【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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つまり想念が一切湧いてこないから喋ることが出来なかったんだよ。 ラマナマハリシは人に教える気持ちなんてなくて最初は嫌がってたんだよね、でも噂を聞きつけた探究者達が沢山やってくるから観念したらしいよ。 >>646
戻って来たとありますが、
戻って来た経験のある方みえますか?
わたしはあるんですが、巧みに欲が出てきたのと、見慣れたはずの日常が目新しく新鮮でした。 サマーディもいろいろあるしどれだけどこまでその状態にあるかで比べものにならないくらい違うよ
欲にもよるけど戻ってきて前と同じに欲が出るならまだ入り口くらいじゃないかな
少し深いとこまで入ると戻って来てもいろいろどうでもよくなって欲や感情、価値判断自体出なくなってくる 戻るときでないとエゴというものの巧みで微細な入り込み方がわからないのかもしれません。 >>648
なんとなくしっくりする表現ですね、らまなさんの言葉は質問者の傾向ばかりが強く現れてる気がして、またその傾向がとても私には読難くて、日常的な会話が聞きたいなと思うことが多いなあ ラマナマハリシは貴方と私という分離が無くて
相手の意識がよくわかり、探究者によって会話を使い分けたと聞いた。本では対話形式になってるけど 実際にはほとんど喋らなかったと聞いてるよ。 ラマクリシュナさんなんかは、ちょっとした言葉、女性器の名称とか、絶対に至る意味の格言などを話してたり聞いたりするだけで、呼吸や心臓が止まるようなサマディに入ったようですね、また入った経緯の違いによって呼び戻すための言葉が違ったそうですね YouTubeでスピリチュアル系動画を配信してる、びこライトウォーカーさんの素性、ご存知の方、おしえてください。美しい女性です。お若いのに頼りがいのある強い人。今後が楽しみです。地球ひろしの番組に出てもらいたい。 色即是空 空即是色
この見える現象の世界に
絶対的なものはありません。
現象の世界は見えない世界の反映です。
見える世界と見えない世界。
二つのものは一つのもの。
この現象の世界も
霊界の一部分で
次元は重なっています。
類魂は存在していて
僕の自然霊は龍で
それが僕という現象。
>>642
トニーパーソンズは嫌いというより
見えない世界をすっ飛ばすので
彼が何を伝えようとしているのかが
僕には分かりませんでした。
自我と真我を融合させ
一面に揃えていくことは大切だと思います。 赤ちゃんには
一人一人個性があります。
それは気質と言われるそうです。 >>656
トニーパーソンズは叡智が浅いよね、ノンデュアリティビジネス効果で、フェラーリを乗り回してる時点で 物欲と自我欲は顕在と思われます。 ちなみに大和田さんは彼氏を7時間も待たせて 銀座の美容サロンで数万円のエクステ。こちらも自我欲は顕在。ノンデュアリティビジネスはさらに今年も続くのかなぁ。 欲望はなくなりませんよw
貪りや物惜みは精神の怠惰な話で、まあ、思いの世界のことです
本能的な腹減ったとか、眠りたいとか自然にあって、そこにもっともっとーがあると苦しくなるけど、あるときに、そのままあれば、いい 個我への同一化がなくなってきたら普通ほど腹も減らなくなるし寝る時間もかなり減ってくるけどね
生じるストレスを自分のものだと思ってるからそれらを食や睡眠で解消しようとして食欲や睡眠欲が生じてるし
本能とかいって食や睡眠を肯定してる人のほとんどは自分でもわかってないだけで
本能とか身体に必要な量の食欲や睡眠欲じゃ全然ないんだよね
結局個我をまだ同一視してる人が自分に生じる欲望を肯定するために欲があってもいいって言ってるパターンが多い
欲があっても別にいいけど、あってもいいようになくてもいいんだし、いちいち肯定するようなことでもないし
そういう主張する暇あるならとりあえず個我を同一視するのさっさとやめていったらとは思う
他人が口出すことじゃないからどうでもいいけど、非二元を始めた人がその主張を聞いて、
