【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>993
そうかもしれません
そうなると、どの道を歩むかは、気質によるのであって宗教は同じゴールを示している
といえるかもしれない
神道、仏教、キリスト教は課程が様々に違うのではあるが、指しているポイントは同じ
このように思えるのですが、どうでしょうか 飛躍しすぎました
マハルシさんの教えが仏教と通ずる
真我とは、つまり、無自性、空の大乗の系譜に連なってもおかしくないのでしょう
しかし、なぜかこの、事実の世界そのものの重要性の温度差を感ずる部分もあります
ノンデュアリティの分野では、この事実の知覚から離れ去って無の地点にある様子です
一方の禅などでは、活動的、能動的であることが賞嘆されている様子です
ノンデュアリティの教師は修行を否定しますが、仏教徒は修行と悟りは同じであると言います
違いはある
しかし、この違いは客観的世界の扱いであると感じるのです
引いていて神聖である人々と、関わって泥まみれの人々のような違いです ノンデュアリティの教師が修行を否定なんてしてないって。
しようとするまいとそれらは全て幻、真我の現れであり同じことっていうだけ。
それに気付かせる為にそういう言い方をしている。
非二元にとって全ては真我の現れ、世界は幻、修行も幻だからそれに気付けっていうだけの話。
仏教で言えば主体は無我、無我だから誰か個人が修行できるわけではない。
禅宗は主客同一、別に能動的ではない。能動的なら黙って座って座禅なんてしないでしょう。
ただ心身を自分のものにしなければそれらがしかるべく勝手に動いてくれるだけ。
それが活き活きとし本来の姿であり悟りと同じというだけ。
非二元の言い方をすれば幻として世界は完全に調和されているということ。
仏教でも例えば浄土宗なら自分が修行しているのではなく阿弥陀が自分を修行させてくれているという。
皆同じ。 禅宗で言えば、悟りたいって人に例えばお茶を飲ませる。
悟りたいという人はお茶を飲む。
お茶おいしいと言う。
はい、では誰がお茶を飲んだの? お茶をすすめられて自分はどうやってお茶を飲むことができたの?
どうやってお茶の味がわかったの? それらは誰がそうさせたの?
自分がお茶の味を感じようとしたの? おいしいと思おうとしたの?
お茶をすすめられて飲んだでしょう? 味がしたでしょう? おいしいと思ったでしょう?
それはあなたの力?
非二元で言えばそれは全てが真我だから。
悟りが何だとか考える前にあったら、24時間いつでも自分を全てを動かし存在させているものに気づきなさいという話。
だから何をやってもそれは修行、全てが悟りそのもの。
非二元であの修行この修行と修行にあけくれるより私は誰か問いなさいというのと同じ。 目の前のお茶を飲むことに集中する
これ以外ない
それを存在させている我はない
この活動から外れたなにもない
一方は、目の前のお茶は幻である
それは真のわたしの現れである
その幻と私には何の違いもない
としているように思えるのです このスレッドは1000を超えました。
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