年長者・エルダースピリット
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>>651 経験すれば、よくなる、幸せになるのか?.. なりません。これにも気づくべきです。 経験したことを、どのように感じ、解釈すべきか? これが生きるテーマであり、各自の問題なのです。 このために宗教が存在し、哲学があるのです。 勉強すべきは、この解釈の正しさと多様性なのです。 自己探求には、基本の方法があります。このことを知るべきです。 自己流は、悪い結果を引き寄せます。 人生の問題は解決す、べて自己解決が基本であり、自己責任になります。 ただし、自己責任はカルマでの罪や罰ではないのです。 @ どのような結果であっても、それを受け入れる気持ち A 神によって導かれるという、安易な選択の拒否意識。 これが、ツインソウルや指導霊から導き、愛の妄想という自己愛を引き起こし 悟りと霊格追求いう超能力を求めることになるのです。 解釈勉強こそが、霊性を高めるという訓練になるのです。 命に欠けている。 一生もひとごとのように過ぎてく。 それではだめだ。 私たちは欠けている。 人間になりたいピノキオのように 「有るはず」の「無いもの」を手に入れたい。 https://youtu.be/eq8r1ZTma08 闇を知り光を知り、それらの誘惑に負けることなくそのすべてを超克したい。 どちらか片方だけではだめなのだ、と最近考えています。 己の中の獣と戦わず、命じることができるようになりたい。 「自己」のあるじであることを極めたい。 そして最終的にはその舟をも手放したい。 フランクルは言っているよ。 人は人生の意味を問うが、その有様は矛盾そのものだ。 むしろ本当はこの世界、その人生そのものが、 君が何者であるかを問うているのだから、と。 君は自分を、獣を飼いならす主人だと思っている。 だが本当は、君は主人ではなく、飼いならされる 獣の方なのかもしれない。 或いはそこには、主人など居ないのかも。 ただ一匹の獣だけが… 言葉に囚われてはいけないよ。 言葉は影なのだ。それは作られた世界だ。 心は言葉より前に存在している。 獣を飼いならしたければ、獣について学ぶべきだよ。 猫は何を感じ、魚はどんな心を持つ? クラゲは「海」を知っているのか。 ミドリムシに、心はあるか? ごんべさんサンキュー なんかこう、今はかたくなになっているみたい。 理想についていけなくてきついんだ そうだね。理想は迫害的なものだから。 それは君を否定しているんだよ。 だが本当に君を否定しているのは、 ある理想を自己の理想たらしめている、 君自身の飢えた心なのだ。 まあ、苦労はいずれ報われよう。 仮に君が立ち止まっていても、世界は動く。 兎に角なるようにはなる… 内在する神様は素晴らしいです。 癒しの力は他の何にも 負けません。 生まれつきの自己治癒能力は、何億年という生の果て。 それは確かに、とてつもない力を持っていることだろうね。 過去の覚者の方々によれば、サマディは長ければ長いほど良いとされています 俺ももうこんな歳になってようやく気付いたんだが、 金持ちになりたい奴、有名になりたい奴っていうのは そこら中にごまんといるものだ。 そんなのは探すまでもない。 まあ、人間の普遍的な欲望なんだろうな。 でも、悟りたいという人間はごくごく一握りだ。 悟りたいというか、世の中を見極めたい、自らの 存する意味を見定めたい、という奴だな。 そういう人間は本当に少ないよ。 実際のところ、金持ちになるより悟りに至る方が簡単だ。 だが人は思うんだな。「悟りを得たら、私も何事かの 第一人者として、一端の権威として、もっと 有名でお金持ちになれるのだろうか?」とな。 だが皮肉なことに、金や名声は人を悟りから遠ざける。 また一方で、金や名声は心を飢え苦しませ、 決して虚ろな心根を満たすことがない。 しかしそれでも、それを求めるようにできておる。 人間というのはな。これもまた不思議なことよ。 愛というのはね、水のようなものですよ。 私たちはその中に浮かんでいるのだけれど… それがあんまりにも自然なので、かえって わからなくなってしまうのでしょう。 愛は与えられるものではなくて… それはただ気付くべきもの。 それは満たしているもの。あなたを。この世界を。 つまりそれは、あなた自身の全て。愛は… 愛はあなた。あなた自身。 愛して。きっとわかるから。ほんの小さなものでも。 あなたの愛する何かが、きっとあなたを、支えるから。 