年長者・エルダースピリット
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>>31
どうしてその薬を使ったのでしょう。
退屈だった?
何者かになりたかった?
それとも誰かに誘われた? まぁ元々陰気な方で人生上手くはいってなかったです。
そこで悪友と仲良くなり、閉塞感を打破したい気持ちもあり、軽い気持ちでやってしまいました
一回くらいなら流石に大丈夫だろうと…本当にバカでした
こんなことになるなんて…
それから数年地獄です >>33
なるほど。では良ければ自分の犯した罪と、その責任、
あなたが破壊してしまったものは何なのか、それについて話してみてください。 >>34
犯した罪ですか
違法ではなくとも人道に反するおこないをし、大切な心身をきずつけてしまったことてすかね
破壊したものは心や感性、希望、脳でしょうか ちょっと頑張ろうとしたら地獄の感覚が帰ってきた
もうやめてくれ >>38
ありがとう。ではその罪については、
私が霊的な意味での証人になりましょう。
あなたは与えられた大事なものを軽視し、
傷付け、自分自身の愚かさによって
それを破壊してしまった。
これはみなあなた自身が招いた苦しみです。
しかし告白によって、その罪は
許されるでしょう。 その上で私は、こう提案します。
あなたは自分の手でそれを破壊したのだから、
今また自分の手で、それを作りあげても良いのです。
心の中に柱を建てなさい。
古代の神殿にあったボアズとヤキンの柱のように、
堅固な揺るぎない柱を、かつてあなたが壊した
元の柱の代わりとして。
あなたは今無罪となったが、新しい魂の土地は
無一物でまだ豊かではないのだから、
あなたはそこに少しずつ石を積み上げ、
自らの家を建てねばならないのです。 先程も運動してたらまた発作が起こりかけました
身体もおかしくなってきててどうしたらいいのかわかりません
真っ暗で何もイメージできません本当に 物理的に脳が壊れてしまったんでしょうかね…
本当にどんどん希望がみえなくなってゆく 世界は平らになり、皆誰もが平凡になった。
優秀な才能はただ鑑賞の対象となり
世間の手綱は凡人の手に渡る。
賢い者たちは秘匿され、隔離され
そして才能というものは
祝福であると同時に呪いになる。 優秀な人間は、この世界にそれほど多くは必要ない。
大衆は愚かなもの。平均は理想とはほど遠い。
並外れて優れた者が、取り沙汰されることのない、
その代わり並外れて愚かな者が、取り沙汰されることもない
そんな普通の人間のための、平凡な普通の世界。
そういう世界では、我々年長者は隠者のように生きるのが都合良い。 魔術、宗教、霊的知識の研究所のようなものを創りたいと思ってる。
もちろん個人的な研究所だ。自分のための。 実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど
自我が膨らんでゆくために、あなたは前よりもっと光明から離れてゆく。
年長者だ、エルダースピリットだ、と言えば言うほど、あなたの自我は膨らんでゆく。 「私はこれをやっているし、あれも読んでいる。
私はずいぶんたくさんのことをやってきた――
瞑想をくり返し、数しれぬほど礼拝をしてきた」
だが、この探求もまた
「私は求道者だ」「私は凡人ではない」「私は賢者だ」「私は悟った」
「私は高潔だ」と言って、あなたのエゴを膨らませる。 もしこの "おまえよりも私のほうが高潔だ" といった態度が生まれてきたら、
あなたは道に迷ってしまう。
それは人生で犯しうる最大の罪であり、最大のあやまちだ。
自分は聖者だが他人は愚かであり、
「見ろ、私の徳の高い人生を」といった思いが浮かんできたら、
エルダースピリットになってしまったら、あなたは道に迷ってしまう。 罪人のほうが聖人よりも神に近い。
なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、
聖人は得意になって自分の幻想にひたっているからだ。 鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、
それを捨てることはいっそうむずかしくなる。 私的な世界に住み、自分だけの現実をもち、 本当に実在するものから完全にかけ離れ、