欲があってもいいって思って我欲を強めてしまうのは道をすすむ上ではあまりよろしくないことだよね 個我と真我が分離している修養の段階では、
欲望の節制や削減ということが起こる。
しかし個我と真我が同価になりその境界線が
見えなくなると、欲望だったものが欲望ではなくなる。
そして欲望は完全に消えてしまう。
食べる行為、楽しむ行為、怒りや悲しみの感情、
それらは全く残ったままだ。
にも関わらず覚者は、いついかなる時も完全に
欲望から解き放たれている。
幻想を小さくすることと、
幻想を見破ること。
この2つは無関係ではないし、良く似たものにも
見えるが、根本的に違いがある。
個我から抜け出そうとするものがある。
それもまた個我だ。重要なのはこの矛盾に気付くことだ。 正直に言うと
競争や煽り、対立、優劣幻想がないと人生はぜんぜんつまらない
それらを俯瞰して見ることが非二元であるのに
非二元知る前の以前は一生懸命になれた趣味や会社内での競争が、
腑抜けたジジイのように最近はつまらなくなった 誰かより優秀だ と思い込むほど頑張ることができて毎日が面白かったんだ
もちろん、悲劇もやってきたし、自分は喧嘩好きなのか?と悩みもしたけど。
今まで自分の人生を楽しくさ辛くさせていたものが
何でもないもの、起こってはいないこと、であったと俯瞰して見ると毎日がつまらなくなった
腑抜けてきた・・。 匿名掲示板は、対立煽りさせるから活性化するんだな
みんなが肯定しだすと、匿名掲示板の使命は消える。
人生も喧嘩と対立煽り、あいつよりも優秀なんだ、と思うことで頑張ることができて張り合いがあるんだ。
悟りを求めるというのも同じこと、今ここにないものを求めて戦うからこそ人生はおもしろい。
その対立エネルギーを俯瞰するだけになっていくと、
これはこれで痴呆化することになって実につまらないなあ
あいつより優秀だと思うことで生きてこれたのに・・。
変な連投ばかりしたいエネルギーが今来ている。
どうせ言いたいことなんて、一過性で消えてしまう・・。明日の今頃は別人になっているだろう 聖なる絶望感とか 冬の時期とか いうよね。
虚無感。そんなひと多いね、非二元に陥って自死するひともいるからなぁ。 優秀だと言って回るのが、ほとんどの人々の存在意義ではないかw
俺は欲を捨てたのだも同じようなもんだ
しかし、よくよく考えてみれば、織田信長ほどの人間でも散るのである
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり
あるものがあるのは今だけであり、この今は計り知れぬ深みがある
たとえ、劣ると言われようが、この人生を生きているのは間違いなく、この私であり、この私の真我が、世界を包み込む等々の体験もすべてはある時にあるだけであるのだ
人生は短くて、大したことなどできる暇はないだろう
どれだけ優秀であっても、自然の掟には逆らうことなど叶うはずもない
しかし別に優秀であることが生き甲斐であるのなら捨てる必要もないだろう
どちらにしても、夢まぼろしの、如く
できるだけ楽しくしておくのが、いいのではないかなあ
まあ、まだよくわからんが 私は出来るだけ私の片寄った間違ったやりかたでやりたい
素晴らしいやり方に流し込むやり方は好きじゃない
昔ヒンドゥーの坊さんに言われた、あなたが良いと思ったことをしてください、悪いと思ったらやめてください、もう死んだけどずっと覚えてるわ 久々にMSサポート相手に論戦した
生きてる実感がした
Windows10にKB4056892入れたらブルースクリーン多発で使い物にならない
ふざけるな!!そうだ、この怒鳴りが生きてる実感だったんだ 聖者的虚弱に陥る人はまだ思考の罠に
囚われている。
その人はほとんど解脱を得ているのだが、
解放されたショックに打ちのめされて、
心がまとまりを取り戻すために暫しの時間を要している。
魂が真に解き放たれる為には、言葉は
砕け散らねばならない。
精神は言語的意味の次元を超え、創造の
領域に全的に身を委ねていくことになる。
言葉は感情の上に生きている。
生きているのは感情であり、言葉ではない。
心が言葉と同一化し、自らの本性を見失うと
魂は虚無に陥るのだ。
達成者よ、疑うな、汝の欲するところを成せ。
それが法の全てとならん。 私と呼ぶこのアイデンティティーはどこからどうしてやってきたのか知らない
私という自覚も同じ
何も選んでいないし、何も知らない 全ての無意味を看過した到達者が、
その上で更に何事かの実現や挑戦を望むとき
それがどれほど超越的な意味を持つことなのか、
私たちには分かるはずだ。 匿名掲示板なんて喧嘩するためにある
喧嘩したくなければ、外でやれ! 聖者的虚弱の問題に耐えきれなかった人々が選んだ方法とは、
エゴへの盲従によって精神活動を活発化させることだった。
これと全く同じ現象が、精神の退行だ。
自立能力を失った精神は、やり直しの為により子供の段階へ帰ろうとする。
だが一部の知者達は、退行せず、"私"という自意識を中心とした
言語の世界を超越する方向を見出し、精神の更なる高みに辿り着いた。 習性というもの、こころの動揺というものは、たとえ真我と世界の理解が進んでも、残っているものである
その度に、離れ去っていることで、その動きが様々ある中の統一が起こってくるのだ
これらは熟練されなければならないので、様々な方法では混乱して、進まない
そこで、自分の良いと思うものを選んで、慣れていかなくてはならない
生活の中で、生活を超えた地点を常に持ち込まなければならない
眠りの安心が、自己の本質であるなら、その、邪魔をしているのが自我である
つまり、それは評価なのだwwww トニーパーソンズのノンデュアリティ で
覚醒されたと言われる方の体験が
左脳に
何らかの障害を持たれた方の体験と似ている。
多分トニーパーソンズは
左脳の動きに抑制をかけ
β波を低下させていると思われる。
オーム真理教が取り入れていた
フルフィルメント瞑想に似ている。 意味を持たせる左脳を低下させるから
トニーパーソンズがフェラーリを乗り回しても
そこに意味は無いんだと思う。
変なの。 左脳には分析力があります。
覚醒には
右脳と左脳の両方の働きが必要です。 右脳左脳の両方が必要ということは
検索すると分かると思います。 トニーパーソンズのノンデュアリティ で
覚醒されたと言われている方が
「 虚無感 」を感じたと書かれていることと
意味はなかった
で、終わってしまうこと。
覚醒は自分を知ることなので
内観では
そこから更に分析していきます。
原因を探り
どうすれば良いのかも分かるので
魂は解放され満たされていきます。 純粋に論理化された不二一元論としての「ノンデュアリティ」が、
実感的な部分を蔑ろにしてしまうというのは確かにあると思います。
世界は「在る」
この実感こそ私たちの魂の本質であり拠り所ですが、
純粋な論理は「全ての存在は幻である」と結論付けてしまうのです。
しかしこれは逆説的なことなのですが、私個人が思うには、
覚醒の初期段階が実感(心)寄りのものとして起こるにしろ、
論理(言葉)寄りのものとして起こるにしろ、どちらでも良いのでは
ないでしょうか。 なぜなら現実的には、論理寄りの状態で達成された解放は
Mさんも仰っている通り一時的な虚無感の中に没入していき、
その虚無感の圧力によって結局は心と言葉のバランスを
取り戻していくからです。
また同じように、実感寄りの状態でワンネスを理解した方も、
最初は自分が全能の神になったような充実感を得るのですが、
現実の方はちっともそこへ伴ってはきませんので、この場合は
現実からの圧力によって論理的な状況把握を否応なく
身に付けていくものと思われます。
ですので、最終的には、どちらも同じということになると思いますが
問題はただ、「マインド/ハート」「頭/心」「論理/実感」の二極があり、
そのバランスによって覚醒初期の段階が人それぞれ異なってくる、
ということではないかと思います。 あなたは眠っているときに世界から消えている
なにがあるというのかw
純粋な経験には個人など存在していない
無の上に、おまけがあるみたいなもんだ
要するに評価しているのだよ?
はかりごと、して、なにやらよろしいものに辿り着くなんてありません
なにをやらせようとしてるのかしらんが、ビジネスしてもいいが、語口を聞けば、あなたはこうしたらいいのだよとねw
こうするもなにも、動いたらあかんのだよ笑 迷いというのは、迷っているからあるだけで、迷ってるときに、なにが迷ってるか見るだけでいいじゃないかwwww
ふられて凹んでいるとか、悪いことしてしまって凹んでるのが、だいたい、そんなとこ
迷ってるのは、わたしじゃないかw
他人は、わたしが、どうなっても面倒みること叶いませんよww
わたしはいない
ってのは、この悩みが無用になることでしょ
複雑なのは、悩みがあっても、迷わないことが理解しづらいから
活動しているのは、世界であって、その、世界の動きは、あるようにあるだけなのだw
都合よくない 悟る前、あるいはちょっと悟った後に鬱々とするとか恐怖感がわくというのは修行者によくある話
なんでかというとこれまであると思ってた自分(自我、エゴ)が無くなっていってるからね
一般人においては自我が自分なわけだから自我が無くなるとくことは自分が死ぬというのと同じこと
だから死に向かっていると無意識に感じて鬱々とするし恐怖もわいてきたりする
だけど鬱々としてるのも恐怖を感じてるのもその無くなろうとしてる自我自身なんだよね
自我が俺は消えたくないと鬱々とし恐怖を感じている、それだけの話
そこから本当に自我が無くなれば(自我が自分でないと自我から離れられれば)、
そういうった負の要素を感じる主体(自我)がもうないわけだから当然自由になっていく
自我からの自由だよね そうそう、海の中で水槽を割るようなもの。
中身がどっかへ行ってしまうと恐れるが、
実際は空に解け、力増すのみ。 僕は
虚無感や恐怖感というより
自分が何に囚われているのかが分かった時
嬉しかったし
感謝が出た。
これ、成長って言うやつだと思う。
自我の成長。 内観してると
最終的に
命や摂理や共生が出てくる。 そして内観をすると
いかに自己肯定が大切なのかが
分かってくる。 マハルシは自己実現を仰っているし
イエスキリストも、同じ。
キリストの意味は
無垢であるということ。 *M* 悟ったつもりで連投してるネットしか相手がいないキチガイ 君は悟ってないから、私たちのことが羨ましいんだね。
それで、自分の中の悪い物を他人に押し付け、
相手が非道徳的な醜い対応をするのを見て、
自分だけが惨めな存在じゃないと実感したいんだね。 欠伸が出るほどのんびりとした、
いかにも人間らしい対応だ。
良いんですよ、そのままで、
もそっと精進するがよろし。 人間は例えひとりになっても、世界と対峙しており、また想念も止むことなし
しかし、社会に生きて世俗的にあっても、ひとりある孤高の人々もいたようだ
批判を恐れるのなら優れた人の批判を恐れるべしと述べた人が鎌倉時代にいたようである
人は批判的な生きものである
どこにいても同じである、笑
何を言いたいかといえば、己の優れたことを述べたいのだろうがw
世界の中にある他者の自我へのアクションは、なかなかに手強い
惹かれないことが剥奪する
情け無用であることが慈悲になることも
あるのかなあ
悟りは、常人ごとではない 普通ではない
ということを気に病む人たちがいるw
普通ではないから人を超えるわけである
社会と噛み合わないと悩む人がいるw
彼らは批判する生きものであり、価値観に生きているのだから、合わせられないでいい
人々と同じで悟ったということはない
ズレていて当たり前であるwwww
純粋経験の場で評価の外れたところでは、都合がよくないことが多くなる
うまくいってる証
かもしれんなあ
かも、ね 書店へ赴いても碌な本が売られてない
幸せになる?
方法ばかりが目立つわけだが、諦めなさいというような本はない、笑
現代日本の精神が、如何に過去の栄光を忘れ去ったのかよくわかることである
正法眼蔵も、ヴァガバットギータも、スッタニパータも無門関も良書は、巨大な書店さんしか取り扱わず
まあAmazonさんとかは、あらゆる書を置くか
しかし、本当に優れたものには評価も付かず、そして廃刊になっており少部数が、わずかに売られているようなことであるw
人は真理を嫌うようにできているのだろう おおそれは言い得て妙だ。
人は真理を嫌い、それでいて真理を求める。
どっち付かずに人間があり、中途半端なところが要するに
ハビタブルゾーンというやつらしい。 2ちゃんしか主張の場がないキチガイの巣窟、悟りなんか1000年早いわ まだまだというのは
僕もそう思う。
だから一人一人内在神と繋がる師が
いらっしゃるんだと思う。
トミーパーソンズの事だけど
彼の乱暴なやり方を批判している
ノンデュアリティ ティーチャーの方もいらっしゃる。
教える側の影響力を
もっと考えた方が良いのではないかと
彼から離れていく
ティーチャーの方もいらっしゃるようだし。
大和田菜穂さんの動画を見ると
トミーパーソンズの影響なのか
途中で内観を止めていることに
気がつくだろう ❓
もちろん
摂理のことは語っていらっしゃるけれど。
ノンデュアリティは
内観を通して内在神と一体になることだと
僕は思うし
守護者と繋がった方も
増えてきていると思う。
智慧の目って言うだろ ❓ アジシャンティなどは、彼らには何を言っても通じないと半ば諦めていたようだ。ニュートンの引力はどう説明するのかと聞いたら 笑って誤魔化して答えられなかったんだ。 例えば
大和田菜穂さんの動画で
仕事に就いても長続きがしない
という質問者の悩みに対して
仕事は長続きしないといけないという
他人の価値観、評価に囚われなくても良いし
嫌だったら辞めて良いよ ( 笑 )
(囚われている)私はいないんだから。
で、終わっていた。
僕もそれはそうだと思う。
質問者の方は
まだ自分の本当にやりたい事が見付からない状態で
就いた仕事が
自分のやりたい仕事じゃなかったってことだと思う。
でもそれは自分を知ることによって
選ぶ仕事が変わってくるから
それを上手に引き出していくのが
ティーチャーだと思った。
今は小中高、大学の指導でも
自分をまず知ることの大切さを
言われてるよ。 彼女は世界が愛だ、と主張している。
愛の中にいると。世界は幻想だと言いながら、だよ。外側に意識が向いていて 私はいないから内側は無いと思っているから 内観をしない。
信者も同じ調子だね。 彼女の誤解はね、この世界はエネルギーしかないと主張するところだね、空しかないから 分離はないと主張するところ。だから 何処にも向かってないと言えるし、魂の成長もないと言うんだよ。内観の必要性もないとね。 だが個々人の成長段階や持っている理論について評論を始めると、キリがない。
私たちは地に涌き起こることを見るのではなく、ただ星を目指せば良いのだ。
天井を押し広げることこそが世界に広がりをもたらす。
少なくとも私たちは、内観の伴わない不二一元論は正しく空論に
過ぎないということを、この場で確認できた。
それは良いことだし、十分な成果ではないか。 自分を探そうと占いや性格判断とかで必死に自分を見つけようとする。
本当の自分はどういう性格でどういう特徴があってどういう人間なのか。
それはたぶん誰もわからない、自分のことが一番よくわかっていない。
だから自分探しの旅に出たり、人と交流したり、色々な趣味や経験をすることで自分を発見しようとする。
多くの人はそのように生きてるだろう。
でも、自分はけして見つからない。
なぜなら、私はいない、のだから。
そもそも私という人間など存在しないのだから、見つけることなどできない。 外側に自分を見つけようとするといないに決まっている。占いや自分探しの旅は全て外側だ。
そんなところに断定された私などいない。
純粋な内なる光は内観を経て、ようやく 真の自己、閃光な輝きが光りだす。 自分で強く感じられるもので良いと思うけどね
それが外側であっても内側であっても
できるだけ自分で何もかも決めて人生を生きたら十分だと思っているわ
もちろん素晴らしい人たちの神性な経験とかに憧れはあるけどね
自分の生き方とは全然違うからな、自分の選んだ生き方を最高のものとして生きるわ >>708
智慧の眼は全世界を映している
そのような体験や内面の静寂から、あなたのいう守護霊との繋がりがあったりもする
それらが知覚された時には、興奮するものだが、時が経てば普通になる
そして、その形を持ち込むことで、自己の快楽を得ようとしてしまうだろう
そういうものは、忘れてしまうのだ
この意志の根本が、ハートに落ちることで、愛が溢れるが、この愛は、保持しようとすれば消滅してしまうw >>710
仕事というものは人の欲求に応える行為であるからして、どのようなものでも与えることに繋がっているのである
社会のなかで嫌なことをしても人々の支えになることができている
仕事は慣れるまでが大変であり、また、その仕事の中で自己の優位性を保ちたいなどと、欲をかくとつまらなくなる
奉仕するには頭を下げるのがよい
踏ん反り返ってる人たちは、己の滑稽さに気づいていないが、まあ、そのプライドの鎖骨によって、おおいに閉鎖された緊張を持つ
解放されたなら、プライドの片鱗もない >>713
内と外が別れてない
普段、内面と思われているのは、感情を伴った思いのことであろう
この想念の混乱が苦しみであり、この混乱の鎮静が不二一元の統一的均衡をもたらす
それは外界である、そして、真の内なるものは、言葉で表すことも、認識に昇ることもない
普通の段階では、認識される悉くは、外界の事象であるのに、それを分割して、我と世界と対峙していると錯覚しているのだ
意識について、理解が深まっていない
世界は内面にあるのだw >>720
そう。世界は内面にある。内側と外側という幻想そのものが私たちだ。
捉えられぬ霧を捉えようとする認識と思弁の罠。
それは、在る。これは、在る。
私はそれを美しいと言おう。私はそれを素晴らしいと言おう。
私は在るというものであり、無いというものではないからだ。 そう、無ではないものが唯一存在するそれ。
それだけが永遠に在る。生まれもしないし死にもしない。一なるもの。 意識は波動です。
そしてこの意識が命です。
だから内観は
とても大切だと思います。 内在神は鏡のようなもので
自分を映し出す鏡です。
真我と言われるものです。
道しるべでもあります。 自我と真我が融合して
調和するところに
命があります。 この自然の摂理
法則は
凄いな。。と思います。
生態系にも自然の摂理は
現れていて
生態系を考えていく
ギリギリの時代に入っていると思います。 身と魂の隔てなく
真我は命そのもので真理です。
思考をする場所ではないけれど
一人一人に内蔵されている真我。 真我の目覚めた意識の状態になると、自分という感覚なくなるの?
それとも自意識はちゃんとあるの? ほんとに真我がわかった人はなかなかいないだろうから聞いてもまともな答えは返ってこないと思うけど、
少なくとも我への捉われが薄くなっていくと自分という感覚はなくなっていくか自分が自分ではないという感覚になっていくよ
自意識はなくなるか、自分の意識という感じではなくなっていくかと 魂に内蔵された真我によって
磨かれた魂は
真に澄みきり光輝く。
この調和するところに
命があると思います。
不二、二にして一。
調和だと思います。 意識については
内観すると
共有意識に気づくと思う。
霊統のこと。
自我の概念が変わると思います。 >>730
自意識は幻想なので、いずれ無くなりまふ。
文明の発展に伴って、儀式宗教が
意味を持たなくなってくる様子と似てまふね。 >>732
真我との調和。
正にそれですね。
個我という幻想が重い荷物となって、
私たちの周囲を滞らせている。
個我の幻想が消えると真我は濁りなく
純粋な形で動き出す。
するとそこには、真我の性質である
完全な調和、純粋な存在の輝きだけが、
残る。
これがつまり命ですね。
それは掛け替えのないもの、
賛美に値するものだ。 >>735
個我の幻想、
我執 とも言われている利己主義な考えや
それに基づく物事の執着、
なかなか気づきにくいコンプレックスなんかも
そうだと思います。
こういうものを
少しずつ手放していくことで
魂の振動数、周波数が高まり
霊統と意識が繋がりやすくなり
そして
大きな自分と成っていくと思います。
真我は生態系を見てもわかるように
摂理、共生というものがあって
>>719さんの仰るように
人のお役に
という意識は
正に真我意識だと思いました。
真我 >>721
在るというものは捉えられない
捉えられないから自我からしたら無である
なにごとか見識として捉えるなら、それは
真我ではない
状態の移り変わりを、悟りとするなら、それは破壊されること必然である
自我の学ぶことの不可能なものが、元来あるものでり、不滅の真我である
これといって指し示すものは、ない >>726
自然の摂理は真我の見る夢の世界である
その摂理の世界は、生滅する
体と心と世界は永続しないものであり、その虚無性こそが救いとなる
無我にして無一物
これほどの絶望感は自我にはないだろう
なにももたない
わたしすらいない
しかし、これが、逆に救いとなるのだw それは違う。
救いとは完全な幸せです。
無ではない。
無から有が生まれなければ救いではない。 虚無を超えて 唯一を見出すことが至高なるものだね。 >>738
それについては、私たちは完全なトートロジーに陥るだろう。
真我は意識によって捉えられない。
真我を表す言葉は無い。
つまり全ての見識、思想、言葉は、
真我以外のものであり、虚偽なのだ。
私たちは真我について「ない」と言う。
しかし他でもなくその行いによって、
「ない」という言葉が作られてしまう。
私たちは思索する。思案する。
それによって真我からまた離れていく。
息づく。生きている。
それによって真我からまた離れていく。
宇宙がある。世界がある。意識がある。
それによって真我からまた離れていく。
ああ、だがどうだ。
一体何が、真我から離れたというのか?
それらはみなひとつの、
繋がりに過ぎないというのに。 私たちのこの世界、この夢の性質に関することなのだ。
例えば夢の中で「これは夢だ」と強く念じれば、
私たちは目を覚ますことができるかもしれない。
そして一度目を覚ましたならば、夢の世界は消える。続きもない。
だがこの世界はどうだ。強く念じれば、深く瞑想すれば、
世界そのものが消えるか。
いいや、違う。せいぜい個人的な肉体が滅びるというだけだ。
なぜだ?なぜ私たちは目を覚ますことができないのか。
念じる力が弱いから?修行が足りないから?精神が未熟だから?
いいや、違う。私たちが、夢そのものだからだ。
私たちは、他ならぬ夢そのものだからだ。
一体どうして、自分自身から目覚めるというようなことがあるだろう。
そんなことは有り得ない。
私は"在る"という者だ。これ以上強い言葉はない。これ以上強い輝きはない。
世界は在る。私は生きている。あなたもそうだ。全ては素晴らしい。
全ては完全だ。 そう。最初から完全だった。
世界が完全だから私は完全か?私が完全だから世界は完全か?
不二なのでこの疑問自体が意味をなさない。
空を観て仮(夢)と知り、それを虚無と観ず完全さと知る。
人間として生きていることの不思議を等身大の自分に
戻って完全さを楽しむ。
他者に語る意味があるとすればこの一点にあると思う。 完全なんてありませんよw
もちろん整然なる自然界の掟は厳しくも法則的に運行されておるわけで、完璧ですが、自己にとっては不都合なこともありますから
在るといっても、その美しさを感じることに主眼がおかれたら、苦しみにも変わります
なにももたない
わたしもいない
これは絶望感ですw
この無一物、無我というのは、さいてーの事実で在るはずです
ところが、それが開放になる 人を離れ法を離れる
これは、自分から開放され、さらに、世界からも開放されることであり、これは、事前にあることでなされるのです
事前というのは、事が認識される前の空性のことですが、それは認識に昇らないのです
だから悟りには人は登場しませんし、世界も登場しません
真我にはなにもありませんw
空っぽ
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