【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>726
自然の摂理は真我の見る夢の世界である
その摂理の世界は、生滅する
体と心と世界は永続しないものであり、その虚無性こそが救いとなる
無我にして無一物
これほどの絶望感は自我にはないだろう
なにももたない
わたしすらいない
しかし、これが、逆に救いとなるのだw それは違う。
救いとは完全な幸せです。
無ではない。
無から有が生まれなければ救いではない。 虚無を超えて 唯一を見出すことが至高なるものだね。 >>738
それについては、私たちは完全なトートロジーに陥るだろう。
真我は意識によって捉えられない。
真我を表す言葉は無い。
つまり全ての見識、思想、言葉は、
真我以外のものであり、虚偽なのだ。
私たちは真我について「ない」と言う。
しかし他でもなくその行いによって、
「ない」という言葉が作られてしまう。
私たちは思索する。思案する。
それによって真我からまた離れていく。
息づく。生きている。
それによって真我からまた離れていく。
宇宙がある。世界がある。意識がある。
それによって真我からまた離れていく。
ああ、だがどうだ。
一体何が、真我から離れたというのか?
それらはみなひとつの、
繋がりに過ぎないというのに。 私たちのこの世界、この夢の性質に関することなのだ。
例えば夢の中で「これは夢だ」と強く念じれば、
私たちは目を覚ますことができるかもしれない。
そして一度目を覚ましたならば、夢の世界は消える。続きもない。
だがこの世界はどうだ。強く念じれば、深く瞑想すれば、
世界そのものが消えるか。
いいや、違う。せいぜい個人的な肉体が滅びるというだけだ。
なぜだ?なぜ私たちは目を覚ますことができないのか。
念じる力が弱いから?修行が足りないから?精神が未熟だから?
いいや、違う。私たちが、夢そのものだからだ。
私たちは、他ならぬ夢そのものだからだ。
一体どうして、自分自身から目覚めるというようなことがあるだろう。
そんなことは有り得ない。
私は"在る"という者だ。これ以上強い言葉はない。これ以上強い輝きはない。
世界は在る。私は生きている。あなたもそうだ。全ては素晴らしい。
全ては完全だ。 そう。最初から完全だった。
世界が完全だから私は完全か?私が完全だから世界は完全か?
不二なのでこの疑問自体が意味をなさない。
空を観て仮(夢)と知り、それを虚無と観ず完全さと知る。
人間として生きていることの不思議を等身大の自分に
戻って完全さを楽しむ。
他者に語る意味があるとすればこの一点にあると思う。 完全なんてありませんよw
もちろん整然なる自然界の掟は厳しくも法則的に運行されておるわけで、完璧ですが、自己にとっては不都合なこともありますから
在るといっても、その美しさを感じることに主眼がおかれたら、苦しみにも変わります
なにももたない
わたしもいない
これは絶望感ですw
この無一物、無我というのは、さいてーの事実で在るはずです
ところが、それが開放になる 人を離れ法を離れる
これは、自分から開放され、さらに、世界からも開放されることであり、これは、事前にあることでなされるのです
事前というのは、事が認識される前の空性のことですが、それは認識に昇らないのです
だから悟りには人は登場しませんし、世界も登場しません
真我にはなにもありませんw
空っぽ
なので、それを手に入れることはないのです 崩壊させられることで開放なるわけです
意識、世界の永住不変なりと、そのように誤ったことはありえないので、自我は、なにも頼りにする事がなく、本来、無一物である
無一物、無の一物
虚無性です
この虚無性は自我にとってのもので、その自我にとって最悪な事態が悟りですw 厭離と離貪と滅尽
によりて取ることがないゆえに解脱する
このようにブッダはときました
なにももたない
わたしすらいない
その時に苦しみは完全にない この時に世界は光輝に満ちますが、そのことに主眼がおかれるなら持ち去られるのです
光輝に満ちた至福の安楽は、おまけみたいなもので、あくまで主眼は、意志の停止であり、智慧の完全性におかれるべきなのであります
これは内面の虚無性に他なりません
外界の事象の夢幻の如くにしてきらびやかなるのは、この虚無性によって付随したものであり、それが完全なる実体だとするのは、おそらく破壊されるでしょう
なぜなら、それは行為によるのであるなら、意志によるのであるなら変化するからです
無であることは事前にあることで、自己ができることは何もありません
気がつくことがあるだけで、なんらかの意志や行為が、それを運ぶわけでもなく
誰かが達成するわけでもなく
悟った人などどこにも残らないのです しかし、それはまだ何か、個我の
「こうありたい」という欲求を映してはいないだろうか。
虚無感とは、虚しさなのでは?
だとしたら虚しさとは、「もっとこうあってほしい」という
何事かへの妄想であり、偏見であり、願望から生まれるものだ。
どうして世界へ「これ以上」を願う必要があるだろう。
世界はこれだ。私たちは受け入れるだけでいい。
しかし部分的にではなく、完全に。
そこに個我の見解が入り込む余地はない。 知識は人々を盲目にする。
彼らの目は知識で一杯になりすぎて、観ることができない。
あなたが質問をする前から、彼らは出来合いの答えをもっている。
彼らはいつでも答える用意がある。
彼らはあなたの質問など聞いていない。
彼らは質問者に耳を傾けていない。
彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。
彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が何を言おうとしているのかを見ようとはしない。
彼らは既成の答えをもっている。 夢を見ていることを知ることと
夢から覚めることは
全く違う経験になりますか? 知ることは継続的な蓄積です。
一方で覚めることとは、あることの終わりと始まりです。 >>753
夢を見ているものを夢の中の人々は知ることがないのであって、夢を見ている者が夢だと気がつくことがあるだけであるかも?
わたしは救われているのはそこだけかも? 人間が眠りから覚めれば、この世界が展開しているわけだが、この世界に眠りが目覚めれば、虚無があるのだw
ガラリとしてなにもなし
そのようにダルマは言い
自性は空性であると大乗の教えるところ
それが目覚めたる真の我であり
本来の面目躍如であり
その無と、この世がどちらも対象にわかれずしてあるときに、この世は美しい
そして自由は本来の幸福を与えるが、それは捕まえれば消える 何かの変化を見るが、その快感に束縛されれば消えるのである 個人的な見解を述べよう。
私は率直に言って、伝統的なアドヴァイタの教義や、
仏教の無常観には疑問を抱いている。
ブラフマーとマーヤーという対立軸。
煩悩即菩提と述べつつも、なお煩悩と菩提とを
切り分け優劣を付けようとする便宜的姿勢。
今、あなたもまた、眠りと目覚めとを別の世界のように
分けようとしてはいないかと私は感じている。
ある時間経過の中で、先ず苦に満たされた悪い状態があり、
さらにそれが滅尽された寂静の、より良い状態があるのだと見ること。
私はそうは思わない。存在とは、エネルギーの部分的な
凝集であり、部分的な滞留なのではないか?
実在とは、相対化された無だ。
それを無として見ても、有として見ても、実相は同じ。
ただ変化だけがあるのだ。光り輝く変化の太陽だけが、
私たちの精神には到底理解しえないような規模で、
時を越えて存在しているのだ。 >>758
光に満ちた世界は、訪れることもあり、ないときもあり
それはイメージであり、わたしにとっては、それは足枷となったのだ
無であれ、空性であれ、光であれ
なんであろうと現れたものを堅固にしようとすれば崩壊するからである
だからと言って光に満ちた世界にある人が、救われているならなんの問題もない
わたしは、現れたものを取らないこと捨てないことが、つまり、動きがやむことが、静寂であり、眠りの顕在化であり救いなのだ
世界が美しいとしても、世界が美しいとは見たくないのだ
そう言ったときに、美は消えてしまうからだ >>759
なるほどどうやら、あなたから見ると私は
目の前に現れた幻想をより堅固にしようと
注力しているように見えるらしい。
だが私自身で自らの状態を説明すれば、私は個我を脱し真我そのものとなって
完全に脱力し、大河に漂っているだけ。
そして私から見るあなたは、まだどこか流れに
逆らおうとしているように、そのように見える。
どちらが正しいかということもあるまい。
不二一元論、ノンデュアリティ、様々な宗教教義。
それらはあなたも恐らく理解しているであろう通り、
詰まる所は個々の人間の心情を映す鏡に過ぎないのだから。 おお、なるほど・・・つまり内観だ、私たちの違いは。
私は自身の言葉、自身の思索、自身の眼差しの中に、
その本質として、生命の生きようとする意図を見る。
この宇宙の存在し続けようとする意志を。
更にその根底にある変化への意志を。
私とあなたは、違うのだ。心のあり方が違う。
だから論理の解釈も違ってくる。例えばそれは人と獣の違いだ。
私は自然に近いから、人間らしい考えは時々奇異に感じる。
ただそれだけのことだったのだ。 禅では
不二は一体のもの
または、一つの如し
と、言われているそうです。
サマーディ ( 瞑想 )は
生命エネルギー体としての自分を知り
摂理と一体であることを感じていく方法かな。。
と思います。
体外離脱もそう思います。
ヴィパッサナー ( 洞察 )は
意識体としての自分を知り
統合した意識であることを感じていく方法かな。。
と思います。
クンダリニー もそう思います。 だから
精神的自立と自律のことかな。。
と、思ってしまう。 現象で起こる様々な事柄も
人ごととは思わず
摂理として考えていきたいと思います。 クンダリニー ヨーガは
瞑想として扱われていますが
クンダリニー は
洞察です。 真我は
分かりやすい例えだと
閻魔様だと思います。
出来るところから
ぼちぼちやってます。 真我は
自分を照らす鏡。
それで
閻魔に例えられているのかな。。
と、思います。
真我は神の遺伝子。
一人一人神の遺伝子を持つ
神の子です。 僕は聖者じゃないので
わからないけれど
ユング心理学では
ペルソナとシャドウは
言われていますね。
マザーテレサの手紙が公開され
考えさせられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。 >>770
「不気味の谷」みたいなものがある。
道徳能力が一定以上に高まると、人は自己の欲求を厳密に抑制し始め、
非常に規律的な態度を取るようになる。
厭世、無気力、抑鬱、無関心。
しかしさらに道徳能力が高まると、その虚弱の谷を超えて
世界創造の領域に入り、精神は全く別の新たなエネルギーに
満たされ、再び動き出す。 >>772
あ。。それなのかなぁ。
ありがとう、ごんさん。 抑鬱的であることも快感に染まることも
心情の変化である
なにかを見て、それを固持しようとする
真我、無我
などと言われるところは、それの活動のない
元々本来の姿
つまり、あるがままである
抑鬱を乗り越えると開きがあると言っても、その開きが、新たな変化を生み、それをまた自我が追いかければ、消えたりあったりするものとなり、維持しなければならなければ苦しむ
開放は完全にして全てを含まなくてはならない
ので
良い事だけではないし
綺麗なことだけでもない ところがよくあるように
というより私は、快感に苦しめられる
快感があるときには、ある特殊な状態にあるわけだが、それは意図なしにある
あとになって、それを再現することはできない
が
頭は覚えており疑似体験をしてゆく
しかし、本当のそのものではないので、常に不満が残り、限界もくるのだ
快感も不快感も取りも捨てもしない
そうしようとも思わない
あるがままとは都合が良くないこともあるw 人間の視野がこうあることが
気に食わぬ
もっと違う境地を得ようとしても無駄であるw
人間の視野はこうある
目は横についている
もともと本来のそのもの
変化を見ようとしても、変化のないものしかない
変化しているのは心情、事象であるが
それらも私を超えてあるわけがない
当たり前の事実である
なんの神秘もない
なんのイメージもない
私を超えたところは無限であるが、それは、わたしにとっては虚無である
この無が、停止であり、この停止があるがままであり、この、あるがままが、ある
向かうところ対象があるが
向かわなければあるものが
ある
解釈に染まれば消えてしまい
手に入れようとすれば追いつけない 固持するというけれど、"私"という主体が無いときに、
一体誰が固持すると言うの?
変化がある。それだけ。
喜びも苦しみもある。それだけ。
欲求がある。それだけ。
ただあるものがある。それだけ。
嫌ったり、遠ざけたり、考えたり、評価したり。
そういうことは必要ない。
おお、人間は生きたいのだな、寒いと苦しいのだな、
共感というものがあるなぁ、人に優しくすると気持ち良いものだな。
ただそれだけ。
それを評価して、嫌っているのは、誰? はい、じゃあここで皆さん、OSHOについて
各自評価してみませんか。
これは結構温度差が出ると思うなぁ。
きっと楽しい。 >>778
私という主体は意識することである
私が無いならば、意識することがない
意識することと、意識そのものは差がある
この差は、方向性の差である
そして、この向かっていく意志が止まる
わたしがなきときに誰が悩むのか
他者の評価と欲求によって悩むのである
社会生活は、その他者によって、わたしが動く中にあるが、わたしは、見解によってなやまされるのである
受け手が消えるというのは、仕組みから遠ざかることであり、わたしがない地点は無である
そうは言っても、この世界はあるのであって、見られるものも見るものも残っている
主体なきとは、元々のところであって、顕在化した、ここには主体がある
客体と主体にわかれないと見るのであれば、客体がある
とにかく残るが、それは虚無からある >>781
貴方の言いたいことはわかるんだけど、
ごんさんとMさんは柔らかさがあって、
貴方の活字にはまだ硬さがあるんだよね。
それはまだ 枠に囚われてる感覚を感じる。
こうでなければならない というこだわりみたいな。 何というか、
こうだ、こうである、
は 絶対的思考であるけど
叡智は無限にあるから 断定ではなく、
こう思う というニュアンスが 柔らかさであり
叡智なんだと感じられるのかな。 >>780
非常に簡潔に言うと、悟りを通してこの社会や人間存在への関心を無くした者は、
人間の社会から見れば、無意味で不要な存在だからです。
恐らくそういう聖者は、山の中の小屋で一人で暮らすのが幸せでしょう。
勿論、彼自身はそれで十分満足だし、豊かになれると思います。
「聖者的虚弱」という言葉、私はあくまでこの人間の社会にとって、
という視点で使っています。
だって私たちは、人間同士として、人間の社会を通して、こうして
交わりあっているわけですから。
虚弱な聖者は人間の世界を良くしたりはしないのです。
ですから、人間にとっては不要な存在だということです。 >>780
あ、ちなみに私が「聖者的虚弱」と言っているのは
創造の領域に入る手前の、無気力状態のことです。 >>781
クラゲには意識があるだろうか。どう思う? >>783
普通、叡智とか神秘を垣間見るとかされているものの、ほとんどが、内的なイメージなのです
それを見ることで撹乱されて、新たな、枠ができたりするんですが、ほんとは、ここの、これは、なんの変哲も無いのですよw ひとつの原子から造られた宇宙の作品を何の変哲もない、というのかい?
宇宙は無限大に広がって 未知数なのに?
まだ見てないものまで きっと 何の変哲もないものに違いないと? >>784
なるほど。。と思いました。
osho も調べてみますね。
すみません。
ユング心理学のペルソナとシャドウですが
検索すると
分かりやすく書いて下さってる方がいらっしゃって
鏡の法則を使い
自分の欠けた部分に気づいていく方法ですが
これは本当に大切だと思っています。
宇宙は波動で動いていて
そこには摂理があり
常に調和するように働きます。
閻魔様に例えられる真我も摂理なので
鏡のように
調和を保つように働きます。
調和することによって
気の循環が良くなります。 村上和雄さんという方がいらっしゃるのですが
「 311を大きなメッセージと受けとった 」
と、仰られていて
僕もそのように感じていたので
この方のお話しに感銘しました。 >>789続き
気というものは
生命エネルギーです。
5次元以上の世界が何故
真理と歓喜の世界なのかというと
調和しているからで
黄金比と気の満ちた世界だからです。 これも波動の法則だと思います。
神は摂理を創造し
僕たちは摂理の中で存在していると思います。 生態系を顧みる
いよいよの時期に来ているのかな。。
と、思います。 ブラフマンもアートマンも
神の摂理ではないかと
僕は思います。 >>788
ひとつの原子から造られた?
神様ですか
無限大にして神秘な宇宙は、毎日、おる、ここじゃないですか
なにか変わったことありますか?
ご飯食べて眠らなきゃならんでしょうし
お金稼ぎや歓楽も必要
なにか特別な事がありますかなあ
神秘と言っても、さっきご飯食べたのも神秘と言いだせば神秘になりますが
だれも、そのようなイメージは抱きません
ただ普通にある
こっちに神秘があったら、ね
あなたを利用する人間はどうですかwwww
それも神秘だなw
イメージが、そう見たり見なかったり
内面から起こってるよね
そういうものは、苦しみを減らせないんだよ
まあ試しに、宇宙の神秘で人を幸せにしてみてください
その人は、一時期、幸運になっても
再び、地獄を味わうかもしれません、笑 >>786
あるんじゃないですか?
意識がクラゲですし、意識が人ですし、意識を離れては無です
意識が派生してきたのは肉体の誕生とともにあるのでしょうが、その意識が全てを形成していて、それはだれも共通したものでしょう
極端に言えば、クルマも意識でしょうw
クルマも語りますし、わたしと、同じもので形成されたものです 和尚は、どうも胡散臭いですが
書いてることはいいですよ
海とダンスするとか
あなた本来の顔、これ以上、大切なものはない
とかね
ただし、笑い方がインチキな感じに見えるww
まあ会ったこともない人だから、単に、そう見えるだけですが >>795
モノの見方に絶対はないと思うんですよ。
こうだ、こうである。は数式だけかと。
でも 数式でも割り切れない数字はありますからね。 >>799
そうですね
見方に絶対なんかありません
しかし真理は絶対です
絶対でなければ真理ではないでしょうw
あなたと私で違うものなら、そのようなものは空想、想念であって、概念、見解ですね
表現が変わることはあるかもしれません
しかし、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静などの真理の教えは絶対です
そうでなければ、テレビドラマとなにも変わらないたんなる娯楽に成り果てますw >>796
なるほど。
クラゲや車には、"私"ってあると思う? >>800
叡智って 自分では知り得ないものだから
完成は無いと思っています。
だから わたしは何も知らないと言う言葉があるのではないでしょうか。
わたしは真理は無限大で言葉にすらできない。
そう思います。
だから こうだ、こうである、は
知識であって 教育みたいなもので 言い聞かすのではないと思いますよ?
でも 貴方の中に絶対があるのなら それはそれで
貴方の考えだから 貴方はそうなのでしょう。
それぞれ 違う尺度で観ているから価値観も同じと言うことはないですね。 >>802
大昔から大勢の人たちが知識を教育してきたから文明が進んできたんだろ
自分一人で飛行機完成させようったって無理だろ?
アルキメデスの時代から積み重ねられてきた叡知が飛行機を完成させるんだよ
貴様のような思考停止の反知性主義じゃ真理には辿り着けないのは当たり前だ
先人に学べ アルキメデスの時代から積み重ねられてきた叡知が飛行機を完成させるんだよ
ですが、飛行機はさらに進化していますよね?
きっとずっと同じ形態ではありませんよね。 貴方もアルキメデスの叡智と語っているではありませんか、それは無限大なんですよ。 >>801
自意識はないかもしれませんね
しかし、そこに仮に存在するものたちは
その形態において我々の心情に印象的に捉えられるものであります
愛するならば、そこに生命があります
無関心ならば、そこは無に等しくなります
人間同士でもそうでしょうw >>804
飛行機の形態がずっと同じじゃないから数学も必要ないと言ってるのと変わらんぞ
思考停止主義者のために、もっとわかりやすく言おうか
例えば、人類は絶対死ぬだろ?どうだ?変わるか?変わらないだろ。
真理だ。
欲しいものは必ず手に入るか?どうだ?必ずではないだろ。
これも真理だな。
異論を挟む余地はないよな?
絶対的な真理だ。
こうやって積み重ねていくと>>800の言ってる諸行無常、諸法無我と言うのに辿り着いていく
そこに異論を挟む余地はない
価値観など関係ない、キリスト教徒だろうが無神論者だろうが諸行無常は真理なんだよ
わかったか? >>802
価値観の話ならそうですね
真理は無限大と言ってみても虚しいだけになる
知らないことは実質、神秘に開かれます
すると実質的に安心を感じることは、これは、わたしだからそうなるものであれば、役に立ちませんので真理ではありません
もちろん私は、私のことしか語れませんので、わたし自身の経験からくる意見を述べるのみですが、真理はひとつのはずです
私の断定が正しいかどうかは、実際上に、真にそうであるかどうかで確かめられます
私は自己の断定が有効にならなれけば、つねに迷い続けなくてはなりません
これが本当に苦悩の消滅である
でなければスッキリしません
価値観は様々あって当然であり、知恵が増していくこともあるでしょうね
しかし、すべての活動は移り変わる
と、こう来たり去りゆくというような真理は、価値観ではありません
事実のことで、事実を無視しても、どう見ようとも変わりません
木の枝があり、それをなんと呼ぼうと、そのものは変わりません
不滅です >>807
別に わたしに叡智があっても貴方は困らないし、真理は無限大と語っても貴方は困らない。
わたしはそう思いますと語っているだけで、
そしてあくまでも貴方が知る限りでは、絶対があるのならそれで良いですよね。
仏陀は真理はあるとも無いとも語りませんでした。互いにそれで良いと思います。 >>809
それで思い煩いがなければ、それでいい
真理は無限大でも、真理は絶対でも、同じようなことに思えますw
それで安心するならそれで完全です
おわりです、笑 原意識としてのクラゲには自己意識としての意識はないのでカラダを持って個性としての意識、自己意識を持つようになったのだろう 神つか原意識が自分を認識するために宇宙を創ったのだろうけど我われもその一部だから文句も言えない、まったくな話だ >>809
はあ?仏陀は真理を語ったぞ??
そんな基本的なことも知らずによくもまあ真理は無限だとか適当な自説を持てたもんだ
仏陀はこの世は苦である、それが真理だと断言した
古代インドの言葉でサッチャとかサティヤと言う、何度も何度も説法で真理を語ってるから調べてみろ
ちょっとの勉強も嫌いだから反知性主義になったんだな
そんなに先人から学びたくないのか
エゴの塊だな 真理が存在し言葉として残されている事実を認めたくないがゆえに、自分だけの脳内仏陀を作り上げ「それで良いと思います」って、議論不可能なレベルで幼稚だぞ
これからは反省しろよ、反省しないと成長もない
ずっと幼児のままだ >>813
一切衆生悉有仏性
ブッタの言葉は、上にあるものも下にあるものも認識可能なあらゆるものは空である
と感ぜよと教えたという
実体のない移り変わる仮のものとしての世界であるが、それは、ある
無限は仏教者のよく語ることでもあるw
言葉が真理を指すとしても、そのあらゆる教えは、人々を苦悩から救うためにあったのだよ
安心があり、煩悩が沈むのが、ほんとうのことなら、それ以上、なにもない
嘘なら苦しまなくてはならなくなる 人々は批判する生き物である
光や鏡を理解しようと、真我の安らぎを確信しようと、あなたが非難から逃れられるかww
そこで、あなたは光に救いを求めても、光はなにもしてはくれない
イメージで見るものは力などないのだw
真の力は、停止である
無明、つまり、一切が苦しみであると知らないことが尽きれば、行が滅するとは
かの聖者の言葉であり、真理だ >>806
そうだね。クラゲには意識はあるけど、自意識はない。
主体が無くなるって、一体どういうことだろう。
それはきっと、客観的じゃなくなるってこと。
相対的じゃなくなるってことなんじゃない?
"私"−"それ以外" という関係。これが無くなる。
"私"って、言葉だ。それってつまり自意識だ。
"私"という主体が無くなるってことは、つまり
自意識がなくなるってことだろう。
すると、どうなるだろう。客観的じゃなくなる。相対的でもなくなる。
全てひとつだ。ひとつのものだけだ。それしかない。それだけある。
その昔ある預言者が、神に尋ねた。
「お名前を教えてください。でなければ、どうしてあなたのことを
他の人々に教えられよう」
神は人間の愚かさにやや沈黙し、結局こう答えた。
『私は"在る"というものだ』 >>806
さあ、どうやら目を開く時が近付いている。
この質問を、私は幾度もあなたに尋ねてきた。
どの時代も、あなたはいつも私を喜ばせた。
運命というのは繰り返しだ。とらわれてしまうこと。
それもまた美しい。それもまた、悪くはない。
賢い人よ、あなたは答えうるか。
『右の手左の手、打ち合わせれば拍手の音が響く。
では片腕の者の拍手、この音は如何なるか。』
今、ここで、私があなたにこれを問う。
詭弁は最早通用すまい。 阪神淡路大震災から23年。
黙祷を捧げます。
防災の再確認をしておこうと思いました。 >>816
個体 液体 気体 かな。。と思います。
僕たちの本質は気体だけど
神から肉体を借りて
現象界に存在し
いろんな事を体験し学んでいると思います。
気体は
意識体でもあるし
摂理も関係してくると思います。 固体なんだけど
気体
ということかな。。と思います。 自分を認識する時は
五感を使っていると思います。
意識を認識する時は
六感を使っていると思います。 大和田菜穂さんは、覚醒すると赤ちゃんや動物のように自意識がなくなるという。
意識はあるけど、自意識がない。
痛みを感じても、その痛みが自分に起きてると感じない。
てことは赤ちゃんや動物はすでに覚醒していて、人間だけが覚醒してないってこと?
でもそれはおかしいよね。
動物より赤ちゃんより、成熟した人間の大人のほうが魂は高いはず。
覚醒して自意識がなくなるのは、逆戻り、退化ということにならないの? その場合の自意識がなくなるというのは心や身体が自分であるという認識が無くなるということ
赤ちゃんや動物は自分という認識はないけど心や身体そのものになっている
例えば夢で例えると、覚醒は夢の中で苦しんでいてもそれが夢だとわかるので苦しくないということ
覚醒していない人は夢の中にいて苦しみがあるとそれが夢だとわかってないので苦しんでいる
赤ちゃんや動物は現実という概念がないので夢という概念もないし夢を見なければ夢の中で苦しむこともない
つまり赤ちゃんや動物は元々覚醒してない状況にないからそれゆえ覚醒することもない
人は覚醒していない状態だという認識ができるから覚醒できる
赤ちゃんや動物は自分たちが夢そのもののようなものだから夢の中で目覚めることができない
赤ちゃんや動物が自意識を持って夢を見ることができるようになってそこから目覚めるしかない
悟るというのは生まれたときに戻るのではなく、そこからさらに生まれる以前に戻ることだというのはそういう意味
大和田さんの説明は説明が足りていない
本人も明確にできてないのかもしれない >>817
んー
まったくわかりませんw
犬に仏性が無い
まったくもって理解不能w >>825
パシーンと人からひっぱたかれた
そうすると痛い
自我は事実を認識して
この野郎!
なにしやがる!!
と怒ったり情けなくなる
自我がないなら
パシーンと叩かれたら、痛い!
で終わる
良寛さんが、袋叩きにあったエピソードもおもしろい この痛いが、味噌である
痛いは感覚であるが、そのものはある
つまり苦はあることになる
ところが我がされたとの思いがなければ、そこから一連の悩み苦しみは滅する
この自我活動の停止が、前後現在の認知を乗せることなくすので、あるがままから変遷しなくなるのだ、自然なことである
意識して為すことではないので、あなたの終わりなのだよ 老師だったか
このことを無為自然と一言で表したw
また馬祖と言う人もいたらしく
平常心是道と説いた
これだけの事である >>827
それで良いのです。何もわかってない。何か問題でも?
無知の知というのがあります。
言葉が流れているだけ。いやもっと言うと、音が流れているだけ。
何もわかりはしません。ただの快感とか不快感。
音楽ですよ、ほら。
単純でしょう? 裏表など、どこにあるでしょうか。 >>820
固体と気体。まさにその通りですね。
或いは水面の渦のようなもの。
氷の人形のようなもの。
形が消えれば、意識だけが、ある。 禅は詰まるところ、音楽の良し悪し。
引き攣った指では、良い旋律は流れない。
仮に人を幸福にするのが良い旋律なのだとしたら
悪い旋律は、人を不幸にしたりする。
禅が最後に行き着くところは、
完膚なきまでに凍り付いた鉄のような湖面、じゃない。
禅が最後に行き着くところは、
人間のあらゆる毒を霧散させる無限大の底のない大洋だ。
それはまた、達成された精神のノンデュアリティの
帰結でもある。 苦を乗り越えた先に
慈悲があると思う。
心の処理方法は
様々だと思うけれど。 >>833
そう、意識があり
思考もされています。 >>826
すごく納得できました。
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