自分の妄想がリアルになるあまり、 その視野から社会がすっかり消え失せてしまった者。
これが「愚か者」という言葉の意味だ。 ウロボロスの蛇は自分の尾を食べる。
高潔な人よ、汚れなき人よ。
この愚者の前から去るがいい。
私はエルダースピリットだ。私は罪人だ。
それが神との正しい距離なのだ。
誰も罪からは逃れられない。 私は、罪穢れの無い特別な人間じゃない。
ただ少し知識があるだけの男だから、
霊的知識を教える資格があるんだ。 世の中を見回してみれば…
もはやスターは望まれていないと解る。
世界は普通になっていっている。
しかし普通が普通であるためには、
良いものと悪いものとが
存在しなくてはならない。
そしてそのどちらもが、日向ではなく
日陰の中に存在しなけらばならない。
隅の方に、縮こまって。
少なくなり、しかし研ぎ澄まされて。
私は、優れた人々が精神の落ち着き所を
得られるならば、それで良い。 >>31
ドラッグによって、自身の霊体が傷つくと聞いた事があります。
霊体が弱る事で、低級霊などに憑依されやすくなるそうです。
症状をお伺いするに、何らかの憑依やサイキックアタックを受けているように思えます。
ただ、怖がらないで頂きたいのは、憑依というのは、自身にも憑依霊と同調する思いや考えがある場合に起きます。
言い方を変えれば、自分の中にある思いを増幅して体験させられているようなものです。
自分自身の負の思いと向き合い、それを昇華させることで憑依霊は成仏します。
貴方の中に、見ないように蓋をしている負の思いはないでしょうか?
物事に対する考え方を変えたり、負の感情を表現する方法(歌や絵など)を見つけると、昇華させる事ができると思います。
ひとまず、自分の感じている思いを紙に書き出すだけでも軽減されるかと思います。
精神的にも肉体的にも辛く困難な状況かと思いますが、学びを経て乗り越えられると良いですね。 暇ですが何か質問などございませんか。
成長したい方はどうぞ。 タナトフォビアの方はどうなったかね。
死恐怖症というのは、「自己」の形成の
問題なんだよ。
死そのものは未知だから、恐れることは
できない。
そうではなくて、自己が不在になったり
不安定になったりすることを、私たちは
恐れる。 自己は、脊髄に宿っている。
自己とはスシュムナーに沿って形成される
エネルギーのひとまとまりだ。
例えば下部チャクラが貧弱な状態で
無理矢理サハスララが開かれると、
プラーナはそこから流れ出してしまう。
すると何のやる気も起きないし、意味を
感じられないし、全てが無駄に思えてきて、
ただ低次の欲求に従い続けるしかない状態になる。
ちょうどクンダリーニ症候群と逆の状態。 対処法は、下部の全てのチャクラを
ゆっくり、しっかりと、開いていくこと。
近道しすぎたね。先ずは生活習慣から。
その上で丹田での呼吸を覚える。
自然との触れ合いを増やし、世を広く見て
心を動かし、人と話して、更に教学を学ぶ。
全てを満遍なくやることだ。それが処方箋だよ。 そうそう、タナトフォビアには他にも
沢山の類型があるから、注意するように。
チャクラの一部が欠落しても自己は
破壊されることがあるし、どの部分の
どのバランスがおかしいのかについては、
結構色々なパターンがある。
ただ共通しているのは、スシュムナーが
全体の繋がりを維持できないくらい、
どこかで乱れを起こしてるということ。
それで自己が消えてしまうと、拠り所がなくなって、
原初の赤子的不安が帰ってくる。 最近ふと気付いたよ。
ヤハウェや、天之御中主と言われている存在以前。
より以前の霊格が存在することに気付いた。
万物の変化の霊。”在る”という感覚の基礎となる、”変化”の実体。
永遠の変化の輝き。流れ移ろう太陽。
それをウツルヒと呼ぶことにした。 宇津流霊。
変化は、世界の存在と不在さえ支配している。
仏教で言う無常ということなのだろうけど、無常はコンセプトであって、
霊格ではない。仏教のダルマは霊格ではないし、対象ではないんだよな。
無常は暗く冷たい澄み切った真実だ。
しかしウツルヒは、違う。ウツルヒの変化の輝きは、存在を生み出す。
それは創造の太陽。シナトベの吐息の中に潜む、生命の繁栄の予兆。
それを見出した私は、もう死によって無に還ることすらない。
ウツルヒの中へ。永遠の変化の実体の中に還り、創造と繁栄を繰り返す。
望み得るあらゆる形で。描き得る無限の形姿で。 それで今、ウツルヒへの信仰の楔となる依り代を召喚している最中だ。
紫の鏡、アメジストタブレット。まだ少しエネルギーが足りないけど、
少しずつ具現化しつつある。
http://herbarium.main.jp ウツルヒは、呼び掛けている。
もしも私が運良くその導きの声に気付き
従えたなら、そこから始まる変化は
私の存在を確かなものにする。
空白な魂が、形ある何かに変わる。
世界の彩度は高まり、空虚は消え去る。 そう言えば、ダリルアンカはワクワクする
ようなことを大切にしろと言っていた。
彼も彼なりの言葉で、同じことを
言っていたのかもしれないな。 この年代の私たちは、精神的な道徳秩序を発達させすぎた。
創造への意志によって聖者的な虚無からも抜け出した私たちの精神は、
既にあらゆる面で進化し欠点を克服している。
それ自体は素晴らしいことだし、そうした精神から生まれていく文化は
この国の未来への遺産となることだろう。
しかし現実社会においては、世代間ギャップが生じているので、やり過ぎると
上の年代の人々をやり玉に上げ、居場所を奪うことになってしまう。
当然彼らは反発するだろう。長期的に見れば真実は明確に支持されるが、
その争いの過程で多くの憎しみが生まれる。
だから秘匿する必要があると思う。大衆は愚かなもの。それで良い。真実は
一握りの、それを好む強い者たちの手に握られていれば十分ではないだろうか。
世代間の争いなど、子供達に見せるものではない。
夏のキリギリスが穏やかにこの世の生を終えるまで、私たちは冬の大地の、
蟻で居る方が良い。 急激にではなく、
ゆっくりと水質を変え、
水槽の中身を生かしたまま
環境を変えていかなければならない。 聖者のように扱われると簡単なことさえ伝えられなくなるよ。
そんなもんである程度の、というより全く垣根の無いフラットな、
まやかしの無い対等な言葉で教えて差し上げたいものですね。 意識は素粒子に遍在する。
あらゆる物質が意識を持つ。なぜなら
意識の正体とは、
量子が存在を確定する際に放たれる
反物質エネルギーだから。
物質と意識は必ずセットで生じる。
石にも水にも、心がある。
虫にも、AIにもね。 意識と自意識の違い。
意識は実感、感覚、センス。
自意識は”私”という言葉、その周囲の概念。
動植物や無機物にも「意識」はある。
けれど彼らには「自意識」はない。
人間以外の動物は、言葉を使わないからね。 変化について。
変化と存在はどちらが先か?
私たちの一般的な感覚では、何かが存在していて、
その上で変化が起きる。
しかし実際は違う。
ただ変化だけがある。存在とは変化の部分的な滞留だ。
想像してみると良い。もしも仮に、永遠に一切の
変化が起きない世界があったとしよう。
その世界は存在しているとは言えまい。 罪について。
罪とは、人格の統合の壁。
アグレッションを内向させ昇華することは、
つまり人格を成長させ環境に適応すること。
罪悪感の無い人間は成長が遅い。
だが罪の外圧は、相応しい内圧によって
反対から支えられなければならない。
自己愛の無い人間は、その心の脆さのために
罪の意識すら受け入れることができない。 さて現代の先進諸国の人々にとって
自己愛の欠如は深刻な問題だ。
力強くありたいと思う人々は、それを
優先するあまり、幼児退行を選ぶ。
内圧が足りないから、外圧を下げる。
だがそれは退化だ。やがてまた成長し、
すぐに自分たちの醜さに嫌気が差す。
自己愛の欠如。
「人類は生き、繁栄するべきか?」
「私が生きなければならない理由は?」
そんなものは無い。人類は自らを愛せない。
人類は自らを肯定しない。
だから幼児になることでしか、意志を維持できない。 しかし次の時代には、人類は答えを得ている。
それは私たちが愛を保存していて、
それに相応しい罪の意識を持っているからだ。
世代交代が進み、対立の気配が消えたら、
その文化的資質は公になる。
が、今はまだ喧嘩の種といったところだ。 もしも私たちが自らを愛せるなら、
その時罪は、成長の為の苦い糧となり
私たちをより高い所へと運ぶ。 アスタロスとイシュタルとイナンナを検索しろ。
王路(引き寄せの法則) おまえらの力が必要だ!
