>>902
見ている自分というのは非二元で観照者と呼ばれるものでしょうね
あらゆるものは真我の現れですが、観照者も真我そのものではなく真我実現の前に消えるとされています

観賞者は自我というか自他を分ける視点ですからまだ個我(主体という観念)が残ってるのでしょうね
自我を対象として観ている観照者という自分(主体、個我)が作られたまま残っているということになると思います

非二元は二元性(主体客体)がないということですから、観照者(主体)が残っているのはまだ非二元ではないということでしょうか

l心も慌てるというのは、慌ててる感情と自分が一緒になっているのでしょうか
だとしたら、自我が消えてないということだと思います
慌てるというのも自我あっての反応ですし、それと自分が一緒になっているのですから

慌ててる自分をただ観ているというなら観照者の視点だと思います
その場合は自我と離れているという意味で自我は消えてのと同じだと思います

非二元に関してマハラジはこのように語っています

 「何も私ではない」が第一段階だ。
 「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
 そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
 この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元のあなたとして残る。