愛は足元の王国 あなたはもうそこに立っている 遠い山に手を伸ばさないで 振り返って しゃがみ込んで 手のひらに滑り込む柔らかな土の中 そこで全てが見つかる 何もかも、そこにある 時の起こりの、そもそものはじめから https://youtu.be/sKupzannWko ありがとう やっぱり私は愛を学ぶために生まれてきたのだと思います 自分で言うのもなんですが、周りの人に保護欲を起こさせるような容姿で生まれてきました 今世での課題を達成するために、いちばん適した状態を選んだのでしょう 機能不全家庭で育った影響もあってか、どうしても信じられず、こわいです 愛を受けとるのが、人を信頼することが、こわくてたまらない でも神様は、これでもかこれでもかと私に試練をくださいます きっと、心から人を信頼し受けとれるようになるまで続くのでしょう 守護霊様や、周りの人々が、愛はすぐ側にあると、何度も何度も教えてくださっているのに 私にはどうしても、いちばん遠いもののように感じてしまいます おいしいものを食べたとき、おいしいと思うでしょう 好きなものを手にしたとき、うれしいと思うでしょう どうしてそう思えるのか? 信頼してるとかしてないとか、そういうのと関係なく、心は動く どうしてそうなるのか? それは愛があるから 受け取るとか受け取らないとか、そういうことに全く関係なく、愛はいつでも変わりなくそこにあるから あれが愛だろうか、これは愛だろうかと気にしなければ、自分自身が愛だったのだとわかるから 遠いとか近いとか、そういうことではなく、愛はどこにでもあるし、愛でないものは何ひとつないから なるほど… では、よろしければお聞きなさい。 あなた自身が愛である時に、どうしてあなたは、 それを他人から受け取る必要があるだろう。 愛されるということは、愛するということよりは、 偉大ではない。これがこの世の神秘。 あなたにそれを教えてくれるのは、優れた人? 強い人、大きな人? いいえ。 あなたに愛を教えてくれるのは、小さな人、 遅い人、弱い人。 なぜなら、あなた自身が愛だからです。 愛を見出すということは 受け取ったり、与えられること、というよりは 思い出すことであったり、それに気付いていくということ。 あなたが、愛なのです。 親愛なる人よ。 遠い山に手を伸ばさないで 振り返って、しゃがみ込んで 手の中に滑り込む柔らかな土 その土の中生きる真っ黒な一匹のアリ 全てそこにある それは輝きを放つ ああ、真実の話 何もかもが影に過ぎないのだ あなた自身が、太陽である時に。 弱くていい、愚かでもいい 間違っていても 正しくなくても かっこ悪くて 泥まみれでも良いよ その何もかもに 至らない不完全な、この世界に あなたの愛が意味を与えるから https://youtu.be/7_1y1DDLcKU 進んだ人とは 認知症が進んだ人と 意志疎通、会話ができる人。 わりと本当に。 ◆ 囲碁ので「部分と全体の価値観」の比較 全体効率とは、着手効率の可能性保持の法則になる。 (評価が非常に困難である) @ 全体目標と部分目標は価値観が異なる。 A 全体効率は、部分効率より優先される。 B 悪手が最善手になることがある。 C 部分効率の総和が全体効率の大きさではない。 全体と部分との効率差は、概念(価値観)が異なる。 D 部分の追求が全体の追求になることが多いが 悪手になることもある。 E 石を取る手、地を囲う手、分断する手など、すべての手が、いい手でもなく悪手でもない。 F 基本ルールという制約があり、 1 生死が最大の制約になる。 2 打った石は動かせない。 3 地の確定、生きの確定 (結論) 全体効率においては、可能性の保持が価値となり、 部分効率においては、確定性が価値(活用)となる ◆ スピリチュアルとの囲碁の価値観との対比 神の目標とは、未来方向(進化)への可能性保持の法則になる。(評価が非常に困難である) @ 神の達成目標と個々(人間)の達成目標とは異なる。 A 神の目標は、人間の目標より優先される。 B 進化の法則では、人間社会における善悪や道徳は無視されることがある。 C 個々の人間幸福の総和が、宇宙進化の方向ではない。 D 全体の幸福追求は、進化する方向性と合致するが多いが、追求することが、逆方向の場合がある。 E 幸福追求、因果法則、必然の法則、愛の追求、自由の拡大、等などすべてが、部分法則でしかない。 F 法則という制約がり、 1 人間の意志決定では生死が最大制約になる 2 エネルギーと力学的な法則がる。 3 物質の能確定の法則がある。 (結論) 神の目標は、全体の可能性の拡大と保持であり、 人間の目標は、真理、愛情、法則のなどの部分確定の発見と価値評価などの経験の蓄積と活用になる。 そして神の深遠なるはかりごとは、そもそもが 人間というような小さな生き物には無縁のものだ。 脳の容量が足りないからね。問題はただひとつ、 それでもなお、人間は自分を神のように見る目線から 自由になれないということだ。 全ては遊びなんだ。それが分かると大分楽になる。 呪いが解けたみたいに。 イエスは 自分は神の子だと言ったんだ。 我は霊なり とね。 ひとは死んだら 真っ暗闇を彷徨うよ、悟ったひとも 自由だから好きなことしても大丈夫だと 溺れて 闇を彷徨う。だって、僧侶でさえ 彷徨うんだよ。ここは遊びのようで誘惑のぬかるみなんだ。 消えて無くなるわけじゃないよ、個は残る。 ちゃんと、神を目指した人のみ 帰依できる。 みんな知らない。それを知ろうともしない。 暗闇をただ ただ歩いてるんだ。あなた死んだんですよ、と言っても 信じないで ただ ただ歩いてる。記憶が消えるまで。知らないから 遊びだとか言ってるんだ。知らないんだ。 >>677 >>678 ここで最も重要なこと。 この2つの意識は 部分意識 ⊂ 全体意識 の「抱合関係」ではなく 部分意識 < 全体意識 の「制約関係」になっているのです。 これは、いくら部分意識を考察しても、全体意識(神の目標)である霊的意識 の本質に気づくことができいだけでなく、 公理 愛の修行や真理の追究を必死に行っても、 全体意識(神の目標)の本質に気づけない。 さらに、全体意識の概念のない者は 低級な霊的成長は得られるが、 高級な霊的成長は得られない。 これらのことは、 囲碁における上達過程での根本原因として 実証証明されているのです。 、 >>686 このことは、 シルバーバーチの教えの矛盾であり、 その教はが、もう過去の者である。 という証になるのです。 >>684 >>685 仮にそうだとしても、そんなことを知っている 必要があるのだろうか。 鳥は宇宙について知っているか。アザラシは 原子と分子を区別するか。 人間は神について知っている? 知らなくて良い。必要がない。 寧ろ問題は、自分が何をしたいのか 何を望んでいるのか、それを嗅ぎ分ける 嗅覚の無い人間が多いことだ。 これは大問題だよ。腹を空かせているのに 水ばかり求めるような生き方に繋がるからね。 >>688 あると思います、だから 人は真理を求めるのです。 悟ったと言っても 増長慢になって、ばたばたと自滅するのです。 だから 覚者は必要なんです。 より多くの知識、より確かな理論、 そんなものを求めていると、まさに 無意味に暗闇を迷い続けることになる。 あなたは何年め? 命はもう40億年の時を経ている。 私たちは100万回を生きて、今や食物の中の栄養と 毒素とを正確に嗅ぎ分ける。 獣のように生きろよ。日々の感性に、強く鋭敏な 反応を従わせて。 それが真実さ。君は神じゃない。 肉体から生じる思考という意味では、ね。 それは全て命の持ち物だ。 君は一匹の獣を見ているんだよ。 そしてそのことに、完全に気付いている時、 それを完全に意識し、獣として全く目覚めているときに、 実に君は、君を通して神が生きていることさえ見るのだ。 >>689 若い人よ。必要ということはない。 覚者は生まれてくる。それは必然だが、必要ではない。 アリに兵隊アリと巣アリがいるのと同じだよ。 どちらも生まれてくる。 が、別にどちらが偉いということもない。 自滅するときは何であれ自滅する。 所詮アリだからな。 人間の覚者もこれと何ら変わらない。 生まれてくるが、別に重要ということはない。 >>690 神の子は神の子です。 疑いようがない。 私は獣でもないし、人間でもない。 貴方は 神の光を啓示されてないの? 神は目の前に現れる、閃光の輝きとして。 う 部分意識 ⊂ 全体意識 の「抱合関係」ではなく 部分意識 < 全体意識 の「制約関係」になっているのです。 生きるという使命と目的において、 部分意識 と 全体意識の制約関係、対立関係、共存関係を を学び、その本質を知った上で、 現実社会において、未来意識を持ちながら、調整適合させることで、 自分の魂の霊的で高度な成長が達成できるのです。 >>692 わが子よ。問題はそこではない。 問題は、自己の定義だ。 君は自分が神の子だと言う。それは良い。 だが、その"自分"とは何だ。例えば君の爪や髪は、 君という存在と不可分か。 だとすればある一本の髪が抜け落ちただけで、 神の子としての君の完全さは破壊され失われてしまう。 では手足は、骨は、内臓は、脳神経は或いは 排泄物はどうだ? それから、ああ、耳の中の音だよ。 頭の中にこんこんと湧いているその音と言葉。 