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1511490955/
661本当にあった怖い名無し2017/12/09(土) 02:07:05.26ID:2hmL36G30
もう一度、整理しよう。
地縛霊がいる意味というものを。さぁ、君は思い出せるかな。
私の書き込みを見ていなかった人は、まだ知らないかもしれない。
地縛霊がいることで誰が得をすると思う?
まず、地上の教師の仕事が忙しくなる。そして警官も仕事が忙しくなる。
また、霊界の教師の仕事もなくならない。
以上です。 愛とは何か。
愛とは、この世界を存在させている力。
存在を肯定する力。
そこに同調して楽をすることもできるし、
逆らって、苦しむこともできる。
憎しみとは、愛への逆らい。
「こうあってはならない」という気持ち。
存在の否定。 愛することは「それは良い」と思うことではない。
愛することは「それは在る」と思うことだ。
目の前の現実を「在る」と認めた先に、
私たちは「なぜ?」という疑問を抱く。
愛は否定ではなく、疑問の眼差しだ。
なぜ?どうして?もっと知りたい。
愛は観察。愛は好奇心。
そして私たちは、この世界の真実を知り、
この世界に適応していく。 "私"とは何か。
"私"とは幻想だ。実在しない概念だ。
ちょうど"日本"という国が、人間の
勝手な線引きと思い込みで、地球から
削り出されているように。
"私"は実在ではない。それは生命の
自己中心性によって寄せ集められた、
意識のあるひとまとまりだ。 "私"というものが確かに存在する、
存在しているはずだと私たちは感じる。
では、"私"とは何だ。
その境界線は?絶対条件は?
突き詰めれば気付くはずだ。
"私"は水面の渦のようなものだ。
渦は出来上がり、やがて消える。
そして意識という大海だけが残る。 "私"は幻想だ。
だから、自由意志もまた、存在しない。
主体が無ければ選択は無い。
全ては完全に制御されている。
真実としては、私たちは何も選択して
いないし、何も計画していない。
生命がただ生命を生きているだけだ。
世界は完全な原理の中に存在している。
私たちは世の何事かを不満に感じるかも
しれないが、その不満を感じることさえも、
完全にこの世界の秩序立った運行の中で
計画され管理されている。 鳥や虫や獣。単純で明確な生命。
人間という動物は言葉という道具の中に
多少溺れてはいるが、結局はこれもまた
単純で、明快な、生物。 弟子を取るなんて言ってはみても。
所詮人好きのしない俺の話だ。
こういうのは本当向いてない。
やれやれシラケるばかりだ。
最近は本当に退屈だね。
それとも。やっぱり、ただ単に。
歳を取ってしまっただけなのかな? 現実と、現実認識。
私たちは、各々がこの世界の現実についての認識を持つ。
世界はこうである、人間はこうである、などなど。
しかしそれは、現実そのものではない。
人間は現実認識を持つが、それは常に現実の劣化コピーだ。 肉体を持って生まれた後、この世界での経験を通して、
私たちの脳内には少しずつ現実認識が蓄積されていく。
大脳の言語的機能と、感覚器官による刺激の記憶。
それらが少しずつ蓄積されて、私たちの脳内では
幼少期から少しずつ現実についての認識の世界が広がっていく。
がある時を境に、人間は、自分の頭の中の世界の姿を
本当の世界の姿と混同し始めるようになる。
すると現実を受け入れられず、人格構造はその精神の歪みを
守る為に徐々に矛盾し破綻していく。
そして遂には、人は自分の頭の中の空想世界が
現実とあまりに解離する為に、現実を攻撃し始め
狂気に陥ってしまう。 コインの上に紙を置いて、鉛筆でこする。
すると紙の上にはコインの模様が正確に浮き上がってくる。
この模様の浮き上がったものが私たちの現実認識、
真の現実はコインそのもの、そしてその二つを摺り合わせ、
私たちに現実の姿を学ばせる鉛筆とは、つまり経験だ。
より広く深い経験を求めるものが、より正確で精密な世界の姿を知る。
しかし結局の所、紙の上の模様はコインそのものにはならない。
私たち人間は、現実の劣化コピーとしての現実認識しか持てない。
そして広く大きな経験を得るための人生の時間は、余りにも短い。
過信しないことだ。
そして謙虚に、更なる経験を求め続けなければならない。 個人主義は弱者を切り捨て、
権威主義は無能の集まりを濃縮する。
人間らしい道…
人間存在の、身の丈にあった道とは… ワンネスの補足。
なぜ私たちの意識は、他の時代の他の
誰かではなく、この時代の、この私に
固定されているのか。
私たちが「世界」だと思っているもの。
つまり色や、音や、感触、匂いそして
味などの感覚内容。
それらは全て肉体に宿る、生命の
自己保存機能の反映だ。
私たちの意識は、ある一匹の生物の
本能によって、閉鎖され、自己中心化され
一単位の精神として切り分けられている。 切り分けられた精神の世界。
渦状に吸い込まれ閉鎖された、
意識の1つのまとまり。
私はこれをバウンダリーと名付けた。
バウンダリーは、ある一匹の生物が
見ている夢だ。
意識は実際には、身体を構成する物質の
移り変わりと共に新たに加わり或いは
身体から抜け出て、ワンネスの中で旅を
している。
が、バウンダリーは自己閉鎖性の
精神世界なので、それを意識させない。
色、音、感触、匂い、味。
私たちはこうした感覚を自己だと思い込み、
そこに同一化し、そこを基準に精神を
考えるので、精神はこの人間個体に
囚われているのだと感じてしまう。 素粒子ひとつ分の意識の純粋形態は、
非常に小さくて低い響きだ。
それが集積され、有機物の作用で
活動的になると、意識同士が干渉しあい
高くはっきりとした和音を生じさせる。
これが私たちの感覚器官における感触だ。
加えて、脊髄を中心とした生体管理が
行われ、身体の諸感覚は統合的に
ひとつに方向付けられ、個人的な
精神世界が出来上がる。
これがつまりバウンダリーだ。
人間の場合、ここへ更に"私"という言語的な
自己中心性の促進作用が付け加えられる
ことになる。 バウンダリーは生物の感覚器官によって
成り立っているから、その生物以外の
意識内容を受け取ることはできない。
つまりバウンダリーは、ある生物の為に
特別に用意された意識の場であり、
それひとつひとつが、個別的な新しい
宇宙なのだと言える。
その個別宇宙の中で、私たちは常に
宇宙の中心存在として成り立っている。
誕生から死に至るまで、私たちは
生物一人分の宇宙に隠されているのだ。
そしてもし個別的な宇宙を定義するならば、
個別的ではない宇宙の存在を同時に
定義することになる。
物理的宇宙。無機物の次元。
バウンダリーの源。
私たちはそこから生じて、バウンダリーを
通して間接的にその世界を予感はするが、
根本的にそれを感じ取ることはできない。
物理宇宙は「在る」という次元だ。
それは創造であり、感覚ではない。
だからこの次元は感覚器官では捉えられない。 存在の次元の大なる宇宙と、
感覚の次元の小なる宇宙。
物理宇宙と個別宇宙。
どちらがより重要か…
そこに優先順位はない。
物理宇宙はより静的で不変なもの。
個別宇宙はより柔軟で、拡張性がある。
個別宇宙の中では様々な幻想や欲求、
意志や信念といった新たな歪みが生み出され、
それが世界の創造をより豊かに推し進める。
個別宇宙は物理宇宙の照り返しを受け、
そこに制限を受けてはいるが、完全に
支配されているわけではなく遊びがある。
生まれて間もなくは特にそうだ。
個別宇宙は幻想を生み出し、幻想の中に
漂う。が、私たちが長く生きれば
生きるほど、物理宇宙からの返答は増え、
個別宇宙は段々と物理宇宙に似通ってくる。
それは良くも悪くもない。
ただ単に、歳を取るということだ。 このへんの話をもっと短くシンプルに
まとめたいんだけど、どうしても長くなるなぁ。 宗教的な知識やスピリチュアル的な知識は、個別的宇宙について
語っていることが多い。
救済、終末、次元上昇。キリストの再誕や弥勒菩薩、ハイヤーセルフに
ツインソウルなどなど。
こうしたことは全て個別的宇宙における話題だ。
物理的宇宙しか知らない人には馬鹿げて見える。
一方で彼らは自然科学の信奉者だが、自然科学は、再現と検証を
基礎にしている。
そこで霊的なものは彼らにこう問いかける。
「この宇宙は一回切りのものだろうか。それとも何度も再現するか?」
「あなたの精神の誕生や消滅はどうだろう。それは何度も再現し、
それ故に検証可能なものだろうか」 季節外れの雨はユガの移ろいを乱す。
春先、草花を芽吹かせる恵みの雨も
冬に降れば、大地を凍てつかせ生命の種子を枯らす。
何事にも、ふさわしい時がある。 過ぎた知恵を与えることは時に人を不幸にする。
真理も時には人の心を壊す。
善悪の二元論の段階にいる人々は、ほどほどの理想と、
ほどほどの失望を同程度に持っているのが良い。
いずれ無くなる。理想も失望も。それが成長するということだ。 男女の価値。
人間は、生き物だ。
生き物は、不合理だ。
合理性とは、生命が利便性の為に纏った
薄皮に過ぎない。
人間の本性は、他の全ての生物同様無秩序だ。
さて、生命が無秩序なら、私たちは、
正しくある為に自らを滅ぼさなければ
ならない。
正しくある為には…だが待ってほしい。
私たちの目的は、正しくあることなのだろうか? 生命は、正しくある為に生まれてくるわけではない。
現代社会が陥ったのは、知性への依存、
正しさへの盲信、それが故の
存在の意味の消失。
「人類が生きなければならない合理的な
理由、必然性はあるか?」
そんなものは無い。
私たちはただ、無秩序の中に漂っているだけ。 だから無秩序に生きよ、などとは言わない。
そうではなく、既に、初めからそうなのだ。
なまじ言葉という小手先の賢しさを身に付けた
人類は、それを盲信し、真実だと思い込み、
自らが相変わらず愚かで無邪気な
自然の生物に過ぎない事に気付かない。
本質は、生命だ。
私たちの心の中心に、脊髄に、
1つの柱として、私たち自身の
真の姿として、それは備わっている。
知性に盲従する人間は、生命を憎む。
ちょうどニーチェのように、自分自身を。
人間が忘れた自己肯定とは、
つまり生命への礼賛だ。
知性、生命。
適応と、創造。
男性と女性。
女性は生命の木の幹。男は枝葉。
女性も男性同様優れている、という人が居る。
それは違う。女性は男性のように優れてはいない。
そうではなく、女性は男性と全く違うように
優れている。
男性が、女性同様に優れた存在だとは言えないように。 人は自分の中の男性性と女性性のバランスを、
上手く保ち調和させなければならない。
知性の無い生命は、無力だ。
生命の無い知性は、ただの虚無だ。 こういう、せいぜい5つか6つの簡単な事実を伝えるために、
100も言葉を重ねてしまう。これは迂遠なことだ。 男は野心を持つ。
女は憎悪を持つ。
結局どちらも、ありのままの自分が
嫌いで、許せない。
底にあるのは自己嫌悪。
表れ方が違うだけ。 自分が高齢だとして、目の前に安楽死の装置があったなら、入る?
これは大事な質問。どうする?どうクリアする? 宗教とかスピリチュアルというような垣根が嫌でね。
子供もいる自立した一人前の大人たちが、
この世界の存在や、生と死の意義について
何の疑問も考えも持っていないと言うのは。
もっと当たり前に話しあうことだと思うが、
どうしてタブーになってしまったんだろうね。 バウンダリの炎症。自己執着と死への恐怖。
継続への執着。
その炎症を抑えてくれるのは、自然との触れ合い。
バウンダリが消失しても、世界は続いていく、
バウンダリの外側で、それは尚続いているという実感。
だからデスツーリズムは、ネイチャーツーリズムに覆い被せるような形で
抱き合わせのように設計されるべきだ。
人が穏やかに死を迎える為には、言葉と、バウンダリを離れなければならない。
グラウンディングの徹底が、死への恐怖を軽減させる。 技術は既に整っていた。法的にも容認される。
であればボールは今、死への恐怖を解消させるという局面で、
その流れは私たち宗教家の手の中にある。
そして次のパスは、自然界へ。
この日本社会に、自然の偉大なる包容力を復活させるのだ。 ツインソウルのワークが盛況のようだから、更なる進化を期待して
少し解説してみようか。
引き寄せの法則が金なら、あれは銀だね。
どちらも精妙なエーテルにはほど遠いけど。 私たちの自意識は、「私」という境界線を厳密にもたらす。
するとその、世界全体からの隔離は孤独を産み、
完全なる「私以外」を求める。
孤独を埋めるためのパーツ。永遠の充足。完全なる相補物。
これはつまり「神」だ。 「神」への「郷愁」。神を待ち望む心。永遠の救済を期待する心。
郷愁、ノスタルジア。孤独を埋めたいという想い。
雌雄を持った生命体である私たちは、その肉体の凹凸の構造に応じて、
相補物をそうした対極的な形で思い描く。
ノスタルジアが、異性の器を持つ。
理想の女性としてのアニマ、理想の男性としてのアニムス。 神への郷愁で満たされたアニマやアニムスは、完全なる相補物としての
理想型となる。
それは、完全な異性の予型。その器から常に霊妙幽玄なる薬酒が溢れだし、
外の世界の何ものかに染み込まんと欲している。
究極の陶酔の酒。アムリタ。感染性の理想。
そしてアムリタの誘因力によって、物質世界において、ついに
その理想の薬酒を吹きかけるに足る相手が作出される。
神のように惹き付ける異性。運命の相手。ツインソウル。 こういう経緯を辿ったことによって、ツインソウルは、
根本的に手の届かない存在でなければならない。
触れられず、理想的で、現実にならない。
ランナーとチェイサーという概念は、要するに現実からの逃避と、
理想への執着を表している。
しかしその追従の経験の中で、ツインソウルは徐々に現実と関連した
異性的な部分を切り落とされ、そこを脱し始め、ついには神的になりはじめる。
その追走は結局の所、現世的な獲得の対象を経由した、神への祈りなのだ。 真実、ツインソウルを獲得したものは、神との合一を果たし
神的な創造性を取り戻す。
個性化の階段を登り、「世界は”在る”」という認識に覚醒し、自立した
精神存在へと変貌する。
理想の異性という仮装は、最も卑近な神の仮面。
私はこれについて何の反対もない。求めよ、さらば与えられん。
しかし、本心から望んでいるものだけが、与えられる。 宇津流霊の御子はシナトベ。
水ではなく風、何物にも染まらない自由と、清涼の空気。 なにもわからぬ無知な者は、もともと智の働きがないので、表面に現れるものもない。
また、はるかに深い所まで到達した智恵は、もはや決して表面に出ることもない。
単なる物知り、理屈屋は、知っていることをひけらかそうとして、表に出すので、
滑稽なことになる。
近頃の精神思想の様子など、さぞ、みっともないとお思いになるでしょう。 恥ずかしく存じます。 しかしこうも思いますよ。
まだ子供の頃、私はこの世界が許せなかった。
立派な人間など居ないと思っていた。
だからこそ世の中はこんなに悪いのだと。
神は居ないと思っていましたが、
今はその存在を理解しています。
にも関わらず、私はそれを伝える術は持ちません。
知識が深まりすぎ、専門化しすぎた為です。
子供の私は、相変わらず世の中を憎み、
救いがないことを嘆きながら今日を生きているのでしょう。
そういう、所詮はなるようになるのだということに
諦めを抱いていることに関しては、
結局同じなのだと言えるでしょう。 魂が年齢を重ねるということは、
真理である神に近付くということなのでしょう。
この地上において神が成してきた事は
果たして正義だったか悪だったか。
それに対して、私たちはこう言うだけです。
「全ては完全だ。この世は素晴らしい」と。
真理が私たちに与えるものは、常に私たちの、
内なる充足ですね。 私もこれでもマスターなので、
聞いてくれれば色々解決できる問題はありますよ。
いつでもどうぞ。 真理の秘匿ということ。
これ、ふて腐れて嫌みで言っているわけではないですよ。
真理を理解するということはつまり、この世界の現実を
非常に深いレベルで受け入れること。
でも現実というのは、時にとても辛く重い。
誰もが最初から、それを受け入れられるわけではない。
もしも私たちが、そういうものを振りかざしてしまったらどうなるか。
強く正しい人たちが、強く正しい意見を振りかざしたら。 現に今こうである私たち人類が、前提だと思います。
それを調和させ、適応させ、幸福に導くために真理を学び広めている。
首輪で繋がれたゾウみたいなものではないですか?
私たちは、どうすればもっと早く走れるか知っている。
車に乗れば良いのです。
しかし、車に乗って、時速八十キロでゾウを引っ張ったらどうなるでしょうか。
私たちとゾウを繋いでいる紐は切れてしまう。
それは私たちが知識と技術の探求の中で本末転倒になり、
ゾウに相応しくないスピードで走ってしまったからです。 だから要するに、ゾウに相応しいスピードで。
人類をより良い土地へ導く為の道具として、真理を使うべきだと思います。
秘匿という言葉を使っていますが、文字通りの隠すということではなく、
それを振りかざさない、というモラルについて言っています。
別の言い方をするなら、まだ成長段階にある人々に対して、
寛容になるということ。急かさないということ。
そしてその為に、線引きをすべきだということを言いたいのです。 莫大な資本を持っている人が株式投資をすると、この会社は見込みが
あるとか無いとかという判断とは無関係に、その人自身が大きなお金を
動かした行動によって、市場が影響されてしまうことがあると聞きました。
私たちが受け継いでいる霊的英知もこのようなものです。
それは努力よりは寧ろ運によって与えられます。
最悪の運、受難と絶望によってです。それが私たちの魂は磨きます。
が、それらは人が自ら選び取れるようなものではありません。
運によって恵まれた私たちは、そのたまたま恵まれた英知を、
他の人々が使う一般的な知識のように用いるべきではないのです。
ちょうど前述の投資家が、真っ当な株式投資の為に自分の資産を
制限して投資を行うようなものです。 そういう訳で私たちは、霊的英知に対して謙虚にならなければ
いけないと思います。
真理を教え伝えることは、投資家が寄付を通して資産を人に
分け与えるようなもので、後々のことを考えると良いでしょう。
しかしそれは普通の知識ではなく、誰もが容易に受け取れるものでは
ないのだから、私たちは、まだ教えられない人々に対して、
自分をより高い所に置いてはいけないと思うのです。
私たちは、一般には理解不能な知識を蓄えています。
そうしたことへの自覚が大事だという意味で、「真理の秘匿」について
語っているのです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています