【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>491
僕は常に
ご先祖様ありがとうございます
なんですが
気は気で祓うというように
気を合わさないようにしたり
精神力や体調管理などに
気をつけて過ごせば。。と思うのですが
専門ではないので
これぐらいしか分かりません。
すみません。 >>493
ありがとうございます。
悪想念への対処法は色々あると思いますが、内なる神と一体になれた場合は、そのような対処法すら必要なくなるんでしょうかね。 >>494
一体というか
みんな、そういう仕組みになっているんだな。。
ということに気づきました。
対処法というか
内観は良いと思います。 >>497続き
真我 ( 良心 )は何故嘘がつけないのか。
真我は摂理であり
共生、種の保存の為かな。。と思いました。 魂の核に真我があり
曇りのない魂はとても綺麗です。
真我意識。 この真我は太陽、命であるわけなんだけど
これが不思議なところです。 だから
私は在る、で良いと思うんだけど。。
しつこくてスイマセン。 ノンデュアリティを実践してる方に聞きたいんですけど、
テレビは観ますか?お酒は飲みますか?
やっぱり真我探求に悪影響でますかね? >>503
自分はテレビは一時期は全く観なかった、最近はちょっと見てる、お酒は飲まない
それらで真我探究する気持ちや時間がなくなったり、余計な個我を強くするなら真我実現までは控えるかほどほどにしたほうがいいかも
それらの表面的なところに捉われずそれらや自分の反応を観ることで真我探究に使うこともできるとは思うけど
なんにせよ内面の不満や物足りなさから自分に刺激を与えたくてそれらを用いたくなるので、そのことははっきりしておいたほうがいいでしょうね
内面が満たされているときはその状態に浸っているだけでわざわざテレビを観る気もお酒を飲む気にもならないと思いますし
お酒や食べ過ぎは観察力自体なくすから気を付けたほうがいいかもしれないですね
個我や欲が静まってくるとそれらに自然と興味がなくなってくるから自然にそれらが断たれていくというのもあると思います >>503
本質的な意味では、真我であるあなたはは
テレビを見たことはないし、酒を飲んだこともない。
しかし個我としてのあなたは、修養し節制し、
何事かを実現する為に善行を積み悪行をやめるよう
方向付けられている。
ラマナ・マハルシは、ある時遠方からの訪問者に対して
こう言っている。
「あなたは電車に乗って移動して来たと言うが、
本当はただ、椅子の上に座っていただけだ。
あなた自身が移動してきたわけではない。」
しかし真実がどうであれ、修行者は修行を通して
真我に導かれるよう宿命付けられている。
あなたが節制したければ、すれば良い。
どうしても酒を飲みたければ、それもすれば良いだろう。 >>502続き
何故ならば
真我、良心は摂理であり
共生や種の保存という
本能の働きもあるからです。 本能というと
動物たちの持つ危機回避能力
第六感も
本能です。
人間も持っています。 >>503
自宅掃除しない?
車とか洗車しない?
縁あって現れた肉体も管理を任されてるものなんだよ
縁あって現れた自宅も車も同様にね
自分は酒たばこやらない、肉食も月に一度だけ、3日に一度は絶食
米は食べずにおかずのみ。腹6分目でいい。
そもそも肉体がそんなもの必要とするか考えてみよう
健康目的になるのではなく、肉体管理という考えから、二元非二元飛び越えて
考えれば、酒たばこなんてもって精神世界を探求するならば
もってのほかなのはよくわかるはず、と思うよ。 >>510 文章まちがえた
健康目的になるのではなく、肉体管理という視点から、二元非二元の枠を飛び越えて
考えれば、酒たばこなんて精神世界を探求するモノにとってはもってのほかだ、というのは自然にわかるはず、と思うよ。 無理に止めようとして止めている状態ならまだまだだと思うよ。それだとストレスたまるからできれば急激にやらない方が良いと思うし。
瞑想や観察等を続けて苦を滅することにある程度成功するとそれを欲する気持ちが自然と発生しなくなるんだよ。
発生しないから我慢なんて全くしてないのに摂らなくても快適なままになるの。それだけの話。子供の頃に戻るようなもんかな。 みなさんとても参考になります。
ありがとうございます。
あと聞きたいことは、日常生活でも思考を止めることを意識して行っていますか?
ヴィパッサナーとかマインドフルネスみたいな今ここを意識的に意識して生活してますか?
それともまったく気にせず普通に生活してますか? >>513
思考を止めようとしてるのは、思考なんだよ >>514
ブヒャヒャ、思考を止めるなんて無理だって。
人間やめますか?
思考が悪とか、善悪のレッテルを貼ることを二元というの
あんたは非二元なんでしょ?、思考も真我も、区別のない世界なんだよ これは悪い あれはいい 思考を止めなきゃ 悲惨なことはダメ (二元)
あれもOK,これもOK、論争もOK,矛盾もOK、思考もOK,
思考止めるのもOK,止めなくてもOK
悲惨なこともOK、 二元があってもいい (非二元) 二元というのは、恐怖状態だからあっちこっちにコントロールしようとするんだろうな
二元論者が思い浮かべる至福の世界には、悲惨なことがない、というコントロール欲がある
非二元は、あれもこれもすべてOKだから、悲惨なこともOKして含めた至福の世界。
二元論者は、いつまでも至福の世界を夢見て追い続ける・・・・。w 思考止めるというよりは単に瞑想の時に雑念流してるだけだな。そんな風にしてると思考が止まる事はあるが、止めようとして止まるなら誰も苦労はしないと思う。 思考と一体化しなきゃそれでいい
これはいい、あれはいけないで成り立ってる生活環境だし、テレビニュースでも
連日悪いことの報道に熱をあげているから、ニューアースなんか読むと思考を止めたくなるんだよな・・。
ま、ええわ、すべてお好きなように、どうでもいい、縁のあるものが起こるべきときに起こってるだけだから >>513-514
自分はこれまでマインドフルネスなどもいろいろやりましたし、
いまはマハラジのやり方に沿って出来る限り「私は在る」に留まっているように留意して生活していますけど、
問題はあなたはそういったことを他人に聞いてそれで一体どうしたいのかじゃないですか?
他人が何かしているとかしていないとか聞いて、それによってあなたのすることが変わるのでしょうか?
あなたが本当にしたいことは何で、それは他人のあれこれと関係したことですか?
もちろん他人を参考にするこということはあるでしょうけど、
なぜ自分は他人を参考にしようとしてしまうのか、その原因を深く熟考することでわかることもあると思いますよ
ひとつ言えることは、あなたが今の自分に満足していないなら、その原因を自ら探すだけでしょう
それによって自ずと何をすべきかはわかってくると思います 宇宙三千世界
全てに神の摂理は働き
調和を保ち一体となって動いている
利己的なものに偏っていると
必要なものは常に与えられていることに
気づかなかったりする
私はいない っていうのは
あまり意味のない言葉なのかな。。
と、思ってみたりしました。 >>513
どこにいても
あなたは批判されるのではないですか?
人から言われることもあり
自分が攻めることもある
そして、目の前のことが、不完全に映る
何かが起こる
それらが調和に欠けている
そこで、自分がなんとかしようと動いていく
あるいは、他者が、働きかけてくる
大切なことは、外側のアレコレではなくて、内側において混乱しないことです
自分を責めたり、相手を責めたりするのを、お休みにして、心の混濁を拭い去り
意識の光と共にあることで、安心している
罪悪感が、根本にあります
間違ってある
そういうものを超えたところにいる
光であることが常に優先される >>517
評価を離れた世界ですね
この評価をしている、自他の活動がある
喜びがよいことであり、悲しみがわるいことである
心地よいものがよく、不快なものは悪い
あるいは、苦痛が貴重なもので、安楽はよくないことである
などなど、様々な思いで責めている
責めることから、守ることがはじまる
我慢することで、こころが混濁してしまう
このような評価をしないで、あるものを、不完全に見ても相手にしない
そこでは、光の質が大事だからなのです
責めないことで調和に近づくからです >>520
自己の業、カルマ、行為が、因縁果によって様々な事象を招いているとします
しかし、この業を消失させて、行為の収まる地点にいると、起こったことに反応して、新しいカルマを作ることがなくなっていく
つまり、外側のことは、どんなことがあろうとも、内側において調和を図ることで、世界が明るくなるのです
明るい気持ちでいると、そのようになっていく
問題は、すぐに、そうなるわけではない
からです
しかし、外のことは、そうでも、内側においては、すぐに変えられます
そのように、して、あることから、外における調和にも近づくのではないでしょうか
そんな風にも思えます >>522続き
てことは
●マタイによる福音書 6章より
だから
「 何を食べようか 」
「 何を飲もうか 」
「 何を着ようか 」
と言って思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は
これらのものがみなあなたがたに必要なことを
ご存じである。
何よりもまず
神の国と神の義を求めなさい。
そうすればこれらのものはみな
加えて与えられる。
だから明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い
その日の苦労はその日だけで
十分である。
かなぁ。。 >>521
あらゆる人が幸福を求めて様々な思いから行動していきます
ある人は仕事のこと、家族のこと、親子のこと、友達のこと、または宗教であったり、心理学や、神秘主義であったり、礼儀や常識によるマナーであったり、暴力であったり、、、
いずれにしても幸あることに、必死で、追求していくものですが、なかなか、至福にはいたることがありません
恋人は去っていきますし、親子の関係も信念の異なることから離れていきます
生きてある内に至福は、なんども味わえますが、その感性は、自己の存在が、開放された時に訪れるものです
この、わたしは在るは、観念によらないものであるから、アルの中で、あれこれの、見方を捨ててしまえば、在ることが、そのままに、至福を運んでくる
観照するものが休んでいる時、在るものは、あるがままにして完全であり、その、世界を照らす光の要素は、自己の意識の光ということに気がつきます
胸を開けば、理由なく、至福になる
理由が必要とされれば、またもや、苦難がやってくる
このように思えます >>522
この調和にあふれている世界
そこで、わたしが、意識的に何かを成そうとして苦しんでいるということです
それですので無我にして無一物、つまり、私と物が捨てられた時に、調和にあふれた生命意識の、自然な存在に開かれる
特別にあるものではなくて、自然に形成されて、過ぎ去りし、この世界の生命の膨らみ
それが、あなたと異ならない
つまり、私は死ぬとしても、この生命意識は、あなたとなり、樹となり、花となり、月となり、風となり、永遠の光としてあり続ける
無始にして終わりなき
その、ひとつの命を我々は生きている
のかもしれない
しかし、そのような解釈も、なく
光である、その、意識に、調和していくことが、苦しみから、離れることに思える >>528
これから、どう生きていくか
と考えている時には、すでに生きています
そこで思い煩うときに、こころは混濁して、混乱して、暗くなります
暗くなると、元気がなくなり、行為に集中することもできなくなります
そのようなことで現実のバランスが失われることで、苦しみが、追いかけてくるのです
そこで、そのような思い煩いを離れて、光である神に洗われて、朗らかで、柔軟な対応のできる気持ちを保持するなら、目の前の必要なことに集中する元気がでてくるわけです
元気があれば、苦難に耐えることができ、何かを成すための力にもなります
それですので、明るく、晴れやかな、精神であることが常に優先されます
そのことをもたらすのは、自分ではなく、意識の光というものであり、その意識の光は、世を照らす光、つまり、神様と同根なのです ●トニーパーソンズ
全ては完全に決められていて
それが 「 大いなるものの表現 」として
勝手に起こってるだけ
それゆえ我々に
「 やれることは何もない 」
私が無い以上 自由意思もありません
トニーパーソンズは
禅を取り入れていらっしゃるそうですが
脳科学も取り入れていらっしゃるのかな。。
禅は
本質を見極め
内観や智慧を使い
道を明らかにしていくと書かれていました。
諦める勇気があれば
立ち向かう勇気もあり
と言うように
その時々に対応出来る
柔軟な心や素直さを
養えれば。。と思いました。 世の中の現象や事象は
切り離されたものではなくて
全て繋がっていると思います。
ホセ・ムヒカ氏は
道を教えて下さった方だと思います。 そうそして問題は現にこうして私たちに「繋がっていない」と感じさせているものの正体は一体何なのかということですね >>534
全ては完全に決められているとは言い切れない、それは意識することと無意識ですること、
自覚と無自覚では全く異なる結果になるからだ。
未来は変えられる。
それは意識ひとつで。
今 世界はその岐路にある。
例えば 地震や戦争への恐れは事態を増大し、愛であれば事態を縮小できる。
これは意識の強さで決まる。
つまり意志からだ。
だから今 目覚めるひとが増えてきている証拠だよ。 >>537
意識で地震を縮小できるとかどんなカルトだよ?w 無 はゼロだけど、ゼロが有るんだからね。
ゼロが全くの無なら宇宙の存在を知覚することは出来ないんだ。無という意識があると言うことは宇宙を生み出す意志があるし破壊できる意志もあると言うことだ。 自殺にしてもそうだ。
自殺は決められてきたことか?
自由意志ではないか。 自分が選んでいるのか、自分の環境や遺伝や過去の経験に選ばされているのか、
仮に選んでるとして誰が選んでいるのか、自分か「、心か体か、性格か脳か、個我か、真我か、無我か、世界か
はてさて >>537
すみません。
私の言葉足らずでした。
現象は、例えば
金融資本主義と原発の問題
などです。
僕も未来は変えられる派です。 日本人は
原発を止めておくことが
出来るのだろうか。
止めておいた方が良いと思うんだけど。 日々 選択だ。マリオゲームを観てもわかるようにゴールはひとつでも沢山のコースが存在するように
途中で落ちることがあっても 同じコースを行くということはない。
それは学びを得るから。 トニーパーソンズの
私が無い以上 自由意思もありません
これは摂理のことを言っているのかな。。と思います。 マリオで選択してるのはゲーム世界の外側にいるゲーマーでゲーム世界にいるマリオ自身が選択してるわけじゃないんだよね・・・ マリオに自我があって、操作する意識と一致していないとマリオの人生は苦しいと思うんだよ。操作する側はもちろん痛くも痒くもないけどね。それが生命エネルギー、
でも操作する側が下手くそだとマリオはゴールまでたどり着くには時間がかかるよね。 私が無い
この私とは囚われた私のことかな。。
と思うのですが
真我のみなら
自由意思もなにも
摂理に添うと思うので
トニーパーソンズは
自由意思はない、と
書かれているのかな。。と思いました。 マリオが自殺するのは意識と肉体の不一致だと思うんだよ。操作する方もマリオが自殺するとは思ってないだろう? >>550
ただ僕たちは肉体があり
真我のみではないので
摂理に添うのか添わないのか
その自由意思はあると思います。 お前らブログでもやれや
スレで演説してんじゃねーよ >>550
自然の摂理だけだったら人間は知識を得ないと思うんだよね。
人間には叡智を与えられたのだから
これから科学の進化と共に自由意志はあるよ。 >>552 続き
言いかえれば
良心に添うか添わないかの
自由意思はある
と思います。 >>555
すみません。
この場合は自由意志になるのかな。。
>>556
どっちでも良いことは
どっちでも良いと思います。 自由意志がある、
という幻想があるのです。
"私"という存在が確かに存在する、
という幻想が存在しているように。
自由意志はありません。
しかし自由意志はある、という幻想はあります。
これら全ての問題の鍵は"私"です。
"私"はいない?
どうしたらそんな馬鹿げたことが言えるのでしょう。
これは本当は、どういうことなのでしょうか?
"私"はいない。
ではその"私"とは、そもそも一体何なのですか? >>539
無を体感したことがあるけど、確かに無を感じてる意識はあったね。
真っ暗で、狭いのか広いのかもわからない空間に自分だけが在る状態。
何も無いなという意識だけがあって、なんの感情もない状態。
素に戻った後に思い出したら、無ってなんてつまらないんだろうと思ったよ。 >>559
だから世界を創造したのだと思いませんか?
それが意志だと思いませんか? >>557 続き
例えば
もし地雷が埋まっている砂場で
子供が遊んでいるとしたら
それを
良いも悪いもない
なんて言えるかな。 >>558
本当は
「 私は在る 」です。
その 「 私 」は 命です。
ごんさんは
命そのものです。 私は道であり命であり真理です
( イエスキリスト )
一体不二 ( 神人合一 ) あることの悉くが全体作用の働きなのだとしたら、私の意志に関わらずに、起こることが起こってくることになりますね
もっとこうであったらよかったのに
このように私は成していこう
という気持ちは当然あるのですが、そのように私が願ったとして、それも全体作用から生じているというのではないでしょうか?
日本人には馴染み深い縁によって生かされてあるということかもしれません
全体作用のままにあることが、禅でもあり、ノンデュアリティでもあり、日本人の霊性かもしれません
あまりよろしくない風に言われてますがw
こんなことは嫌だと思うことも、好きだと思うことも、何かを成し遂げてやろうと思うことも自由ではあるけれども、そう言ってみたところで大きな自然の中で自分の思いとは外れて、全体作用があり、私はいないのだから、あるものはあるように受け取っておくしかない >>565
意志はあります。プラーナと言う存在は別名 気と呼ばれるものです。そのプラーナが 生命エネルギーの意志によって 病気を治したり イエスや仏陀のように奇跡を見せます、 >>563
その通りですね。
神は名を問われて答えました。
「私は"在る"という者だ」
そして私たちの生命種DNAは、宇宙生成から95億年
経過したある日、この地球という惑星で
その"在る"に新しいバリエーションを加えるに至ったのです。
個我とはつまり、この生命種です。
しかし真我に到達すると、私たちは
生命種そのものであることをやめ、
それを内包した別の何かになるだろうと思います。 自由意志があるかどうかはラメッシが言ってるように「自分が選択しないほうを選択して」みたらいいけどね
本当に選択肢があって自分が選択できるなら、選択しない方をしてみたらいい
でもできないよね、選択する時点でそれは選択する方になってしまうから
ようするに選択肢があるというのは頭の中の想像なんだよね
実際はこれまでもただ一つの道を進んでいただけで他の選択肢というのは頭の中で想像しただけ
あり得ないものを想像してそれが有るような気がしてしまっているだけ
これまでもできることはできてきたし、できないことはできてこなかった
今後もできることはできるし、できないことはできない
できないことができたり、できることができないなんてことは、これまでもなかったし今後もないよね
もしあるとすれば頭の中の想像でだけ
現実はゲームじゃないからやり直すことはできない
いつでもその人にとってはたった一つの道があってそれを歩いているだけ
結局のところ自由意志があるかないかではなく、自由意志があるとかないとかいう区別が実際は存在しない
自由意志という概念自体が個我であるゆえに頭の中で想像された概念に過ぎないんだよね
それでも自由意志があるという人は自分が選ばない方を選んでみて証明したらいいと思う
自分が個我であるからこそ個我にとっての自由意志があって欲しいんだろうけど、
それはただの個我であるゆえの欲望かもしれないし、自由の本当の意味を考えてもいいと思う
自分に選択権がないと思えたらそれはそれで何も悩まなくてもいいし自由だと思うけどね >>568
だから、プラーナが生命エネルギーの意志によって 存在するんだって。プラーナーヤーマと言う瞑想法があるけど プラーナを動かすことで真我に至る方法もあるんだよ。 >>567
道であり命であり真理です
僕も霊体験するまでは
何のことか分からなかったのですが
体験をしてみて
本当だったんだなぁ。。と実感しました。
そして感じたのが
赦されているということです。
全ての存在は赦されている
と、言われていますが
全ての命は神の一部分だから
最初から赦されているということが
分かりました。 自分もプラナーヤーマで覚醒したよ。
だから意志が有ることは立証できる。
だって体験したんだから。そして何度もサマディに至れる。それも自由意志で。 この命の根源は
まるで太陽のように光輝き
魂はその霊界の太陽の光に歓喜し
満たされます。
この霊界の太陽の運行が摂理です。
物質界はその反映です。 大感動を伴って戻る
この体験がわかりますか?
ここが分かれ道かなと思います。 魂の核にある真我は
神の一部分でもある命なので
摂理そのものです。
分離というものは
摂理から離れるということだと思います。 それでも神は赦している。
ただ摂理を思い出せるように
いろんなことが起こってくると思います。 そう考えると
肉体を持つ私たちには
善自由( 摂理に添う )
悪自由( 摂理に添わない )
の選択の自由はあると思います。 >>556
上から目線もいいとこだな、お前
なに命令してんの?w
そのブログも、くだらねー言葉遊びだし 神の政事経済は共生で
今の先進国の政治経済は
共生を壊していて
ホセ・ムヒカ氏は
自然を愛していた日本人に
戻ってほしい
と語っていました。
もちろん自然を愛している日本人は
沢山いらっしゃると思います。
僕は節制ということを忘れていたので
なるほどなぁ。。と思いました。 >>570
正に私たちは、真我の自由意志の中で生きていますね。
しかし個我は、そこに更に「私の」自由という
余分なものを付け足そうとして、自由を妨げてしまいます。
不二一元論の理解者たちが自由意志という
コンセプトを否定するのは、突き詰めて言えば彼らが、
個我における偽りの自由ではなく、真我における
世界創造の、真の自由を愛しているからでしょう。
真我は完全なる自由です。しかし個我である私たちには、
自由意志はないのだ、ということですね。 自分なりの解釈だが、
真我に帰るときのみ自由意志が発生するのかもしれない。いつでもそれだけは自由だ。なんの努力もいらないから。 >>567
私は在る
あるのは個々人の世界である
その世界は真我に映ったものである
真我は在る
その在るの消失したものとして
在る
認識不可でありながら、個我にとっては至福であるそれは、言葉にはできない
生命の基盤のようなものであり、その、在るに、ひかりと生命の踊りが舞われている
のかもしれない
しかし、それは想像を駆け巡らせたことによって、描写してみただけのことであり
生きてある感覚のことを、真我と命名したのではないのだろうか?
誰にもわからないことであるw >>568
状況がなければ、選択はない
ここにいることは選んだわけではない
だけれども、日常における選択の機会があることは否定できないだろう
しかし、大きく出るならば、その選択ですら、己の意思というよりも、社会、心情の教え込まれた模倣の中で行なっているのであり、自由ではないとも言える
腹が減ったから泣いたのか
抱っこしてくれと泣いたのか
赤ちゃんですら、条件から、行為が起こるのであり、単独の意思などない
おかれたときに最善を成すことを意識することは、しかし、できるのである
できたとしても、己の意思ではなく、この意思に関与した諸々の縁によって、そうなれた
たまたま
であるw
芭蕉が捨て子を見捨てる
汝の運命を歎け
どのようにしても、人間の意思は、成すことができないのであり
自己責任は皆無である >>570
命はあらゆるところに満ちて生死生滅を繰り返して、様々に流動している
花は好むが草は要らん
人間はそのように都合で評価する
できるやつはいいが、できんやつはダメだ
そのような価値観とは離れたもの
想念の全く関与しないもの
この命の働きは、私とは言わない
あるものがあるようにあるだけであり
好きだと言っても
嫌だと言っても
自然の流れのまま永久に変化しながらも、生まれませず死にもしない
不滅の神様なのかもしれません
しかし、そのようなことも、想いではないでしょうか?
熟睡したときの無認識が、ここに、あるとしたら、それは、なにものをも超えている
至福は、その沈黙であり
光によってどこへも動かないとき
その本来の在りようが現れるのである
生まれもしない死にもしない
どこにも不在のあなた
真我とは、沈黙のココロのことなのです >>580
>>585
神さまからいただいた真我は
命であり摂理です。
魂の核に真我が入ります。
神の摂理は自然界にも見られます。
自然霊は摂理そのものです。
魂は意識体です。
個の意識と真我があります。
この西欧からのノンデュアリティの
私はいない ですが
肉体から離れると真我のみになり
一元になる
そう言われているように感じます。
僕は
神は別物だと思っています。
摂理の上に神はいますから。
僕の体験、類魂の法則(霊統)
そういうものから考えると
個の意識は残り
個の意識と霊統の意識
意識は繋がっていますので
私が私たちに変わり
少しずつ段階を踏んで行くと思います。
神さまからいただいた真我ですが
真我は命であり摂理ですから
この真我によって
三千世界は統制されていると思います。
個の意識と真我を融合させて
変容意識にしていくと
命も意識もあり
私 ( 私たち )は在る
になると思います。 >>583
まことに真我は覚知することができない。
真我は覚知の外にあり、
私たちも本質的にはまた、覚知の外に居るから。
これは不思議なことですね。 摂理に添うのか ( 良心に添うのか )
摂理に添わないのか ( 良心に添わないのか )
の自由意志はあると思います。
摂理というものがあるんだなぁ。。という学びは
与えられていると思います。 >>586
魂に中心がある、というのは、実に二元的な解釈だと感じます。
私-私以外という線引きです。
ノン-デュアリティ、つまり不二一元論というのは、
ヨーガのヴェーダーンタ学派による
アドヴァイタ哲学が基礎となっています。
ラマナマハルシもラメッシバルセカールも、
教学としてはアドヴァイタ哲学をそのまま流用しています。
ですので、ノンデュアリティの文脈で神や真我を語るとき、
それは暗にヒンズー教のトリムルティにおけるブラフマーを
私たちに想起させるでしょう。
ブラフマーと、その創造の魔法としてのマーヤーを、です。 不二一元論は西欧に入りより論理化されたので、
ヨーガにおける神との繋がり、愛着、そうしたものを
切り離して冷淡になってしまった部分はあると思います。
しかし論理的には 、東洋のも西欧のも変わらないのです。
多少整理されただけ、といったところでしょう。
Mさんの場合、ノンデュアリティ的に言えば、
ブラフマーの世界創造の側面であるマーヤーの創造性と
同一化した経験を得たのでその実感の方が大きく、
「現象世界は幻」という伝統的なブラフマーへの回帰が
主張として間違ったものと思われるのかもしれません。
しかし私も、真我における神の真の形は、
永遠不変の理知であるブラフマーではなく、
その別の姿とされているマーヤーに近いものだと
考えていますから、Mさんの感覚がなんとなくわかるような気がします。
トリムルティについて少し調べると、
他の人とも話が合ってくると思いますよ。 >>590
ごんさん、ありがとうございます。
少し調べてみます。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています