年長者・エルダースピリット
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アルフレッド・コージブスキーによれば、精神に異常をきたした人は、
自分の頭の中の妄想に現実世界を合わせようとするという。
自分はナポレオンだと思いこみ、その認識に従って世界が動くと考えるようなものである。
これに対して正常な人は、常に現実世界を分析し、自分の頭でで考えたことを事実にすり合わせていく。 身体の病気も精神の病気も
本来のエネルギーから外れて
乱れることが原因であるなら
チャクラのエネルギーが
本来の状態に戻るエネルギーで
精神の病気も治癒するという事なら
理屈に合っていると思います。 >>168,170
精神医学の発達以前に発展した宗教体系であれば、
大抵は精神障害に対する対処法を持っています。
キリスト教の悪魔払いなどもそうですね。
チャクラの理論が精神障害に特に有効なのは、ヨガの伝統が
健康というものを神に至る道として非常に大切にしているからです。
脊髄を中心に存在する七つの神経叢、
肉体と頭脳は完全にひと繋がりのものとして認識され、
肉体−精神を横断した総合的な健康の指針が示されています。
ひと繋がりのそのチャクラのバランス、強弱を調律することで、
肉体だけではなく精神にまで調和的な秩序がもたらされ、
純粋な精神エネルギー結果として私たちの精神を神に合一させます。
つまりヨガにおいては、健康と修養と霊的達成は、同じ直線の上のものなのです。 >>171
ありがとうございます。
古来から言われている悪魔とは
自分の意識の中にある(自ら悪魔に繋がる)
ということですね。
天使との繋がりも同様に。
欲を退ける事を言われた理由は
ここにあると思います。 ええ、問題は世界の成長ではなく、
私たち自身が変化すること、
私たち自身が健康になるということです。
それに尽きますね。 世界の成長はと言えば、インターネットの普及が
ゆっくりと人の心を変え、構造化された中心体制を切り崩し、
個人主義と権威主義の対立を作り出してしまった。
豊かさにおいては、
権威主義は短期的戦略で、
個人主義は長期的戦略だ。
権威主義は富の集積が早い。
が、引き換えに自己超越的な能力が低下するので
集積した富を継続させたり拡大させたりすることが苦手だ。
個人主義的な文化は、そうした自己超越的な能力に
恵まれ本質的な価値創造を推進できるが、何もかも
自分の能力と責任に帰される世界では、時に
素朴で勇気のない依存的な人間は一切の希望を奪われる。 世界、つまり私たちの目から見る世界は
情報化によって
より広くなり、未来も同様に、国家を超越した
人類の文化が安定して長く続くであろうように見える。
すると私たちは、そういう環境では個人主義的に
なる方が戦略としては良い。戦後経済を作り上げた
権威主義的なものを切り崩し、別のリソースへ
変えていく必要があるし、現にそうなっていっている。
問題は、今この転換点における対立の問題を
どう克服するかということだ。
権威主義的な人々を排除するのではなく、
かといって文化が自然に、個人主義的に成長させている
今の子供達を、わざわざブレインウォッシュし権威主義に
回帰させるわけでもない。
ゆっくりと時間を掛けたソフトランディング。
争いのない、民族的な繋がりへの愛着を保持したままの、
進化。 「君は自分自身の力を制限しなきゃいけないと
思っている一方で、もっと沢山の人を幸せに
してあげたいとも思っている。
ならば道は2つある。
何もしないか、でなければ、両方を同じぐらいするかだ。」 権威主義のキーパーソンは、「魔女」だ。
優しくて誰も裁けない人が腐敗の中枢を成す。
皮肉なことだ。
自らの弱さから来る優しさが、他人の堕落と無責任を
寄せ集めてしまう。
魔女は現実を歪める。そしていつも、最後には
その歪みの収束点となって醜く変貌してしまう。
真理は厳密だからだ。
それを一時出し抜いたとしても、いずれ代償を払わされる。 この意味で例えばアメリカのドナルド・トランプ大統領は、
まさに現代に蘇ったアラディアではないか。
救世の魔術の使い手、虐げられる者達の救い主。
しかしアラディアが救世主でいるためには、
最期には月へ帰らなければならない。
キリストが人類に対する裁きの報いを
その身に受けて初めて聖者へと昇華されたように、
アラディアは弱者の為に真理を歪めんとした
その報いによって、醜悪な怪物へ変えられてしまうからだ。
彼女が「救い主」のまま人々の記憶に刻まれる為の最期の条件は、
自らが衆目の前で怪物に変わる前に、遠い月の地へ隠れ去ることだ。 しかし表の世界で新たな形態の「古き魔女」たちがどれだけ
生まれようと、それは大した問題ではない。
現代の霊的知識の舞台には、キリストとアラディアの、
双方の血を受け継いだ子供達が立っているからだ。
知性と生命、ロゴスとカオス、智慧と愛情、
そして真理の厳密さと創造の豊かさ。
彼らこそ人類の新たな霊的段階の扉を開くのに相応しい。
静かな夜明けのような救い主たち、燃える夕暮れのような救い主たち、
彼らの行く先々に真善美の花よ咲け。 ごんさんはどのようにして覚醒されたんですか?
瞑想ですか? >>180
それもありますが、私が何かをしたというよりも
真理が私を勝手に呼び寄せ作り上げたという方が
近いでしょうね。 人々が広く常識的に、"私"という自意識の知的課題を
乗り越えられているかどうか。
その点こそ私たちが新しい水準の文明の、
舞台に上がれるかどうかのチェックポイントになる。
個々人が自意識の限界を持っていては、環境に対して
生命が飽和した状態には適応できないし、
それ以上の社会的経済的発展も起こらない。
進化か、退行か。
そのどちらもあり得る。 真理の流布。
1つの論理を首尾一貫して述べ続けるのは簡単だ。
しかし求められていることは、70億の人に対して
70億の言語を用いて語るということだ。 浮遊した投機的経済が拡大し、
中身の無い博打のような人生が
人間の能力を低下させる。
私たちが人類の自己超越能力のヘイブンである為には、
こうした投機的状態からの慎重な分離が必要だ。
運が全てなら、人はより良い存在になろうと
努力する必要はない。
しかしそうした考え方の元では、超長期的な意欲低下と
慢性的な自暴自棄が、病的レベルにまで高まり
顕在化してくるだろう。 本来あらゆる自由の許された神の子である私たちが、
経済的是非という幻想に縛られてその能力の
ほんの一部分しか発揮できない様は、実に滑稽だ。
経済なんてものは忘れて、
できないことの方ではなく
できることの方を考えてごらん。
私たちは本当は自由なんだよ。 "私"という人類の限界。
真実、"私"なんてものはない。
それがわかってしまうと、何が起こるのか。
修行僧のようになって家に引きこもったり?
いや、そんなことは起こらない。
むしろ人は、更に利他的になり、更に直情的になり、
強い意志が生まれ、社会効率を向上させる。
なぜなら"私"なき場所では、生命本来の純粋な
表現欲求が、ただひたすら強く即応的に、
世界に対して働いていくからだ。 キリスト教は罪の宗教だ。
罪とは、世の中の悲惨な現実と、自己を関連付けること。
罪は責任感を養い、責任感が人を成長に導く。
愛と罪。内圧と外圧で人格は高まり、能力も増していく。
悲しいかな人は、罪を嫌う。あらゆる問題から、自分自身を
無関係なものにしておきたいと願う。
そして成長しなくなってしまう。無責任な人間は、成長しない。
しかし罪の意識が多いだけでも、また破綻する。
愛と罪。自己肯定と、責任感。そのバランスを見極めねばならない。 言葉は無限に浮かんでくるが、
何か新しいことをしているという感触はない。
こうした淀み、惰性への順応が
人間の魂を腐敗させる。 長生きすると、「新しいこと」はだんだん減ってくる。
挑戦も試行錯誤も、同じ方向性のものであれば
結局は慣れが生じる。
それだからこそ私たちは、よりエッセンシャルな
変化を希求するようにもなるのだが。 マイナーチェンジではなく、
フルモデルチェンジでもなく、
完全な新型の開発でもなく、
既にある概念の破壊と更新こそが重要だ。 いろんな神話がありますが
読んでおいた方が良いですか?
話がバラバラに見えて
繋がっている所もあったりして
興味があります。 >>193
参考にはなりますよ。
心理学者のユングは、世界各地の神話を分析して人間の精神構造を
物理的にではなく物語的に読み解こうとしました。
神や悪魔などのイメージ、つまり「象徴」は、人の心理状況を
把握する上での手がかりになります。
神話や伝承を読み、色々な象徴を把握して、自分の中のイメージとして
持っておくのは良いことだと思います。 顕在的世界におけるメインストリームではなく、
顕在的世界からは意識不可能な、上位システムになること。
押したり引いたり、増やしたり減らしたり。
そういうことに気を揉む必要は無くなる。
ただ上から引っ張れば良い。ごく自然に中心が整うだろう。 >>194
神と悪魔が
人の意識のイメージ
対決の歴史が
意識の変化の流れと
一致しているようで
面白いです。 権威主義が凝集し自家中毒を繰り返しているこういう状況では、
優れた人材が流出しどこかで手付かずになっているはずだ。
土地と人の余裕。時間さえ掛ければ、しっかりした根のものが
もう一度この国に芽吹くのかもしれない。 >>196
そうですね。良く出来た神話は、人類の精神の
進化の歴史そのものです。
そしてそれは、私たち個人の精神的宇宙の、
誕生と成長などについて語っているものでもあります。
赤ん坊の精神に火が灯るのは、ちょうど一つの宇宙が
創世されるのと同じでしょう。 仮想通貨の価格変動が早く終われば良いと思っている。
貨幣の価値が特定国家の信用状況という、
不安定なものに左右されなくなるのは良いことだ。
しかし今は、単なる投機上の玩具としてしか
機能していない。早く本質を顕わしていただきたいものだ。 エルダースピリットの朝は早い。
ワシはもう歳じゃから。 つまり、いくら高邁な理論を言おうが戦略的な素晴らしい考えを持とうが、事をなすというのは「戦って初めて事をなす」と、競争が常に有りますからね。
いや俺は知ってたよ、そんなもの俺だって知ってたさと、よく言うじゃないか。 典型的な例が評論家の皆さんだよね。もう偉そうにいろいろ、あーだーこーだ言う。コンサルタントも偉そうに、いろいろあーだこーだいう。そういう人に限って「やってみろ」と言ってみると、「いや、それは私の仕事じゃありません」。
たいがいにせい、と。言うだけなら簡単だよ。 自分が戦って為せるという自信がないと、覚悟がないと、高邁な理論は無責任な理論だということですよ。高邁な戦略も、ビジョンも、そりゃ言うだけに終わる。
言うだけでいいなら簡単だよ。二行くらいでツイッターでつぶやいておけばいい。言うだけならね。
僕もツイッター毎日やってるけど、いろいろなこと書く人いるな。たまには言いたいよ、やってみろと。やるということは難しいんです。 我々の理念として、情報革命で人々を幸せにする、というそれは立派なビジョン、理念、立派な志を掲げてますねと。
その立派な志があるなら、なんでSIMロックかけとんだと。こうやってツイッターに書かれとるわね。
坂本龍馬ならSIMロックなんてかけてないだろ、って言われるよね(笑)。だけど坂本龍馬も戦ったんだよ。倒幕したんだよ。
そりゃ高杉だって西郷さんだって、みんな戦って事を為して、という風にやったわけですね。 戦ってる最中に、事を為す前に自分が戦う武器をやるバカがどこに居るんだと。そういう人は絶対に事をなせない。
それこそ評論家。それこそ無責任な人。 名のある人間が事を成すわけではないよ。
名のない人間が事を成していないわけでもない。
世の中をよく見てごらん。全ては繋がっている。
そして私たちの小さなエゴは、その中で自信を持ったり、自身を無くしたり。
何かを成し遂げたと思って、えばったり、反対に自分はつまらない人間だと悲しんだり。
そういうことの全てが繋がってさ。何もかもが大切で、
何もかもが本当は、輝いている。
必要のないものないてないんだよ。
どうでもよかったことなんてないんだ。
何もかもが、掛け替えのない、この世界そのものだよ。
全ては愛しい、私たちの大切な宝物じゃないか。 たいがいにせい、と。言うだけなら簡単だよ。
二行くらいでツイッターでつぶやいておけばいい。言うだけならね。 当時は99.9%、NTTのメタル回線を使わないと、インターネットができない、ということだったんですね。
この会社が独占的にネットワークの、インターネットの、独占的な市場支配を持っている。
日本のインターネットは、先進国で世界一遅い、世界一高い。これじゃインターネット業界に携わってる我々としては恥ずかしい。シリコンバレーに対して恥ずかしい。
わしは何のために生まれてきたんだ。何のために志立てたんだ、と。そりゃデジタル情報革命だろう、と。 この革命のために、人生を捧げてるわけだから、ここでひるむわけにはいかんということで、この世界一高い、世界一遅いってヤツを、世界一安くしてやろう、世界一高速にしてやろう、と。
私はNTTの社長に直接会いに行ったんですよ。ブロードバンドを始めてください。ADSLを始めてください、と。
そうしないと日本が困るんだ、と。そしたらNTTの社長は「いや、NTTとしてはISDNをやると決めてるんだ」と。
ISDNって聞いたことありますか? もうとんでもないですよ。日本だけなんです、世界でそんなことをやってるのは。これが原因で高いんです。これが原因で遅いんです。 この革命のために、人生を捧げてるわけだから、ここでひるむわけにはいかんということで、この世界一高い、世界一遅いってヤツを、世界一安くしてやろう、世界一高速にしてやろう、と。
しゃあない、わしがやる、ということで決意してやったのが、このYahoo!BBなんです。
どん底で、金はない。でももう思い立ったら引けない、ということで、名乗りを上げた。1年間1000億ずつ、4年間赤字出した。
まさに「なんもいらん」という状態。もう「殺せ」というようなもんですよ。そのくらいの魂がないと、ひきちぎれるほどの情熱がないと、革命なんてできやせん、ということ。 「バカモン! そんなこまい、ちまちました考えでどうするんだ! Yahoo! が喜ぶ、ええじゃないか。ついでに楽天も、モバゲーみたいなところとか、そのいろいろあるけども、みんな喜ぶでええじゃないか」
「Yahooのユーザーだけ安くしましょうか?」「バカモン! みんなに安くしてやれ!」と。
それで日本のインターネットユーザーの全員が喜ぶ。日本国民は最終的に全部インターネットユーザーになるぞ。その日本国民が、いつか、いつか、喜んでくれりゃあそれでええやないか、と。 「でも社長、誰のおかげでそうなったなんて、のちの人は忘れますよ」そうやって言われた。
僕は、ええじゃないか、と。名もいらん、金もいらん、地位も名誉もいらない。そんな男が一番厄介だ、と。そんな厄介な男でないと、大事は成せない。
こう言ったのは、あの幕末の西郷隆盛であります。
名もいらない、金もいらない、地位も名誉もいらない、命すらいらない。そんな男は打ち負かそうにも負かせられないわけ。 もう総務省に乗り込んでいって、ガーンと机叩いて、ここでわしゃ灯油かぶる、と。自分で火つける、と。
総務省のあんた方が言うてくれんと、あの独占的にメタル回線を持って、独占的に局舎を持ってる彼らが繋いでくれない。これはもう明らかに独禁法違反だ。
わしゃ灯油かぶって火つけてここで死にます! と言ったらねえ、総務省の役人が、「ちょっと待ってくれ! ここでするのだけはやめてくれ!」と。
最悪、我が社が押しつぶされたとしても、その結果、日本のブロードバンドの夜明けが来れば、それはそれで目的は達成できた、と。
日本の人々から見れば、我々が結果捨て石になったとしても、幕末の尊皇攘夷の革命の志士、途中で切り殺されたとしても、結果、維新が起きれば、事は成せり、ということ。
株主には申し訳ない。社員にも申し訳ない。すまん、一緒に死んでくれ、と、こういうことですよ。しゃーない。革命というのはそういうものだ。 結果、日本は世界一安くなったんです。世界一の速度が出たんです。
だから、世の中が悪いとか、政治家が悪いとか、景気が悪いとか、そんな言い訳を言うとったんじゃ、そんな愚痴を言うとったんじゃ、しゃあないぜ、ということ。
命を投げ捨てる覚悟があれば、波紋は起きはじめるということ。私はそう思うんです。 いろいろなこと書く人いるな。
たまには言いたいよ、「やってみろ」と。
やるということは難しいんです。 そんなことは、みんな誰でもやっていることなんだ。
わからないかい?