それは君自身と言えるのか。本当に? さて…神の子はどこにいるのだろうな。 つまり、君は一体、"自分"というものを何だと 捉えているのだ? >>695 だから 私は人間ではないと言っている、 私は光だ。貴方は光の自覚をされたのか? 光には姿かたちはない。 だが 神と一体になったとき 私は神の子であったと知る。神に向かい入れられる。 或いはこう言おう。 怯えるな、娘よ。 自分を信じろ。 お前はそんなに無力ではないぞ。 他人などもう気にしなくて良いんだ。 お前が本当に飛び去りたい方向へ。 自分の世界を作れ。 この土の上にだって、本当の意味での お前の居場所を作れるよ。 君は自分を非難する代わりに、 他人を非難しているんだ。 いつも自分自身に失望を抱いてしまうのに、 その失望を自分で抱えていたくはないからさ。 君が本当に信じられないのは、 君が本当に許せないのは、 君自身なんだよ。 >>700 残念ながらそれもない。 思い通りだよ、 ああ、だから敢えて言おう。 友よ、君ほど実在の領域に精通する人物が、 一体この世にどれほどいると言うのだ? その君が自分の才能やエネルギーを、他人に向けて 注ぎ費やしているというのは何とも馬鹿げた損害ではないか。 踏み出せ。大丈夫だ。 何をやろうと、君は既に創造の領域にいる。 楽しめよ、自分の魂の音響を。 君はそれを手に入れたんだから。 その逆なんだ。私は今まで思い通り 好きなようにいきてきた、思ったことは自由自在だった、 ところがある日 光が降りてきて 私は人間ではなかったと知った、強制的に終了させられたんだ。 皆 人間をやっているが、自分は人間ではないと気づく時がくる。私は人間が楽しかったが なんと人間とは虚しいか、それに気づいたら神に出会う。 スピリチュアル漫才? スピリチュアルコント? 意味のない論争、いい加減に止めなさい。 >>706 君は神に出会い、自分が人間ではないと気付いた。 素晴らしいね。そういう人はどんな生き方をするのだろうな。 神の子よ。私は人間だよ。 これもまた素晴らしいことだ。 お互いの与えられたものを楽しもう。 君は神の道を、私は人間の道を。 人間ほど、「言葉遊び」を知らん生き物もおるまいね。 言葉に遊ばれる側なのだから。わっはっは。 皆、言葉遊びが大好きで 言葉に遊ばれるのも 好きなんですよ。 そう。それだけなんだよな。 こんな楽なことはないよ。 確かに、海の魚や森の山野草、 こういうものには言葉は通じない。 だけどそれもまた良いものだ。 夏の朝に森の中の涼しい日陰を歩く時など、 彼らとも本当に良い関わりを築いていると実感するよ。 ここにいる先生方に質問ですが 世の中には真理を伝えても 伝わらないかたがいると思います。 (例 耳が聞こえない、認識できない等) その方々には どのように伝えますでしょうか? 伝えるとか伝わらないとかいうのは見かけ上そう見えるだけのことで 実際はもう伝わっていることを本人がわかるかどうか そういう意味では真理は他人である誰かが伝えるものではなく誰でも自分でわかるもの 自分さえわかるときがくればわかれることができるもの だから相手がどうあれどう接しても伝わるときには伝わるし どう接しても伝わらないときには伝わらない そうなりますね。 また別の言い方をすれば、穴熊は言葉を解さないが、 人間は言葉を解します。そのように、真理を 解する者と、そうでない者とが居る。それだけです。 また別の方向性を見ましょう。指導者は盲目の者に 如何に教えうるか、その論理と方法を考えます。 が、結果にはこだわりません。教材はあると良いけれど、 それにしても、学ぶ側の心の準備が整わなければ、 何も学ばせることはできないからです。 私たちも多少は、教えるということを 進化させようと努めてはいるのだが。 それとても小さな獣の、ささやかな生の営みに 過ぎないね。 http://herbarium.main.jp/wahou.epub 真心で接すれば 全てが伝わりますね。 人以外に動物や植物や 全てのものに あなたへ届けトゥルーハート! 世界を繋げる想いの力、アイアンフィスト!! ねぇ、こんな場所に1人で居るなんて駄目だよ! 私あなたと友達になりたいの! コ ブ シ で !! >>717 @ なぜ、伝わないのかを原因を考える。(自分のために) ↓ A 原因が自分なら、改善しもう一度伝える。 B 原因が相手なら、放置し、黙って去る。 理解できない人に理解させようとしない。 高齢になるほど、価値観が固まっているので、無可能です。 すべてを忘れる液体を飲ませるしか方法がない。(死んで、生まれ変わる...) >>724 そうですね。 生まれ変わるのはステキです。 毎日生まれ変わりたい♪ まぁ頭で考えた 想定通りに行かないのも 人生の楽しさの1つですね。 徐々に 自分が自分で無くなっていく感覚に 不安と苛立ちで生きている人に どうやって癒してあげれば良いの? 全てにおいて 答えは1つ 言葉は必要なのか? 頭で考えることは必要なのか? 必要なのは 愛じゃろ(’-’*)♪ 必要はない。だが有っても良い。 言葉も思考も、なんら特別ではないから。 児戯は児戯。人は人。 だが捨てたものではない。 何なら人生というものは、子供の時分の方が 輝いている。 重くなり、輝かなくなるものだ。言葉や思考さえ。 だがそこから自由で居ることも出来よう。 言葉遊戯なら ユーモアセンスが 溢れる方が知性的かな。 日本人は昔から言葉遊びが好きなんです。 何にも依らず 心は自由に 哲学とは思考の芸術である byルドルフ・シュタイナー 書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。 ジャン・ポール・サルトル 哲学的な装飾を深めれば、こう言うことも出来る。 「生はそれ自体が、生からの逃避である」 まさにこうした矛盾によって、主体的視点と、 論理における"私"という聖域は作られる。 定義することが 矛盾を作るということですか。 古代から人は定義するのが 好きなようで。 或いは「意図する」ということが。 意志を持つことは主体的な作用だが、その主体は幻想だ。 こういう観点から前述のサルトルの命題を省みれば、 生とは、生なきものによる、生なき場所からの逃避だ。 そしてそのとき無から捻出される質量こそが、 実存なのだと言えるだろう。 でもな。こんなことを言って、全体何の意味があるんだい。 生きたプシュケーの無い哲学は虚しいものだ。 あらゆる理知は情感を伴っていなくてはならないだろう。 労働と充実について。 欲求5段階仮説を拡張して、 @理想形(完全な形の欲求ピラミッド) A個人の充足(労働前の、実際のピラミッド) B労働の要求(充足から支払われるべき部分) C労働における提出(実際に支払われる充足) D労働における獲得(労働を通して付与される充足) という5項目の概念を設定したい。 充足から提出を引き、獲得を付与した後の 「労働後の充足バランス」が理想形に近ければ、 その労働は労働者とのマッチングが上手く 行っていると言える。 一例として、 多くの場合、単純な労働のために提出が求められるのは 生理的欲求と安定的欲求である。 (実際はより上層のものも提出はしている) 労働者はそれらを提出する一方で、 社会的欲求や承認の欲求などを獲得するだろう。 労働対価としての金銭は、共通価値としての性質上、 理想形のピラミッドに近い獲得をもたらすものであろう。 これらの収支の結果、労働後のピラミッドが 理想形に近い形になっているならば、労働者は その労働において充実していると言える。 もしそうでなければ、労働者ないし労働を要求する側の いずれかにおいて改善を要するか、労働の不一致が 起きている状態だと言える。 感情労働や単純作業、理念なき金儲け、の魅力が 低いのは、そもそもが欠乏しがちな、欲求段階の 上層からも充足を提出させようとしたり、 上層における獲得が見込めない為に、 労働後の充足ピラミッドが理想形に近づかないからだ。 そういう状態では、余暇活動や自己啓発活動などで 相応の埋め合わせが必要だが、それらの補償活動の 全てを通して、充分な金銭が要求されることは 言うまでもない。 日本は宗教が薄い。欲求上層は多分に宗教的な 領域でもあるが、そこから宗教を排するとしたら 他の何かは神格化されねばならない。 日本人は長く、労働を神格化して来たのではないか。 もしグローバリズムや技術の発展によって 労働の神性が失われつつあるのだとしたら 我々は意図してそれに備えなければならないと思う。 三途の川の岸辺には、奪衣婆と言うのがおってね。 まあなんだ、生前の罪を測る時に邪魔になるというので、 やって来た亡者を身ぐるみ剥がすのだよ。 要らん部分だけ奪っていくわけだな。 間引きみたいなもので… 余計な部分は全部取れて、必要な所だけは残る。 新陳代謝と言うのは、ある意味自発的な死だね。 死があるから生がある。そうしたサイクルの影響を 受けてなお形が維持される部分こそ、本当に必要な 部分なのだよ。 みんな毎日トイレに行って スッキリしてるのに 忘れてるんですね。 心地よく軽やかに ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる