>>889
作っていた自我(自己イメージ)が消えたのかもしれないですね
原始仏教では悟りは4段階ありますし、非二元でも段階が言われています
自分が消えたと観ている自分が誰かがわかるといいのかもしれないですね

大悟小悟に関しては例えば禅宗などでは悟りの入り口を通過したかどうかを公案という問いで試します
両手を叩くと音がする、では片手で叩いた音を聞いてこい、という有名な公案が解けたら入口は通過してるのでしょう
片手では拍手はできないはずなのですがその音はいかにという問いです
(入口通っていても解けない場合もあるようですが)

とりあえず自我は消えたということですが、では世界はどうなのでしょうかね
自我が消えたという自分は在るのか無いのか、世界は在るのか無いのか

一人静かにしていると安心があるのはいいですね
日常生活でいろいろあるということは、一人でないときは安心でないということでしょうか

非二元においては心と身体と完全に離れるのが悟りですから、
心がどうであろうと、安心があろうとなかろうと、日常にいろいろあろうとなかろうと、
どうでもいい(何も変わらない)なら悟りでしょうね
それが本当の安心で真我実現なのでしょう