【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>799
そうですね
見方に絶対なんかありません
しかし真理は絶対です
絶対でなければ真理ではないでしょうw
あなたと私で違うものなら、そのようなものは空想、想念であって、概念、見解ですね
表現が変わることはあるかもしれません
しかし、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静などの真理の教えは絶対です
そうでなければ、テレビドラマとなにも変わらないたんなる娯楽に成り果てますw >>796
なるほど。
クラゲや車には、"私"ってあると思う? >>800
叡智って 自分では知り得ないものだから
完成は無いと思っています。
だから わたしは何も知らないと言う言葉があるのではないでしょうか。
わたしは真理は無限大で言葉にすらできない。
そう思います。
だから こうだ、こうである、は
知識であって 教育みたいなもので 言い聞かすのではないと思いますよ?
でも 貴方の中に絶対があるのなら それはそれで
貴方の考えだから 貴方はそうなのでしょう。
それぞれ 違う尺度で観ているから価値観も同じと言うことはないですね。 >>802
大昔から大勢の人たちが知識を教育してきたから文明が進んできたんだろ
自分一人で飛行機完成させようったって無理だろ?
アルキメデスの時代から積み重ねられてきた叡知が飛行機を完成させるんだよ
貴様のような思考停止の反知性主義じゃ真理には辿り着けないのは当たり前だ
先人に学べ アルキメデスの時代から積み重ねられてきた叡知が飛行機を完成させるんだよ
ですが、飛行機はさらに進化していますよね?
きっとずっと同じ形態ではありませんよね。 貴方もアルキメデスの叡智と語っているではありませんか、それは無限大なんですよ。 >>801
自意識はないかもしれませんね
しかし、そこに仮に存在するものたちは
その形態において我々の心情に印象的に捉えられるものであります
愛するならば、そこに生命があります
無関心ならば、そこは無に等しくなります
人間同士でもそうでしょうw >>804
飛行機の形態がずっと同じじゃないから数学も必要ないと言ってるのと変わらんぞ
思考停止主義者のために、もっとわかりやすく言おうか
例えば、人類は絶対死ぬだろ?どうだ?変わるか?変わらないだろ。
真理だ。
欲しいものは必ず手に入るか?どうだ?必ずではないだろ。
これも真理だな。
異論を挟む余地はないよな?
絶対的な真理だ。
こうやって積み重ねていくと>>800の言ってる諸行無常、諸法無我と言うのに辿り着いていく
そこに異論を挟む余地はない
価値観など関係ない、キリスト教徒だろうが無神論者だろうが諸行無常は真理なんだよ
わかったか? >>802
価値観の話ならそうですね
真理は無限大と言ってみても虚しいだけになる
知らないことは実質、神秘に開かれます
すると実質的に安心を感じることは、これは、わたしだからそうなるものであれば、役に立ちませんので真理ではありません
もちろん私は、私のことしか語れませんので、わたし自身の経験からくる意見を述べるのみですが、真理はひとつのはずです
私の断定が正しいかどうかは、実際上に、真にそうであるかどうかで確かめられます
私は自己の断定が有効にならなれけば、つねに迷い続けなくてはなりません
これが本当に苦悩の消滅である
でなければスッキリしません
価値観は様々あって当然であり、知恵が増していくこともあるでしょうね
しかし、すべての活動は移り変わる
と、こう来たり去りゆくというような真理は、価値観ではありません
事実のことで、事実を無視しても、どう見ようとも変わりません
木の枝があり、それをなんと呼ぼうと、そのものは変わりません
不滅です >>807
別に わたしに叡智があっても貴方は困らないし、真理は無限大と語っても貴方は困らない。
わたしはそう思いますと語っているだけで、
そしてあくまでも貴方が知る限りでは、絶対があるのならそれで良いですよね。
仏陀は真理はあるとも無いとも語りませんでした。互いにそれで良いと思います。 >>809
それで思い煩いがなければ、それでいい
真理は無限大でも、真理は絶対でも、同じようなことに思えますw
それで安心するならそれで完全です
おわりです、笑 原意識としてのクラゲには自己意識としての意識はないのでカラダを持って個性としての意識、自己意識を持つようになったのだろう 神つか原意識が自分を認識するために宇宙を創ったのだろうけど我われもその一部だから文句も言えない、まったくな話だ >>809
はあ?仏陀は真理を語ったぞ??
そんな基本的なことも知らずによくもまあ真理は無限だとか適当な自説を持てたもんだ
仏陀はこの世は苦である、それが真理だと断言した
古代インドの言葉でサッチャとかサティヤと言う、何度も何度も説法で真理を語ってるから調べてみろ
ちょっとの勉強も嫌いだから反知性主義になったんだな
そんなに先人から学びたくないのか
エゴの塊だな 真理が存在し言葉として残されている事実を認めたくないがゆえに、自分だけの脳内仏陀を作り上げ「それで良いと思います」って、議論不可能なレベルで幼稚だぞ
これからは反省しろよ、反省しないと成長もない
ずっと幼児のままだ >>813
一切衆生悉有仏性
ブッタの言葉は、上にあるものも下にあるものも認識可能なあらゆるものは空である
と感ぜよと教えたという
実体のない移り変わる仮のものとしての世界であるが、それは、ある
無限は仏教者のよく語ることでもあるw
言葉が真理を指すとしても、そのあらゆる教えは、人々を苦悩から救うためにあったのだよ
安心があり、煩悩が沈むのが、ほんとうのことなら、それ以上、なにもない
嘘なら苦しまなくてはならなくなる 人々は批判する生き物である
光や鏡を理解しようと、真我の安らぎを確信しようと、あなたが非難から逃れられるかww
そこで、あなたは光に救いを求めても、光はなにもしてはくれない
イメージで見るものは力などないのだw
真の力は、停止である
無明、つまり、一切が苦しみであると知らないことが尽きれば、行が滅するとは
かの聖者の言葉であり、真理だ >>806
そうだね。クラゲには意識はあるけど、自意識はない。
主体が無くなるって、一体どういうことだろう。
それはきっと、客観的じゃなくなるってこと。
相対的じゃなくなるってことなんじゃない?
"私"−"それ以外" という関係。これが無くなる。
"私"って、言葉だ。それってつまり自意識だ。
"私"という主体が無くなるってことは、つまり
自意識がなくなるってことだろう。
すると、どうなるだろう。客観的じゃなくなる。相対的でもなくなる。
全てひとつだ。ひとつのものだけだ。それしかない。それだけある。
その昔ある預言者が、神に尋ねた。
「お名前を教えてください。でなければ、どうしてあなたのことを
他の人々に教えられよう」
神は人間の愚かさにやや沈黙し、結局こう答えた。
『私は"在る"というものだ』 >>806
さあ、どうやら目を開く時が近付いている。
この質問を、私は幾度もあなたに尋ねてきた。
どの時代も、あなたはいつも私を喜ばせた。
運命というのは繰り返しだ。とらわれてしまうこと。
それもまた美しい。それもまた、悪くはない。
賢い人よ、あなたは答えうるか。
『右の手左の手、打ち合わせれば拍手の音が響く。
では片腕の者の拍手、この音は如何なるか。』
今、ここで、私があなたにこれを問う。
詭弁は最早通用すまい。 阪神淡路大震災から23年。
黙祷を捧げます。
防災の再確認をしておこうと思いました。 >>816
個体 液体 気体 かな。。と思います。
僕たちの本質は気体だけど
神から肉体を借りて
現象界に存在し
いろんな事を体験し学んでいると思います。
気体は
意識体でもあるし
摂理も関係してくると思います。 固体なんだけど
気体
ということかな。。と思います。 自分を認識する時は
五感を使っていると思います。
意識を認識する時は
六感を使っていると思います。 大和田菜穂さんは、覚醒すると赤ちゃんや動物のように自意識がなくなるという。
意識はあるけど、自意識がない。
痛みを感じても、その痛みが自分に起きてると感じない。
てことは赤ちゃんや動物はすでに覚醒していて、人間だけが覚醒してないってこと?
でもそれはおかしいよね。
動物より赤ちゃんより、成熟した人間の大人のほうが魂は高いはず。
覚醒して自意識がなくなるのは、逆戻り、退化ということにならないの? その場合の自意識がなくなるというのは心や身体が自分であるという認識が無くなるということ
赤ちゃんや動物は自分という認識はないけど心や身体そのものになっている
例えば夢で例えると、覚醒は夢の中で苦しんでいてもそれが夢だとわかるので苦しくないということ
覚醒していない人は夢の中にいて苦しみがあるとそれが夢だとわかってないので苦しんでいる
赤ちゃんや動物は現実という概念がないので夢という概念もないし夢を見なければ夢の中で苦しむこともない
つまり赤ちゃんや動物は元々覚醒してない状況にないからそれゆえ覚醒することもない
人は覚醒していない状態だという認識ができるから覚醒できる
赤ちゃんや動物は自分たちが夢そのもののようなものだから夢の中で目覚めることができない
赤ちゃんや動物が自意識を持って夢を見ることができるようになってそこから目覚めるしかない
悟るというのは生まれたときに戻るのではなく、そこからさらに生まれる以前に戻ることだというのはそういう意味
大和田さんの説明は説明が足りていない
本人も明確にできてないのかもしれない >>817
んー
まったくわかりませんw
犬に仏性が無い
まったくもって理解不能w >>825
パシーンと人からひっぱたかれた
そうすると痛い
自我は事実を認識して
この野郎!
なにしやがる!!
と怒ったり情けなくなる
自我がないなら
パシーンと叩かれたら、痛い!
で終わる
良寛さんが、袋叩きにあったエピソードもおもしろい この痛いが、味噌である
痛いは感覚であるが、そのものはある
つまり苦はあることになる
ところが我がされたとの思いがなければ、そこから一連の悩み苦しみは滅する
この自我活動の停止が、前後現在の認知を乗せることなくすので、あるがままから変遷しなくなるのだ、自然なことである
意識して為すことではないので、あなたの終わりなのだよ 老師だったか
このことを無為自然と一言で表したw
また馬祖と言う人もいたらしく
平常心是道と説いた
これだけの事である >>827
それで良いのです。何もわかってない。何か問題でも?
無知の知というのがあります。
言葉が流れているだけ。いやもっと言うと、音が流れているだけ。
何もわかりはしません。ただの快感とか不快感。
音楽ですよ、ほら。
単純でしょう? 裏表など、どこにあるでしょうか。 >>820
固体と気体。まさにその通りですね。
或いは水面の渦のようなもの。
氷の人形のようなもの。
形が消えれば、意識だけが、ある。 禅は詰まるところ、音楽の良し悪し。
引き攣った指では、良い旋律は流れない。
仮に人を幸福にするのが良い旋律なのだとしたら
悪い旋律は、人を不幸にしたりする。
禅が最後に行き着くところは、
完膚なきまでに凍り付いた鉄のような湖面、じゃない。
禅が最後に行き着くところは、
人間のあらゆる毒を霧散させる無限大の底のない大洋だ。
それはまた、達成された精神のノンデュアリティの
帰結でもある。 苦を乗り越えた先に
慈悲があると思う。
心の処理方法は
様々だと思うけれど。 >>833
そう、意識があり
思考もされています。 >>826
すごく納得できました。
ありがとうございました。 色即是空は
神の摂理の中で
因と縁が複雑に絡み合い
それはいろんな現象として起こり
絶えず変化している。
実体はなかなか分からない。
なのかな。。と思うのですが
トミーパーソンズの
私はいない
誰も何もしていない
という言葉は
自由意志の選択はあるのだろうか。
認識出来るのは
今、この状態だけではないのか。
ということを表した言葉なのかな。。
と、思いました。 >>839
色即是空は
形と名称が滅び去る時、これ、なし
であり
私はいない
誰も何もしていないは
話そうとせずとも喋ってしまうだろ?
と言っておるのだw 色即是空の後に
空即是色と続くので
実体はなかなか分からないけれど
そこから人は学び
執着がとれることによって
般若の智慧
(事物や道理を明らかに見抜く深い智慧)
をいただくことが出来る。
ということかな。。と、思います。 >>838
嬰児の如くなることは
退化などではない
この世界に写っておる不思議を眼にする
悟りは確かにそれではないが
それは確かにあるものであり
それを経てなおかつ、光をも切るのだ
普通の人間ではないww >>841
色即是空空即是色
形あるもの名称あるもの、これ、なし
形なきもの名称なきもの、こそ、あり
般若波羅蜜は、認識の停止のことである
志向性が止むこと
認識しようとする活動がなくなること
掴みかかる、維持するようなことのない
明確な活動の停止
なんとも表現の難しいものなのだ
空は即、色である
即!
つまり経過がないのである >>840
言葉となって現れたり
と、いうことでしょうか。 >>844
そうです
言葉にもなり、世界にもなり、想いにもなり、涙にもなり、愛にもなり、花にもなり、人間にもなり、わたしにもなり、あなたにもなり
森羅万象すべて、と、わたしのすべてが
空
からっぽであり
しかれども
この、からっぽは、即、つまり、同時に、目の前の変化する悉くなのである >>845
ありがとうございます。
小我から大我へ
でしょうか。 そうすると
僕は、ホセ・ムヒカさんを
思ってしまう。 >>846
小我をこの想いのわたしとして
大我を宇宙、自然とすると
まず小我から大我へ
の目覚めは必ずなければならない
そして、この、大我も越えられなければならない
すると不思議な光景を眼にする
世界が意識に映るのを見ているようになる
そして鏡の中央に意識点が移り、今までの内界が、外の暗闇になるのだ
そして光が天空に開いたり、暗闇に光さして愛が溢れだかれたり、天使の歌声が聞こえたりするだろう
しかし!
これも超えなければならない
停止する
停止するのは、何も残らない
小我も大我も神秘もない
だけど、今度は普通の日常があるwwww
ご飯食べたり、眠ったりする
働いたり、楽しんだり、苦しんだり悩んだりする
ここでの違いは、それしかない
つまり、他の可能性がない
あるものしかない
それ以上がない
それ、そのものしかない
ことだけなのだ
だから、何も得ることがなく、だれにも、このことを知られることもない 大我は
般若、集合的無意識 ( 霊統 )の意識に
気づいていくことかな。。と思います。
ここは第三の目、
将棋で言えば先読みをしていく場所になると思います。 >>849
そうではありません
それは集中されたイメージの作り出した現実を超えた光ではあります
その眼のとらえる光は魂世界を照らし、真我を実現させ、慈悲に包まれた安心へ導くものであるのです
しかし般若波羅蜜は、その光や、また普通の日常であれ、そのような認識可能なものではないのです
自我活動の停止のことです 第三の目は六感になりますが
霊統はこの六感を使って
認識していきます。
僕は般若波羅蜜が分からないので
少し調べてみます。 ヒンドゥー教のシヴァ神の額には
常に第三の目が描かれています。 >>852
第三の眼はありますよ
それが光をとらえるのです
そして、その光が内面の暗黒を払います
すると、内面が歓喜と静寂に満ちて、まるで抱かれているようになるのです
そしえ魂が、この世界だとわかります
これがヒンドゥのアートマンは、ブラフマンであるの気づきで、真我の実現ですね
しかし、まだ分裂してます
ノンデュアリティは、見る者と見られる対象が相殺されることなのです
この見た対象を切らないといけない
つまり、真我や、光や、安心や、なんであれ、そのとらえたものは、壊れるのです
この第三の眼は、自我活動を止めるための自我活動と言えます そういう語っていることはある程度ご自身でその境地になられてわかったことを語られているのですか?
それとも知識を語られているのですか? >>854
魂がこの世界である
という地点の理解はありますよ
そして意志活動の停止が悟りであり、ノンデュアリティの境地であると見ています
が!
わたしが、その、意志活動の停止になったのは一瞬のことであって、まだまだ、これから修行しなくてはならないのです
だから、わたしの意見であって、合っているかはわかりません
しかし魂が世界である
ここまでは疑いありません >>856
ありがとうございます
好きなことは好きなだけ進んでいきます! やっぱりアドヴァイタ関連のスレは
レベルが高くていーやね。
話が楽でさ。 悟りさえすれば
この世はバラ色になる、悪いことはすべて消える
至福の世界が訪れる
がんばるんだ、悟りさえすれば笑顔になれる
がんばるんだ、悟りを目指すんだ
こんな世の中から脱却するんだ、悟りを目指すんだ
天国はもう目の前にある
がんばるんだ、がんばって悟るんだ 体験と理解が魂の財産
というように
感性というものは
魂の記憶です。 自我の消滅は悟りってことでいいの?
それとも悟りの前段階で、そこが入り口?
自我の消滅体験したけど、これは悟ったことになるのかな? 言わば、頭の悟りと心の悟りがあるのです。
頭の悟りというのは、"私"という自意識からの解放、
言語からの解放です。
一方心の悟りというのは、ワンネスの実感を得て、
自分や他者の存在を大切にするようになっていくことです。
この二つは結局は同じ地点に向かっていることなので、
同時に起きることもあるし、同時に起きないとしても、
片方が起きると必ずもう片方が次第に伴ってきます。
悟りがどのように起きるかは、個人の性格の中で
頭ー心のバランスがどうなっているかによるのです。 >>861
あなたの場合は、「自我の消滅体験」が
どのような状態だったのかをもう少し詳しく
話してもらえると良いと思います。 >>859
と自我は意識的に何かを為す
それはすべてイメージの中でのことです
この意識していることが自然であることの理解を妨げているのです
わたしが努力することを書いたので揶揄したのかもしれませんがw
しかし、意志の止まることは、努力できないというわけではありません
方法がないわけではありません
坐禅や、反省は、その主だったものではないでしょうか 坐禅や反省が主だったものであるというのは主観がはいりすぎているかもしれません
しかし基本的に自分自身が問題になっているのですから自分自身を感じないでいるなら、自分自身の行為すら知れません
無意識の内にあるからですが、これが悟りなら、これは自我の終焉ではなく、自己の意欲に気づかないだけです
自分自身が緊張している認識がなければ、そもそも悟りなど目指さないと思いますが、笑
この方法こそが一番の関心の元ですね
悟りを理解したいものにとって
それはリラックスしていくことであると、大抵の人が説いています
私で在ることにゆるんでいく
そしてこの、在るというものの感覚の中で最高の自己感覚は肌感です
つまり触れ合うことであるのです
自己自身が触れ合うことから生まれているのです
ですから、この触れ合いにもどって、還って、開放することがいいのです
開放とは意識して見ているわたしが消えることです
これだけのことです
このことに気がつくことが最初の一瞥なのです
そこから始まります やはり用語は難しいです。
僕は自我の消滅が
何を表しているのか分からなかったので
調べてみたのですが
自我の死、自我の崩壊、絶望
精神的自立
と、出てきました。
精神的自立をしていく過程で起こる
心の葛藤で良いのでしょうか。 いつも愛の中にある
悟ったかどうか、これでわかりますよね
この言葉は、いつもです
つまり、これは愛そのものでしかなくなっているということであり、分かち合い精神の究極であり、ブッタの慈悲の次元です
わたしはとてもじゃないですが、到達できていません、笑
あたりまえですが >>866
心の葛藤が極限に達して完全に絶望することが自我の崩壊、消滅でしょうね
自立というのは大人になることであって、自我の終焉は絶望、これ以上の望みが残らなくなることであって意志の停止でしょう
絶望なしに悟りに興味を持つことすらないでしょう 無常観、罪悪感
この二つの入口から道に入る
突然の肉親の死から無常を感じて出家した人は、たくさんいますし、とんでもない犯罪者が立派な僧になっていることはよくあります
そもそも龍樹が、宮殿の女を犯してまわり、仲間が惨殺された経緯から仏道に入っているくらいですから、、、
まあ、世間で成功するための悟りなど、矛盾もいいところであるように思えるなあ
個人的にですが >>861
悩みや苦がもう何もないなら悟りでいいんじゃない?
自分の中に疑問がもう何もないなら悟りでいいんじゃない?
でもこれは悟ったことになるのかなって問いが生じてるくらいなのでたぶん悟り(大悟)じゃないでしょうね
自我が消滅したという自我(観照者)がまだいるんじゃないですか?
おそらく悟りの入り口か小悟じゃないでしょうか >>872
天照大御神と大和では崇められてきたのですw >>868
ありがとうございます。
命というと
アブラハムとイサクを思い出します。
どれほどの葛藤があったかと。
これは究極にキツイと思います。 >>876続き
このアブラハムの頃は
生贄の習慣があったそうですが
それをやめさせたようです。 >>876
命は大切なものですが、特に、自分自身のもつ生命が大切に感じます
だから他の人も同じである
と釈迦が述べたと聞いたことがあります
しかし命をいただかないわけにはいきません
食べなければ死んでしまうのは己です
他のものが殺したのだから自分ではないから、殺生とは無縁と言ってみても、野菜や果物だって生きているんです
不殺生は殺せないという意味であると禅僧が言いますね
殺す事は不可能である
ぶっつづきの、ひとつの、命を生きている
この命が魂であり、世界であり、この、意識こそが全体に分裂なく、変化し続け、写し続けているのです
これが夢の世界であり
この命の以前には、沈黙があるのです その沈黙で終わるのではなく命の復活があるのだと。
そこですよね。 その命そのものに入り込んでみないとわからないんですよね。 >>874
そうなんですね。知れて嬉しいです。ありがとうございます。 >>879
沈黙した時に見えてくる
確かに
ここは、わたしは完全にそうであるのではないのですが垣間見たところでは
自我の沈黙した時、ありとあらゆるものは御伽の国のようにあるがままにある
あるものがあるの方が近いかもしれない
普通はわたしが停止すれば、すべてが消失すると、思われるのだが、あるものがあるがままにあるところが、みえるようになる
それまではイメージの世界を見ていたのであって、事実の命が、わたしだったのだ
全体としての、生命
これが永久不変の真我であって、個人は消失しようとも、この、ひとつの宇宙は、無限なのである
あなたはわたしと共に、また、あらゆる生命とともに、この、意識を共有するのである
ちょっと、この文は、想像を含んでいます
わたしはこのことを今、追求中なのです
あなたはわたしより理解がありそうです あ、赤ちゃんのとき、親の顔が、こんな風に笑ったりしてたなあと
その時、思いました 外界が自分の中を覗き込んでるみたい
この外側が愛おしいように、わたしに色んな姿を取ってくれて
みんな同じその外側を生きてる
みんな同じ
ひとつ
一切衆生同時成道です 僕は幼稚園の頃から
知りたいことが3つあって
1つめは
実家が古神道なのですが
飾ってある ⊙ の意味と
2つめは
人は死ぬとどうなるのか
3つめは
命とお金はどちらが大切か
これをよく大人に聞いてました。
2つめまでは分かったのですが
命とお金はどちらが大切か
↑ 今ここ です。 >>863
自我の消滅体験を詳しく説明すると、
私の発生場所を観察するある瞑想をはじめて行ったとき、
ハートにある私という部分を感じつづけたところ、
突然強烈なめまいに襲われ、全身がエネルギーで満ちて、数分後それらがおさまったとき、
そのハートにあった私という部分がスーッと消えてなくなってしまった。
それまで、私と唱えるとハートに感覚が出たのが、感覚が出なくなった。
それは今現在も続いている。それを自我の消滅体験と思ってる。
自我が消滅した瞬間、心が安らぎに満ちて、ああついに終わった、という感覚になった。
何が終わったのかわからないが、ついに終わったのだ、という気持ちになった。
それからはもう真我を探求する熱意も情熱もなくなってしまった。
どうでもよくなった。すべてどうでもよく感じる感覚。
今まで瞑想すると、自我が消える感覚があったのだけど、
自我消滅してから瞑想しても瞑想後も変化ないので、瞑想に力も入らなくなった。 >>873
悟りにも小悟大悟ってあるんですね。
たぶん自分は大悟ではないと思う。
真理とか慈悲もよくわからないし。
知恵の言葉も出ないし。
ただ自我が消えただけ、それだけかも。 >>888
安心感、安堵感はいまもあります。
日常生活では色々とありますが、1人静かにしていると心は安らぎに満ちてます。 >>886
ありがとうございます。
私もそう思います。 >>890
ぼくもよく似たようなところにあるかもしれないですね
ここから脱却するのに見ている己が世界とひとつあるところを、せっせと繋いでるところなので、、、
外の認識は変わってないんですか?
認識方向が逆転してますか? >>891
古神道の◎に中心点は、中心点からマル、そして更に外の安心が、うまく連なると、いいのかなあと今は想像をしてる段階です
うまく実現できないけど、たまに、一瞬ならなるようなところです
このマルがにっこり笑うのが、いいかとw このマルがあなたとわたしで、全く同じものだとは思いませんか? >>882
すみません。
考えて言葉に表そうとしてもできないんです。
あなたの垣間見たもの、想像と同じだと思います。
とにかく、
すべては完全である。その中に入り込んでいる状態。完全で美しいのです。
賛美に次ぐ賛美、美しいものの極致、天国が実在するのです。
そして、大いなる感動と愛を伴って戻ってくる。
その後の生き方は人のためにが根本原理となるはずです。
神と共にあるからです。
これでやっと人となれたのです。 >>892
認識方法は変わってないと思います。
意識の中に世界があるとは感じないし、すべては私という感覚もないです。
悟るとそうなると思っていたので、自分の体験は悟りではなかったということでしょうか。
それともまず自我の消滅が起こり、それから意識が変化していくものなのでしょうか。 >>889
作っていた自我(自己イメージ)が消えたのかもしれないですね
原始仏教では悟りは4段階ありますし、非二元でも段階が言われています
自分が消えたと観ている自分が誰かがわかるといいのかもしれないですね
大悟小悟に関しては例えば禅宗などでは悟りの入り口を通過したかどうかを公案という問いで試します
両手を叩くと音がする、では片手で叩いた音を聞いてこい、という有名な公案が解けたら入口は通過してるのでしょう
片手では拍手はできないはずなのですがその音はいかにという問いです
(入口通っていても解けない場合もあるようですが)
とりあえず自我は消えたということですが、では世界はどうなのでしょうかね
自我が消えたという自分は在るのか無いのか、世界は在るのか無いのか
一人静かにしていると安心があるのはいいですね
日常生活でいろいろあるということは、一人でないときは安心でないということでしょうか
非二元においては心と身体と完全に離れるのが悟りですから、
心がどうであろうと、安心があろうとなかろうと、日常にいろいろあろうとなかろうと、
どうでもいい(何も変わらない)なら悟りでしょうね
それが本当の安心で真我実現なのでしょう >>895
あなたは私より先に行ってます
私はその、完全性を瞬間、見えただけで、まだまだ自我は旺盛に活動しています
ここから、どのように、あなたの感得された地点へ向かうのか試行錯誤していて
この世界にくっついている自我反応を引き剥がしにかからないとなのか、それとも、この魂と一つあるところで、更に、この心理傾向を削らないといけないのか
こんなところです
人のために生きることができるなんて、すばらしい境涯ですね! >>896
ハートの消失したところが世界なんです
だからハートの中に意識があって、それを見ている存在が私ですね
この見ているものが、この、ハート意識と別に分かれているのではなく
このハート意識が見ているもの、そのものなんです
つまり、消失したハートに、世界が飛び込んでくる筈だと思うんです
違う人も書いてくれてますが、これは見ている己が消えてない可能性がありますね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています