【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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眼前世界、純粋意識、ハート
これらは同じものであり、あなたです
そしてわたしです
これが忘れられて苦しいのです
思い出して、この、世界、意識、魂が、この質が、ニッコリ笑うのを抱いたら
愛が溢れます
帰ってきたからなのです
わたし自身、本来の姿へ 眼前世界は純粋意識であり
純粋意識はハートにある
と言えるかもしれません
このハートにあるものを抱くのは真我である、あなたであり、愛であるあなたです
愛であるものが、わたし自身に戻ることです
愛そのものであるものが、そのままにあることがそれであるのです
なにもしないでください
と言うのは、元々の本来の姿が、安心そのものだからなのです >>923
私の場合、頭で理解したことではなく、神への愛が強まるほどに自然に体験していったというものでした。
私にとって祈りとは神を感じるものでもしかしたら瞑想と同じものなのかもしれません。
一切の苦しみから解放された時、そこで解脱知見が必ず自分自身で確信的にあります。この世のイメージと違うことに驚くかもしれません。
誰に何を言われようと戻ってこようと変わることがない絶対的な「救われた」を経験するのです。 >>971
まだ私はその絶対的な確信はありません
たまに触れている ノンデュアリティ とスピリチュアルの違いが
僕は分かりません。
僕は体外離脱で
霊太陽を見せていただき
真理と歓喜 (至福)と赦しを体験しました。
命の法則です。
仏像の光背が霊太陽です。
宗教絵画にも光背が描かれています。 あなたは私
私はあなた
でも
あなたは私ではない
私はあなたではない 蓋を開けてみれば、結局科学が一番宗教に近かったわけだ
その道理から信じることもなく人の心に浸透しているという意味では
宗教とはそれを隠すための目くらましなのかもしれんね だがそれも人の進化だ
退化という大きな後退を経て初めて高みにいけるのか
それが不朽不滅である魂の目的なのかもしれん
ならば大きく後退しようではないか
もっと遠くもっと深くあの地平が見えなくなるまで
そして全てが暗闇に飲み込まれたら走り出すのだ
最も深い闇を見たからこそ、最も神に近い所にいる >>976続き
ノンデュアリティ は
命の根源と、霊統を
混合してしまっているような気がします。 >>973
その霊太陽は、背後から抱けます
そして、それ自身が存在として、あなたと溶け去ることで、見るものが見られるものになるのです
このボールには質感があり、そのひとつあることを実現することで、心理的傾向が徐々に落ちていきます
しかし、このとき、そのイメージを再現しようとするのではなく、あくまで、わたしの側の意志の根っこを鎮める方をする
イメージで見てしまうと、ひとつになれません
事実の世界に観ると、そしてあなたが受け入れることで、風景はガラッと逆転します
赤ちゃんのときのような、見られている
あなたは、これを見たのだろうか?
同じような経験が、わたしもあります ここで感情が歓喜しますが、この歓喜も沈黙の安心から不思議に見ます
この世界の内容物であるあなたは私です
そしてわたしはあなたです
しかし、ほんとうのあなたは、わたしでもあなたでもないのです
このボールの反映が、あなたを苦しめるのは、あなたが他者、感情に同一化しているからです
そうではありませんか? あなたの自我を沈黙させると共に、他者とわたしの感情的同一性、悲喜こもごもからも、離れ去ってあなた自身に帰ることが悟りなのです
そして、それは、あなたと思っていたものの、つまり、思念感情活動のない領域です
熟睡していた意識が、起きているときにあるようなものです
起きている側の意識が、それに気づいて、ひとつに溶け去る
心理的傾向が変化していく
そうではないでしょうか? あなたは自己を傷つけることで、他者も批判するようなことであるのです
これが人様々であるので難しいのです
癖、習慣、影響によって、複雑な個人が成立しているのですから、誰もが同じではありません
ある人は元々、緊張せず、認識や責めることがゆるやかであり収縮していない
他の人は非常に臆病で警戒を怠らず、自他共に叱責し続けている
その原因である過去の出来事、愛情の不足であるものは、容易に解けない
真理の沈黙はひとつでも、個人は様々であって一様に語ることも知ることもできない
わたしにしか不可能であるのだが、このわたしがわたしを沈めることはできない
そこで神は、あなたを非常に惨めにしてしまうことで、あなたを助かるのだ
優れた魂は、惨めな人生を送るのであり、覚者などと賛嘆されているものは、この貧しさを悪いものであると説かないできた
霊の貧しいものこそ幸いである等々
また事実、五合庵で暮らした良寛さんもいる
なかなかこうはなれない、わたしがいる
まあなれるわけはないがw >>973
スピリティズムというのは、決まった教義も
定義もない曖昧な神秘体験のまとまりなので、
何か別の教義と比較することはなかなか難しいですね。
私見ですが、どの教義大系も大抵、霊統を重視する
基礎の領域と、精神の根源的な部分を重視する
核心部分、この2つの領域を持っていると思います。
それは、石や木などの、それぞれ異なった素材を通して
彫刻を行うようなものだと思います。
教義の基礎領域で私たちは、素材について学びます。
それを学び終えると徐々に、物の形や動き、
彫刻における美とは何かなどについて
学んでいくのではないでしょうか。
ですので、それぞれが共に大事なのだと思います。 >>980
霊太陽は常に自分の正面にあり
守護者が間に入れば
守護者の光背となり放射状に広がります。
霊太陽の霊流は
霊統を通して流れてきます。
守護者もまわりも全てが光輝き
その霊流に包まれた時の至福は
地上世界では体験できないものです。
仏像や宗教絵画は
それを表していると思います。
僕はその後、クンダリニー で
意識が繋がりました。
ノンデュアリティ の動画を見ていて
僕の体験と少し似ている体験をされた方が
いらっしゃったのですが
その方が
「私はいないというよりも
一人の独立した存在ではなかったことが
分かった」
と、仰っていました。
明らかに霊統だと思いました。 >>979の
命の根源と霊統を混合しているという言い方は
変でした。
すみません。
ノンデュアリティ は
霊統が曖昧というか
分かりづらく感じます。 あなたは、その眼前の球体をわたしと分けて対象としているのでしょう
そしてそれがわたしの霊統であると観るのでしょうか?
霊統という言葉は、わたしには馴染みがなく、なんのことかわかりませんが、息の通りのことかもしれませんね
これらのことは、目の前のその球体、意識、世界、は一つというのは、共通している
ということなのです
同じ太陽をわれわれが分化して所有するものと錯覚しているのです
これらは無限の変化であり、これは、錯覚した心理傾向を鎮めていきます
わたしは、この全世界であり、この全世界は同時に仏なのです
あらゆる活動があり、それでいて、何も起こってはいないとノンデュアリティでは表現されているのです こちら側から見ているものが分化させ、対象に分かれていると確信しているのです
この内的活動と外界が、つまり情意と世界活動が、純粋意識としてひとつなのです
あなたが世界と敵対すると、あなたが傷つくのは、対象ではないからなのです
この全世界は空にして、色であり、永久不変の無限でありながらも限定されたひとつをもつものなのです
このひとつとは世界であり、その沈黙でもあることであり、ふたつがふたつにないことです
それば、自然なことであり、不為
なすことなく、あるものがあるのみです
変化はありません
そのものがあるだけで達成されることなく、あなたの役は奪われるところです 僕、敵対してないけど。。クスン
【私はいない】ノンデュアリティ ・ティーチャー総合3
つくりました。 >>990
ありがとう
ごめんねw
自分の現状を投影しちゃうのさ 病院で検査を受ける
不安です
この不安が邪魔ものなのではありません
わたしが滅する
つまり、滅尽定は、この不安と歓喜の揺れを起こしている基盤です
マハルシさんたちは、これを実在すると説く
ゴータマさんの系統は身を離れてこころなし
空である
と、その空なるものは、ガランとしてなにもなしとダルマがとき、こころなし
上にも下にも光も闇もなし
月も輝かず、風も吹かず
実体のないものが、あるという
不可思議である マハルシはそういう意味で実在するなんて言ってないよ
実在するのは真我のみ
心も身体も私も幻
真我は主客なく対象にならないもので涅槃と同じ、言葉で仮に真我と言っているだけで言っていることは仏教と同じ >>993
そうかもしれません
そうなると、どの道を歩むかは、気質によるのであって宗教は同じゴールを示している
といえるかもしれない
神道、仏教、キリスト教は課程が様々に違うのではあるが、指しているポイントは同じ
このように思えるのですが、どうでしょうか 飛躍しすぎました
マハルシさんの教えが仏教と通ずる
真我とは、つまり、無自性、空の大乗の系譜に連なってもおかしくないのでしょう
しかし、なぜかこの、事実の世界そのものの重要性の温度差を感ずる部分もあります
ノンデュアリティの分野では、この事実の知覚から離れ去って無の地点にある様子です
一方の禅などでは、活動的、能動的であることが賞嘆されている様子です
ノンデュアリティの教師は修行を否定しますが、仏教徒は修行と悟りは同じであると言います
違いはある
しかし、この違いは客観的世界の扱いであると感じるのです
引いていて神聖である人々と、関わって泥まみれの人々のような違いです ノンデュアリティの教師が修行を否定なんてしてないって。
しようとするまいとそれらは全て幻、真我の現れであり同じことっていうだけ。
それに気付かせる為にそういう言い方をしている。
非二元にとって全ては真我の現れ、世界は幻、修行も幻だからそれに気付けっていうだけの話。
仏教で言えば主体は無我、無我だから誰か個人が修行できるわけではない。
禅宗は主客同一、別に能動的ではない。能動的なら黙って座って座禅なんてしないでしょう。
ただ心身を自分のものにしなければそれらがしかるべく勝手に動いてくれるだけ。
それが活き活きとし本来の姿であり悟りと同じというだけ。
非二元の言い方をすれば幻として世界は完全に調和されているということ。
仏教でも例えば浄土宗なら自分が修行しているのではなく阿弥陀が自分を修行させてくれているという。
皆同じ。 禅宗で言えば、悟りたいって人に例えばお茶を飲ませる。
悟りたいという人はお茶を飲む。
お茶おいしいと言う。
はい、では誰がお茶を飲んだの? お茶をすすめられて自分はどうやってお茶を飲むことができたの?
どうやってお茶の味がわかったの? それらは誰がそうさせたの?
自分がお茶の味を感じようとしたの? おいしいと思おうとしたの?
お茶をすすめられて飲んだでしょう? 味がしたでしょう? おいしいと思ったでしょう?
それはあなたの力?
非二元で言えばそれは全てが真我だから。
悟りが何だとか考える前にあったら、24時間いつでも自分を全てを動かし存在させているものに気づきなさいという話。
だから何をやってもそれは修行、全てが悟りそのもの。
非二元であの修行この修行と修行にあけくれるより私は誰か問いなさいというのと同じ。 目の前のお茶を飲むことに集中する
これ以外ない
それを存在させている我はない
この活動から外れたなにもない
一方は、目の前のお茶は幻である
それは真のわたしの現れである
その幻と私には何の違いもない
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