったのは、あの幕末の西郷隆盛であります。 名もいらない、金もいらない、地位も名誉もいらない、命すらいらない。そんな男は打ち負かそうにも負かせられないわけ。 もう総務省に乗り込んでいって、ガーンと机叩いて、ここでわしゃ灯油かぶる、と。自分で火つける、と。 総務省のあんた方が言うてくれんと、あの独占的にメタル回線を持って、独占的に局舎を持ってる彼らが繋いでくれない。これはもう明らかに独禁法違反だ。 わしゃ灯油かぶって火つけてここで死にます! と言ったらねえ、総務省の役人が、「ちょっと待ってくれ! ここでするのだけはやめてくれ!」と。 最悪、我が社が押しつぶされたとしても、その結果、日本のブロードバンドの夜明けが来れば、それはそれで目的は達成できた、と。 日本の人々から見れば、我々が結果捨て石になったとしても、幕末の尊皇攘夷の革命の志士、途中で切り殺されたとしても、結果、維新が起きれば、事は成せり、ということ。 株主には申し訳ない。社員にも申し訳ない。すまん、一緒に死んでくれ、と、こういうことですよ。しゃーない。革命というのはそういうものだ。 結果、日本は世界一安くなったんです。世界一の速度が出たんです。 だから、世の中が悪いとか、政治家が悪いとか、景気が悪いとか、そんな言い訳を言うとったんじゃ、そんな愚痴を言うとったんじゃ、しゃあないぜ、ということ。 命を投げ捨てる覚悟があれば、波紋は起きはじめるということ。私はそう思うんです。 いろいろなこと書く人いるな。 たまには言いたいよ、「やってみろ」と。 やるということは難しいんです。 そんなことは、みんな誰でもやっていることなんだ。 わからないかい? みんな誰でもやっていることの、その見方の違いだけだよ。 君は物事の本当の価値を知らず、幻想を追いかけている。 世界的な有名人も、道端の石ころも、同じだぜ。 何が違うんだ?全ては被造物さ。全ては同じものさ。 君は本当は、ただ自分を信じられないだけさ。 人間はいつも、自分を何か特別なものだと思いたがる。 虫や鳥の命はつまらないかい? それもまた素晴らしい生だということがわからないかい? 地球の外はそんなに無意味なのか。生命の居ない星は美しくないか? 本当の「特別」ってことは、比べるってことではないさ。 特別ってことは、ただそれが本当に、うわ、これは存在してるんだ、 っていう実感だよ。 世界を変革する必要があるかい?いや、そんな必要はない。 世界は変わっていくからだ。 大きな意思の流れを見てごらん。 大切なのは、変えることではなく、変わっていく物事の流れに、 私たちがどう流されていくかということなのさ。 なあ、古い友達のように、今君の心を見ている。 君は悪い奴じゃないさ。 ただちょっと、頭でっかちだよな。 手放してごらん。本当は簡単だよ。 負けてごらん。流されてごらん。 きっと君は、目を背け続けているのさ。本当はね。 許してみようよ。勇気を出してさ。 諦めてみよう。全部をまっさらで、何もかもやり直すためにさ。 私の真名(トリップ)が流出してしまった… まさに人は自らの因果の報いを受けるのだ… 信仰も深まるほど信心者の相なし。言語装飾を離れ凡愚に返りて励め 言葉は私たちの心を制限している。 私たちは言葉から解き放たれ、 心によって、言葉を自由に 扱えるようにならなくてはならない。 小さき人の子よ。 この世界を実践しているのは誰か? 天台宗は、唐に留学した最澄が日本に持ち帰った仏教です。 次第に発展していったわけですが、組織が大きくなるとともに、延暦寺は権威となり権力を持ち腐敗し、本来の教えから乖離していったと言われています。 出家した知的エリートのみが仏教を学び、エリートのみが解脱できる。 または多くお布施をした貴族だの、裕福な商人だのが輝かしい来世を約束される。 一般の民が置き去りにされた教え。輪廻に苦しむ民を救ってこその仏教なのではないか? 宗教家が権力や権威に固執すると、必ずおかしくなる。 本質からずれてくる。 そして歴史は繰り返すと言いますか・・・ スケールは全然違いますが、スピリチュアルの世界でも同じことをしていますよね。 日常とはあまりにかけ離れた抽象的な理屈ばかりならべる。 そして高額な金を出してワークだの、セッションだの、セミナーだの、あれやこれやとやってはいるけど、 これまた日常とは何も関係ない。日常に活用できない。 屁理屈や内輪のスピリチュアル用語、宗教用語にくわしくなるだけで、境地はまるで定まっていない。 ここでルターの言葉を少々拝借。 「人は宗教的権威にすがることよって罪がつぐなえるのではなく、 日常の善行によって、その罪はつぐなえる」 生憎ですが、真理は不都合なものですよ。 誰もがそれを受け取れるわけではありません。 禍福は糾える縄の如し。 二元性世界の成り立ちの故に、苦しみと快楽は 必然的に全体として等価になる。 常人にはこのことが理解できません。 それは例えば、猫を相手に税金について 教えることができないようなものなのです。 求める者だけが見出します。 そして自分の命さえ憎んだことのある者だけが、 理解します。 低きに流され、引き裂かれる故に、 それを許すときは大きな許しであり、 大きな器なのです。 誰もが真理を得るようにはできていません。 また、宗教的な権威や それにまつわるビジネスをする人々がいること。 これも善悪ではなく、必然としてそうであることです。 世俗的な利益の眼鏡を通して少しずつ学んでいく、 そういう道の上を歩くように定められた人々も いるからです。 彼らは何れにせよ、真理そのものを開示されても それを受け入れることはありません。 が、お金や快楽の増大という方向に向かって 活動する中で、彼らに相応しいペースで 魂を成長させていくのです。 真理とは、この世界の不変の法則です。 その法則に則り、全ての物事のバランスは 完全に保たれています。 そうした神の、真の見えざる手によって 全ては生み出されているのです。 何事かの意味があり、何事かの理由があり、 必要でなかったものが存在したことはありません。 世界には人間だけ居れば良いわけではないように、 雪虫のように儚い命にも何かしらの宿命があり、 そこに優劣を設けるのは悪い思い過ごしというものです。 ですので、麻薬ビジネスも、賭博も、 人身売買のようなことについても、 全ては必要な時に必要なだけ生まれています。 私たちはこれについて深く観想しなければなりません。 真理を理解するという宿命もあります。 しかしそれも、別に何か特別良いことなのではありません。 ただ神が、今一時必要としたのです。 そういう人々を。 ある種のカエルでは、個体数が増えすぎると 共食いに適した大型個体が突然生まれてくるそうです。 不思議なものですね。 仲間外れの変なカエルは、恐ろしい異常な化け物です。 ですが、それもまた神の手になることであれば 嫌われ者も等しく望まれてはいるのです。 精神の領域においては、治療と教育の境目はいつもはっきりしない。 今はまだ全人類が未熟な段階なのだと言うこともできるし、或いはまた 全人類が三毒の病の中で、苦しみ呻いているのだと言うこともできる。 クラスを置いておくかどうか。 あれは誰かの役に立つのだろうか。 修養者というよりヒーラーとかその類の 人なら、何かのヒントにはできるのかもしれないが。 具体的な修行方法に関心のある人は案外少ない。 人は、今現時点の自分を誰かに認めてほしいものなのだ。 コンテンツをオーダーメイドで提供するというのは良い視点だ。 ロングテールが益々長大になっていくのだとしたら、 中央集権的に作られた模範的コンテンツは、未来の人々にとって 粗組に過ぎないものになっていくのかもしれない。 そして人は、作品に宿らせた自らの意図が、作品の中で 半ば意図的に半ば自動的に、成長し変容していく様を楽しむのだろう。 報いというものはあるよ。 人を裁いた人は、その罪によって裁かれる。 虐げた者は、いずれ虐げられる側になる。 私はかつて、ある国の王が始めた戦争で、 その国の王子が命を落とすのを見た。 王は世継ぎを失い、王権は親類の手に移った。 人は弱く愚かだ。しかしそれは、仕方の無い現実だ。 結局皆誰もが定められた弱さの奴隷なのであれば、 虐げる者も、虐げられる者も、そのどちらも救うのが 宗教者の役割なのだろう。 昨日も一昨年も同じで 今日もまた昨日と同じなんて そんなの楽しくない。 成長するためには せめて変化がなければ。 良い映画と悪い映画、どっちを見たい? 人類を、より良い存在へ、変えよう。 だって 今日もまた昨日と同じなんて 苦しいじゃないか。 地球の人類を全部悟らせるゲームなんて、 実に面白いじゃないか。 一体どういうことが起きるんだろうな。 巧言令色鮮(すく)なし仁 口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいない。 「巧言」は「言を巧(たく)みにす」とも読み、口先・言葉を飾っておべんちゃらを言うこと。 子曰、巧言令色、鮮矣仁。 先生はおっしゃいました。「人に気に入られるように、口先でうまいことだけ言って中身が伴わない人間には、思いやりの心がないものだ」と。 先生が言われた。 「馬を見れば大きすぎると言い、 猫を見れば小さすぎると言う。 こういう者には人を任せることはできない」 やってみな、一生懸命。 それを止めやしないよ。 自分で気付くことに重大な意味がある。 そんな努力は不要で間違っていたってことに、 自分で気付かなくてはね。 良いんだ、それで。この先もいつだって、 赤の他人の好き勝手な意見に出会うだろう。 だとしても、その道を疑うなよ。 何処かには続いているさ。 ちゃんと意味は生まれるさ。 具体的な技術。 私の持っているレパートリーの中で最も短期間高効率な修養方法。 リバースアナリシス、反面分析について。 1 自分自身が「絶対に許せない」ような対象を一つ想起する。 2 その対象の「良い面」を思いつく限り列挙する。 3 2の作業を、対象が「あっても良い」と思えるまで繰り返す。 慣れてきたら、対象を「絶対に許せない」ものから 「絶対に必要」なものに切り替えて同様に行う。 この場合は「別に無くても良い」と思えるまで。 人間の精神というのは案外簡単に拡大できるものだ。 それに現代人は、兎角簡便ですぐ効果のあるものを好むから こういうやり方は時代に合っていると言えるだろう。 逆分析で何が起こるか? 普通に頭が良くなる。 無知に二つあって、「知らない」というのは 大した問題ではない。しかし「見えない」というのが 私たちの人生を悪くする大きな足枷だ。 事実を受け入れられない心。 触れているのに学べない制約。 それが認知の歪み。 それが知能の限界。 この限界を取り去る。 ウツルヒの破壊の風、成長の雨、創造の炎。 吹き荒れろ、湧き返れ、躍り狂え。 まだ見ぬ真善美の高みへ 私を連れて行ってくれ。 社会の大きな流れは良くなっている。 が局所的には、膿の濃縮が進んでいる。 無責任と自己保身、トカゲのしっぽ切りと善良さへの憎しみ。 平均化されたフラットな地獄。 罪と罰。虐げてきた者の悪夢。虐げられてきた者の救い。 誰も因果から逃れられない。 罪の能力。責任感。 それが人をより優れた存在に成長させる。 無邪気な人々よ、自分の罪から目を背けるな。 差が付いてしまう。置いて行かれてしまう。 追い詰められてしまう。いずれ止められなくなる。 君が生きて、年齢を重ねたその先にあるものが 周囲からの呆れた視線と君自身の耐え難い劣等感なのだとしたら 私は悲しい。 具体的な修養方法。 呼吸について。 吸った空気を足下側へ押し付けて、下腹を膨らませる。 次に下腹部を凹ませながら、それを吐き出す。 すると随意的な筋肉で呼吸をサポートする形になる。 精神が動揺すると、人間は胸で浅い呼吸をするようになる。 酸素の供給量が減り、重心が高くなって、身体が落ち着かなくなる。 その逆。重心を足下側へ降ろしておく。 一日数回意識して、下腹部で呼吸すると良い。 すぐにクセが付くだろう。 演技をすることが増えた。 多分、簡単なやり方を覚えて、それに甘んじているのだ。 人は年を取ると、狡くなるものだろうか。 いいや、きっとそれも、自分自身に対する言い訳だ。 日本人は経済的に豊かな時間が長かったから、 お金への執着が強い。 お金があることは悪いことではないが、 問題は、お金が無いと何もできないと 思い込む人間が増えてしまうことだ。 命を与えられているのに、その使い方が わからない。これは空しいことだ。 真の価値創造は破壊を伴う。 雲が晴れ霧がかき消えるように、 それは世界を変えてしまう。 金銭財産のような蓄積的な要素は、 その足枷にもなる。 自分で作ったのではない価値の上に たまたま預かっている人であれば尚更、 進化と成長を嫌がるのは当然と言うものだ。 ごん、お前だったのか、 出来たばかりの頃ののスピリチュアル板を 無関係なセリフで荒らし回っていたのは。 神は人間を救うかどうか。 神は、人間を救いはしない。 ただ彼は、私たち一人一人を望む。 私たち一人一人が生きることを。 しかし 存在させようとすると、苦楽が共に生じる。 幸福がある一方で、人間の底無しの汚濁があり、 虐げられる者もまた生まれてくる。 神は何を思うか。 神は人と共に些細な喜びを噛み締め、 人と共に、その苦しみと絶望の、血の涙を流す。 彼は世界のあらゆる苦しみを味わう。 それでも尚、世界を望んで言う。 私たちに、「生きよ」と。 ELI、私は彼を、彼女を悲しませたくないだけなんだよ。 ビジネス宗教を批判する気持ちはわかるけど でも、お金を払う決まりがなかったとしたら、 誰に相談すべきか、誰がちゃんと問題を 解決してくれるか、どうやって判断するの? お金でしか価値がわからないだろう? 私たち自身がそうさ。 しかしだからこそ、利用もされるんだ。 中身の無い水や札で高額な対価を要求されたところで 結局はわからない。いや、むしろ満足するさ。 ちゃんとお金を使って買ったわけだからね。 皮肉だと思うかい? 縁だよ、縁。全ては決まっているんだ。 売り買いの概念に洗脳された、人間の無様な 浅ましい心を相応しい商品で満足させてやる。 根本的に宗教とは関係ないことだけれど、 これもまた悪いことではないな。 或いはその、クソみたいな商品売買の流れの中に、 どれだけ本物の価値をねじ込んでしまうか。 無理やり、且つこっそりと。 それが当世風の宗教家なのかもしれないね。 私たち日本人は、一体、スマホのゲームに年間 幾ら投入してるんだ? 世界にはご飯すら食べてない貧しい人が、 たくさんいるのにな。 戦争もそうだ。今日もやってる。 でも私たちにとっては、中東で見知らぬ子供が ズタボロに引き裂かれることより、 今日の晩御飯が何かってことの方が、重大問題だろう。 だが、そういうものだよ。 人間はそういう生き物として生まれてきたんだ。 世界は案外、当然のように未完成だよ。 パリのあるダンス教室で、人気の講師が言ったそうだ。 「私は元々アメリカ人。アメリカで同じ教室を 開いても鳴かず飛ばず。けれどここパリに移って 状況は変わった。 というのも、私が"パリの"ダンス講師になったからだ。 今では世界中から、特にアメリカの金持ちが わざわざここへ習いに来る。」 生まれてきたなら、悟りを人生の、 ひとつの目標にすると良い。 折角意識を持ってこの宇宙の存在を 認知しているのだから。 私は男性には仏教を、女性にはキリスト教を勧める。 女というのは、自分の精神の根底から沸き起こってくる 罪と悪に苛まれ絡め取られ、その毒に溺れて 身動きできなくなっているものだからだ。 それは先ず、許されなくてはならない。 智慧の教義である仏教にはその視点がないから、 女性を悟りに至らせるやり方は 大変遠回りになってしまう。 こういうわけで、女性には、罪と許しに関する キリスト教の教義があっているのだ。 例外を言うとすれば、仏教の中でも唯一浄土真宗の 教義だけは、女性を導く適性がある。 頭と心の悟り。 聖書でいう水と霊による洗礼ですね。 そう、片方だけでは、足りないのです。 人間は皆心の中に男性と女性を持っています。 このどちらも大切にしなくてはなりません。 もしも死んでしまう日には 言いたいことは何も言えなくなってしまう。 だから死んだ後のことだって どっかには書いておかなきゃいけない。 遺書なんて大層なものは、俺たちには必要ない。 名刺用の用紙に、適当に印刷して。 不安ならラミネートするとか 耐水の紙を使うとか、その程度。 それで財布にでも入れておけば、十分だろう。 先生が言っていた。 「どんな赤ん坊だって、 もう死ぬのに十分なくらい 生きてはいるのさ」 https://youtu.be/TkLT5krv_6c 「あなたへ辿り着く為なら、 何度でも生まれ変わってみせる」と それは誓った。 ノンデュアリティスレから来ました。 色々教えてください。 >>271 ようこそ。あなたを待っていたわ。 では先ず現状をチェックしましょう。 二つ質問します。 一つ、賑やかな都会か、自然豊かな田舎か。 あなたが住んでる場所は、どちらかと言えばどっち? 二つ、もしもあなたが絵描きだったとして、 自己評価では50点だけれど、100人いる内の100人から賞賛してもらえた絵。 自己評価では100点なのに、100人中の誰一人理解さえしてくれなかった絵。 あなたにとってより大切だと思う絵はどっち? 賑やかな都会ではないので、どちらかというと自然豊かな田舎ですかね。 まあ普通の住宅街です。 2番目の質問は難しいですね。 人から賞賛された絵は自信もてるし、自己評価100点の絵もお気に入りになるだろうし。 でもまあより大切だと思うのは後者の自己評価100点のほうですかね。 昔ものづくりの仕事してたとき思い出してみれば、こんなもんでもokもらえて褒められるより、 自分で納得できたもの作れたほうが達成感あったし。 なるほど、わかりました。では始めましょうか。 確かあなたは、具体的な修養方法を知りたがっていましたね。 教えなければならないことはいくつかあるでしょうから、 少しずつ教えていきます。 先ず、一つ目ですが。 睡眠時間はちゃんと取れていますか?7時間か7時間半。 それを下回るようなら生活リズムの改善をおすすめします。 こんな時間まで起きているのは、あまり良くないですよ。 睡眠不足で意識レベルの低下した身体では、難しいのです。 1万円でアメリカに行くのと、10万円でアメリカに 行くというのでは話が違うでしょう。 さあ、では今日のところは。お休みなさい。 そうそう、今後何か質問があれば、随時聞いて下さい。 時間のある時に答えておきますからね。 それじゃあ、また明日にでも。 睡眠時間はちゃんと取れています。安心してください。 そうです、具体的な修養方法が知りたいんです。 瞑想で覚醒にいたれるのか?マハルシの私はだれかと問い続けるのがいいのか? それ以外の方法があるのか?知りたいです。 ごんさんはどのような方法で行なっていますか? 瞑想はしてますか? それではまた明日もよろしくお願いします。 >>275 ジッドゥ・クリシュナムルティはこう述べました。 「真理とは道なき土地である」 真理に辿り着く道は無い、ということです。 これは全くその通りですよ。 ラマナ・マハルシは修養についてこんな風に述べています。 「夢の中の病を終わらせる為には、 夢の中の薬を使わなくてはならない」 このことと、クリシュナムルティの言っていることの 繋がりがわかるでしょうか? 加えて、私の見解はこうです。 「真理の姿は、複雑に入り組んだ虚妄の コンプレックス(複合体)を通して現れる」 何か一つの方法で、私たちが真理に辿り着くことは ありません。線的な努力が崩壊する時に夢は晴れ、 悟りは現れるからです。 その為には沢山の相容れないものを通して 私たちの心に圧力が生じていなくてはなりません。 修養方法は沢山ありますが、重要なのは 自分に必要な修養を行うということです。 