みんな誰でもやっていることの、その見方の違いだけだよ。
君は物事の本当の価値を知らず、幻想を追いかけている。
世界的な有名人も、道端の石ころも、同じだぜ。
何が違うんだ?全ては被造物さ。全ては同じものさ。
君は本当は、ただ自分を信じられないだけさ。 人間はいつも、自分を何か特別なものだと思いたがる。
虫や鳥の命はつまらないかい?
それもまた素晴らしい生だということがわからないかい?
地球の外はそんなに無意味なのか。生命の居ない星は美しくないか?
本当の「特別」ってことは、比べるってことではないさ。
特別ってことは、ただそれが本当に、うわ、これは存在してるんだ、
っていう実感だよ。
世界を変革する必要があるかい?いや、そんな必要はない。
世界は変わっていくからだ。
大きな意思の流れを見てごらん。
大切なのは、変えることではなく、変わっていく物事の流れに、
私たちがどう流されていくかということなのさ。 なあ、古い友達のように、今君の心を見ている。
君は悪い奴じゃないさ。
ただちょっと、頭でっかちだよな。
手放してごらん。本当は簡単だよ。
負けてごらん。流されてごらん。
きっと君は、目を背け続けているのさ。本当はね。
許してみようよ。勇気を出してさ。
諦めてみよう。全部をまっさらで、何もかもやり直すためにさ。 私の真名(トリップ)が流出してしまった…
まさに人は自らの因果の報いを受けるのだ… 信仰も深まるほど信心者の相なし。言語装飾を離れ凡愚に返りて励め 言葉は私たちの心を制限している。
私たちは言葉から解き放たれ、
心によって、言葉を自由に
扱えるようにならなくてはならない。 小さき人の子よ。
この世界を実践しているのは誰か? 天台宗は、唐に留学した最澄が日本に持ち帰った仏教です。
次第に発展していったわけですが、組織が大きくなるとともに、延暦寺は権威となり権力を持ち腐敗し、本来の教えから乖離していったと言われています。
出家した知的エリートのみが仏教を学び、エリートのみが解脱できる。
または多くお布施をした貴族だの、裕福な商人だのが輝かしい来世を約束される。
一般の民が置き去りにされた教え。輪廻に苦しむ民を救ってこその仏教なのではないか? 宗教家が権力や権威に固執すると、必ずおかしくなる。
本質からずれてくる。
そして歴史は繰り返すと言いますか・・・
スケールは全然違いますが、スピリチュアルの世界でも同じことをしていますよね。 日常とはあまりにかけ離れた抽象的な理屈ばかりならべる。
そして高額な金を出してワークだの、セッションだの、セミナーだの、あれやこれやとやってはいるけど、
これまた日常とは何も関係ない。日常に活用できない。
屁理屈や内輪のスピリチュアル用語、宗教用語にくわしくなるだけで、境地はまるで定まっていない。 ここでルターの言葉を少々拝借。
「人は宗教的権威にすがることよって罪がつぐなえるのではなく、
日常の善行によって、その罪はつぐなえる」 生憎ですが、真理は不都合なものですよ。
誰もがそれを受け取れるわけではありません。
禍福は糾える縄の如し。
二元性世界の成り立ちの故に、苦しみと快楽は
必然的に全体として等価になる。
常人にはこのことが理解できません。
それは例えば、猫を相手に税金について
教えることができないようなものなのです。 求める者だけが見出します。
そして自分の命さえ憎んだことのある者だけが、
理解します。
低きに流され、引き裂かれる故に、
それを許すときは大きな許しであり、
大きな器なのです。
誰もが真理を得るようにはできていません。 また、宗教的な権威や
それにまつわるビジネスをする人々がいること。
これも善悪ではなく、必然としてそうであることです。
世俗的な利益の眼鏡を通して少しずつ学んでいく、
そういう道の上を歩くように定められた人々も
いるからです。
彼らは何れにせよ、真理そのものを開示されても
それを受け入れることはありません。
が、お金や快楽の増大という方向に向かって
活動する中で、彼らに相応しいペースで
魂を成長させていくのです。 真理とは、この世界の不変の法則です。
その法則に則り、全ての物事のバランスは
完全に保たれています。
そうした神の、真の見えざる手によって
全ては生み出されているのです。
何事かの意味があり、何事かの理由があり、
必要でなかったものが存在したことはありません。
世界には人間だけ居れば良いわけではないように、
雪虫のように儚い命にも何かしらの宿命があり、
そこに優劣を設けるのは悪い思い過ごしというものです。
ですので、麻薬ビジネスも、賭博も、
人身売買のようなことについても、
全ては必要な時に必要なだけ生まれています。
私たちはこれについて深く観想しなければなりません。 真理を理解するという宿命もあります。
しかしそれも、別に何か特別良いことなのではありません。
ただ神が、今一時必要としたのです。
そういう人々を。
ある種のカエルでは、個体数が増えすぎると
共食いに適した大型個体が突然生まれてくるそうです。
不思議なものですね。
仲間外れの変なカエルは、恐ろしい異常な化け物です。
ですが、それもまた神の手になることであれば
嫌われ者も等しく望まれてはいるのです。 精神の領域においては、治療と教育の境目はいつもはっきりしない。
今はまだ全人類が未熟な段階なのだと言うこともできるし、或いはまた
全人類が三毒の病の中で、苦しみ呻いているのだと言うこともできる。 クラスを置いておくかどうか。
あれは誰かの役に立つのだろうか。
修養者というよりヒーラーとかその類の
人なら、何かのヒントにはできるのかもしれないが。
具体的な修行方法に関心のある人は案外少ない。
人は、今現時点の自分を誰かに認めてほしいものなのだ。 コンテンツをオーダーメイドで提供するというのは良い視点だ。
ロングテールが益々長大になっていくのだとしたら、
中央集権的に作られた模範的コンテンツは、未来の人々にとって
粗組に過ぎないものになっていくのかもしれない。
そして人は、作品に宿らせた自らの意図が、作品の中で
半ば意図的に半ば自動的に、成長し変容していく様を楽しむのだろう。 報いというものはあるよ。
人を裁いた人は、その罪によって裁かれる。
虐げた者は、いずれ虐げられる側になる。
私はかつて、ある国の王が始めた戦争で、
その国の王子が命を落とすのを見た。
王は世継ぎを失い、王権は親類の手に移った。
人は弱く愚かだ。しかしそれは、仕方の無い現実だ。
結局皆誰もが定められた弱さの奴隷なのであれば、
虐げる者も、虐げられる者も、そのどちらも救うのが
宗教者の役割なのだろう。 昨日も一昨年も同じで
今日もまた昨日と同じなんて
そんなの楽しくない。
成長するためには
せめて変化がなければ。
良い映画と悪い映画、どっちを見たい?
人類を、より良い存在へ、変えよう。
だって
今日もまた昨日と同じなんて
苦しいじゃないか。 地球の人類を全部悟らせるゲームなんて、
実に面白いじゃないか。
一体どういうことが起きるんだろうな。 巧言令色鮮(すく)なし仁
口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいない。
「巧言」は「言を巧(たく)みにす」とも読み、口先・言葉を飾っておべんちゃらを言うこと。 子曰、巧言令色、鮮矣仁。
先生はおっしゃいました。「人に気に入られるように、口先でうまいことだけ言って中身が伴わない人間には、思いやりの心がないものだ」と。 先生が言われた。
「馬を見れば大きすぎると言い、
猫を見れば小さすぎると言う。
こういう者には人を任せることはできない」 やってみな、一生懸命。
それを止めやしないよ。
自分で気付くことに重大な意味がある。
そんな努力は不要で間違っていたってことに、
自分で気付かなくてはね。
良いんだ、それで。この先もいつだって、
赤の他人の好き勝手な意見に出会うだろう。
だとしても、その道を疑うなよ。
何処かには続いているさ。
ちゃんと意味は生まれるさ。 具体的な技術。
私の持っているレパートリーの中で最も短期間高効率な修養方法。
リバースアナリシス、反面分析について。
1 自分自身が「絶対に許せない」ような対象を一つ想起する。
2 その対象の「良い面」を思いつく限り列挙する。
3 2の作業を、対象が「あっても良い」と思えるまで繰り返す。
慣れてきたら、対象を「絶対に許せない」ものから
「絶対に必要」なものに切り替えて同様に行う。
この場合は「別に無くても良い」と思えるまで。
人間の精神というのは案外簡単に拡大できるものだ。
それに現代人は、兎角簡便ですぐ効果のあるものを好むから
こういうやり方は時代に合っていると言えるだろう。 逆分析で何が起こるか?
普通に頭が良くなる。
無知に二つあって、「知らない」というのは
大した問題ではない。しかし「見えない」というのが
私たちの人生を悪くする大きな足枷だ。
事実を受け入れられない心。
触れているのに学べない制約。
それが認知の歪み。
それが知能の限界。
この限界を取り去る。 ウツルヒの破壊の風、成長の雨、創造の炎。
吹き荒れろ、湧き返れ、躍り狂え。
まだ見ぬ真善美の高みへ
私を連れて行ってくれ。 社会の大きな流れは良くなっている。
が局所的には、膿の濃縮が進んでいる。
無責任と自己保身、トカゲのしっぽ切りと善良さへの憎しみ。
平均化されたフラットな地獄。
罪と罰。虐げてきた者の悪夢。虐げられてきた者の救い。
誰も因果から逃れられない。 罪の能力。責任感。
それが人をより優れた存在に成長させる。
無邪気な人々よ、自分の罪から目を背けるな。
差が付いてしまう。置いて行かれてしまう。
追い詰められてしまう。いずれ止められなくなる。
君が生きて、年齢を重ねたその先にあるものが
周囲からの呆れた視線と君自身の耐え難い劣等感なのだとしたら
私は悲しい。 具体的な修養方法。
呼吸について。
吸った空気を足下側へ押し付けて、下腹を膨らませる。
次に下腹部を凹ませながら、それを吐き出す。
すると随意的な筋肉で呼吸をサポートする形になる。
精神が動揺すると、人間は胸で浅い呼吸をするようになる。
酸素の供給量が減り、重心が高くなって、身体が落ち着かなくなる。
その逆。重心を足下側へ降ろしておく。
一日数回意識して、下腹部で呼吸すると良い。
すぐにクセが付くだろう。 演技をすることが増えた。
多分、簡単なやり方を覚えて、それに甘んじているのだ。
人は年を取ると、狡くなるものだろうか。
いいや、きっとそれも、自分自身に対する言い訳だ。 日本人は経済的に豊かな時間が長かったから、
お金への執着が強い。
お金があることは悪いことではないが、
問題は、お金が無いと何もできないと
思い込む人間が増えてしまうことだ。
命を与えられているのに、その使い方が
わからない。これは空しいことだ。
真の価値創造は破壊を伴う。
雲が晴れ霧がかき消えるように、
それは世界を変えてしまう。
金銭財産のような蓄積的な要素は、
その足枷にもなる。
自分で作ったのではない価値の上に
たまたま預かっている人であれば尚更、
進化と成長を嫌がるのは当然と言うものだ。 ごん、お前だったのか、
出来たばかりの頃ののスピリチュアル板を
無関係なセリフで荒らし回っていたのは。 神は人間を救うかどうか。
神は、人間を救いはしない。
ただ彼は、私たち一人一人を望む。
私たち一人一人が生きることを。
しかし
存在させようとすると、苦楽が共に生じる。
幸福がある一方で、人間の底無しの汚濁があり、
虐げられる者もまた生まれてくる。
神は何を思うか。
神は人と共に些細な喜びを噛み締め、
人と共に、その苦しみと絶望の、血の涙を流す。
彼は世界のあらゆる苦しみを味わう。
それでも尚、世界を望んで言う。
私たちに、「生きよ」と。 ELI、私は彼を、彼女を悲しませたくないだけなんだよ。 ビジネス宗教を批判する気持ちはわかるけど
でも、お金を払う決まりがなかったとしたら、
誰に相談すべきか、誰がちゃんと問題を
解決してくれるか、どうやって判断するの?
お金でしか価値がわからないだろう?
私たち自身がそうさ。
しかしだからこそ、利用もされるんだ。
中身の無い水や札で高額な対価を要求されたところで
結局はわからない。いや、むしろ満足するさ。
ちゃんとお金を使って買ったわけだからね。
皮肉だと思うかい?
縁だよ、縁。全ては決まっているんだ。 売り買いの概念に洗脳された、人間の無様な
浅ましい心を相応しい商品で満足させてやる。
根本的に宗教とは関係ないことだけれど、
これもまた悪いことではないな。
或いはその、クソみたいな商品売買の流れの中に、
どれだけ本物の価値をねじ込んでしまうか。
無理やり、且つこっそりと。
それが当世風の宗教家なのかもしれないね。 私たち日本人は、一体、スマホのゲームに年間
幾ら投入してるんだ?
世界にはご飯すら食べてない貧しい人が、
たくさんいるのにな。
戦争もそうだ。今日もやってる。
でも私たちにとっては、中東で見知らぬ子供が
ズタボロに引き裂かれることより、
今日の晩御飯が何かってことの方が、重大問題だろう。
だが、そういうものだよ。
人間はそういう生き物として生まれてきたんだ。
世界は案外、当然のように未完成だよ。 パリのあるダンス教室で、人気の講師が言ったそうだ。
「私は元々アメリカ人。アメリカで同じ教室を
開いても鳴かず飛ばず。けれどここパリに移って
状況は変わった。
というのも、私が"パリの"ダンス講師になったからだ。
今では世界中から、特にアメリカの金持ちが
わざわざここへ習いに来る。」 生まれてきたなら、悟りを人生の、
ひとつの目標にすると良い。
折角意識を持ってこの宇宙の存在を
認知しているのだから。 私は男性には仏教を、女性にはキリスト教を勧める。
女というのは、自分の精神の根底から沸き起こってくる
罪と悪に苛まれ絡め取られ、その毒に溺れて
身動きできなくなっているものだからだ。
それは先ず、許されなくてはならない。
智慧の教義である仏教にはその視点がないから、
女性を悟りに至らせるやり方は
大変遠回りになってしまう。
こういうわけで、女性には、罪と許しに関する
キリスト教の教義があっているのだ。 例外を言うとすれば、仏教の中でも唯一浄土真宗の
教義だけは、女性を導く適性がある。 頭と心の悟り。
聖書でいう水と霊による洗礼ですね。 そう、片方だけでは、足りないのです。
人間は皆心の中に男性と女性を持っています。
このどちらも大切にしなくてはなりません。 もしも死んでしまう日には
言いたいことは何も言えなくなってしまう。
だから死んだ後のことだって
どっかには書いておかなきゃいけない。
遺書なんて大層なものは、俺たちには必要ない。
名刺用の用紙に、適当に印刷して。
不安ならラミネートするとか
耐水の紙を使うとか、その程度。
それで財布にでも入れておけば、十分だろう。
先生が言っていた。
「どんな赤ん坊だって、
もう死ぬのに十分なくらい
生きてはいるのさ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています