【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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自分を認識する時は
五感を使っていると思います。
意識を認識する時は
六感を使っていると思います。 大和田菜穂さんは、覚醒すると赤ちゃんや動物のように自意識がなくなるという。
意識はあるけど、自意識がない。
痛みを感じても、その痛みが自分に起きてると感じない。
てことは赤ちゃんや動物はすでに覚醒していて、人間だけが覚醒してないってこと?
でもそれはおかしいよね。
動物より赤ちゃんより、成熟した人間の大人のほうが魂は高いはず。
覚醒して自意識がなくなるのは、逆戻り、退化ということにならないの? その場合の自意識がなくなるというのは心や身体が自分であるという認識が無くなるということ
赤ちゃんや動物は自分という認識はないけど心や身体そのものになっている
例えば夢で例えると、覚醒は夢の中で苦しんでいてもそれが夢だとわかるので苦しくないということ
覚醒していない人は夢の中にいて苦しみがあるとそれが夢だとわかってないので苦しんでいる
赤ちゃんや動物は現実という概念がないので夢という概念もないし夢を見なければ夢の中で苦しむこともない
つまり赤ちゃんや動物は元々覚醒してない状況にないからそれゆえ覚醒することもない
人は覚醒していない状態だという認識ができるから覚醒できる
赤ちゃんや動物は自分たちが夢そのもののようなものだから夢の中で目覚めることができない
赤ちゃんや動物が自意識を持って夢を見ることができるようになってそこから目覚めるしかない
悟るというのは生まれたときに戻るのではなく、そこからさらに生まれる以前に戻ることだというのはそういう意味
大和田さんの説明は説明が足りていない
本人も明確にできてないのかもしれない >>817
んー
まったくわかりませんw
犬に仏性が無い
まったくもって理解不能w >>825
パシーンと人からひっぱたかれた
そうすると痛い
自我は事実を認識して
この野郎!
なにしやがる!!
と怒ったり情けなくなる
自我がないなら
パシーンと叩かれたら、痛い!
で終わる
良寛さんが、袋叩きにあったエピソードもおもしろい この痛いが、味噌である
痛いは感覚であるが、そのものはある
つまり苦はあることになる
ところが我がされたとの思いがなければ、そこから一連の悩み苦しみは滅する
この自我活動の停止が、前後現在の認知を乗せることなくすので、あるがままから変遷しなくなるのだ、自然なことである
意識して為すことではないので、あなたの終わりなのだよ 老師だったか
このことを無為自然と一言で表したw
また馬祖と言う人もいたらしく
平常心是道と説いた
これだけの事である >>827
それで良いのです。何もわかってない。何か問題でも?
無知の知というのがあります。
言葉が流れているだけ。いやもっと言うと、音が流れているだけ。
何もわかりはしません。ただの快感とか不快感。
音楽ですよ、ほら。
単純でしょう? 裏表など、どこにあるでしょうか。 >>820
固体と気体。まさにその通りですね。
或いは水面の渦のようなもの。
氷の人形のようなもの。
形が消えれば、意識だけが、ある。 禅は詰まるところ、音楽の良し悪し。
引き攣った指では、良い旋律は流れない。
仮に人を幸福にするのが良い旋律なのだとしたら
悪い旋律は、人を不幸にしたりする。
禅が最後に行き着くところは、
完膚なきまでに凍り付いた鉄のような湖面、じゃない。
禅が最後に行き着くところは、
人間のあらゆる毒を霧散させる無限大の底のない大洋だ。
それはまた、達成された精神のノンデュアリティの
帰結でもある。 苦を乗り越えた先に
慈悲があると思う。
心の処理方法は
様々だと思うけれど。 >>833
そう、意識があり
思考もされています。 >>826
すごく納得できました。
ありがとうございました。 色即是空は
神の摂理の中で
因と縁が複雑に絡み合い
それはいろんな現象として起こり
絶えず変化している。
実体はなかなか分からない。
なのかな。。と思うのですが
トミーパーソンズの
私はいない
誰も何もしていない
という言葉は
自由意志の選択はあるのだろうか。
認識出来るのは
今、この状態だけではないのか。
ということを表した言葉なのかな。。
と、思いました。 >>839
色即是空は
形と名称が滅び去る時、これ、なし
であり
私はいない
誰も何もしていないは
話そうとせずとも喋ってしまうだろ?
と言っておるのだw 色即是空の後に
空即是色と続くので
実体はなかなか分からないけれど
そこから人は学び
執着がとれることによって
般若の智慧
(事物や道理を明らかに見抜く深い智慧)
をいただくことが出来る。
ということかな。。と、思います。 >>838
嬰児の如くなることは
退化などではない
この世界に写っておる不思議を眼にする
悟りは確かにそれではないが
それは確かにあるものであり
それを経てなおかつ、光をも切るのだ
普通の人間ではないww >>841
色即是空空即是色
形あるもの名称あるもの、これ、なし
形なきもの名称なきもの、こそ、あり
般若波羅蜜は、認識の停止のことである
志向性が止むこと
認識しようとする活動がなくなること
掴みかかる、維持するようなことのない
明確な活動の停止
なんとも表現の難しいものなのだ
空は即、色である
即!
つまり経過がないのである >>840
言葉となって現れたり
と、いうことでしょうか。 >>844
そうです
言葉にもなり、世界にもなり、想いにもなり、涙にもなり、愛にもなり、花にもなり、人間にもなり、わたしにもなり、あなたにもなり
森羅万象すべて、と、わたしのすべてが
空
からっぽであり
しかれども
この、からっぽは、即、つまり、同時に、目の前の変化する悉くなのである >>845
ありがとうございます。
小我から大我へ
でしょうか。 そうすると
僕は、ホセ・ムヒカさんを
思ってしまう。 >>846
小我をこの想いのわたしとして
大我を宇宙、自然とすると
まず小我から大我へ
の目覚めは必ずなければならない
そして、この、大我も越えられなければならない
すると不思議な光景を眼にする
世界が意識に映るのを見ているようになる
そして鏡の中央に意識点が移り、今までの内界が、外の暗闇になるのだ
そして光が天空に開いたり、暗闇に光さして愛が溢れだかれたり、天使の歌声が聞こえたりするだろう
しかし!
これも超えなければならない
停止する
停止するのは、何も残らない
小我も大我も神秘もない
だけど、今度は普通の日常があるwwww
ご飯食べたり、眠ったりする
働いたり、楽しんだり、苦しんだり悩んだりする
ここでの違いは、それしかない
つまり、他の可能性がない
あるものしかない
それ以上がない
それ、そのものしかない
ことだけなのだ
だから、何も得ることがなく、だれにも、このことを知られることもない 大我は
般若、集合的無意識 ( 霊統 )の意識に
気づいていくことかな。。と思います。
ここは第三の目、
将棋で言えば先読みをしていく場所になると思います。 >>849
そうではありません
それは集中されたイメージの作り出した現実を超えた光ではあります
その眼のとらえる光は魂世界を照らし、真我を実現させ、慈悲に包まれた安心へ導くものであるのです
しかし般若波羅蜜は、その光や、また普通の日常であれ、そのような認識可能なものではないのです
自我活動の停止のことです 第三の目は六感になりますが
霊統はこの六感を使って
認識していきます。
僕は般若波羅蜜が分からないので
少し調べてみます。 ヒンドゥー教のシヴァ神の額には
常に第三の目が描かれています。 >>852
第三の眼はありますよ
それが光をとらえるのです
そして、その光が内面の暗黒を払います
すると、内面が歓喜と静寂に満ちて、まるで抱かれているようになるのです
そしえ魂が、この世界だとわかります
これがヒンドゥのアートマンは、ブラフマンであるの気づきで、真我の実現ですね
しかし、まだ分裂してます
ノンデュアリティは、見る者と見られる対象が相殺されることなのです
この見た対象を切らないといけない
つまり、真我や、光や、安心や、なんであれ、そのとらえたものは、壊れるのです
この第三の眼は、自我活動を止めるための自我活動と言えます そういう語っていることはある程度ご自身でその境地になられてわかったことを語られているのですか?
それとも知識を語られているのですか? >>854
魂がこの世界である
という地点の理解はありますよ
そして意志活動の停止が悟りであり、ノンデュアリティの境地であると見ています
が!
わたしが、その、意志活動の停止になったのは一瞬のことであって、まだまだ、これから修行しなくてはならないのです
だから、わたしの意見であって、合っているかはわかりません
しかし魂が世界である
ここまでは疑いありません >>856
ありがとうございます
好きなことは好きなだけ進んでいきます! やっぱりアドヴァイタ関連のスレは
レベルが高くていーやね。
話が楽でさ。 悟りさえすれば
この世はバラ色になる、悪いことはすべて消える
至福の世界が訪れる
がんばるんだ、悟りさえすれば笑顔になれる
がんばるんだ、悟りを目指すんだ
こんな世の中から脱却するんだ、悟りを目指すんだ
天国はもう目の前にある
がんばるんだ、がんばって悟るんだ 体験と理解が魂の財産
というように
感性というものは
魂の記憶です。 自我の消滅は悟りってことでいいの?
それとも悟りの前段階で、そこが入り口?
自我の消滅体験したけど、これは悟ったことになるのかな? 言わば、頭の悟りと心の悟りがあるのです。
頭の悟りというのは、"私"という自意識からの解放、
言語からの解放です。
一方心の悟りというのは、ワンネスの実感を得て、
自分や他者の存在を大切にするようになっていくことです。
この二つは結局は同じ地点に向かっていることなので、
同時に起きることもあるし、同時に起きないとしても、
片方が起きると必ずもう片方が次第に伴ってきます。
悟りがどのように起きるかは、個人の性格の中で
頭ー心のバランスがどうなっているかによるのです。 >>861
あなたの場合は、「自我の消滅体験」が
どのような状態だったのかをもう少し詳しく
話してもらえると良いと思います。 >>859
と自我は意識的に何かを為す
それはすべてイメージの中でのことです
この意識していることが自然であることの理解を妨げているのです
わたしが努力することを書いたので揶揄したのかもしれませんがw
しかし、意志の止まることは、努力できないというわけではありません
方法がないわけではありません
坐禅や、反省は、その主だったものではないでしょうか 坐禅や反省が主だったものであるというのは主観がはいりすぎているかもしれません
しかし基本的に自分自身が問題になっているのですから自分自身を感じないでいるなら、自分自身の行為すら知れません
無意識の内にあるからですが、これが悟りなら、これは自我の終焉ではなく、自己の意欲に気づかないだけです
自分自身が緊張している認識がなければ、そもそも悟りなど目指さないと思いますが、笑
この方法こそが一番の関心の元ですね
悟りを理解したいものにとって
それはリラックスしていくことであると、大抵の人が説いています
私で在ることにゆるんでいく
そしてこの、在るというものの感覚の中で最高の自己感覚は肌感です
つまり触れ合うことであるのです
自己自身が触れ合うことから生まれているのです
ですから、この触れ合いにもどって、還って、開放することがいいのです
開放とは意識して見ているわたしが消えることです
これだけのことです
このことに気がつくことが最初の一瞥なのです
そこから始まります やはり用語は難しいです。
僕は自我の消滅が
何を表しているのか分からなかったので
調べてみたのですが
自我の死、自我の崩壊、絶望
精神的自立
と、出てきました。
精神的自立をしていく過程で起こる
心の葛藤で良いのでしょうか。 いつも愛の中にある
悟ったかどうか、これでわかりますよね
この言葉は、いつもです
つまり、これは愛そのものでしかなくなっているということであり、分かち合い精神の究極であり、ブッタの慈悲の次元です
わたしはとてもじゃないですが、到達できていません、笑
あたりまえですが >>866
心の葛藤が極限に達して完全に絶望することが自我の崩壊、消滅でしょうね
自立というのは大人になることであって、自我の終焉は絶望、これ以上の望みが残らなくなることであって意志の停止でしょう
絶望なしに悟りに興味を持つことすらないでしょう 無常観、罪悪感
この二つの入口から道に入る
突然の肉親の死から無常を感じて出家した人は、たくさんいますし、とんでもない犯罪者が立派な僧になっていることはよくあります
そもそも龍樹が、宮殿の女を犯してまわり、仲間が惨殺された経緯から仏道に入っているくらいですから、、、
まあ、世間で成功するための悟りなど、矛盾もいいところであるように思えるなあ
個人的にですが >>861
悩みや苦がもう何もないなら悟りでいいんじゃない?
自分の中に疑問がもう何もないなら悟りでいいんじゃない?
でもこれは悟ったことになるのかなって問いが生じてるくらいなのでたぶん悟り(大悟)じゃないでしょうね
自我が消滅したという自我(観照者)がまだいるんじゃないですか?
おそらく悟りの入り口か小悟じゃないでしょうか >>872
天照大御神と大和では崇められてきたのですw >>868
ありがとうございます。
命というと
アブラハムとイサクを思い出します。
どれほどの葛藤があったかと。
これは究極にキツイと思います。 >>876続き
このアブラハムの頃は
生贄の習慣があったそうですが
それをやめさせたようです。 >>876
命は大切なものですが、特に、自分自身のもつ生命が大切に感じます
だから他の人も同じである
と釈迦が述べたと聞いたことがあります
しかし命をいただかないわけにはいきません
食べなければ死んでしまうのは己です
他のものが殺したのだから自分ではないから、殺生とは無縁と言ってみても、野菜や果物だって生きているんです
不殺生は殺せないという意味であると禅僧が言いますね
殺す事は不可能である
ぶっつづきの、ひとつの、命を生きている
この命が魂であり、世界であり、この、意識こそが全体に分裂なく、変化し続け、写し続けているのです
これが夢の世界であり
この命の以前には、沈黙があるのです その沈黙で終わるのではなく命の復活があるのだと。
そこですよね。 その命そのものに入り込んでみないとわからないんですよね。 >>874
そうなんですね。知れて嬉しいです。ありがとうございます。 >>879
沈黙した時に見えてくる
確かに
ここは、わたしは完全にそうであるのではないのですが垣間見たところでは
自我の沈黙した時、ありとあらゆるものは御伽の国のようにあるがままにある
あるものがあるの方が近いかもしれない
普通はわたしが停止すれば、すべてが消失すると、思われるのだが、あるものがあるがままにあるところが、みえるようになる
それまではイメージの世界を見ていたのであって、事実の命が、わたしだったのだ
全体としての、生命
これが永久不変の真我であって、個人は消失しようとも、この、ひとつの宇宙は、無限なのである
あなたはわたしと共に、また、あらゆる生命とともに、この、意識を共有するのである
ちょっと、この文は、想像を含んでいます
わたしはこのことを今、追求中なのです
あなたはわたしより理解がありそうです あ、赤ちゃんのとき、親の顔が、こんな風に笑ったりしてたなあと
その時、思いました 外界が自分の中を覗き込んでるみたい
この外側が愛おしいように、わたしに色んな姿を取ってくれて
みんな同じその外側を生きてる
みんな同じ
ひとつ
一切衆生同時成道です 僕は幼稚園の頃から
知りたいことが3つあって
1つめは
実家が古神道なのですが
飾ってある ⊙ の意味と
2つめは
人は死ぬとどうなるのか
3つめは
命とお金はどちらが大切か
これをよく大人に聞いてました。
2つめまでは分かったのですが
命とお金はどちらが大切か
↑ 今ここ です。 >>863
自我の消滅体験を詳しく説明すると、
私の発生場所を観察するある瞑想をはじめて行ったとき、
ハートにある私という部分を感じつづけたところ、
突然強烈なめまいに襲われ、全身がエネルギーで満ちて、数分後それらがおさまったとき、
そのハートにあった私という部分がスーッと消えてなくなってしまった。
それまで、私と唱えるとハートに感覚が出たのが、感覚が出なくなった。
それは今現在も続いている。それを自我の消滅体験と思ってる。
自我が消滅した瞬間、心が安らぎに満ちて、ああついに終わった、という感覚になった。
何が終わったのかわからないが、ついに終わったのだ、という気持ちになった。
それからはもう真我を探求する熱意も情熱もなくなってしまった。
どうでもよくなった。すべてどうでもよく感じる感覚。
今まで瞑想すると、自我が消える感覚があったのだけど、
自我消滅してから瞑想しても瞑想後も変化ないので、瞑想に力も入らなくなった。 >>873
悟りにも小悟大悟ってあるんですね。
たぶん自分は大悟ではないと思う。
真理とか慈悲もよくわからないし。
知恵の言葉も出ないし。
ただ自我が消えただけ、それだけかも。 >>888
安心感、安堵感はいまもあります。
日常生活では色々とありますが、1人静かにしていると心は安らぎに満ちてます。 >>886
ありがとうございます。
私もそう思います。 >>890
ぼくもよく似たようなところにあるかもしれないですね
ここから脱却するのに見ている己が世界とひとつあるところを、せっせと繋いでるところなので、、、
外の認識は変わってないんですか?
認識方向が逆転してますか? >>891
古神道の◎に中心点は、中心点からマル、そして更に外の安心が、うまく連なると、いいのかなあと今は想像をしてる段階です
うまく実現できないけど、たまに、一瞬ならなるようなところです
このマルがにっこり笑うのが、いいかとw このマルがあなたとわたしで、全く同じものだとは思いませんか? >>882
すみません。
考えて言葉に表そうとしてもできないんです。
あなたの垣間見たもの、想像と同じだと思います。
とにかく、
すべては完全である。その中に入り込んでいる状態。完全で美しいのです。
賛美に次ぐ賛美、美しいものの極致、天国が実在するのです。
そして、大いなる感動と愛を伴って戻ってくる。
その後の生き方は人のためにが根本原理となるはずです。
神と共にあるからです。
これでやっと人となれたのです。 >>892
認識方法は変わってないと思います。
意識の中に世界があるとは感じないし、すべては私という感覚もないです。
悟るとそうなると思っていたので、自分の体験は悟りではなかったということでしょうか。
それともまず自我の消滅が起こり、それから意識が変化していくものなのでしょうか。 >>889
作っていた自我(自己イメージ)が消えたのかもしれないですね
原始仏教では悟りは4段階ありますし、非二元でも段階が言われています
自分が消えたと観ている自分が誰かがわかるといいのかもしれないですね
大悟小悟に関しては例えば禅宗などでは悟りの入り口を通過したかどうかを公案という問いで試します
両手を叩くと音がする、では片手で叩いた音を聞いてこい、という有名な公案が解けたら入口は通過してるのでしょう
片手では拍手はできないはずなのですがその音はいかにという問いです
(入口通っていても解けない場合もあるようですが)
とりあえず自我は消えたということですが、では世界はどうなのでしょうかね
自我が消えたという自分は在るのか無いのか、世界は在るのか無いのか
一人静かにしていると安心があるのはいいですね
日常生活でいろいろあるということは、一人でないときは安心でないということでしょうか
非二元においては心と身体と完全に離れるのが悟りですから、
心がどうであろうと、安心があろうとなかろうと、日常にいろいろあろうとなかろうと、
どうでもいい(何も変わらない)なら悟りでしょうね
それが本当の安心で真我実現なのでしょう >>895
あなたは私より先に行ってます
私はその、完全性を瞬間、見えただけで、まだまだ自我は旺盛に活動しています
ここから、どのように、あなたの感得された地点へ向かうのか試行錯誤していて
この世界にくっついている自我反応を引き剥がしにかからないとなのか、それとも、この魂と一つあるところで、更に、この心理傾向を削らないといけないのか
こんなところです
人のために生きることができるなんて、すばらしい境涯ですね! >>896
ハートの消失したところが世界なんです
だからハートの中に意識があって、それを見ている存在が私ですね
この見ているものが、この、ハート意識と別に分かれているのではなく
このハート意識が見ているもの、そのものなんです
つまり、消失したハートに、世界が飛び込んでくる筈だと思うんです
違う人も書いてくれてますが、これは見ている己が消えてない可能性がありますね 内面から外界を→で見ていたものが
外界が内面へ←逆転して見ているんです
そして、その←が見ているものです
この外界が内面へ入ると、全く同じ、ハートのそのものであって、なにひとつ別れてないんです ←→が消えると、ハート意識世界がひとつになって懐かしい風景を目にします >>897
自分が消えたと見ている自分は誰かわかるといい、というのは、
その見ている自分というのは真我ということですか?真我がどういうものかわかればいいということですか?
それとも見ている自分がいるということは完全に自我が消えてないということですか?
その見ている自分がいる以上、自我が自我を見てるにすぎないということですか?
1人静かにしているというのは、普通に休みの日とかリラックスしてる時で、
仕事とかで慌しかったりすると、心も慌ててしまいます。 >>899
ということはまだ完全に自我が消滅していないということでしょうか。
とても興味深いコメントありがとうございます。
すごく為になります。 >>902
見ている自分というのは非二元で観照者と呼ばれるものでしょうね
あらゆるものは真我の現れですが、観照者も真我そのものではなく真我実現の前に消えるとされています
観賞者は自我というか自他を分ける視点ですからまだ個我(主体という観念)が残ってるのでしょうね
自我を対象として観ている観照者という自分(主体、個我)が作られたまま残っているということになると思います
非二元は二元性(主体客体)がないということですから、観照者(主体)が残っているのはまだ非二元ではないということでしょうか
l心も慌てるというのは、慌ててる感情と自分が一緒になっているのでしょうか
だとしたら、自我が消えてないということだと思います
慌てるというのも自我あっての反応ですし、それと自分が一緒になっているのですから
慌ててる自分をただ観ているというなら観照者の視点だと思います
その場合は自我と離れているという意味で自我は消えてのと同じだと思います
非二元に関してマハラジはこのように語っています
「何も私ではない」が第一段階だ。
「すべてが私だ」がつぎの段階だ。
そのどちらも「そこに世界が存在する」という観念にかかっている。
この観念もまた放棄されたとき、あなたはあるがままの非二元のあなたとして残る。 >>904
なるほど、観賞者という視点があったのですね。
てっきり自我が消滅したことで、真我になったのだと思っていました。
もう真我になったのに、逆転現象も起こらないしどうしたものだろうと行き詰まっていました。
多分、観賞者の状態になってるのかもしれません。
次の段階はその観賞者さえいなくなる段階を目指せばいいんですね!
ほんと為になります。感謝しかないです! >>898
利己性が全くない状態の自己が即ち魂であり神性であり、我が内におられたことを晴天の霹靂のように知りました。これは神への愛と隣人愛に利己性を手放した時に突然起こりました。
私は瞑想をしたことがないのです。
ヴェーダンタによると心理的傾向により達成するための道がいくつかあるようですね。 ふーむ。しかし厳密に言えば、覚者は他人の為に
何かをしようとは思わないだろう。
熱いとか痛いとかいうことが分かるようになるから、
それに対して反応するようになるだけだ。
まだ目覚めていない人は、センス(実感)がないので
反応することもない。 "私"と"他者"の境界線が消えて、ワンネスの段階に入ると
他者の為、という考えも無くなってしまうだろう。
それがそれであるだけ。主体も対象も無い。まるで謎々だね。 それでも尚、覚者は、言いうる。
「世のため人のために身を捧げることが私の喜びだ。」
私たちはみな誰もが、月を枕に浮気性な夢を見ているのだ。 トニーパーソンズのノンデュアリティ は
縁起のことかな。。と、思った。
それを、ふっと感じる瞬間とか。
人は多次元世界に住んでいるから。 宇宙は調和を保ち
一体となって動いている、ていう
宇宙の摂理。 例えば
トランプ氏も北朝鮮問題も
裏があったとしても
全体で見ると
必然的に起こっている
というように。 自分で決めているようで
決めていない。
波動の世界、感応の世界だなぁ。。と思う。 そこで大切になってくるのが
自律になると思います。 >>877続き
生贄の習慣をやめさせたのは
聖霊です。 あらゆることに意味があり、外せないピースは
一つもない。
宇宙は、個々人が自由意志によって力強く
考え生きる現実を大らかに包み込んで、自由意志を
遥かに超えた完全なる秩序の絵を描いている。
となれば、自由意志が大事、とも言えるし
本当は自由意志はないんだよ、と言うこともできる。
そういうことなのでしょう。 そうですね。
摂理は神の法だと思います。
それで僕は
>>535 こう思います。 >>902
自我が、消えた
こころが静かである
このように意識しているのです
他者に批判された
仕事が慌ただしく心が動揺する
これもまた意識しているのです
この自己を意識する活動が、見ているのです
観照は、この意識の方向が変わることです
見ている自己を見ている
この見られている自己のハートが静まり、観照している意識も落とします
こうなると良いものも悪いものもあるがままにあることになります
意識してあなたが、そうするのではない
あなたが意識していることを止めることです
それが自我の消滅にいたるまで
しかし、この、消滅には、わたしはまだ到達してませんので、おそらくの話ですw >>904
そういうことでしょうね
ニサルガダッタさんの、言葉ですか?
そこに世界が存在する
なるほど徹底して内側の見識を奪ってしまおうとしているのか >>906
わたしは、この、意志が止まった時にある
外側の変化にこだわるべきでないのではないかと思い始めています
この視野の変化を、進めていくには、ふたたび再現しよう、維持しようという、意志が、そこに働いて、またもや苦しむからです
しかし一方で、この、苦しんでいる自己活動を、この地点から消失させていく意志的努力がいるのかも知れないとも感じるのです
ここで混乱してしまいますが、やはり、このような状態には固執しないことがノンデュアリティなのでしょう レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。