「私とは誰か」を問い続ける真我探求も、 その内のたった一つですし、誰にとってもこれが 最善というわけではありません。 瞑想もまたそうです。 それが完全な答えであるということはありませんが ある一つのやり方としては成立しています。 真理は不変です。 であれば問題はいつも、私たち自身が、 どんな雑念の中に捕らわれ溺れているのか、 ということでは無いでしょうか? では、少し具体的なことを教えましょう。 ちょうどこのスレッドに、 >>245-246 >>250 の二つの修養方法が書いてあります。 あなたには逆分析の方が向いていそうですが 折角なので両方覚えてください。 やり方に疑問などあれば、随時答えます。 キリスト教神学では、神の局面は真・善・美の三つに分かれている。 科学、学問、合理性の追求、これが真。善は宗教、教育、倫理、福祉。美は芸術。 これが神の三つの局面。 だからどこかが偏ってもダメ。真が本物になるには善と美があって本物で、善も真と美があって本物。美、芸術も善なる部分と合理的な部分があって初めて本当の芸術。 スピリチュアルというのは、精神だけが神だと思っている。 宗教だけが神じゃないんですよ。モーツァルトのほうが、よっぽど神なる天上界のものを受けているし、アインシュタインのほうが宇宙の音楽を聴いたと。 科学を究めた人、芸術を究めた人のほうがよっぽど神に近いですよ。 また物質、経済というのも神の局面です。物質を作ったのも神ですから。 上の方でごんさんは悟ったと言ってるようだけどどこまで悟ったの? 大悟徹底されましたか? 過去生が見えたり寝ている間も意識があったりしますか? >>270 真理に道はないんですね。それはたぶん誰も真理というものがわからないから、 そのため道もわからず探求のしようがないんだと思います。 でもノンデュアリティの場合は、結果がわかっています。到達点が見えてます。 自我が消えること、意識が拡大して逆転現象が起こり、意識の中に世界は存在するという感覚になること。 みんなその到達点に憧れて目指して探求しています。 到達点も明確で、マハルシマハラジトニーパーソンズ大和田菜穂みたいな指導者もいるのに、彼らのほとんどは特別な体験で悟ったので誰にも、悟り方を教えることができないんです。 それはまるで宝くじで1億円当たりましたよ、でも当たる方法はわかりませんよ、 という感じと同じだと思います。 彼らは真理がわからないので道を教えられないのではなく、特別体験によって覚醒したので教えることができないんです。 逆分析や腹式呼吸を行えば自我は消えますか?逆転現象起きますか? もしこの修養方法がその前の準備段階なら、核心の修養方法が知りたいです。 ぜひ道を示してください。 そしてごんさんはどのレベルまで覚醒していますか? 自我の消滅は起こりましたか?自分と世界の逆転現象が起こりましたか? 意識の中に世界や私があるという感覚がありますか? そりゃもう私は、これ以上なく悟っていますとも。 大悟も大悟、大大悟。 大和田さんやシュリーマハルシより上の段階ですよ私は。 それでね、そういう大大悟の私が言うわけですけれども、 その意識の逆転現象ってものが起きると、 何です? それで人は幸せになれるの? 過去性が見えれば一切の苦しみから解放されますか? あなたは何を求めてるの? ああ、いいえ、聞かなくてもわかりますとも。 超能力。超能力が欲しいわけですね。 はっきり言いましょう。 超能力というのは、自我の見る幻想です。 考えたことがありますか? 能力が能力を超越することなどないのです。 能力は能力です。そこにはタネも仕掛けもあるのです。 では超能力って何でしょうか。 それはね、「他の人より特別優れた能力」ということです。 つまり、エゴの思い描く理想、幻想なのです。そういうものはあり得ません。 あなたも私も、他人より特別な存在ではないからです。 それでね、悟り、或いは真理の、 完全な幸福へ至る正しい道があるとすれば。 それは超能力とは正反対の方向にあるのです。 自我を強化するための超能力、或いは金銭や、 地位名誉などでも良いでしょう。 そういうものを苦し紛れに積み上げるのではなく、 逆に、エゴや自我という低次の機能を乗り越え、 解放されより大きな存在との繋がりを開いていく、 という方向に。 私が教えているのは、前段階ではありません。 私が教えているのは、真理そのものです。 今はまだわからないかもしれませんね。 でも、あなたはきっとわかるようになるでしょうとも。 遅かれ早かれね。 質問者さん。長いので仮に、モモンさんとお呼びしましょうか。 モモンさんは、本当は何を渇望しているの? どうなりたい? 何が欲しい? 逆転現象の先に、どんな世界を期待する? それを先ず見てましょう。 それこそ問題だからです。 あなたについて教えてください。 あなたの本心、その願いと、飢えと、苦しみを。 >>283 いえ、過去生が見えるかどうかというのは身体や記憶を自分と同一視してないひとつの基準となると思い聞いたのです。 もちろん、過去生が見えるのでしたらどのように見えるのかお聞きしたいですが。 それは能力が欲しいということではなく、過去生を観るのも今の自分を自分だと思わない為の実践として、 仏教でも修行として有効だといわれているからです。 別に観えるなら観えるで観えないなら観えないで観えるかどうか言わないなら言わないで、 それでかまわないのですよ。 ただ他人との優劣の問題ではなく、 自己同一化がなくなっていく過程(悟っていく過程)で実際どのようになるのか具体的にお聞きしたかったのです。 自分の実践の参考にしたかったまでです。 ちなみに私は逆転現象とか話している方ではありませんので念のため。 モモンは2人いた…! 過去生ですか。そんなものはありませんよ。 どこの仏教徒がそんな良い加減なこと言うのでしょう。 時間というのは幻想です。 相対性理論でもそう説いているでしょう。 ただ"今"というエネルギーだけが変化し続けているのです。 それはどこにも、過去などというものはどこにも 蓄積されていないのです。 つまりその、なんだ、私たちの頭の中の、 ある種の幻想としてのみ、反響としてのみ、 過去というものはあるのです。 そういうファンタジーの一種としてであれば、 まあ過去生というのも許されるでしょうね。 ちなみに私は前世はタワシでした。 >>289 それは真我のみがあるので過去生はないというような意味ですよね。 ただ、個我の視点からの過去生はあるとも言えるのではないですか? 夢や幻想としてあるといういい方でもいいですが。 過去生を観るのはテーラワーダ仏教で行われている実践方法ですよ。 別にそれがいいというわけではありませんが。 過去生はないという言い方をしてもいいですが、 過去生を観ることで、過去生は幻想にすぎないと理解するのも、 それはそれでいいと思いますがね。 まあ自分は特に過去生を観たいと思っているわけではないので、 何か観えても気にしないでいますが。 >>290 あーわかった。 それはあれね、多分、末那識とか阿頼耶識の話なのね。 私はフォーカシングとホオポノポノでまかなってるよ。 過去生という言葉はあまり馴染みがなくて、 ピンと来なかったよ。 「僕の地球を守って」みたいな話かと思った。 そうですか ごんさんがどういう方か自分なりにわかった気もしましたのでこの話は終わりでだいじょうぶです。 お話ありがとうございました。 >>286 自分がなぜ悟りたい覚醒したいかというと、輪廻転生を解脱したいからです。 人間が生きて何度も生まれ変わるのはそれが大きな理由と思うからです。 魂のレベルを上げたい、より霊的に成長したい、 キリストやブッダレベルの霊格を持ちたい、 そこまでいかなくても、グルジェフとかクリシュナムルティーとかラマナマハルシのような 霊的指導者、覚者、マスターみたいになりたいんです。 彼らには多くの信者が彼を慕い、彼の周りに集まります。 なぜなら真理を悟った人間を超えた存在だからです。 自分もそのような素晴らしい存在になりたいという思いが正直あります。 なので自己流で今まで霊的探求してきましたし、これからもしていくでしょう。 輪廻転生や死後の世界についてぼくはスピリチュアリズムを信じているので信じています。 スピリチュアリズムでは、超能力や霊能力の存在を認め、 死後の世界は存在すること、前世は存在すること、輪廻転生は存在すること、を認めています。 そして我々地上に生まれてくるレベルの魂は、輪廻転生からの解脱が目標になります。 輪廻転生を解脱するには、悟りを開き覚醒するしかないと気づいたのです。 悟るには悟った人の教えを学べばいいと思い、ラマナマハルシやニサルガダッタマハラジなどの 覚醒者を調べていると彼らの意識の中に世界があるという逆転現象が起こるんです。 その逆転現象は悟りを開くと訪れるらしく、そこが起こるか起こらないかで判断できます。 なので簡単にまとめると、 自分は生きる目的は魂の成長と輪廻転生の解脱だと思っている、 そのために悟りを開きたい、とただそれだけの理由でノンデュアリティを実践したいんですが、 実践方法がわからないので困ってるんです。 実戦も何も、次は地球には来ない。 訓練だろうが、指導だろうが、救済だろうが、どんな理由を付けられても地球はお断りだと固く決意して、実行すれば良いだけではなかろーか? オラも次は他の星系行きたいしな。 もう、ここは飽きたわ。 >>293 よく分かりました。ご自分のことを把握して それを答えられるというのは良い傾向ですね。 逆転現象の概念についても承知しました。 それが起こるには、先ずワンネスを理解しなければ いけませんね。 しかし、その前に、大きな課題があります。 クリシュナムルティについて、本を読んだことがありますか? より良い存在へ、素晴らしい人間に、 「なり行くこと」。どこかを目指すこと。 それこそ、彼がその全思想の中で指摘し続けた 人間の愚かさ、蒙昧、無知そのものです。 そうした無知の霧が、人間本来の能力を制限し つまらない惨めな存在へと変えてしまいます。 あなたはそれを手放さなくてはならないのです。 そのご自分の闇を。このことを先ず理解されて下さい。 その闇が消えて先に、偉大な存在としてのあなたが居ます。 皮肉なことですね。一切の、なり行くことを 完全に手放した先に。 ただ単に諦めた、と口で言っても駄目ですよ。 やり方はまあ、ちゃんと教えますので安心した下さい。 >>293 では、質問をしましょう。 モモンさんは、ワンネスという概念についてどう思いますか? 本は残念ながら読んだことありません。 そういう者になろうとしないことは、普通に生きてる人たちと何も変わらなくなるのでは? 子供はプロ野球選手に憧れて、プロ野球選手になります。 医者になりたいと思うことで、人は医者になります。 覚者になりたいと思うことで、覚者になっていけるのではないですか? 悟りを目指すな、覚者になろうとするな、何者になろうとしないことは、 何にもならないことになりませんか? 真理の探求をするな、ということは愚者になれと言ってるようなものじゃありませんか? ぼくは愚者になりたいんじゃありません。賢者になりたいんです! 覚者になりたいんです!悟りを開きたいんです! 明確な目標があります。そこに到達する道を教えてください師匠! >>297 ワンネスの概念ですか。 なかなか難しいです。 すべては1つという感覚でしょうか。 自分と他人と神はすべて1つという感覚。 そんなイメージがあります。 おめでとう、モモンさん。 私はどうやらあなたにとても素晴らしいことを教えてあげられるようだ。 それは、悟りというのは、全く別の世界だということ。 モモンさんが想像しているような、小さなドングリの背比べなんかでは 全くなく、もっと遙かに偉大で、大きく、異次元的な解放を 私たちにもたらすものだということです。 精神的に覚醒すること、覚者になるということは、医者とか野球選手とか、 大統領とか、国際連合のリーダーとかいった、そういう低次の領域における 役割の分別とは、全く一線を画す存在になるということなのです。 それはつまりですね、ああ、きっと今のあなたは誤解するだろうけれど。 それはつまり、あなた自身が神になるということなのです。 そして、このことを良く理解してください。 そうした精神的覚醒者たちは、その視点のあまりに高く、 あまりに現世から遠い故に、世俗的な地位財産には 何の価値も見出さないのです。 彼らの仕事は宇宙の運行を統べること、その秩序と成長とを 各々の個性によって味付けし、促していくことなのです。 ですから、どうぞモモンさん、あなたも理解されてください。 まるで他の普通の人々と全く同じように、もっと有名になろうと思ったり、 もっと財産を蓄えたり、そういうことへの願望に支配された 盲目で無知な精神の霧を打ち払ってください。 クリシュナムルティやラマナマハルシ、シュタイナーやグルジェフ、 ブッダやイエス、ラジニーシやシャンカラ、ヴェイユ、フランクルに至るまで。 あらゆる精神的到達者達と同様の、精神の資質を身に付けてください。 それは、普通の人々のように、もっとこうなろう、こうでなければ、という より多くを求める心、飢餓と枯渇の中から生じてくる虚無感と不満感を、 その存在の輝きによって、生き生きと超越しているということなのです。 >>299 素晴らしい。素晴らしすぎます。 ぼくもぜひその境地にたどり着きたいです。 神のような人格を手に入れることこそ、ずっと求めてきたものです。 それがすべての魂の目的だと思います。 でもごんさんからすると、そのたどり着きたいとか神のような人格を手にいれようとすることも よろしくないとおっしゃるのでしょう。 悟りの境地とは別次元で、そこには到達しようとおもって到達できるような場所ではないと。 なんとなくわかるような気もします。 そこに到達するには、なにかになろうとする願望をまず捨てることなんですね。 ここで1つ疑問に思ったのですが、 覚者になろうとすることと真理を探求することは別なんですか? 覚者になろうとすることを放棄するのはわかります。それは野心ですから。 真理を求めることも放棄すべきですか?それも野心になるのでしょか? 教えてください師匠。 >>301 いいえ、全く同じですよ。 あらゆる願望を放棄すべきです。 こういうと、モモンさんには矛盾して聞こえるでしょうね。 またこうも思うでしょう。悟りとは結局、 あらゆる欲望を捨て去ること、ご飯も食べない、 睡眠も取らないで、静かに座って死んでいくこと なのではないだろうか、そんな恐ろしいことを 自分は求めるのか、と。 しかしそれもまた思い違いというものですので、 大丈夫です。 確かに論理上、真理の探究を掲げる私が あらゆる願望を超越せよと述べるのは矛盾しています。 しかし、そこにもちゃんと答えがありますし、 寧ろその矛盾の転換点が鍵なのです。 モモンさんは、ノンデュアリティについて 少し勉強されていましたね。 では次は、これについて質問しましょう。 "私"とは何でしょうか? その境界線は? 絶対条件は? 真理を求めることもやめたほうがいいんですね。 それにはただやめようと思うだけでいいんでしょうか? それとも別の方法があるんでしょうか? ぼくが思う私、自分とは魂だと思います。霊だと思います。 こう思うのはスピリチュアリズムを信じてるところから来ています。 肉体は一時的に宿るもので、肉体を脱ぐと霊体がありそれが真実の姿らしいのです。 霊体にもちゃんと姿かたちがあるそうです。 でもそれは知識として知っているというだけで、自分自身の考えではありませんし、 実体験でそう思うようになったわけでもないのです。 鏡を見れば容姿が私だと思いますし、名前を呼ばれれば私だと思います。 自意識が高まる場面では、内面の私という部分が強く反応しますし、 過去を思い出しては私の過去の私の行いがありありとよみがえります。 それらすべて含めて私という認識をしているんだと思います。 ノンデュアリティでは私はいないといいますが、それも実体験していないのでよくわからない感覚です。 覚者たちはその感覚を体感してるんでしょうが、ぼくは体感していないので まだ自信をもって私はいない!と断言できないレベルにいます。 境界線、絶対条件はやはり肉体じゃないでしょうか。 肉体を境に、私とそれ以外を区別してるんだと思います。 なぜなら肉体には痛みを感じますが、肉体以外には痛みを感じないからです。 痛みを感じないので無責任でいられ、自分ではない感覚が生まれるのではないでしょうか。 いくらお気に入りの服を身につけても、その服は私じゃないんです、痛みを感じませんから。 もしあらゆるものに痛みを感じれば、それだけ私は大きくなるのかもしれません。 慈悲の悲しみが痛みであるとしたら、その痛みこそ大いなる私を感じられる原因なのでしょうか。 適当なこと言いました、すみません。 モモンさんは、本は嫌いかな? 何か特別本を読めないような理由があるだろうか? でなければ、俺は思うんだけど、多分あなたの場合は クリシュナムルティの対話集を読むのが一番近道だよ。 「人生をどう生きますか?」ってやつ。 あなたはもともと結構、頭が良いんだろうね。 だからその、他よりちょっと頭の良い部分に溺れてしまう。 クリシュナムルティの思想に触れてみるのは良いことだよ。 自分がどんなに低いレベルの知性しか持ち合わせていないのかってことを、 あれは良く教えてくれるから。 さて、修行者モモンよ、お聞きなさい。 あなたの述べたことには二つの奇妙な点があります。 まず一つ、「分からぬのに、信じるということ」 一体何を根拠に、あなたはスピリティズムのそうしたファンタジーを 信ずるのか。いいえ、私はそれを止めろと言っているわけではありません。 そうではなくて、その信じる心、信じたいという思いが、どこから 出てくるのか、それを良く吟味してほしいと思うのです。 なぜなら、良く分からぬものを信ずるのが良くないことは、 あなた自身も分かっていることだからです。 「お金を預けてくれたら100倍にして返します」という人を信じて 1億円を担保無しにそっくり預けるでしょうか?そうではないはずです。 ですので、吟味してほしいのです。なぜあなたは、あなたにとっては何の 根拠も無いそれらの知識を信じたのか。 信ずるに値する何が、一体そこにあったのかということを。 もうひとつは、肉体についてです。 あなたは”私”の境界線は肉体ではないか、と言いましたが、 では一体、肉体のどの部分が”私”を作り上げているのでしょう。 腕のない人はどうですか。心臓を人口物に置き換えたら? ”私”は脳に宿るのでしょうか?そうでなければ、身体のどの部分の細胞に? ”私”を形成するために、絶対になくてはならない身体部位は? こうした些細な論理に対して、あなたは随分と容易くそれを 無いものとして答えを出したのです。 それがつまり、自分の知識ではない、ということではありませんか? あなたは言葉を並べるが、分かったようで分かっていないと 自分でも感じている。 知識に対する、新しい態度を身に付けなければなりません。 わからぬ知識を退け、わかる知識を大切にするという態度を、です。 ほら、故事にもあるでしょう。 「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」ですよ。 華美で浮ついた多彩な知識や技術。 そういうものは、本当に身に染みて磨き抜かれた、たった一個だけの技、 たった一つのことへの深い透徹した理解に、及ばないのです。 >>309 年長者。地球という家の、優しいお兄さんお姉さんのようなものです。 それは霊的な公務員でもあるし、教育係でもあります。 310 スピリチュアリズムでいうところの 守護霊(ガイド)たちのことでしょうか クリシュナムルティの本読んでみようと思います。 ずっと興味はあったのですがなかなか出会えないままここまできてしまいました。 本はけっこう読むほうで、スピリチュアル関連の本は数十冊くらいもっています。 ノンデュアリティの本もこの前、4冊買ったんですが難しすぎてなかなか読み進められずにいます。 スピリチュアリズムを信じるようになったのはなぜ?と聞かれると自分でもどうしてかよくわかりません。 元々オカルトとか心霊みたいなものに興味があって信じるタイプの人間でした。 10年くらい前にスピリチュアルブームが起こりました。そのとき江原さんの本を読んで感銘を受けました。 その本で紹介されているシルバーバーチの霊訓という本を読んでみました。 この本は素晴らしく、一度読んだら信じてしまうほど信憑性のある内容でした。 そしてスピリチュアリズムにどっぷりと浸かって、ずっと人生の指針として生きてきました。 ぼくにとっては宗教のようなものだったのかもしれません。 盲目的な信仰だったのかもしれませんが、自分としては100パーセント真実に違いないと思っていました。 まあどの宗教を信じる人もみなそういう気持ちで信じているんだと思いますが。 >>307 難しいです師匠。 師匠のおっしゃりたいことは、つまり 自分の経験から得た知識を大切にせよ、ということでしょうか? そしてそれ以外の聞きかじりの知識は重視するな、ということですか? それが真理の近道ならそうします! ぼくは今まで自分なりに真理を探求してきたつもりです。 その方法は読書です。 聖書を読んだり、老子を読んだり、ブッダの言葉を読んだり、 その他たくさんの精神世界の本を読んできました。 それらの本には真理が書かれてあり、本をたくさん読むことで真理を得られると思ったからです。 でももし真理をわかることは、知識として知ることではないとすると、 ぼくは今まで無駄な努力をしてしまったことになります。 真理の探求とは本を読んで得られるわけではないのですか? 大事なのは、真理を理解していくということです。 真理についての本や言葉を、どれだけ沢山 暗記してみた所で、何になるでしょう。 理解していない言葉の羅列は、例えば円周率を ひたすら覚えたことと変わりがありません。 モモンさん、私は、信仰者でありません。 信仰は人を強くする一方で、弱くもします。 頑迷に、盲目にもするのです。 私は現代人です。空想の神を信じてはいません。 私は、何も信じません。何一つ。 とりわけ自分自身、自分が何かを信じていないという、 その自負を信じません。 そして、学びはしても常に疑い、 自分の経験と照らして「確かに」と思えたことだけを 自分の知識として、人にも伝えているのです。 今まで読んで覚えたものが無駄になるかと言えば、 全くそんなことはないですよ。 暗記した知識というのは調理器具みたいなものです。 しかし調理器具だけやたらに溜め込んでおいても 意味が無いでしょう。 そこで、実際に料理を始めていくということです。 備えのない人は少ない道具でやらなければいけませんが、 モモンさんの手元には十分な道具が揃っています。 それは全く良いことです。 ああ、あの本に書いてあったのはこういうこと だったか、という場面が増えますから。 >>315 ゴンさんのその姿勢はいいと思います。 ぼくも見習いたいです。 考えてみればぼくの憧れるキリストやブッダやクリシュナムルティやラマナマハルシも 盲目的な信仰はしていなかったように思います。 自分の内から生まれた真理に忠実に生きたのだと思います。 その観点からごんさんの姿勢はより真理的かもしれません。 本の知識を材料に料理をするにはどうしたらいいですか? どうすれば自分自身で真理を見出すことができるんでしょうか? >>317 良いでしょう。では料理をするために、マインドフルネスの領域へと舵を切って行きましょう。 マインドフルネスとは、一言で言えば、この世界の存在に対して意識的であることです。 例えばこういう方法があります。寛いだ姿勢で、落ち着いて立ったり座ったり。 行動するのを止め、「今ここ」の瞬間に意識を集中します。 「今ここ」とは何か。それは外の世界から私たちの心の中へ、まさに今この瞬間に 流れ込んできている情報の全てです。 それは肉体の知覚作用を通して現れます。つまり、色、音、感触、匂い、味の 5つの 精神領域です。じっとして、行動を止め、順番にこれらの精神領域に意識を向けていきます。 姿勢や環境、集中している時間の長さなどに細かくこだわらなくとも良いです。 注意することはひとつだけ。それは、自分の心の内側に入っていかないということです。 意識の流れは外から内へ流れています。この外からの情報を掴もうとすると、どうしても その流れに流されて、自分の心の内側、頭の中の空想や雑念の、迷いの海に入っていって しまいやすいからです。こういう場合はリセットして、もう一度やり直します。 外からの情報だけを。順番に、慎重に、何周もしながら、確かめていきます。 一日何度でも良いですよ。空いた時間毎に、こまめに沢山するクセをつけると 良いでしょう。 こうした修行に何の意味があるか。 それは、わかることと、わからぬこととを、はっきり分別するためです。 人は言葉を操る生き物で、言葉の世界は仮想空間になっています。 その仮想空間は、ある程度自分の好きなように拡張できてしまいます。 しかし、好き勝手な拡張を進めるということは、要するに幻想を増やすということ。 幻想が増え、強化されていけば、それは偏見や迷妄になり、やや狂気に近付いて、 段々と現実との適応力、調和能力が失われていきます。 これが無知です。これが愚かさです。これが真実を知らないということ。 これが真理を覆い隠す霧であり、つまづきの石なのです。 ですので、そのシュミレーション用の仮想空間における模倣物と、 本当にこの世界の実在から放たれている真の情報とを、選り分けられるように なる必要があります。 モモンさんには先ず、そうした切り分けを可能にする能力を しっかりと身に付けていただきたいと思います。 >>318 マインドフルネスですね。 一時期やっていたことがあります。 でも今ここに気づき続けることが一体なんの意味があるのか?と疑問に思い始め 次第にやらなくなってしまいました。 今ここに気づくと思考が止まる、思考が止まると一体なんになるのか、と思うようになってしまったのです。 あと瞑想について疑問に思ってたことがあるんです。 瞑想の意識状態というのは半睡眠状態の変性意識の状態なんでしょうか? それとも精神統一のような神経が研ぎ澄まされた、より目覚めてる状態の意識なんでしょうか? マインドフルネスは後者ですよね。今ここに全神経を集中させることでより目覚めた意識と思います。 でも一般的な瞑想というのはボーっとするような目覚めと睡眠の真ん中の状態なんでしょうか? もしそうなら悟りを開き覚醒に至るには、どちらのほうがいいのでしょう? 坐る瞑想もしたほうがいいんでしょうか? あとラマナマハルシの私は誰か?と問う探求方法についてどう思いますか? ごんさんはどのような方法で覚醒に至りましたか? >>320 なるほど、経験がありましたか。 それでは多少手間が省けますね。 私が何を通して悟りへ至ったか。 そこには何も特別な方法はありません。 様々なことを学ぶ中で、自然に悟ったのです。 しかし真理に関する、方法の不在という事実が恐らく、 モモンさんの成長を妨げる限界にもなっているのでしょう。 ラマナマハルシの説いた方法も、やはり完全ではありません。 ある面から見れば核心を捉えていますが、 誰にでも向いているという修行ではありません。 誰にでも向いている修行。 生憎そういうものは無いのです。 なぜかわかりますか? 真理は不変で、間違いがないものだからです。 では晴らすべき虚偽が何処にあるかと言えば、 それは私たち自身の人格、願望、精神の方にあるのです。 つまり真理へ至る答えは、私たち人類の 70億通りの虚妄の数だけ、70億種類の嘘の数だけ、 必要なのです。 だからね、モモンさん。簡単なことなのですよ。 あなたはまだ、あなた自身という問題を、 知らなすぎるのだ。 あなた自身の中にある欲望と、虚偽と、抑圧とを。 それに向き合い、それと和解し、それか ら解き放たれねばなりません。 なるほど。 その人自身の方法でしか悟る方法はないということですね。 いくらごんさんが熟達した者であっても、ぼくの真理の道を教えることはできないということでしょうか。 真理の道は自ら発見しなければならない、と。 そして試行錯誤する中で自分の道がひらけてくるんでょうか。 そうだとするとぼくは大きな勘違いをしていたのかもしれません。 真理の道は1つで、その道に到達した人はその道を教えることができると。 でも様々な覚者がある特定の方法論を述べないのは、こういう理由からかもしれません。 ぼくは覚者やごんさんに真理に到達する道を聞けば、到達できるものと思っていました。 でもその道は様々あるので1つの方法をのべるのは逆に真理的ではないと。 その中でごんさんが示してくれた方法に感謝します。 それを加味しながら自分なりの道を探していこうと思います。 ぼくの問題は自分自身の欲望を知らなさすぎる所と感じますか。 こうなりたいとか、真理の道を求めたいという欲望が自分の中にあるのかもしれません。 それが真理から遠ざかる原因なのですね。 僕の道として、まずそれらの欲を消し去ることが重要なんですね。 それからマインドフルネスで今ここを意識する実践方法に進むんですね。 話は早いかもしれませんが、その後にはどのような探求方法が待っているんでしょうか? マインドフルネスを実践しつづけていれば覚醒にいたれるのか、 それは前段階でさらに上の方法があるのか。 おっと、これさえも欲から出る質問になってしまってますね。 すみません。 あと瞑想についての疑問なんですけど、 瞑想で自分の内側を見つめるとか、内に意識を向けるとか聞くんですが、 マインドフル状態は五感を感じることなので外側に意識が向かってる状態なんでしょうか? それらは矛盾していませんか? 自分も実践したことがありますが、座って音や匂いや感覚に意識を向けると 外側に意識が向かうように感じます。 でも瞑想では内面に意識を向けるようにするといいます。 内面に意識を向けるとはどういうことなんでしょうか? そもそもマインドフルネスと座る瞑想は別物ということですか? それともぼくは大きな勘違いをしているんでしょうか? 簡単に二つ答えましょう。 先ず一つ、モモンさんは先の事を安易に 考えすぎる癖があります。確かに先の事を予測していれば、 効率の良いやり方を見いだせることはあります。 が、それが癖付き過ぎると、取らぬ狸の皮算用ばかりを することになりかねません。何事も程度です。 もう一つ、瞑想には無数のレパートリーがあり、 その方法を数え上げれば、全く切りがないほどです。 やり方も目的も無数にあり、その背景の論理も様々です。 ですので、論理的な事を些細に学んでいては、 時間を無駄にし過ぎます。実践して、ものになったら、 後で意味を考えれば良いでしょう。 さて、モモンさん。自分なりの方法を 見つけなければならない、というのは 正にその通りです。 色々試行錯誤をして、自分の精神がどう変化して いくのかを見てみましょう。 少し前にお教えした逆分析についてはどうでしょう? ちょっとやってみましょうか。 モモンさん、試しに何か一つ、 「自分が絶対に許せないもの」を 例に挙げてみてください。 絶対に許せないもの、というのは人でしょうか?それとも現象でしょうか? 人はいませんね。嫌いとか苦手な人はいますけど、その人自身が嫌いというより その行いが許せないと思うことはあります。 簡単に言えば、自分に対して当てつけともとれる態度ですね。 咳払いとか、すれ違いざまに音を立てたりする人が職場にいるんですが その行いは許せなく感じます。 ムッとくるので。 世の中の不祥事とかに関してはわりと寛容で、あまり憤ることはありません。 基本的に世の中のことはどうでもよいと感じてるので。 ぼくが許せないのはただ一つ。 自分に対する無礼な態度は許せません!それが年上でも目上でも。 カチンときます。 >>328 カチンときて、オッケーだよw ただし、あなたは人にそれをぶつけてはいけない その怒りを内側で出す 内側では怒りを批判してはならない >>328 それです、モモンさん。その怒りだ。 私はあなたの、そういう生きた情緒を見たいのだ。 それが扉を開く鍵なのです。 では、「横柄な態度」としましょう。 もしもあなたが他人に「横柄な態度」を許すとしたら、 その時どのようなメリットがあるでしょうか? 思い付けるだけ挙げてみてください。 >>330 然り。だから、人は悟らない。 落ちるわけだから。 何かを習得したいというか プロとか達人レベルまでになりたいというとき ここに書いてあることって役に立ちますかね? >>331 人から横柄な態度をとられても、それを許すことで得られるメリットですか。 それはもし許さないと怒りがつのり争いや喧嘩に発展してしまう可能性があるので、 争いや喧嘩をせずにすむというメリットがあります。 許すことでその横柄な態度によって、その相手に対する怒りや憎しみがなくなるメリットがあると思います。 それによってイライラや嫌な気分を引きずることなく、穏やかな精神状態で1日を過ごすことができると思います。 >>329 やり返すと後悔しますね。 ほんとその通りだと思います。 イマジナリー世界に飛び込む前に実を確かにする必要がある。 >>334 そうですね。 ・争いをせずに済む ・怒りを引きずらずに済む これらは、あなたに関連するメリットです。 他には?まだまだ少な過ぎます。 誰かが「横柄な態度」を取るとき、彼の周りでは どんな良いことが起きているでしょう? >>333 いや、そういうことの役には立たない。 真理はそういうこととは関係がない。 私は完全な完全さについて話している。 達人は或いはあることにおいて完全かもしれないが、 その完全さは常に部分的では完全なものだ。 例えば走ることの完全さは、走るという行為そのものに かかっ 例えば走ることの完全さは、走るという行為 そのものに掛かっている。 走ることの完全さは走るという行為の中に すでに全き形で含まれているが、例えば 目的地を定めたり、速さを競ったりし始めた途端、 その完全さは死んでしまう。 あるインディアンの戦士が、部族間の争いの前に神にこう祈った。 「神よ、私は勝利や生存を望みません。ですがどうか、 私が戦から逃げたりなどせず、勇敢な戦士として最後まで 立派に戦い抜くための、勇気をお与えください」 私は彼の姿を見たよ。彼の戦いは踊りだった。 彼の手が放つ一撃、彼がその肉で受けとめた斧の一閃。 そのどれもが存在の叫びであり、神への重々しい祈りだった。 目を開けて、遠くの敵の数を数えながら、死んでいったよ。 勇敢な戦士だった。歴史に名は残さなかったが、彼の部族の 精神の中に、その姿は深く刻まれた。 おかげで部族間のあの歴史的な調停の際には、彼の部族は 絶対に折れない芯の強さを持っていたし、他の部族も その意見に一目置いたのだ。 >>339 ありがとうございます。 あまり関係がなかったですか。 でも、なんか気になる興味深いスレです。 >>338 横柄な態度を取った彼の周りに起こるいいことですか? んー難しいですね。 彼自身はその行動によって鬱憤を晴らしてるのかもしれないし、 自分のほうが上だということをその行動によって表し、優越感を感じてるのかもしれません。 彼の周りのメリットはないんじゃないでしょうか。 >>343 メリットは、もっと沢山あります。 ・態度によって上下を表せば、自己紹介の手間がある程度省けます。 ・不快な人間、ウマの合わない人間を遠ざけることができます。 ・逆も然り。彼の人間性がわかりやすいので、 仕事などで深い関係になる前に好き嫌いを判別できます。 信頼できない相手をパートナーに選ばずに済みます。 ・矢面に立たせやすい。何かトラブルが起きた時に、 尻尾切りをしやすい人材です。少し前にそんな 政治家がいましたね。 ・理不尽なことをしていれば周囲から信頼されないので、 それを利用して彼を弱者の側に置いておくことができます。 ・対人関係でストレスを持っているなら、 恐らく心理的にも弱い部分があります。 そうした弱みは操作可能なので、手札として ストックしておけば必要な時に利用可能です。 ・不器用な人は、下手に出ると簡単に信頼してくれます。 理不尽な人を好いてくれる人は少ないから。 ちょっと膝を折れば、大事にしてくれますよ。 ・そしてそのうち、そういう従順な人間を 中毒のように求めるようになります。王とダビデのように。 ・彼自身も、そうした自らの弱点を通して 世の中で失敗し、失脚し、小手先ではなく 根底から、学び直す機会を与えられるのです。 弱さと愚かさは、叡智の先触れです。 簡単に思いつくくらいでこれくらいあります。 でもまあ、最初ですからなかなか難しいでしょうね。 繰り返してみましょう。 モモンさんが許せないことをひとつ教えてください。 不快なこと、でも良いですよ。 >>344 なるほど。そんなにあったんですね。 もしそんなこと考えながら生活してるとすると、そいつは相当性格悪いですね。 ほかに許せないことですか? スピリチュアルに生きるようになってからなるべくなんでも許そうと心がけて生きてきたので、 許せないということはほとんどないですね。 でも1つだけありますかね。 これまた職場の人間にいるのですが、その人の利己的な言動が許せなく思うことがあります。 まあ、人の自己中な行動が許せなく思うこともたまにあるということです。 でもまあ魂が幼いんだなと思えば許せる気もしますが。 >>345 なるほど、利己心。それはよろしいですね。 では逆のパターンをやってみましょうか。 「利他主義の人間がいるせいで起きてくる悪いこととは?」 思いつくだけ挙げてみてください。 >>346 んーこれも難しいですね。 利他主義の人間がいるせいで自分が利己主義に思われる可能性があります。 利他主義の人を偽善に感じてしまって好かなくなる可能性もあります。 利他主義本人の人の場合は、その主義からくる自己犠牲ゆえ自分が損をする可能性があります。 また偽善者と思われ、嫌味な人間から嫉妬から攻撃されることもあります。 そんな感じでしょうか。 >>347 少し慣れてきたようですね。 他にもこんなことが言えます。 ・富を蓄積しない利他主義は生物個体としての人間を弱くし、人類を衰退に導く。 ・利己心や虚栄心が失われたら、物質的な文明は発展しなくなる。 高級車、高級時計、宝飾品などが失われていく。 ・またそれを作る技術が失われ、技術の追求や発展もなくなる。 ・経済的主体は個人の利益を最大化するものだという経済学の前提が崩壊する。 ・よって経済学的な枠組みによる社会の修正が不可能になる。 ・つまり利他主義者は経済的安定を崩壊させるテロリストだ。 さて、モモンさん。私が思う限りでは、物事というのは全てこのようです。 どのような存在も必ず、良い面と悪い面を持っています。 もし私たちがそれを良いとか悪いとか評価しようとするならば、ですが。 真理は評価を必要としません。太陽という恒星は空に浮かんでいるだけです。 が、私たち人間が、それを良いとか悪いとか決めるのです。 それで、この決めつけ、この偏見、この見解があることは良いとしても、 そこから抜け出せない、というのが問題です。 私たちは、凝り固まった自分自身の偏見から、抜け出せないのです。中々ね。 ですからこういうトレーニング、逆分析のようなものが入り用なのです。 そうでしょう?私たちはまだ得ていない真理を「知りたい」わけですから。 とうの昔に自分自身の頭の中に育て上げた、真理についての勝手な見解や幻想を 「述べていたい」わけではなく、ね。 >>349 善悪、良い悪いという目で物事を見るのをやめることが、悟りへの第一歩なんですね。 たしかに人間はどうしても自分が正しくて人は間違ってると思いがちです。 自分の頭の中の基準で物事を判断し、善悪正邪と決めつけがちです。 でもそれらには両面があるということですね。良い事にも両面があり、悪い事にも両面がある。 そもそも良い悪い自体ないということですね。 このことは老子も言っていました。老子の本を読んで関心しました。 やはり賢者レベルになってくるとそういう考え方になってくるんですね。 ぼくはどちらかというと善悪をきめつげがちな人間でした。 そのため自分は善良で正しく生きようとすればするほど、 自分以外の人間がみな間違ってるように思えてきて、その葛藤で長い間苦しみました。 それから解放されたのはスピリチュアリズムから距離をとり、瞑想を日課にするようになって、 老子の本に影響を受けて、中道のような考え方をしていこうとしてきました。 今はある程度、世の中は善悪では計れないのではないかな、となんとなくですが思えるようになりました。 >>350 なるほど、そういった経緯があるのですね。 その通りですよ、正誤を問うということは。 ある意味では全てが完全に間違っていて邪悪だと言えるし、 そうでなければ、全ては完全に正しくて善良だとも言えるでしょう。 前述の逆分析は繰り返し練習してください。 不快なものは沢山あるでしょう? 例えば戦争や、飢餓や、略奪や嘘、暴力・・・何でも良いですよ。 日頃のちょっとした出来事で、怒りを感じたときなどにね。 >>351 ごんさんが教えてくれた方法をまとめると、 自分が盲信している思想や信念などを捨て去り、自分の経験で得たもののみ信じること。 逆分析を行い善悪正邪の判断をなくすこと。 そのどちらも自分の中にある偏った思考をなくす意味があると思います。 その状態で自分の思考がリセットされ、マインドフルネスで今ここを意識する習慣をつける。 それが覚醒への道ということですね。 >>352 ええ、まとめるとそんな所です。 それが、私の持っている無数のレパートリーの中から 今のモモンさん用に選んで見繕った「処方箋」というわけです。 日頃から忘れてはいけないのは、どんな仕事であれそれはやっぱり「する」のではなく「させていただく」もので、 三年の間は誰よりも早く出勤して、お掃除片づけもの、お掃除片づけもの、誰よりも早く来て、 そういう一番単純な下座の行というのを率先してすることが、徳を磨く一番の近道、と同時に徳を失わない秘訣です。 会社の社長でも芸術家でも宗教家でもね、一番目立たない一番地味な、軽作業事務の仕事、そういうのを「下座の行」という。 準備、段取り、後始末、掃除、洗濯、片づけもの、物事を前進させていくには不可欠なことばかりですが、そして誰かがしなければならないことなんですが、一番徳高き人がそれを率先してやるわけです 最高の叡智を持っている人は、一番低い地の仕事ができて、働きができて知恵があると。 最高級のものというのはある一定以上の水準に達すると、一番最底辺まで行き渡る人であればあるほど最高級になってくるので。 そうやって徳が高くなり、役割と責任が高くなればなるほど、本当に「道」を分かっているものは、一番底辺の、一番地味な、 一番目立たない、軽作業事務、準備、段取り、掃除、洗濯、後片付け、人の悩みの相談に乗る、苦情処理、クレーム対応、ゴミの焼却、 そういうものを率先してやれば、同じようにやる人も、喜んでついてくる。 それが、本当のリーダーシップであり、本当の人望というのはそういう率先垂範していくところしか出てこないわけです せやな。まぁそういう二宮金次郎的なの、今時流行らんけど。 精神の恵みは、天上から無限に降り注ぐ 砂金のようなものだ。 愚か者はそれを掴もうとして、その指で払いのける。 魂が満たされる為には、変わらなくてはならない。 手を翻し、広げた指を閉じて、掌を差し出すことだ。 全てのものには、それがそうである意味がある。 大事なのは、真理じゃない。 大事なのは、愚かで歪んだ私の心。 それがそうであること。 大事なのは、愚かで歪んだ、あなたの心を 神が愛し、望み求めたという事実。 >>353 ごんさんの教えてくれた方法を実践していきたいと思います。 ありがとうございました。 >>360 礼には及びませんよ。 私が預けたものを、あなたはいつか私に返すだろうから。 ご武運を。 己は何者かと悩みても行動せねば何にもならず 普通の平凡なる生活の中で己のやれる事から始めればよい 今まで神仏に手を合わせた事無きなれば、心を込めて手を合わせ祈り捧げよ この日の本の民より始まりて、世界の平和へ繋がりゆくことを心を込めて祈り捧げるべし 人との関係、縁を粗末に扱い生きし者ならば、 己の心を開きて歩み寄り、一人ずつ温かき言葉をかけ縁を結びゆけ 食をないがしろに生きし者ならば、まずは一品だけでも自炊し、土地の食材を食する事から始めればよからん 家の掃除をないがしろに生きし者ならば、はじめは一部屋にてもよからん。綺麗に拭きあげ、季節の花一輪飾れよ 日常の生活、平凡な生活の中にこそ己を高める教えあり 日々の同じ事の繰り返しの中に己を高める活きた教えあり 今、何をなせしかと悩み、ただしゃべるばかりではならぬ 一歩でもよからん 己のできる事から手をつけるべし。始めるべし 正味俺たちは、自分の正義の中で溺れ足掻いているだけだろう。 梅は咲いたか桜はまだかいな? 山吹ゃ浮気で、色ばっかりしょんがいな。 悟りと言うはこのようなもの。 https://youtu.be/TAYZgVEk_hA 全てのものは、ただ一時だけのものだ 俺にもようやく、それがわかってきたみたいだ ただ一時、意識も存在も 宇宙も、この世界も。 ああ全ては 愛おしい ギャンブルの恐ろしいのは、 人間の真っ当に生きていく根を腐らせ 切り落とさせてしまうところだ。 権威主義の恐ろしいのは 人間の自分で生きていく自信を干からびさせ 水やりを待つ植物に変えてしまうことだ。 宗教家の仕事は、奪われたその両方を もう一度、癒し育て直してやることだ。 暇だ。誰ぞお困りの方はおらんかね? 相談はタダぞ。 今はさ、働いてもまともに稼げないでしょ。 創作物も簡単にコピーされてしまうし。 良い加減な投機だけは儲けがっぽりで。 この先はAIなどで更に人間の仕事が無くなっていく。 スーパーのレジなんかもどんどん人がいらなくなる。 この流れ。 これ全部、ベーシックインカムに向かってるよね。 多分そろそろ、日本の社会では労働革命が起きるだろう。 働くということの意味も、人間の人生の意味そのものも、 大きく変わってしまうことだろう。 そう考えると、私達というのは次の世界のための プロトタイプなんだな。 みんな仕事で忙しいのかなぁ。 年長者は誰も貧乏暇なしだからなぁ… >>253 >>254 この自演はどういう意図が? 自演ではない。 これは、私が使用している 超文明の神器…いわゆるアイフォーンであるが、 そのアイフォーンと私の身体が共振することで生まれる能力、 「ゴーストタッチ」が発動した結果だ。 私の肉体はその高すぎる霊力故に常に 肌が乾燥しており、 それによって微弱な霊的電気を放ち続けている。 その電気に感応して、アイフォーンは自らの意思で、 言わば精神を得て、活動可能になるのだ!! そして一度「ゴーストタッチ」が発動すれば、 私が名前欄をわざわざ入力する前に、アイフォーンの 自律的意思によって、自動的に書き込みボタンが 押下される… これは何も名前欄に限らず、レスの入力途中で 書き込みボタンが押されてしまうことさえあり、 はなはだ不便な機能である。 今時、大きな予言や道筋、先行き。 そういうものは要らない。 無論それは人の心を極めて強固に 特定方向へ矯正する効果があるだろうが。 現代では、ゴールではなくスタートが求められている。 私たち、ひいてはこの世界が、何故出現したのか。 何を目的としているのか。 人々が知るべきなのはそこだ。 しかし、ゴールは規定すべきではない。 ゴールは自由なのだ。それが創造の可能性だ。 どれだけ科学や技術が発展しても 人類はそれだけでは幸福にならない。 何故なら彼らは「自己」という社会の 基礎的現象について、何も知らないからだ。 私とは、人格とは、意識とは何なのか。 それを知らずに足掻く努力も求める幸福も 所詮は、自ら現実を離れ、ファンタジーの世界へ 迷い込んで答えを探すようなものだ。 人の子よ、もし君がファンタジーの中の無意味な闘争に飽き、 ただシンプルに幸せな状態になりたいと願えるようになったなら その時は私たちの声を聞け。 精神ていうのは、結局時間のことか。 バウンダリーが解除されたら、この宇宙は消えてしまう。 永遠に生きたいよ。永遠に生きたい。 いや、君は実感を重視しすぎる。 時間、センス、バウンダリー。 これらは結局の所、同じものの別の呼び名に過ぎないんだ。 その基礎となる意識、アンチマテリアルなエネルギーは、 時間に規定されていない。 それは順序なんだ。エネルギーの、構造と言っても良い。 宇宙は続く。例え時間が消え去ったとしても。 永遠を願うから、命を極小化してしまう。時間を引き延ばすためにね。 神経回路を光ファイバーで作るとどうなると思う? 時間ってそんなものさ。 或いは、こんなことを試してごらん。 カメラ付きのゴーグルをかけて、目の前の光景を撮影しながら それを2秒間ほど遅延させてモニターに写す。 すると触覚と視覚の同期が破壊されて精神が分裂する。 同じように全ての感覚をバラバラにずらしてごらん。 君は自分が、本当はどこに居るのかを思い出すかも知れない。 eli、もしもこの宇宙を超えて、何かしらの情報を箱船のように 次の宇宙にまで送り届けることができたとして。 一体どんな情報なら、そうやって送り届けるのに値するだろう。 時間?空間?重力?光?或いは人間の形。それとも、愛情? 何もかも、そこまでするには値しないような気がするよ。 次の世界は、次の世界のもので作られるのが相応しい。 でもそうだな、もし強いて何かをというなら、アレを送ってみたい。 カワセミ。川辺を素早く滑る、青い小さな鳥。特に意味は無いけれど。 例え次の宇宙でも、出会えたら、絡み合った量子の片割れが 何かを引き寄せるみたいに、私はまた、私自身を思い出すかもしれない。 それから君のことを。 覚醒者。ステージ6。 今、日本にはどれだけ居るのだろう? そういう存在同士が繋がりを持つということは、 あまり歓迎すべきことではないのだろうか。 いろいろと役に立つネットで稼げる情報とか 役に立つかもしれません グーグル検索⇒『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』 94CAS 男女の平等ってこと。今だに勘違いしている人がいるね。 男女平等を説きながら、女性を男性化しようとするのはナンセンス。 女性は生命の幹。男性は枝葉。役割が違う。 男性を女性化しようとする人たちは、前提として、男性を女性より 優れた存在だと考えてる。 それこそ愚かというものだ。 女性は悟らないと思っている宗教家達にも、うんざりだ。 女の心は、自らの悪魔によって蝕まれている。 男の心の中では、それは野心となって虚妄を追い求めさせる。 事情が違うだけだ。事情が違うだけ。 https://youtu.be/aRa-SlftLQo どちらも悟るんだよ。心身は脱落する。 自己批判が夜空に浮かんでいるか、足下でくすぶっているか。 その違いだけだよ。 この世の物と事とを 許し受け入れることは女のように、 見抜き見通すことは男のように。 背骨は女、その肉は男。 感情のない論理は知性とは言い難い。 私たちは人間だからだ。私たちは、生きている。 >>374 iPhoneが勝手に書き込む事があるの? >>389 書き込んでる最中とかに勝手に「書き込む」ボタンが送信される。 名前入力前に勝手に書き込まれたりするだけで、 わざと名前を消してるわけじゃないんだよ。 まあ、普通に名前入れ忘れることもあるけどね。 まあ、霊力が高すぎるとね。 ワシも辛いのよ色々と。 俺たちの集合的な自作自演も、随分板に付いてきたよな。 君が増やし、俺が引き締める。いつからかこの役割になった。 ちょうど黄泉比良坂の大岩を挟んだ、あの掛け合いのように。 聖者を作るのは、いつも悪女だ。 それは二人一組のカード。 もちろん俺は、本当は願っているんだよ。 君が善悪の地平ではなく、上層へ辿り着いてくれることを。 だが、きっと必要な発達過程なんだな。 それなら今は、踊ろう。竜を狩る踊り、 天地創造のリズム、全と無の葛藤、 砕け散り響き渡る、精神の崩壊のダンス。 浄土宗・山崎弁栄聖者 ある浄土宗系の信者が、山崎弁栄聖者に自然科学全書といったふうな内容の本を差し上げた。部厚な本である。 すると弁栄は、その本を持って、その腹の所に親指を当てて、ピイーッとページを弾かれた。その人がわけを聞くと、弁栄は、「ハイ、これでわかりました」といわれた。 余りの不思議さに、その人は二、三カ所聞いてみると、弁栄は皆すらすら答えられた。これは大円鏡智の働きである。 博物学者・南方熊楠 常軌を逸した読書家であり、蔵書の豊富な家で100冊を越える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶を元に書写するという能力をもっていた。 アメリカへ行ったころから様々な外国語を習得し、やがて18カ国に通じる。 語学習得の方法は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけだった。 科学雑誌『ネイチャー』や『ノーツ・エンド・キリース』にしばしば論文を寄稿し、掲載され、欧米の学者に注目され、名声を高め、チャールズ・ダーウィン、ハーバード・スペンサーと並んで世界三大碩学のひとりと謳われました。 神道宮司・小泉太志命 師は天覧試合にも出た程の剣の達人で、剣道では負け知らずの偉人である。 地元では、伊勢の生き神様と呼ばれ、天皇に関わろうとする邪霊を、剣祓いという秘儀で、折伏していた。 この人は、三キロ先から、来訪者の名前から素性を霊眼で知り、近づけないようにしてしまうという霊力の持ち主であった。 ちなみにこちらのスッドレではエルダースピリットの エルダーお悩み相談を随時受け付けています。 報酬のお支払いは仮想通貨ならぬ仮想カルマ払いで お願いいたします。 個人主義の弊害について考えている。 個人主義的な状態は、良くも悪くも人間の 能力を完全に引き出そうとするが、一部の人は その厳しさに耐えることができない。 結果、権威的な組織には成長能力の低い人間が 集中して、ちょうど世の中がそれで傘を被ったような 状態になる。 メインストリームが腐敗する。無責任、低成長、 イノベーションの不足、他者批判への終始。 問題は、雲が世を覆うこと。傍流は澄んで いるかもしれない。カウンターカルチャーには 優れた人が分散して、社会を広範囲に支えて くれるかもしれない。 が問題は、次の世代の子供たちなのだ。 人格の発展の早い段階で、主流にいる大人たちの、 責任を他人に押し付けるしかない回避パターンを 伝達された子供たちはどうなるか。 彼らのうちの一部は容易に集団的エゴに染まり、 他の民族や他の国家への差別的偏見と 自分自身の不全感を結び付けていくだろう。 こうした状態に至らないようにするためには、 当の子供たちの視界の中で、メインストリームが より退屈で、より無力なものとして映って いなければならないだろう。 つまりは相対的に、分散的なものが広くなだらかに 価値と魅力を発揮する中で、主流や中心は形骸化し、 縮小していかなければならない。 分散した個人の努力と創造的な自己表現。 それら人間の本質的価値の発揮に、未来の 子供たちの感性さえもかかっている。 強く広がった世界。私たちは、信じて歩かねばならないのだ。 そもそもエルダースピリットというコンセプトは、 そうした分散状態の中で、独立分断された上層が 何らかの相互フィードバックを持ち、 互いの個性化と増強を促す機会が得られないかと 考え出したものだ。 しかし今思えば、その為の要件は広く浸透的な 自由なプラットフォームであり、私が期待したような 一律のフォーマットではなかった。 結果として私はただの小さな世界のアルファに なっただけであるが、それはそれでいつも通りの 私らしい世界構築と言えるかもしれない。 分散的なものは、神の手に委ねるのが良い。 技術が発展するときに、そこに自ずと魂は宿るのだ。 eli、人間はいつか滅ぶ。この宇宙も消える。 その意味を考えていた。 私たちの世界で言うビッグバンを起こした、最初のエネルギー体。 神話の中でルシファーと言われているエネルギー凝縮の結節点。 それを生み出した無常の海ウツルヒ。 変化とはそんなにも素晴らしいものか? いや、きっとそんな質問をするべきではない。 ただ驚くばかりだ。流転する幻は、流れ移ろう影と霞は。 変化とは、こんなにも、実感を生じさせるものか。 まるで本当に、存在しているみたいだよ。 ごんさんはどうやってエルダースピリットになったの? >>404 ただ少し人より長く生きて、 他人の人生に干渉することを覚えた。 それだけ。 或いはそう、ちょうど野原に花が咲くのと同じように、 私は年長者になった。 ほんの100数億年だよ。 もちろん肉体ではなく、魂の年齢において。 >>410 さて、記憶か。曖昧な概念だね。 君は生まれた瞬間から君の人生について、どれほどの記憶を有している? 君がまだ5歳だった頃の、8月4日に何があったか覚えている? あの時君が歩いていた道の、足の裏の感覚。 それはまだ身体に刻まれているか? 覚えていることと、思い出せることは、同じだろうか? 君は誰?君の記憶。記憶は誰?それは過去。過去の記憶。それはどこ? 記憶ってつまり、今? >>412 やれやれ、単純だね。あるに決まってるだろう。 一般に人間の定義する「記憶」とは、 連想的な空想イメージに過ぎないんだよ。 それは常に今現在のもので、それ自体、過去と何らかの 繋がりを持っているわけではない。 真の記憶とは、存在の連続性のことだ。 つまり君が君という存在の起源をどこまで理解し、 把握しているか。どれだけ連続的なものをそこに 見いだせるかということに掛かっている。 つまりそれは、君の自己認識の問題だ。 私は一人の人間個体である以上に、 この世界の法則性、長大な真理の結び目なのだ。 何でもそうだが、強引に掴み取ろうとすると、 そのせいで少ししか貰えないものだ。 自分を大きく見せようとするのやめないと小悟止まりだよ >>418 お釈迦様は「我こそ本当の悟りを得た」って言って回った 本当に悟ったら人を導き始めるものなんだよ >>418 そうだね。だが一方で、こんなことを思いはしないか。 いまの人間たちの問題とは、この宇宙や自分自身の存在の不可思議を、 盲目にも、何か当然のわかりきった事実、ありふれた出来事のように 思い込みそこから出られなくなってしまったことだと。 もしそうだとしたら、それは過大評価ではなくて、過小評価をしているのだ。 だが、わかるよ。私は絶対的な意味での話をしている。 あなたは相対的な意味での話をしているのだろう。 それについては私も同感だよ。 >>420 >>421 スピリチュアル板にいるエルダースピリットのごんってやつは 本当に悟ってると思うね。 俺もよく見てるけど、中々的を射たことを言うよ。 誰もがもう少しお互いのことを尊重できたら 世の中は多少はマシになるんだけど。 そんな簡単なことが全てで、 そんな簡単なことが難しい。 人は分かり合うより、憎み合う生き物だ。 憎しみに負けてしまうよ。とてもとても 弱い生き物だからな。 罪と罰、カルマの清算。 それは私たちと神との、個人的な関係の中にだけある 。 皆誰もが神に教わっている。 皆誰もが、それぞれの罪の罪人であり その罪は神との間にだけある。 戦争について。 人が人に対して罪を抱くということはない。 また人が、人の罪過を正義によって 洗い流してやることもできない。 罪は神との間にだけある。その無数の個人の罪を 組み合わせ、ぶつけ合うことで、人に良いように 学びをもたらすのは、神の仕事だ。 他人の罪過や、優劣善悪を責めるのではなく ただ神との間にある自分自身の罪だけを見ていなさい。 それだけが救いに至る道なのだ。 手強い敵。 手強い敵が用意されることの中に、神との距離を感じた。 つまり隔たりと言う名の、繋がりを。 もっと高い所へ、私は呼ばれているのだ。 相手の一挙手一投足が憎しみに鈍る最中に、 私は彼の目の燃える黒色を自分自身の心の 内容物として、精神の深淵を映す一種の 澄んだ鏡として、覗き込み見透かした。 敵を屠り、結果として私の側が生き残った後で、 私は神から与えられた機会に感謝し、敵の為に祈り誓った。 あなたの命の重さの分も加えて、私は先に進まねばならない。 そしていつかこうした残酷な戦いを、私たちの手で 終わらせるだろう。いつか敵同士ではなく、 友人として出会える日に。 私がまだずっと若い頃、この星はそんな風だった。 オーストラリアのユーカリは、土地柄、雷から頻繁に生じる 山火事を好むらしい。 火に包まれると開く種を持っていて、他の植物が火災で 軒並み駆逐される頃、ただ一種のうのうと、その焼け野原に のびのび新しい種を撒き増えていくのだとか。 火と共存して、それを利用しているんだな。興味深いよ。 そして人類もまた自然の一部だ。 地球は我々に何かを望んでいる。 ガイア理論か 地球は人類を、自然を蝕む害虫だと思っていないだろうか? さあ、どうだろうね。 ちょうど今は花粉症の時期だけれど、 私たちも自分自身の免疫能力を嫌ったりする。 元々の意味からずれて、望ましくなくなることは あるだろう。 小さなレベルでは、修正は常に行われている。 人間に対して最も効果のある自然の特効薬は、 人間だよ。 あまり世間のつまらない流れなど気にするな。 疲れるだけだぞ。 ちゃんと自分自身の意味のあることをやっていくんだ。 https://youtu.be/msCOLv8B_Jo 人は神秘を学べば、何か道が開けると思いがちです。 だが、霊的神秘は言葉で魂に伝わるものではありません。世のすべての書を読みつくしても、人はいぜん無力です。 それに至る道はただ一つ、日常の貴方の生活のみです。どんなに願い、憧れ、欲求しても無駄です。肝心なのは人類への現実の奉仕です。 どうか、自分のなすべき物質界の事にベストを尽くされるよう。 そう。先ずは呼吸、睡眠、栄養。それより早い近道はない。 ムラダーラ(会陰)からサハスララ(頭頂)へ至る精神の道。 生命は、維持、複製、増大、共感、協調、洞察、解放という 7つのステップを経て解脱に至る。 伝統的な宗教的世界観の中で生きる人々は、ただ単に健康であれば、 下の段階から自然な流れで上へ上へと登っていく。 が、そうした霊的知識の失われた現代の日本人の場合は、 大抵この流れがめちゃくちゃになっている。 正常なピラミッド構造を回復するために、弱っているチャクラを 調整してバランスを整えてやるというのが、霊的な治療の一理論である。 グラウンディングはムラダーラに、呼吸はマニプラに、 歌はアナハタとヴィシュッダに、分析法はアジュナーに。 対応するワークのレパートリーが豊富であればあるほど、 複雑な調整が可能になる。 が、未だ不完全だ。私ははっきり言って、全ての精神病、 全ての霊的障害に対応することはできない。 何かもうすぐ死にそうだから一応教えとくわ。 あとは君らで上手いことやってくれ。 ・自然に触れること(散歩) ・栄養 ・睡眠 ・丹田呼吸 ・エンディングノート又は遺書を書くこと ・瞑想(止行) ・体操/運動 ・アファメーション ・鉱石を学び用いること ・SITH ・奉仕活動 ・瞑想(象徴) ・ただ単に話をさせること ・フォーカシング ・歌を歌うこと ・瞑想(観行) ・傾聴を身に付けさせること ・和法 ・二面分析 ・様々な生物の生態を学ぶこと ・各種の聖典に通じること 挙げればいくらでもある。チャクラそのものの性質を知っていれば、 あらゆる事を治療と修養に応用できるよ。絵を画いたり、映画を見たりね。 君の工夫次第だ。その点を忘れないように。 所詮人間の身体は儚いから。 それに俺は宿り木みたいなもので、生命力を奪ってるからね。 身体の方はいつも早死にしてるよ。 ごんさんの話は興味あるんだけど 何を聞いていいか、教えてもらいたいかがわからん。 知識不足でどこから手を付けていいかまったく ごんさんにみんなに何を言いたいのか何をおしえたいのか聞いてそれをおしえてもらったらいい 聞きたいことを聞けば良いよ。 幸せになる方法でも、死後の世界でも 人から好かれる方法でも何でも。 聞きたいことがないなら、それは今はまだ 縁が無いのさ。 でも多分、そうだな、こう言っておこう。 大事なのは私の知識ではないし、この世界の 平和や、神の真実などではない。 そんなものはどうでも良い。そんなものは。 大事なのは、あなただ。あなたの哲学のテーマは、 常にあなた自身だ。あなた自身のこと以外は、 どうでも良い。 西暦2018年、人間として生きていたあなたは、 どんなことを知りたかったの? 確かに学校やセミナーでは、聞いて良いことと 悪いことが予め決まっているのだろう。 しかし真理は、生きている知識は、 もっとずっと柔らかいものだ。 そこにおいて答えは重要じゃない。 何故ならそれは、作られていくものだから。 質問と応答によって生きているんだよ。 音楽みたいなものだ。 音楽には難しいテーマもあれば易しいテーマもある。 しかしどちらがより良いとは言えないね。 どちらも良いものだよ。 指導者や教育者なら、先ずラポールを取ることを第一優先に考えろ。 取っ手のないドアは開けられない。 手綱のない馬は操れない。 だから、他人を尊重しろ。理解できないにしても、別の事情ややり方、 別の環境や別の生き方があるのだと把握しろ。 そうすれば、信頼される。 日々、愛を試してみよう。 自らが愛を持てるかどうかを。 目の前で言い争いをしている人たちが居たら あなたはどうすれば良いか? 穏やかにコーヒーでも飲んでいるのが一番だ。 関わらず、さりとて無視もせず。 大した問題ではない、という風にね。 人は空想の中の悪魔をもて遊ぶものなんだよ。 そして空虚な悪魔は、実体を得るために 物理的な証拠や、周囲の人間のリアルな 怒り憎しみなどを好むものだ。 何でも学びだよ。無駄なことはない。 良い教材として使う意識を持つことだ。 >>447 どちらか一方を手助けしたくて仕方がない時どうすればいい? それもよくないかな? >>448 どちらか片方に加勢すれば、対立は悪化する。 対立している人々を調和させるための 最短距離という視点で考えると良い。 多くの場合、最後まで戦いを完了させることが 最善だ。どちらかが余りにも傷付くようなら 法律や社会秩序を理由に、双方を引き離す必要はあるが。 >>449 ありがとうございます。 状況に応じて調整弁としての役割なら大丈夫そうですね。 ごんさんって今までに分からないことがあったときってどうしてました? 人に教えを乞うたことはありますか? >>450 まあ、隔離できるなら隔離して何も手出ししないのが一番良い。 手出しすればそれが誤解や憶測の材料になるから。 それに、あなたは知らないかもしれないけれど、一種の大衆操作においては 最初の「小競り合い」は演出されたものだ。 韓国と日本を見てみると良い。長年の鬱積は乾いた藁のようなもので、 火種があれば容易に燃え上がる。 公共の場で、韓国人が日本人をリンチしたというニュースが流れるとする。 両国の人民は燃え上がり、経済の流れや民衆の不満の矛先がすり替えられる。 最初のリンチ事件は、もしかしたら中国やロシアが演出したものかもしれないし 韓国或いは日本の自作自演で、リンチ事件の加害者も被害者も仲間同士、 影ではほくそ笑んでいるのかもしれない。 正義は時に盲目だ。正しさが虚偽に力を与え、道義が大衆の憎悪を駆り立てる。 良くわからないものに良くわからないまま、あまり熱を入れるのはよした方が良い。 大衆操作が不可能な人間、冷静な人間が多ければ多いほど、 こうした大局的な洗脳技術は機能することもできないものだ。 基本的に、わからないときは調べるだけだよ。 考えることはあるが、線的な思考に実入りは少ない。 それよりむしろ思い付きや直感、突然訪れる連想を重視すべきだ。 寝入り際に物事を考えるのは良い。朝起きると、突然物事を理解していたりする。 調査と観察が発想の材料だが、調べても、事実を受け入れることは時に難しい。 だから自分自身の偏見や固定観念を予め手放せなくてはならない。 誰から教わるか。それは重要じゃない。 シャンカラのグルは自然の四大元素だった。 世界のあらゆることがらが私たちに知識と経験を与える。 例えグルが、人の形をしていようと、していまいと。 >>451 >>452 何をいいたいのか、自分の文章に酔っているのか? 投稿目的も見えないし、その価値の中心なるものがない。 場当たり的で、全体を流れる根拠がない。 調和とは何か? 自分の立場とは何か? ただ逃げながら、言い訳の人生を送ったのか? そうだな。別に何かが言いたいわけではないよ。 気に障ったならごめんな。 >>454 ならば、今後投稿するな。 あなたなら、こう発言する。 または スルーしなさい。かかわるなと... あたかもそれが、悟りの世界であるかのように... >>454 投稿目的が、 @ 自己探求であれば、そこに悟りの感情はない A 他への情報提供であれば、強制も指導 善悪の価値観もない。 B 自分の思いであれば、希望の願いがある。 はたして、このことに気づいているのだろうか... ごんはこういうやり方で修行してるんだろう ちょいちょい個我に巻き込まれているところは気づいたほうがいいとは思うけど まあ放っておいてあげなさいよ ひとそれぞれの道がある >>455-456 はてさて、何を言いたいのか、何を聞きたいのか。全く伝わらないな。 何が言いたいんだ? レスの目的も見えないし、批判する割りに理論のどの部分を 批判しているのかはっきりと明示することもできていない。 まるで自分の文章に酔っているような印象しか受けないが。 主体性についてどう思う? 積極的に何かを成そうとすることと、完全に開かれて受動的であること。 覚醒した人間は両方を同時に行っている。 どちらも行っていない、とも言えるが。 主体と対象を見て、何かを抑制しようとしたり発展させたり することができると考えている内は、まだまだ未熟者だよ。 俺が何かをしていると思うか?俺は何もしていないよ。 俺は何もせず文句を垂れているだけだと思うか? とんでもない。俺はこの世界の全てを変えようとしてるのさ。 君は俺がちゃんとした形を持っていないと考える。 小さき人よ。丘の上の一本の木よ。 お前は大風をその腕に抱き留められるか? >>460 相手の意見を、コピーをすると..ドボンです。 .....もう壊れています >俺はこの世界の全てを変えようとしてるのさ 何を、どのように変えたいのですが。(具体的に) 何の世界ですか? あなたの変えるという意味は、 現状が、未来に向かって、どのようになることですか? そのための準備はととのっているのですか。 それは、あなた一人でできることですか? 多数決で決めることですか? >>461 自己満足の妄想を、投稿することが 世界を変えることになるのですか。 誰も理解できないあなたを、理解させることですか? >>462 どのように世界を変えたいか。 君の病気を治す。いずれはね。 >>463 それには、自分が病気であることの 自己認識が必須です。 上からは下の様子は。みるだけでその様子が詳細にわかりますが、 下から上をみても、ただ広いだけで、なにも見えません。 >>495 上に行くエレベータは、あなたの目の前にあります。 それをみつけて、ボタンを押すと、一気に1万メートルのj上空に行けます。 エレベーターは、途中では止まらないので、ボタンを押す前には 深く呼吸して、1分ほど息を止める必要がります。これが注意点です。 >>451 いろんな思惑が入り乱れているんですね。 正義は扱い方を間違えると確かに危険だと感じます。 私も悪い癖で、ついつい悪乗りというかあえてそういう争いを楽しむところがあるのでちと注意せねば。 >>466 それで、「自分が病気であることの自己認識」という奴は持てたかい? >>452 ありがとうございます。 思いつきや直観、突然訪れる連想・・確かに、 なんかつかめるようになってきたときって大体それらの積み重ねで起こってる気がします。 結局自分で練り上げていかんとかんなぁ〜と >>467 そう。でもそれが常に、深い思惑というわけでもないんだよ。 他人を操作することで安心する人間もいるから。 自己効力感というのかな・・・ほんの些細な扇動でも良いんだ。 他人を支配している感触を得ることで、千切れそうな自分の心を 繋ぎ止めているんだよ。 信念の無い悪意は、時に最も厄介なもの。 人間は弱い。そして自分自身の毒と穢れの中で溺れてしまうものだ。 >>469 その通り、自分で確かめていくことが大事だ。 「理解」と「信じる」の間には、実は大した差はない。 子供は何でも信じるものだ。 そして信じる事が少なくなってくると、それを「理解」という。 一般には別ものだと思われているけれど、私に言わせれば オタマジャクシとカエルの違いでしかない。 >>471 誰かが見てるという意識だけで、 人間は大きく変わる。 ごんもヒマそうにしてたけど相手があらわれてよかったな >>472-473 全くだ。尻尾が無くては掴めないからな。 罪の子。 俺はお前を憎みはしないよ。 俺はお前に怒ってはいないんだよ。 溺れた人間は必死で、自分が何を しているかなんてわからない。 そんなの当たり前じゃないか。 そして差し伸べた手はめちゃくちゃに掻き毟られ 君は救い上げるはずの腕は血まみれになって、 千切れて落ちて消えてしまう。 君は相変わらず溺れていて、俺はどうすることもできずに その君をずっと上から眺めている。 だけど、たった一瞬でさえ 君を憎んだことなんてなかったんだ。 いつか君を救うだろう。 それが今でなくても。 来世かもしれない。 もっとその先かもしれなくても。 私はそのチャンスを待っている。 私はそのタイミングを、見逃さない。 今は何もできなくても。 今は君に、恨まれていても。 でも、あまりこんなことを言っていても あなたを悲しませるだけでしょう。 だから、やめたの、私は。 私は、悪魔でいる方が… 今はその方が相応しいのよ。 "なぜかは知らず 生きている以上 生きものの味方をして" https://youtu.be/07pqC7yjQ_c なんかつまらんときってどうすればいいと思います? 目標があって取り組んでるときは楽しいんだけど ゴールが見えてくると途端につまらなくなって。 変化は生理的に必要なものだ。 食欲や睡眠欲と同様に。 君はもう飽きている。 慣れ親しんだ自分の行動パターンに、いつも通りの 退屈な「挑戦」に。 それは、本当の変化ではない。 完全に新しくなるためには、一度死ななければならない。 例えば、そうだな…計画を立てて何かを 遂行するというよりも、行ったことの無い場所に あてもなく行ってみたり、やったことのないことを 勇気を出して試してみたり。 こういうことの方が重要だ。未知や課題。 ある意味で受動的な変化が必要なんだよ。 自分が何をしたいのか、それすらわからないのなら フォーカシングをしてみると良い。 願望のない人間はいない。 しかし大抵は、胸の中の真の願望と、 頭で思い描いた「べき」の願望はミスマッチだ。 やりたくないことをやっても、 長続きしないというのは道理だ。 コミュ力が上がる、すごいエネルギーが体から湧いてくる。 不安が常に軽減される 本質的な身体能力が上がる方法があると聞いたらどうしますか? http://goodlg.seesaa.net/article/455861872.html >>482 >>483 言葉に中身がない。空虚。羅列.. 目的がない。 思いのほか賢い人が居るようだから、少し質問でもしてみようか。 梵天勧請。 修行の末あらゆる執着を手放し、涅槃の境地に至ったはずのブッダ。 その偉大なる解脱者がどうして、尚も弟子を取り、それを教え導き、 あまつさえ広く民衆を教化しようなどと考えたのか。 結局、執着しているではないか。一体何への執着の為に、未だ彼は 本当の解脱者になれず、俗世にしがみついているのか。 この問いに答えられる人は? >>489 それは執着ではなく、大いなる愛だからですよ。 自他がなく心身から自由なとき行為に執着はないよ 心身がただ心身のままに継続するだけ それがわかってない他人からみるとその人の執着に見えるだけ 悟っても肉体はあるしそこに心身があるからその活動は継続する それはただの心身で自分ではないけどね クリシュナムルティは悟っても個性は残るという言い方をしてたね それからごんは自分が完全に悟るまであまり他人を試さないほうがいいだろうね キリストはここから戻っていったのだと、 だから救世主と呼ばれるのだと、 そこで大感動するのです。 弟子は師と同じ道を歩むのです。 「もはや、わたしはあなたがたを僕と呼ばない。友と呼ぶ。」 男性において不全感は野心を生み出し、 それによって悟りに至るものだ。 女性において不全感は嫌悪を生み出し、 それによって悟りに至るものだ。 これは不全感が生命の木の、枝葉で作用するか、 それとも根幹で作用するかの違いである。 男性の不全感は遠くに行こうとするが、 女性の不全感はまとわりついているのだ。 >>475 476 私の大事な人からのメッセージだと思いました 書いてくださってありがとう >>489 まとわりついていた執着と一度すべて払い落とすことで 自分自身が本来持っていた大切な執着を見いだせたんじゃないですか? 執着を手放すのは最終地点ではない。 >>483 >>482 無計画で動くことは今私が求めている刺激だと思います。 とことんやりだすと強迫的になる癖があって、他のこと全部どっかいっちゃうんです。 だから、ぐだぐだしてるときも気分転換とかがうまくできずに調子が狂ったり。 うむむ、確かに願望のミスマッチは考えられます・・ 息抜きしつつ、一度見直してみます。。 >>496 何かが伝わったのなら、それは良いことだ。 >>497 不要なものが削れ落ち、必要なものが残った。 控えめだが的確な捉え方だ。 >>498 走り続ければ良い。壊れない限りは。 壊れたら止まるしかない。止まりたくはないものだ、誰だって。 ここの議論は、 園児が必死に、かっこつけて走ってるので、 親から見えれば、危なっかし限りですね。 子供は駆け回るもの。 それを止めようもない。 そして時には命を落とす。 が、それを止めようもない。 結果ばかり見ていると、今を見失う。 不安か。怖いか?それで良い。 正味我々は、いつでも死に瀕しているのだから。 だがそれを、止めようもない。 自分を手放すということは、女性より男性の方が簡単だ。 男性は元々枝葉の生き物で、自己の根幹に興味が薄いからだ。 だが、女性に「手放せ」と言おうものなら、大変な抵抗が 待っていることだろう。 同様に、余計なことを忘れることについては、女性の方が簡単だ。 女性は元々根幹の生き物で、枝葉のことに興味がないからだ。 一方で男性に「いちいち気にするな」、「今はそれは忘れろ」と教えても 男性は中々そうはできないのだ。 女性は許してやることが大事だ。 男性は賞賛してやることが大事だ。 どうだ、簡単だろう。 この至極簡単なことが、人を育てるコツなのだよ。 >>504 本当に、そうですね。 何故、わかるのですか? >>502 男性の良さと女性の良さを両方手に入れることはできませんか? そのような無謀なことはしないほうがいい? >>505 肉体の構造と、精神の発達の仕組みから。 このようなことは医学を通して、学者たちが長年研究してきました。 >>506 両方の良さを手にすること。正にそのようでなくてはなりません。 一人の人間は皆、肉体の中に男と女を住まわせています。 男は智慧、思考、適応です。女は創造、感情、活動です。 人間の背骨は女、その肉と手足は男。 どちらも理解し、どちらも上手く使いこなせているそういう人こそ、 完全な「自分自身に出会ったことのある人」だと言えるでしょう。 >>507 ごん...馬鹿です。馬鹿の答えは、漫才のネタです。 ただ、間違ったことを書くのは、将来に問題を生みます。 ゴンは投稿する時、自分の高慢と馬鹿を自覚しなさい。 >>507 男と女の関係は、 @ 男は女を、力(腕力)で奴隷にとして支配し、肉体を求めることで、 満足を得ます。 しかし、これでは満足が得られるのは1頭になります。 他の雄は、女を「腕力で支配しようとしてもより強い雄(男)に殺されます。」 このため、隠れて女の気を引く、「女の心の奴隷」になることで、その快楽を求 めようとします。 A 女は、男を肉体で引き寄せますが、強い雄が自分にとって危険でもあるので す。また強い雄は、若い肉体を好むのです。このため、年齢が行くと 男を引き寄せることができなくなります。 自分にとって、安全に男を引き寄せようるため。 化粧、若い肉体の保全、色気が必要であり、女の闘争の武器になります。 また、愛という言葉をちらつかせ、自分に危害が及ばないように 男の心を矯正し、女は「愛」と「美」を追求するで、 自己愛を達成しようとします。 ◆ 女の男選択 男の中で、女から見て 金、権力、知性のない馬鹿男は この世から無視される。 こういう弱者の生きる道は、 「女の愛の奴隷」になって女に好かれようと必死になる。 しかし、多くの女は、金と権力に引かれるのです。 簡単にいうと、軽の車より、フェラーリに乗るのです じゃあ問題ないじゃん。 馬鹿男が愛の奴隷になっても、結局女には 相手にされないってことでしょ? そのまま放っておけば馬鹿男は遺伝的に駆逐されて win-winじゃないか。 やぁ、素晴らしい。世の中って上手くできてるね。 >>511 システム問題は、もともとないのです。 自分と社会との関係で、 自己愛の損得をどこにおいて、社会と妥協し 選択しながら、自己の欲望を達成する、 個々の自分にとってもっとも有利であるかでしかないのです。 これが、全体として天国の環境を作るのです。 じゃあ俺は好きにやれば良いってことだな! やっほい!! >>513 神でも、あなたに命令はできません。 いかに自由にいきるかが、人間の運命なのです。 人類。賢い猿。論理の終焉。 「人類が存在しなければいけないことの論理的理由は?」 「この宇宙が存在しなければいけないことの論理的理由は?」 「あなたが存在しなければいけないことの、論理的理由は?」 女にとっては容易く、それでいて男には難しい問いがある。 論理の終焉。論理の解体。論理の変形。論理の新生。 両性的な思考。次の時代の新しい知性。 >>517 答え 人類...道具や材料があっても使う人がいる。 宇宙...存在には空間。認識には確定がいる。 あなた... 一人ではなく、複数でないと機能しない。 >>519 人類 なぜ使わなければいけないのですか?使わなくても良いのでは? 宇宙 認識する必要はありません。 あなた 機能しなければならない理由は? >>520 反論する場合は、よく考えてからにしなさい。 考えるまでもなく、あなたには答えられないことが わかっている。 あなたに限らないよ。人類の誰も、この問いに論理的な 答えを提示することはできない。 >>522 下からは、上はわからない。 馬鹿もほどほどに... >>523 答えられたら認めてあげるよ。無理だけどね。 生身で大気圏外に行ける?行けないでしょ。それと同じ。 この問いには人類の誰一人、答えられない。 そういう仕組みだから。 子供でもわかる道理さね。 >>524 遊びたいだけなら..一人でどうぞ... >>525 最初からそう言ってるだろう。 君に、俺を分からせる技術は無い。 無意味な口出しは止めるんだな。 正しくは人類に答えられるか答えられないかは人類にはわからないであって 人類には答えられないというのは間違い 応えられるか答えられないかは人類にもごんにもわからない >>527 観測技術の問題として捉えればそうだ。 しかし私が言っているのは、論理という概念の構造それ自体に限界が あり、論理では回答不能な課題を創出することができるということだ。 つまりこの問いは、構造上絶対に、論理的に回答することはできないんだよ。 人類であろうと、宇宙人であろうと、異次元人であろうとね。 「この世界が存在しなければいけないという理由は?」 論理的に回答不能かどうかを論理的に回答不能でしょ 絶対はないという論理に絶対はないと絶対に言えるか?というのパラックスと同じだよ 目で目を見ることはできない 人類に人類が何であるかはわからない だから人類に答えられるか答えられないかはわからない 悟った人のようにもはや人類でなくなったらまた話は別だけどね ごんがもう少し我が取れたらわかるよ >>530 そして私たちは深刻なパラドックスに落ちてしまう。 人類に答えられるか答えられないかはわからない、 「かどうかはわからない」。 人類には答えられないというのは間違い、というのは間違い。 というのも、実は間違いだ。ここから先は無限退行して、 結局最初から何も言っていないのと同じことになる。 ほら、賢いでしょ?私はこういう無意味なトートロジー、 ドングリの背比べが実に好みでね。 だけど今は、そういう話をしているんじゃない。 「この問いには論理的に回答できない」、つまり 「この問いに論理を差し向ければ無限退行に陥る」、つまり 「この問いに対して論理は無力である」 伝えたいことはここまでで十分だ。 まあ好きにしたらいいよ 言いたいことがあるうちは言ってしまうしね 人間の猿知恵など所詮幻想だ。 言葉と鳴き声の間の境界線は実在しない。 私たちは、ただその場の感情に浸って音を発しているだけ。 論理は美しい嘘だ。美しいが根本的に何ら意味を持たないそれは、 私たち人類の中における「男性」という存在と全くよく似ている。 神は論理の中で死んでいる。だが、本当は死んだわけじゃない。 ただ単に、人間の小さな論理の世界がまとわりつくのが うっとうしくなって、それを脇にどけただけだ。 他人の自意識を操作し、精神を絡め取る。 そんなものはただの技術と知識だ。 重要なのは動機。その技術を何に使うのかということだと思う。 「存在している」なら 「存在する理由にに、必要な条件を考える」 「存在することで起こる問題を考える」なら意味があるが、 すでに存在しているのに、 「存在しないければならない理由」を考えて何になる。 自慰行為 論理というのは、 パラソックスにならないように考えることであって パラソックスを考えて遊ぶことではない。 >>536 半分は正解だね。矛盾を回避しなければならないが、 論理そのものが矛盾を抱えていることに気付かねばならないよ。 ちなみに、ファンタジーの世界は矛盾無しに拡大していくことが可能だ。 設定を追加すれば良いだけだから。 普遍的な真実との整合性を検討しないとしたら、それは論理というか、 個人的な幻想、妄想の類いだ。そんなことを言っていてもしょうがない。 まあ、やるなら一人でどうぞ、と言った所だね。 >>535 そうだ。論理など無意味な幻想だ。 既に存在している。 論理はその事実そのものに対して、何も言うことがない。 せいぜいそこにコテコテと別のものをくっつけていくだけ。 コテコテくっつけていくだけ。それはただの遊びだろ? 君がやっている知識の体系化だってそうだ。ただの遊びだよ。 俺がやっていること。これももちろんそうだ。ただの遊び。 だから、そんなことに大げさな、自分自身の知識体系なんて 必要ないな。意味無いもの。 体系化と、遊びとは大違い。 自分ですれば、能力差は歴然。 簡単に見えても、あなたには不可能ですよ。 あなたが、体系化しようとしたら、 A4で最低で1万枚以上かかりますよ。 ひっとすると10万以上書いても、きっとできないでしょう。 1万メートルの上からみれば、下の様子は人目でわかるけど、 下からみても、山の上の様子も自分の周辺もわからない。 あなたも、神の真理という法則を、 自分の経験と心の中から「100000」ほど抽出し、 立体曼荼羅として自分の魂を中心にして、 意識の世界に配置してください。 そうすれば、私の言葉の真偽が解るでしょう。 >>541 下から見ても上の様子はわからない。その通り。 だから、そんなことを気にしてもしょうがない。 小池のカエルに、人間の貴族の生き方を説いて何になる? カエルはカエルのペースで進化していくのだから、放っておけば良い。 自分のことをしっかりやるだけだ。 上とか下の世界を気にする時間など、無駄なだけだ。 >>540 全くもって、私には不可能だ。 一生やらないだろうね。興味も無いし。 それで、そうだな、君がその体系化とやらで貴重な時間を 無駄にしている間に、私はこの世の素晴らしい物事を、 様々味わい尽くすこととしよう。 では賢者よ、そういう役割分担でよろしく。 体系化は君に任せたぞ。私は遊びに行ってきます。 愛は全て。 愛こそ世界の存在理由。 愛より大切なものなどない。 ◆ 愛という魔物の世界 愛は麻薬です。得に相手の思考を停止させるには最も効果的です。愛に助けられ、愛に癒され、愛を求め、やがて愛に溺れる。思考停止。 必死で生きるべき魂が、 生きる屍となって、天国という牢獄で、 愛の奴隷として永遠に暮らす。 愛を癒しの手段として理解し、 捉えること自体が間違っているように思える。 愛の目的は癒しではなく、 相手を理解しようとする意思であり 相手に関心を持とうとする意思をいう。 その行為によって、高慢な魂は、勇気を与えられたと錯覚し、 弱者は自己愛が癒されたと錯覚するだけである。 愛を唱える連中らは、 この1年で、 カンボジアにいくら献金したのだろうか? 国境なき医師団にいくら献金したのだろうか? 献血を何回したのだろうか? 反戦の平和デモに参加したのか 今まで、何回ボランティア活動に参加したのだろうか? また、老人ホームの慰問に出かけたことがあるのか? 口先だけの愛ではなかろう。 自分は霊性が高いと、自慢している愚か者。 自分の嘘に気づいているのか? 自分の自己愛の醜さに、気づいているのか? 自分は霊性が高いと、自慢している愚か者。 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが、人間を永いあいだ迷わせてきたようです。 実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、 それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それがすべてのカギです。 祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い選ばれし者の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いというケースがいくらもあるのです。 問題は何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。 愛は優しさではない。 愛は感情ではない。 愛は善でも悪でもない。 愛は存在の肯定。 愛は酸素。それは原理。それはエネルギー。 愛は、この世界の存在理由。 どんなに辛く苦しくても どんなに理不尽に打ちのめされても 醜くても、絶望しても それでもまだ、「生きて」と あなたの背中を押す何か。 日常生活において霊的真理の意義を生かした生き方をしていなければ、自分たちを「スピリチュアリスト」と呼んでみても何の意味もありません。 大切なのは、自分たちはこういう者ですと名のることではなく、実生活において何をしているかです。 世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人たちは一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。 愛の意識で、人間のが変えられるのなら 戦争は起こらないし、続いていない。 愛で弱者が救われるのら、飢えで死ぬ人はいない。 口先の愛。自己愛、自分が尊敬されたい愛なんて...虚しい 真理の言葉によって、 他人から批判されることを恐れるな。 愛は感情ではない。 愛は優しさではない。 愛は善も悪も生み出す。 愛はあらゆるものを生み出す。 素粒子の存在を支えるもの。 ビッグバンの基礎となったもの。 時間を継続させるもの。 この宇宙を、今正に創造し続けているもの。 愛は感情ではない。 愛は存在の肯定。 それに寄り添うこともできる。 そうすれば豊かな満たされた世界が訪れるだろう。 それに刃向かうこともできる。 そうすれば、やがて飢え縮んで、世界から 消え去っていくだろう。 愛は観察。愛は疑問。愛は好奇心。 愛は開かれた心。愛は自由。愛は共感。 愛は共有。愛は満たすもの。 人に与えることで、神はあなたに与える。 人を愛することで、神はあなたを愛する。 あなたは、愛されている。 あなたは、次の瞬間も、存在する。 あなたは、この世界を愛している。 だから手放せないのだろう? だから、旅立たないのだろう? 愛は全て。愛はあなた。愛は満たすもの。 あなたの存在を、形作る。 愛とは、この世界の存在を肯定するエネルギー。 また私たちは、人がそれに寄り添う態度のことも 同様に「愛」と呼んでいる。 そして、存在を否定する態度を「憎しみ」と呼ぶのだ。 ごん..やっぱり馬鹿です。 神の真理では、 愛は欲望であり、砂糖のようなもの。 騙された易い「ごん」のような馬鹿に、悪魔が好んで利用する。 友よ、同感だ。 しかしあなたは愛について語っているのではなく、 嘘と不善について語っているのだ。 愛はそういう次元には探せないであろう。 なぜならば、愛はまさに、善と不善の全てを包み込んで、 この世界の存在を肯定しているからだ。 西の国では今日も子供が奴隷になり、 東の国では今日も女が売られている。 神はその全てを知っている。 知っていてやっているのだ、もう140億年。 神は言う。「在れ」と。 だから私たちは、生き、喜び、悶え、苦しみの底に落ちる。 愛はその全てだ。神は言う。「在れ」と。 神は、その全てを知っている。人間一人ひとりの、 私のまたあなたの、小さな胸の内の全てを。 神は恵まれた人の喜びに微笑むだろう。 そして、今正に飢え死ぬ小さな子供の身の内にあって、 その絶望を共にし、その冷たさに血の涙を流すのだ。 もう140億年やっている。 それでも、「生きて」と叫ぶ。 だから君は自分や他の人たちを、 大切にしなくてはいけないよ。 もちろん、君にできる限りの範囲でね。 >>564 貴方が言うのは愛情だ、愛情は欲望と私利私欲なる悪魔のような魅惑だ、それは肉欲であり真理ではない、 愛は ただ在るだけだ。 肉欲に愛などない。 人生目標として、 愛の追求という愚かな偶像(悪魔意識)は持つな。 愛と愛でないものを分けるのは愛ではないとクリシュナムルティが言ってましたな >>574 クリシュナムルティは 死ぬ前に 私の話しを聞いても悟れないよと欺いたんだよね。 高名なグルであるラマナマハルシも 「来て去る神は神ではない」と述べた。 生憎彼は、すでにこの世から去ったわけだが。 マザーテレサについても同様だ。 彼女は信仰を具体化したが、その裏には キリストへの絶望と心の渇きがあったことが 後に明らかになった。 クリシュナムルティは病的な嘘つきだった。 バグワンラジニーシは最終的に、アメリカから 強制退去させられた犯罪者だった。 現実的に考えて、ナザレのイエスは不義密通によって 生まれた子供であっただろう。 ブッダは自分の国を守らなかった。妻も民も、 彼の身勝手な知性主義の犠牲となった。 人は自分の目に見えるものだけを見ようとするものだ。 不毛だよ、こんなことは。 何を信じ、何を解するか。 それは私たちの心に委ねられているのだ。 もしあなたが賢い人なら、心を開いておくがいい。 それは実り多い。 だが自分の知る事実と他人の知る事実に 食い違いが あるからと言って、それを一致させようなどとは 思わないことだ。 何が真実で何が偽りか。それを自分自身の中で 見極められたなら、それだけで十分ではないか。 EO氏イズム...びっくり、何これ.. こんな言葉あるの。。知ってる奴は、病気ですね。 >>582 あんたも充分 病気だよ、自覚なしか。笑笑 EOというよりダイジっぽい 別にいいけど でも道半ばの人が惑うような言い方はしない方がいいかな 愛を否定するものは 真実の愛に達していない証拠だ。愛に到達できたものは愛を決して否定しない。何故なら 愛そのものが実在でそれ以外は何も無いのだから。 わたしもあなたも無い、無いも無い、だが、愛だけが在る。 ちょっと聞いていいですか? 愛が在るということを、ごんさんと名無しの方が使用していますが これは何かの本に書いてあったのですか? >>588 体験でしかない。 体験でしか説明不可能、 霊的太陽が向かい入れたとき 貴方は消え去る。 だが、また再び 夢に引き戻される、肉体と言う 檻がある限り。 >>589 どもです。 体験ですか でも、体験からなら同じ「愛が在る」という言葉にで表現するとも限らない気がするんですが 体験するとみなさん愛が在るという言葉を使用するんですかね 別の表現方法も考えられる気がするんですが >>590 閃光な白光体とでも言えるかな、 ダイヤモンドの原石とでも言える。 愛という言葉の定義も人それぞれ違うし、愛が在ると言っても同じことを言ってるのかわからないよね 別に愛という言葉を使わなくてもいいし、愛が在るとき愛が在るなんて言わなくてもいいかもしれない >>591 なるほど。ありがとうございます。 変な質問してすんませんw >>592 ネットの文章だけじゃ本当にわかってるのか?ってのが率直なところです。 必ずしも言葉にできる人だけが知ってるわけでもないでしょうし。 わかってないで言ってる人も多いでしょ 他人の言葉を自分のことのように言いたかったり、自分の願望から言ってしまったり その人の体験、境地からその言葉を言ってるとしても、体験境地にも違いや深さがあるよね 体験が浅いのに言ってしまってる人の言葉は、そこを通過してる人にはわかるもんだよね 今も、NHKでシリア難民の放送があった。 多くの子供が殺されている。 愛情主義者ども、お前はどうするの... 神様に祈って、解決すればいいのに... わたしは、愛に包まれたと喜ぶ時間があったら、 虐殺された子供の魂を、天国へ成仏させてやれ... 無意味な自己愛を放棄しなさい >>596 それは 私たちがどうこう出来るものでもないし、関与するものでもない。 そう見せられて 何とかしなければならないと 思い込ませられているだけだ、 貴方はその現場をその場で見て来たのか? それこそ 無惨だ、可哀想だ、と言う自己愛ではないのか?だったら、まず 自分を救ってから言え。 >>588 万教同根という言葉がある。 教えは数多あるが、真理はひとつ。 あらゆる宗教道徳神秘は、突き詰めれば 同じ所に行き着く。 愛については、キリスト教に知見が多い。 聖書にもある。預言者が神に名を尋ねると、 神は答えた。「私は"在る"というものだ」 ヒンドゥ教の経典の中でも愛は重視される。 ヨーガの偉大なグル達は愛を「あるがまま」という 言葉で表す。 仏教徒は欲望を嫌うので、愛を隠そうとするが 最終的には 様々な教えが愛について語る。 それはつまり、真理だから。 おや? 仏教徒も最終的には入鄽垂手ということになる。 まあ方便としては、そんなことはない、と 言わざるを得ないが。 さまざまな経典を読みあさり、それをぺらぺらと説き散らして高僧ぶってはいるが、 内心はさながら夜叉。 常に妄念妄想のために心は騒がしくうるさいばかりである。 ちょっとした議論や、日常の吉凶栄辱にも煩悩、邪見が次から次へと競い起こってくる。 これらはすべて、取るに足らぬ小見にうぬぼれて、聞きかじりの学問が少しばかりあるのを誇って、 それを大それた境地と思い上がっている連中の成れの果てである。 >>600 素晴らしいじゃないか、うぬぼれと高慢だと言う思いを貴方にみせてくれている。 その概念が貴方の中にあると言う鏡の役目を果たしてくれている。 それに気づいていればいいだけだろう。 何かそこに問題でもあるのか? 俺とお前では、天と地の差があるな。 悔しかろ?だが事実だぜ。 >>604 俺とお前ともは、天と地の差がある。 知識はゴンが上ですが... >>598 宗教のlことよく知らないので助かります。 どれも行き着く先は同じなんですね。 ◆ 本物と偽物の世界とその違い 死後の世界そのものが、非常に疑問です。 「愛」「死後の世界」「天国」「地獄」これらはすべて 人間の「欲と支配」「恐怖」「エゴ」のよって作り出された 思いの濃い、妄想世界。 「神の真理」の言葉は 「未来」「可能性」「自由」「制約」「工夫」「共同」「成長」「慈悲」「関連」 によって作られた、創造と自由に満たされたな、思いの純粋な無色透明な世界。 この違いわかりますか。 つまり偽物言葉を使う人は要注意です。 ◆ 嘘をつく利益と損失 自分につく嘘は、一生自分を苦しめる。 神につく嘘は、無意味でなんら効力がない。 他人につく嘘は、場合によって利益を得るが、得た利益は短期的に消えやすい。、 その嘘がバレることから不安が生まれ、嘘がさらに嘘を生む肥大化が起こる そして、 逆に他人から与えられた真理の言葉さえ疑うようになり、 そのことで、生じる無駄な時間の損失は、非常に膨大になる。 >>608 貴方は本物と偽物と区切る時点で二元の視点で分離して物事を見ている、それぞれの認識の差はあれど、そこに区切りなどないんだよ。 天国と地獄の境もないの、 >>609 これも思考でものごとを判断している。 ジャッジは二元の視点だ。 損失だろうが、利益だろうが、嘘だろうが 誠であろうが、全てが学びだろ。嘘があるから真実があるんだろ。騙されて 本物を知るんだろ? 分けようがない。判断するのは思考だ。 >>610 本物、偽物という言葉を定義することを恐れる、おバカさん。 二元論を否定する自分に酔っていることに気づけ。 その心は、悟り、空、中道という言葉によって支配され それに反することを恐れている。..... 3流の悟りとは、悟りという言葉に恐れ、そこから離れる自分に恐れる。 ◆ 認識という真理を知れ 考察とは、2点の意味の対峙によって意識され、 3店の関係によってその性質’存在)が明らかになり、 4点の三角錐によって3次元の立体構となりることを知れ。 ◆ 認識の真理を知れ 意識を高めることは無になることではない。 無や空という言葉、 現実の実態は、いつも変化することを述べたに過ぎない。 実際の思考において、その変化がかに生じるかを 誰一人、(道元さえ)明らかにできなかった。 そのため、間違った欲望意識が、幽霊のように彷徨う。 すべては、1 に始まり 2 によって、互いに引かれ、反発し 3 によって、一つの関係、弱い結合と強い結合が生まれる。 4 によって、はじめて空間で機能が生まれ 多次元の関係によって、その価値は決定する。 価値の変化は、この結合の崩壊と再結合によって生まれるもので、 基準点そのものは消滅しない、 囲碁を学び強くなると、この意味が思考体験として認識できる。 横暴を振るものに対しては、横暴が許される。 それだけだよ。 ここは匿名掲示板だから、その場に相応しい コミュニケーションというのはある程度定まってくるだろう。 リアルと5ちゃんねるは違うし、そうだなぁ、 例えば5ちゃんねると爆サイも違うよね。 相応しい場所を選びな。君がよほど好きものでないのなら。 他人のことなんか気にしてると、時間を無駄にするよ。 >>610 天国、地獄.. 人間の欲望と恐怖が作った言葉... 存在しない言葉は、真理の考察から除外せよ。(創造の場合は使用OK) >>613 ちゃんと読めよ。二元論を否定してなどいない、貴方の視点が二元から来ていると言うだけだ、それに気づけと書いただけ。 無とか空は言葉ではないぞ?善悪と言うのは 全てが学びであって、判断するのは思考であって 全て許された世界なんだ。 わかるか?だから 良いも悪いも境界線と言うのはないの。頭が堅いぞ。 わかるか?とは書いたがわかれとは言ってないぞ。笑笑 貴方の視点が二元から来ていると言うだけだ、それに気づけ >>623 頭が堅いぞが二元と言いたいのか?私が頭が 柔らかいと言うならそうだろうな。 だが そこにも表裏一体で少しも別れてないだろう。 頭が堅い、柔らかいに 何の差も無いだろう。 頭が堅いのが悪か?頭が柔らかいのが善か? じゃあ 頭の堅い基準てどこから? 頭が柔らかい基準てどこからなんだ? >>623 >>624 個々の価値観で、個々が言い合っている。...無意味 二元論の是非を。三元論、正反合は三元論の一部でしかない。 価値という意識の基本原理を議論しなさい。 認識とは、言葉の曼陀羅であることを考えなさい。 >>626 価値観なんてないよ。言葉のキャッチボール。 意識は価値じゃないしね。 具体的な修養方法。 呼吸について。 吸った空気を足下側へ押し付けて、下腹を膨らませる。 次に下腹部を凹ませながら、それを吐き出す。 すると随意的な筋肉で呼吸をサポートする形になる。 精神が動揺すると、人間は胸で浅い呼吸をするようになる。 酸素の供給量が減り、重心が高くなって、身体が落ち着かなくなる。 その逆。重心を足下側へ降ろしておく。 一日数回意識して、下腹部で呼吸すると良い。 すぐにクセが付くだろう。 胸で吸う、下に押し付ける、腹を凹ませる。 この3ステップ。 あまり長い時間呼吸を止めるのは良くない。 自律神経のバランスが乱れるから。 急性期の統合失調症へのアプローチについて。 キリスト教的な枠組みで考えれば、有益と思えるのは 悪魔祓いだ。恐らく、外部から意図的に超自我を増強し 優越させることで、それを人格の統合の核として 仕立て上げることができるのではないか。 (その為には恐らく、恵みをもたらす地母神である母親の 偶像を断ち切る、という苛酷な試練が待っているだろう) 仏教的なアプローチでは、軟酥の法がすぐに思い付く。 が、仏教の修行方法は根本的に健全さというものを 前提に置いているから、精神病にまで達した 心理構造の調整にはあまり向いてはいないだろう。 だが思うに、悪魔祓いは神の権威が一般的に容認された 男性優位の社会でしか通用しないものではないか。 その儀礼はつまり混沌とした精神世界の中にキリスト教的な バランスを持ち込むということであり、首尾よくそれを 取り込めたとしても、後にその精神内界の秩序は改めて 外部の世界との相互干渉に晒されることになるからだ。 そして、社会の方がそうした超自我イメージをしっかりと 優越させた状態に保てていない限りは、遅かれ早かれ 「悪魔」は力を取り戻してまた地の底から這い上がり、 その大地の亀裂が世界を再びバラバラに 砕いてしまうだろう。 そこで今私が考えるのは、超自我を増強する 補強剤としての「神」イメージをより「自然」な形態へと 更新し、裁く神ではない別の神による悪魔祓いの形態を 作ることだ。 自然なというのは、生命を否定しない形での、 という意味だ。(そもそも生命を肯定できないことこそ 前時代の宗教の欠点ではないと私は確信する) だからそれは、もはや「悪魔」祓いと言うべきではない。 それはただ単に、折に触れ見直すような、賢明で、 幸多い何かだ。 超自我は高みに居るが、等身大の個人を強引に 引き上げたりはしない。そうではなく、待っていてくれるのだ。 失敗も成功も、喜びも自業自得の苦しみも、全てを 包んで「それで良い」と見守っていてくれる、そういう 超自我イメージを新たに創造すべきではないか。 それは宗教家の観点として言えば、断じて身勝手な 創作などではなく、私たちの倫理観と精神構造を より真理に、真実に近付け、進化させるということなのだ。 × 生命を肯定できないことこそ前時代の宗教の欠点ではないと ○ 生命を肯定できないことこそ前時代の宗教の欠点であると 真にハートチャクラが開いてるひとは イエスキリストの様に 何もしなくても 病は、臨在と接触するだけで治ります。瞑想してヒーリングが出来るようになったひとは沢山居ます。 それはテクニックではなく、全て そのひとの波動からです。 それから 真に悟ったひとは悪魔を寄せ付けません。闇は光を嫌います。臨在の中に闇は消滅され、病や不浄なものは消される。 いや、真に悟った人はもっとすごいよ。 指先一本触れるだけで、この世の全ての闇を消しちまうんだ。 え?そんなすごい人が今どこに居るかって? そりゃもう、ある時「この世の全ての闇よ、消えろ!」と おっしゃってな、杖かなんか振り回したんだ。 そしたら驚いた、そのお方自身も、きれいさっぱり 消えて無くなっちまったのさ!ハ、ハ、ハ! 虚像で膨らませたものなんて、 最後は萎れるだけだろう。 中身のない風船なんだから。 それはアーバンレジェンドなんだよな。 それはオカルトとしては、まあ合格点だろう。 でも宗教というのはその正反対で、中身、つまり 個々人の手足身体の感覚が、外側の辻褄より 優先する世界。 そしてスピリティズムも、どちらかといえば そうした個的感覚から始まる精神文化の一形態。 ここのみんなは、オカルトは求めていない。 風船は、楽しくない。 この地球で最も賢い人間に、私は問いたい。 「この宇宙が存在しなければいけない論理的な理由は?」 人類はまた、この単純な無知を 学びなおさねばならない。 宇宙を認識しようとするのは、人間は... 人間の認識は、部分的な論理による整合性によって、真理を獲得しようとする。 真理への理解とは、言葉によってなされ、 体系的、必然的な関係集合で行われる。 しかし、思考という行動)は、外部、内部から刺激によって その感性は無条件に無意識に振動し、自己認識は混乱し散乱する。 この混乱を再度不快と感じると、思いとしてまた整えようとする。 宇宙はこの散乱と集まりを繰り返すことで、 人に対し、論理のエネルギー(刺激)を与えている。 さて、どうだ.. お前の無知に気づけたかな? ◆ 宇宙の刺激と人間の思考 宇宙を認識しようとする人間は... 部分的な論理の整合性によって、真理を獲得しようとする。 そこには、近未来的な損得によって評価決定が行われる。 真理への理解は、言葉によって、 体系的、必然的な単語の配置関係で行われる。 思考は、外部、内部から刺激によって 感性が無意識に乱され、認識の関係も乱れる。 この乱れを不快と感じ、再度、整理しようとする。 宇宙エネルギーらは、乱れと集まりを繰り返す。 この繰り返しによって、論理思考のエネルギー(刺激)も大きく影響される。 そんなに沢山書かないと ダメなのかな? 別によいけどね。 ◆ 分霊(分魂)と生まれ変わりでの成長過程 シルバーパーチの分霊と生まれ変わりという記述があるが.... 神智学の「モナド」という魂は、さまざまな波動体の中心点として存在し、 その周囲に様々な波動を引き付ける。これが、魂の個性と霊格になる。 個々の魂に周囲の集まった波動点は、 「個々の概念波動」一部としてをも同時構成する。 これが霊界の多次元で、同時に起こり変化する、 中道、愛、慈悲、などの曖昧な概念は、 このような発展過程によって、人類全体の共通概念として成長する。 言葉の概念成長は、時間と時代とともに変化し成長し 全世界の概念として、三次元の物質社会に影響し、人類全体の意識が変化する。 転生してきたって噂のあの子は、 こんな風にあっさりと言ってのけたよ。 「宇宙が存在しなければいけない理由? 僕が答えさ。それ以上必要ある?」 彼の噂の真偽はさておき、私はその答えが好きだった。 幸せに生きれば充分だと思いますが それではダメですか?先生? 良いともさ。幸せに生きることだよ。 だが中々、心からそのように思えないのが 人間だから、修行するんだろうね。 或いは、という迷いがなくなるまで。 もっと、という不満が満たされるまで。 もしかしたら、という不安が消え去るまでね。 皆さん意識しなくても 一番の望みは幸せに生きることだと思います。 その為に沢山の経験を積み重ねて。 >>651 経験すれば、よくなる、幸せになるのか?.. なりません。これにも気づくべきです。 経験したことを、どのように感じ、解釈すべきか? これが生きるテーマであり、各自の問題なのです。 このために宗教が存在し、哲学があるのです。 勉強すべきは、この解釈の正しさと多様性なのです。 自己探求には、基本の方法があります。このことを知るべきです。 自己流は、悪い結果を引き寄せます。 人生の問題は解決す、べて自己解決が基本であり、自己責任になります。 ただし、自己責任はカルマでの罪や罰ではないのです。 @ どのような結果であっても、それを受け入れる気持ち A 神によって導かれるという、安易な選択の拒否意識。 これが、ツインソウルや指導霊から導き、愛の妄想という自己愛を引き起こし 悟りと霊格追求いう超能力を求めることになるのです。 解釈勉強こそが、霊性を高めるという訓練になるのです。 命に欠けている。 一生もひとごとのように過ぎてく。 それではだめだ。 私たちは欠けている。 人間になりたいピノキオのように 「有るはず」の「無いもの」を手に入れたい。 https://youtu.be/eq8r1ZTma08 闇を知り光を知り、それらの誘惑に負けることなくそのすべてを超克したい。 どちらか片方だけではだめなのだ、と最近考えています。 己の中の獣と戦わず、命じることができるようになりたい。 「自己」のあるじであることを極めたい。 そして最終的にはその舟をも手放したい。 フランクルは言っているよ。 人は人生の意味を問うが、その有様は矛盾そのものだ。 むしろ本当はこの世界、その人生そのものが、 君が何者であるかを問うているのだから、と。 君は自分を、獣を飼いならす主人だと思っている。 だが本当は、君は主人ではなく、飼いならされる 獣の方なのかもしれない。 或いはそこには、主人など居ないのかも。 ただ一匹の獣だけが… 言葉に囚われてはいけないよ。 言葉は影なのだ。それは作られた世界だ。 心は言葉より前に存在している。 獣を飼いならしたければ、獣について学ぶべきだよ。 猫は何を感じ、魚はどんな心を持つ? クラゲは「海」を知っているのか。 ミドリムシに、心はあるか? ごんべさんサンキュー なんかこう、今はかたくなになっているみたい。 理想についていけなくてきついんだ そうだね。理想は迫害的なものだから。 それは君を否定しているんだよ。 だが本当に君を否定しているのは、 ある理想を自己の理想たらしめている、 君自身の飢えた心なのだ。 まあ、苦労はいずれ報われよう。 仮に君が立ち止まっていても、世界は動く。 兎に角なるようにはなる… 内在する神様は素晴らしいです。 癒しの力は他の何にも 負けません。 生まれつきの自己治癒能力は、何億年という生の果て。 それは確かに、とてつもない力を持っていることだろうね。 過去の覚者の方々によれば、サマディは長ければ長いほど良いとされています 俺ももうこんな歳になってようやく気付いたんだが、 金持ちになりたい奴、有名になりたい奴っていうのは そこら中にごまんといるものだ。 そんなのは探すまでもない。 まあ、人間の普遍的な欲望なんだろうな。 でも、悟りたいという人間はごくごく一握りだ。 悟りたいというか、世の中を見極めたい、自らの 存する意味を見定めたい、という奴だな。 そういう人間は本当に少ないよ。 実際のところ、金持ちになるより悟りに至る方が簡単だ。 だが人は思うんだな。「悟りを得たら、私も何事かの 第一人者として、一端の権威として、もっと 有名でお金持ちになれるのだろうか?」とな。 だが皮肉なことに、金や名声は人を悟りから遠ざける。 また一方で、金や名声は心を飢え苦しませ、 決して虚ろな心根を満たすことがない。 しかしそれでも、それを求めるようにできておる。 人間というのはな。これもまた不思議なことよ。 愛というのはね、水のようなものですよ。 私たちはその中に浮かんでいるのだけれど… それがあんまりにも自然なので、かえって わからなくなってしまうのでしょう。 愛は与えられるものではなくて… それはただ気付くべきもの。 それは満たしているもの。あなたを。この世界を。 つまりそれは、あなた自身の全て。愛は… 愛はあなた。あなた自身。 愛して。きっとわかるから。ほんの小さなものでも。 あなたの愛する何かが、きっとあなたを、支えるから。 愛は足元の王国 あなたはもうそこに立っている 遠い山に手を伸ばさないで 振り返って しゃがみ込んで 手のひらに滑り込む柔らかな土の中 そこで全てが見つかる 何もかも、そこにある 時の起こりの、そもそものはじめから https://youtu.be/sKupzannWko ありがとう やっぱり私は愛を学ぶために生まれてきたのだと思います 自分で言うのもなんですが、周りの人に保護欲を起こさせるような容姿で生まれてきました 今世での課題を達成するために、いちばん適した状態を選んだのでしょう 機能不全家庭で育った影響もあってか、どうしても信じられず、こわいです 愛を受けとるのが、人を信頼することが、こわくてたまらない でも神様は、これでもかこれでもかと私に試練をくださいます きっと、心から人を信頼し受けとれるようになるまで続くのでしょう 守護霊様や、周りの人々が、愛はすぐ側にあると、何度も何度も教えてくださっているのに 私にはどうしても、いちばん遠いもののように感じてしまいます おいしいものを食べたとき、おいしいと思うでしょう 好きなものを手にしたとき、うれしいと思うでしょう どうしてそう思えるのか? 信頼してるとかしてないとか、そういうのと関係なく、心は動く どうしてそうなるのか? それは愛があるから 受け取るとか受け取らないとか、そういうことに全く関係なく、愛はいつでも変わりなくそこにあるから あれが愛だろうか、これは愛だろうかと気にしなければ、自分自身が愛だったのだとわかるから 遠いとか近いとか、そういうことではなく、愛はどこにでもあるし、愛でないものは何ひとつないから なるほど… では、よろしければお聞きなさい。 あなた自身が愛である時に、どうしてあなたは、 それを他人から受け取る必要があるだろう。 愛されるということは、愛するということよりは、 偉大ではない。これがこの世の神秘。 あなたにそれを教えてくれるのは、優れた人? 強い人、大きな人? いいえ。 あなたに愛を教えてくれるのは、小さな人、 遅い人、弱い人。 なぜなら、あなた自身が愛だからです。 愛を見出すということは 受け取ったり、与えられること、というよりは 思い出すことであったり、それに気付いていくということ。 あなたが、愛なのです。 親愛なる人よ。 遠い山に手を伸ばさないで 振り返って、しゃがみ込んで 手の中に滑り込む柔らかな土 その土の中生きる真っ黒な一匹のアリ 全てそこにある それは輝きを放つ ああ、真実の話 何もかもが影に過ぎないのだ あなた自身が、太陽である時に。 弱くていい、愚かでもいい 間違っていても 正しくなくても かっこ悪くて 泥まみれでも良いよ その何もかもに 至らない不完全な、この世界に あなたの愛が意味を与えるから https://youtu.be/7_1y1DDLcKU 進んだ人とは 認知症が進んだ人と 意志疎通、会話ができる人。 わりと本当に。 ◆ 囲碁ので「部分と全体の価値観」の比較 全体効率とは、着手効率の可能性保持の法則になる。 (評価が非常に困難である) @ 全体目標と部分目標は価値観が異なる。 A 全体効率は、部分効率より優先される。 B 悪手が最善手になることがある。 C 部分効率の総和が全体効率の大きさではない。 全体と部分との効率差は、概念(価値観)が異なる。 D 部分の追求が全体の追求になることが多いが 悪手になることもある。 E 石を取る手、地を囲う手、分断する手など、すべての手が、いい手でもなく悪手でもない。 F 基本ルールという制約があり、 1 生死が最大の制約になる。 2 打った石は動かせない。 3 地の確定、生きの確定 (結論) 全体効率においては、可能性の保持が価値となり、 部分効率においては、確定性が価値(活用)となる ◆ スピリチュアルとの囲碁の価値観との対比 神の目標とは、未来方向(進化)への可能性保持の法則になる。(評価が非常に困難である) @ 神の達成目標と個々(人間)の達成目標とは異なる。 A 神の目標は、人間の目標より優先される。 B 進化の法則では、人間社会における善悪や道徳は無視されることがある。 C 個々の人間幸福の総和が、宇宙進化の方向ではない。 D 全体の幸福追求は、進化する方向性と合致するが多いが、追求することが、逆方向の場合がある。 E 幸福追求、因果法則、必然の法則、愛の追求、自由の拡大、等などすべてが、部分法則でしかない。 F 法則という制約がり、 1 人間の意志決定では生死が最大制約になる 2 エネルギーと力学的な法則がる。 3 物質の能確定の法則がある。 (結論) 神の目標は、全体の可能性の拡大と保持であり、 人間の目標は、真理、愛情、法則のなどの部分確定の発見と価値評価などの経験の蓄積と活用になる。 そして神の深遠なるはかりごとは、そもそもが 人間というような小さな生き物には無縁のものだ。 脳の容量が足りないからね。問題はただひとつ、 それでもなお、人間は自分を神のように見る目線から 自由になれないということだ。 全ては遊びなんだ。それが分かると大分楽になる。 呪いが解けたみたいに。 イエスは 自分は神の子だと言ったんだ。 我は霊なり とね。 ひとは死んだら 真っ暗闇を彷徨うよ、悟ったひとも 自由だから好きなことしても大丈夫だと 溺れて 闇を彷徨う。だって、僧侶でさえ 彷徨うんだよ。ここは遊びのようで誘惑のぬかるみなんだ。 消えて無くなるわけじゃないよ、個は残る。 ちゃんと、神を目指した人のみ 帰依できる。 みんな知らない。それを知ろうともしない。 暗闇をただ ただ歩いてるんだ。あなた死んだんですよ、と言っても 信じないで ただ ただ歩いてる。記憶が消えるまで。知らないから 遊びだとか言ってるんだ。知らないんだ。 >>677 >>678 ここで最も重要なこと。 この2つの意識は 部分意識 ⊂ 全体意識 の「抱合関係」ではなく 部分意識 < 全体意識 の「制約関係」になっているのです。 これは、いくら部分意識を考察しても、全体意識(神の目標)である霊的意識 の本質に気づくことができいだけでなく、 公理 愛の修行や真理の追究を必死に行っても、 全体意識(神の目標)の本質に気づけない。 さらに、全体意識の概念のない者は 低級な霊的成長は得られるが、 高級な霊的成長は得られない。 これらのことは、 囲碁における上達過程での根本原因として 実証証明されているのです。 、 >>686 このことは、 シルバーバーチの教えの矛盾であり、 その教はが、もう過去の者である。 という証になるのです。 >>684 >>685 仮にそうだとしても、そんなことを知っている 必要があるのだろうか。 鳥は宇宙について知っているか。アザラシは 原子と分子を区別するか。 人間は神について知っている? 知らなくて良い。必要がない。 寧ろ問題は、自分が何をしたいのか 何を望んでいるのか、それを嗅ぎ分ける 嗅覚の無い人間が多いことだ。 これは大問題だよ。腹を空かせているのに 水ばかり求めるような生き方に繋がるからね。 >>688 あると思います、だから 人は真理を求めるのです。 悟ったと言っても 増長慢になって、ばたばたと自滅するのです。 だから 覚者は必要なんです。 より多くの知識、より確かな理論、 そんなものを求めていると、まさに 無意味に暗闇を迷い続けることになる。 あなたは何年め? 命はもう40億年の時を経ている。 私たちは100万回を生きて、今や食物の中の栄養と 毒素とを正確に嗅ぎ分ける。 獣のように生きろよ。日々の感性に、強く鋭敏な 反応を従わせて。 それが真実さ。君は神じゃない。 肉体から生じる思考という意味では、ね。 それは全て命の持ち物だ。 君は一匹の獣を見ているんだよ。 そしてそのことに、完全に気付いている時、 それを完全に意識し、獣として全く目覚めているときに、 実に君は、君を通して神が生きていることさえ見るのだ。 >>689 若い人よ。必要ということはない。 覚者は生まれてくる。それは必然だが、必要ではない。 アリに兵隊アリと巣アリがいるのと同じだよ。 どちらも生まれてくる。 が、別にどちらが偉いということもない。 自滅するときは何であれ自滅する。 所詮アリだからな。 人間の覚者もこれと何ら変わらない。 生まれてくるが、別に重要ということはない。 >>690 神の子は神の子です。 疑いようがない。 私は獣でもないし、人間でもない。 貴方は 神の光を啓示されてないの? 神は目の前に現れる、閃光の輝きとして。 う 部分意識 ⊂ 全体意識 の「抱合関係」ではなく 部分意識 < 全体意識 の「制約関係」になっているのです。 生きるという使命と目的において、 部分意識 と 全体意識の制約関係、対立関係、共存関係を を学び、その本質を知った上で、 現実社会において、未来意識を持ちながら、調整適合させることで、 自分の魂の霊的で高度な成長が達成できるのです。 >>692 わが子よ。問題はそこではない。 問題は、自己の定義だ。 君は自分が神の子だと言う。それは良い。 だが、その"自分"とは何だ。例えば君の爪や髪は、 君という存在と不可分か。 だとすればある一本の髪が抜け落ちただけで、 神の子としての君の完全さは破壊され失われてしまう。 では手足は、骨は、内臓は、脳神経は或いは 排泄物はどうだ? それから、ああ、耳の中の音だよ。 頭の中にこんこんと湧いているその音と言葉。 それは君自身と言えるのか。本当に? さて…神の子はどこにいるのだろうな。 つまり、君は一体、"自分"というものを何だと 捉えているのだ? >>695 だから 私は人間ではないと言っている、 私は光だ。貴方は光の自覚をされたのか? 光には姿かたちはない。 だが 神と一体になったとき 私は神の子であったと知る。神に向かい入れられる。 或いはこう言おう。 怯えるな、娘よ。 自分を信じろ。 お前はそんなに無力ではないぞ。 他人などもう気にしなくて良いんだ。 お前が本当に飛び去りたい方向へ。 自分の世界を作れ。 この土の上にだって、本当の意味での お前の居場所を作れるよ。 君は自分を非難する代わりに、 他人を非難しているんだ。 いつも自分自身に失望を抱いてしまうのに、 その失望を自分で抱えていたくはないからさ。 君が本当に信じられないのは、 君が本当に許せないのは、 君自身なんだよ。 >>700 残念ながらそれもない。 思い通りだよ、 ああ、だから敢えて言おう。 友よ、君ほど実在の領域に精通する人物が、 一体この世にどれほどいると言うのだ? その君が自分の才能やエネルギーを、他人に向けて 注ぎ費やしているというのは何とも馬鹿げた損害ではないか。 踏み出せ。大丈夫だ。 何をやろうと、君は既に創造の領域にいる。 楽しめよ、自分の魂の音響を。 君はそれを手に入れたんだから。 その逆なんだ。私は今まで思い通り 好きなようにいきてきた、思ったことは自由自在だった、 ところがある日 光が降りてきて 私は人間ではなかったと知った、強制的に終了させられたんだ。 皆 人間をやっているが、自分は人間ではないと気づく時がくる。私は人間が楽しかったが なんと人間とは虚しいか、それに気づいたら神に出会う。 スピリチュアル漫才? スピリチュアルコント? 意味のない論争、いい加減に止めなさい。 >>706 君は神に出会い、自分が人間ではないと気付いた。 素晴らしいね。そういう人はどんな生き方をするのだろうな。 神の子よ。私は人間だよ。 これもまた素晴らしいことだ。 お互いの与えられたものを楽しもう。 君は神の道を、私は人間の道を。 人間ほど、「言葉遊び」を知らん生き物もおるまいね。 言葉に遊ばれる側なのだから。わっはっは。 皆、言葉遊びが大好きで 言葉に遊ばれるのも 好きなんですよ。 そう。それだけなんだよな。 こんな楽なことはないよ。 確かに、海の魚や森の山野草、 こういうものには言葉は通じない。 だけどそれもまた良いものだ。 夏の朝に森の中の涼しい日陰を歩く時など、 彼らとも本当に良い関わりを築いていると実感するよ。 ここにいる先生方に質問ですが 世の中には真理を伝えても 伝わらないかたがいると思います。 (例 耳が聞こえない、認識できない等) その方々には どのように伝えますでしょうか? 伝えるとか伝わらないとかいうのは見かけ上そう見えるだけのことで 実際はもう伝わっていることを本人がわかるかどうか そういう意味では真理は他人である誰かが伝えるものではなく誰でも自分でわかるもの 自分さえわかるときがくればわかれることができるもの だから相手がどうあれどう接しても伝わるときには伝わるし どう接しても伝わらないときには伝わらない そうなりますね。 また別の言い方をすれば、穴熊は言葉を解さないが、 人間は言葉を解します。そのように、真理を 解する者と、そうでない者とが居る。それだけです。 また別の方向性を見ましょう。指導者は盲目の者に 如何に教えうるか、その論理と方法を考えます。 が、結果にはこだわりません。教材はあると良いけれど、 それにしても、学ぶ側の心の準備が整わなければ、 何も学ばせることはできないからです。 私たちも多少は、教えるということを 進化させようと努めてはいるのだが。 それとても小さな獣の、ささやかな生の営みに 過ぎないね。 http://herbarium.main.jp/wahou.epub 真心で接すれば 全てが伝わりますね。 人以外に動物や植物や 全てのものに あなたへ届けトゥルーハート! 世界を繋げる想いの力、アイアンフィスト!! ねぇ、こんな場所に1人で居るなんて駄目だよ! 私あなたと友達になりたいの! コ ブ シ で !! >>717 @ なぜ、伝わないのかを原因を考える。(自分のために) ↓ A 原因が自分なら、改善しもう一度伝える。 B 原因が相手なら、放置し、黙って去る。 理解できない人に理解させようとしない。 高齢になるほど、価値観が固まっているので、無可能です。 すべてを忘れる液体を飲ませるしか方法がない。(死んで、生まれ変わる...) >>724 そうですね。 生まれ変わるのはステキです。 毎日生まれ変わりたい♪ まぁ頭で考えた 想定通りに行かないのも 人生の楽しさの1つですね。 徐々に 自分が自分で無くなっていく感覚に 不安と苛立ちで生きている人に どうやって癒してあげれば良いの? 全てにおいて 答えは1つ 言葉は必要なのか? 頭で考えることは必要なのか? 必要なのは 愛じゃろ(’-’*)♪ 必要はない。だが有っても良い。 言葉も思考も、なんら特別ではないから。 児戯は児戯。人は人。 だが捨てたものではない。 何なら人生というものは、子供の時分の方が 輝いている。 重くなり、輝かなくなるものだ。言葉や思考さえ。 だがそこから自由で居ることも出来よう。 言葉遊戯なら ユーモアセンスが 溢れる方が知性的かな。 日本人は昔から言葉遊びが好きなんです。 何にも依らず 心は自由に 哲学とは思考の芸術である byルドルフ・シュタイナー 書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。 ジャン・ポール・サルトル 哲学的な装飾を深めれば、こう言うことも出来る。 「生はそれ自体が、生からの逃避である」 まさにこうした矛盾によって、主体的視点と、 論理における"私"という聖域は作られる。 定義することが 矛盾を作るということですか。 古代から人は定義するのが 好きなようで。 或いは「意図する」ということが。 意志を持つことは主体的な作用だが、その主体は幻想だ。 こういう観点から前述のサルトルの命題を省みれば、 生とは、生なきものによる、生なき場所からの逃避だ。 そしてそのとき無から捻出される質量こそが、 実存なのだと言えるだろう。 でもな。こんなことを言って、全体何の意味があるんだい。 生きたプシュケーの無い哲学は虚しいものだ。 あらゆる理知は情感を伴っていなくてはならないだろう。 労働と充実について。 欲求5段階仮説を拡張して、 @理想形(完全な形の欲求ピラミッド) A個人の充足(労働前の、実際のピラミッド) B労働の要求(充足から支払われるべき部分) C労働における提出(実際に支払われる充足) D労働における獲得(労働を通して付与される充足) という5項目の概念を設定したい。 充足から提出を引き、獲得を付与した後の 「労働後の充足バランス」が理想形に近ければ、 その労働は労働者とのマッチングが上手く 行っていると言える。 一例として、 多くの場合、単純な労働のために提出が求められるのは 生理的欲求と安定的欲求である。 (実際はより上層のものも提出はしている) 労働者はそれらを提出する一方で、 社会的欲求や承認の欲求などを獲得するだろう。 労働対価としての金銭は、共通価値としての性質上、 理想形のピラミッドに近い獲得をもたらすものであろう。 これらの収支の結果、労働後のピラミッドが 理想形に近い形になっているならば、労働者は その労働において充実していると言える。 もしそうでなければ、労働者ないし労働を要求する側の いずれかにおいて改善を要するか、労働の不一致が 起きている状態だと言える。 感情労働や単純作業、理念なき金儲け、の魅力が 低いのは、そもそもが欠乏しがちな、欲求段階の 上層からも充足を提出させようとしたり、 上層における獲得が見込めない為に、 労働後の充足ピラミッドが理想形に近づかないからだ。 そういう状態では、余暇活動や自己啓発活動などで 相応の埋め合わせが必要だが、それらの補償活動の 全てを通して、充分な金銭が要求されることは 言うまでもない。 日本は宗教が薄い。欲求上層は多分に宗教的な 領域でもあるが、そこから宗教を排するとしたら 他の何かは神格化されねばならない。 日本人は長く、労働を神格化して来たのではないか。 もしグローバリズムや技術の発展によって 労働の神性が失われつつあるのだとしたら 我々は意図してそれに備えなければならないと思う。 三途の川の岸辺には、奪衣婆と言うのがおってね。 まあなんだ、生前の罪を測る時に邪魔になるというので、 やって来た亡者を身ぐるみ剥がすのだよ。 要らん部分だけ奪っていくわけだな。 間引きみたいなもので… 余計な部分は全部取れて、必要な所だけは残る。 新陳代謝と言うのは、ある意味自発的な死だね。 死があるから生がある。そうしたサイクルの影響を 受けてなお形が維持される部分こそ、本当に必要な 部分なのだよ。 みんな毎日トイレに行って スッキリしてるのに 忘れてるんですね。 心地よく軽やかに ごんさん、おはよう。 ごんさんも天国に入ったことある? 天国か。あるよ。確か草津だったかなぁ。 極楽の湯と地獄の湯って言うのがある温泉。 もちろん地獄にも入ったよ。 皆さまに最後のお願いをしに来ました。 わたしは遂に地縛霊との対決に終止符を打とうとしていますが、 それと引き換えに私の気力も衰えを見せ始め、想念を持つことが 難しい状態へと進行しつつあります。 その為、私が地縛霊の人達から聞き出すことが出来た神の秘密は 私自身、これから話し続ける体力が残されているかわかりません。 是非、皆さんで以下のスレッドを閲覧頂き、 私が、悪魔たちから何を聞くことが出来たのか、それを纏めて頂き ますようお願い致します。 それでは、お手数をおかけしますが、宜しくお願い致します。 王路(引き寄せの法則)おまえらの力が必要だ! https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/atopi/1512118999/ まだ、話の全体像を掴めないと思うので、要点だけ述べておきます。 一、聖書はイナンナによって作られたこと。 二、イナンナはその後、イシュタルと名前を変え、ファラオ(アーメン・ラー)とイエスに仕事を託して身を隠したこと。 三、イシュタールは、アストラル界を作り、アシュタールを発足させたこと。 四、イースター島のモアイは、イクナートンの顔であり、何体もある由来は、コピーが作られているということ。 五、永遠の命の承認を得た死者は、生まれ変わりがなくなり、地上の人間の雛形として御霊分けをお願いされること。 六、イエスはアシュタールを使って人間が想像する思考を限定し、神への容疑を持たせないようにしていること。 七、悪人であっても、イエスのボディガードをする死者は生まれ変わりを命じられず、霊界で生き延びていること。 八、イエスのボディガードをする死者は、人間を誘惑し、その者が死んだ後、イエスの許しを乞うように働きかけるということ。 九、天使は、生まれてすぐに亡くなった赤ちゃんの性格と大人の霊の性格を合体させることで作り上げている存在だということ。 十、これらの計画はすべて、金星の守護神、イシュタルによって計画されていたのだが、イエスが主役として祀り上げられているということ。 ごんさん逝ってしまったのかな? もう少しお話聞きたかったな これからも真理探究の旅をお続けください。 求め続けるのです。 きっと与えられます。 要求が拒絶されることは決してありません。 ただし、回答は必ずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。 あなたの成長にとって最善のものが与えられます。 時として酷しい環境に閉じ込められ、 それが容易に克服できないことがあります。 しかし、正しい信念さえ失わなければ、 そのうちきっと全障害を乗り越えることができます。 そんな時は神の象徴であるところの太陽に向かってこう述べるのです。 自分は神の一部なのだ。 不滅なのだ。 永遠の存在なのだ。 無限の可能性を宿しているのだ。 その自分が限りある物質界のことで挫けるものか、と。 そう言えるようになれば、決して挫けることはありません。 パオーです ウエイト板で小堀さんに負けてしまいました 謝罪文を書き込めば許して貰えるとの事でした 仏様のような方で助かりました 申し訳ありませんでした 西村さんにも謝罪します \___________/ ∨ ____ ,/:::::::::::::::::::::\ /::::::::::::::::::::::::::::::::::\ |:::::::::::|_|_|_|_|_| |_|_ノ∪ \,, ,,/ ヽ |::( 6 ー─◎─◎ ) |ノ (∵∴∪( o o)∴) | < ∵ 3 ∵> /\ └ ___ ノ .\\U ___ノ\ \\____) ヽ ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 元宇宙人が教える ノーザンコペルニクス 情報料\25000で貴方も月収100万 !? 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