【私はいない】ノンデュアリティ・ティーチャー総合2 [無断転載禁止]©2ch.net
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私は何かと追及していきますと、
私は意識
それを感じる意識、受容体
大いなる存在の小さな受容体のひとつ
というような気がしました。
ただ、それでも認識が不十分であるように感じています。 >>403
詳しい説明ありがとうございます。
とても参考になりました。 グループソウルは
同じ感性で引き合う仲間。
ソウルグループ ( 因縁 )で
友人と気が合ったりする時は
友人同士のグループソウルの感性が
似ていたりします。 自我と真我は別のものではなくて
真我は本心、本当の
と、いうところです。
囚われていない。。とか。 よく出てくる単語に、マインドというものがあります。
このマインドとは思考という意味でとっていいんでしょうか?
それとも思考以外にも指す言葉なんでしょうか? >>417
それで良いと思います。
心の持ち方とか。
魂意識(真我)ではなく、肉体意識(自我)の方ですね。
マインドコントロールなんて言葉がありますが、真我はコントロールできるようなものではありませんから。 日本語の思考でもいろいろな側面がありますし、
例えば1+1はと聞かれて2と考えるのも思考ですが、
それには私という観念はつきまとってはいないですよね
それに対して私は悲しいとか私は頭がいいとかいう思考は私という観念を元に生じています
マインドという場合も思考を指す場合、雑念を指す場合、心全体や精神活動全体を指す場合などいろいろあると思いますが、
非二元において私という観念が問題であることを考えると、
私の考え、私の気持ち、私の意見、といった私の○○という私に絡んだ精神活動全体を指す場合が多いと思います マインドは自我と真我
両方ある場所だと思います。
二元あるところが自我
その奥に真我 ( 本当の )。 僕たちは多次元に住んでいるので
思考以外にも>>420さんのように
マインドはいろんな働きをしている場所だと思います。 >>423すみません。
>>420さんのように
↓
>>420さんの仰るように わたし が観念であるならば 空も海も道路も電車も雑踏もすべて観念では?
この世は観念が作った世界、観念でないものは何もない では、
観念とは無常で変化するエネルギーのこと、と考えれば、
実はこの世が観念エネルギーにあふれていることにならないか?
この世に充満する真我=観念エネルギーのことでは ないのか?、
だから起きては消え来ては去り、を繰り返して起こるべきことだけが 起こっているだけ?
となりますか。 至福の真我というイメージを勝手に抱いてはいたけれど、
実は観念であふれているのが この世であり、引き寄せもそれそのそのもの観念エネルギーになってしまえば、
自然に観念の物語として起こり、
私=観念エネルギー=変化するもの・・・。なんて思ってしまう。
そしてその観念エネルギーは、何もない空間でただ起こっているだけ?になる。
観念エネルギーであふれたこの世では、当然、対立や恐怖が起こっては消え、を繰り返して いるだけにならないか?
スピリチュアルの探求の先にふと思った妄想です・・。 失礼 イライラするとき、同様にイライラした人に遭遇してしまうことがある
怒ると怒られる、 まさに主体はいないと言われる通りに
イライラや怒りエネルギーが、私はいる、と感じているエネルギーの間を
飛び回っているだけであることがわかると思う。
行為者はいない、ただエネルギーが飛び回っているだけのように見える。
これらは、何もいない空間で、また起きては消えを繰り返しているかのようです・・。 飛び交っている、観念エネルギーは、
観念エネルギーと同一化せずに、ただ、”見てあげればよい” だけのようだ。
エックハルト・トールトールノペインボディと同様に・・・。 ワタシ はいない
ただ、今ここで、どんな観念エネルギーになっているか、その観念エネルギーが
その人そのものであるのかもしれない。
今ここで、怒りエネルギー、楽しいエネルギー、憂鬱なエネルギー、
わたしという物語を無意識に信じているエネルギー・・・・。
何でもないものが、誰かを演じているだけなんだ・・。きっと・・。 どうやら>>425 から>>428に連投した内容もまた、観念エネルギーの架空の物語のようです。
おしまい >>419
たしかにマインドコントロールはそういう意味ですよね。
>>420
覚者の動画とか見ていてマインドを鎮めなさいといいながら、
ペラペラ喋ってるのを見て、喋ることも思考によって話してるのでは?
と疑問に思ってたけどそういうことだったんですね。
ついに謎が解けた感じです。
私が生じる思考は消すべきで、普通にものを考える思考は問題ないってことですね。 >>430
わたしはふたつ分かれるんですよ。
わたしの物とわたしの感情と。
わたしの物は物質で思考から来るもので、
わたしは嬉しい、悲しいは心から来るもの、
心から来る 反応を消滅させると 真我が顕われます。 心は物質だというのはそう言うことです。
一切の思考は湧いてこない。ハートに向かいなさいと言われる所以です。 ラマナマハリシがハートを見なさいと言われる所以です。 この心がすべてにおいて無関心になれば苦楽から解放され、静寂と沈黙だけがあるので なんの努力もいらないと言うことです。 静寂と沈黙であるときだけ真我は顕れ、世界は消えます。ですからわたしが消えたとき真我のみが残るので、世界は存在しないのです。トニーパーソンズも大和田さんも嘘を理解できていません。 >>430
私という観念から生じる精神活動は消せるなら消して相手にしないのがいいでしょうね
ただ非二元でもよく言われるのが心身と同一化しないということ、同一化してなければいいということ
つまり心身の活動に巻き込まれなければそれでいいという話です
例えば仏陀は弟子が死んだときに泣くのですが、悟った仏陀がなぜ泣くのかという議論があります
またマハラジや多くの覚者が不機嫌そうな顔をしたり怒ったりしてるように見えるが悟っているのにあれはどうなんだという話
クリシュナムルティは悟っても個性は残るというような発言をしています
彼らに言わせると、これまでの業でできた心身はいまここにあるので、それは何かあれば反応は当然あるということです
ただその心身を自分だとみなしていないので、自分はただ起こる心身の反応から離れているというわけです
つまり心身や心身の反応は自然と起こっているがそれを自分とみなしていない(それらと同一化していない)ということです
そうである場合、周りからは一見私から生じているように見える精神活動も実際は心身が勝手に反応してるだけということになるのでしょう
ただそれはもう悟ったような境地の方の話で、修行者はまず自身を注視し、私が絡む心身活動はなるべく生じないようにしていくのがいいのでしょうね
自分の心身活動を注視していくと、だんだん余計な私という観念は出なくなっていき、心身活動も整理されていくと思います
自分の内面が整理されていくと、やがて心身やその反応、活動を自分だと思わなくなっていき、
心身や心身の反応はただ生じ、自分はそれらから離れているようになるのではないでしょうか
消えていい余計な心身活動は消えるでしょうし、心身にとって自然な心身活動は残りますが、それからも離れていくと思います
心身とその反応と完全に離れることができれば自分はもう私でも個人ではなく悟り、真我実現なのではないでしょうか >>437
すべてにおいて 自覚しているから。無自覚と自覚、無意識と意識 だから 自己として わたしは有るになる。 >>438
そうですか
自己としてならわたしは有るのかもしれないですね
マハラジは「私は在る」は最初の観念、最初の想念であり、最終的には「私は在る」も消える、あるいは「私は在る」を超えるというような話をしています
私は在る無いというのも2元的な観念ですから、実際は、私は在るということも無いということも無い、
あるいは私は在るということも無いということも在る、というのが言語でできる一番近い表現かなと解釈しています
私や有無という観念から自由であればいいのではないでしょうか >>439
そうですね。生命が存在する時は有と無は同時に存在する。なので非二元。 観るもの観られるものは自己が存在するときですが、真我実現の時は観られるものは存在しません。だから 自己は消えます。 私から生じる想念についてなんだけど、
私は悲しい、私は頭がいい、私はこうだ、という想念は私に関係する想念だと思うんだけど、
過去の自分に関係した出来事を無意識に考えるのも、私に関係した想念?
たとえば、昨日誰々さんと気まずくなってしまったことがずっと頭の中に残るみたいな。
それも私に関係する想念? >>443
私は〇〇の生まれで 家族は〇〇で、学校は〇〇です、は外側から出来上がっている私なので思考から来たもの。〇〇さんが好き、嫌いは感情から来るもの、感情は心の反応、想念。 >>443
そうですね
ひとつの判断としてそれから自由かどうかで判断してみてはどうでしょうか
自分に関しての出来事が頭の中に浮かぶということはそれから自由ではないですよね
じゃあそれは何故かというと私の記憶、私という観念から生じる記憶への反応だからでしょう
他人の記憶をもし聞いてもそれが頭に浮かんで仕方ないということはないですね
それは他人の記憶で私と関係ないから
自分に生じる反応(思考、感情、想念)でそれから自由でないならそれは私に関することであり、
それに捉われて自由でなくなっているということでしょうね
記憶はただの情報であり、実際に過去にあったことかどうかはわからないと思います
そして実際にあったことだとしてもそれは過去のことでいま関係してることではないですね
その記憶が自分の記憶であると思い、実際にあったに違いないと思うこと、そしていまに関わっていると思ってしまうことで、
自分からその記憶に捉われてしまっているのではないでしょうか
記憶と自分が同一化してるとも言えると思います 五感を内側に向けなさいとマハルシがいうのは
心の反応を消しなさいと言う意味です。
音がうるさい、匂いが臭い、味が不味い、触りたくない、など 逆の快楽も然り。心の反応は想念です。 >>444
なるほど。
>>445
詳しい説明ありがとうございます。 普通の人は生活するにおいて外の世界に意識が向かってると思うんですが、
なので目に映る対象を分析して思考してそれが感情になって好き嫌いになると思います。
覚醒者の場合はどのような感覚で外の世界を認識しているんでしょうか?
マインドが起こらないと思うので、ただみつめる、対象を認識する、という感覚なのですか?
可愛い赤ちゃんを見てもかわいいと感じず、悲しんでる人がいても同情する気持ちがわかない、という感覚なんでしょうか?
綺麗な人や怖そうな人を見ても快も不快も感じず、ただあるがままを見てる、という感じなんでしょうか。
それとも、マインドが消えててもそういう感性の部分はちゃんと感じるものなんでしょうか? 「 私は誰なのか 」と問うているのは
二元にいる自我のマハルシ。
自我というものは
本質を見る為に
「 何故 」と問いかけをする。
【智慧】
相対世界に向かう働きの智と
悟りを導く精神作用の慧
物事をありのままに把握し
真理を見極める認識力
中道というものは
2つのものの中間ではなく
本質を見抜いていくものです。
智慧の実践によって
自我と真我の融合
意識の変容が起こってくるのかな。。と思います。 >>448
よく言うのは外界や自分自身を映画のスクリーンのように観てると言いますね
映画の内容に一喜一憂しても自分そのものが映画の内容に本気で巻き込まれるわけではないですね
本当に距離を置いて観てるだけの人もいれば、観ることを自由にたのしむ方もいるのではないでしょうか
感情に関しては>>437の仏陀の例でも書きましたが、その覚者によって感情をわかせなかったり感情をわかせたり
その覚者の個人性によるのではないでしょうか
元々の心身が感情的だった方は自分が心身から離れても心身は心身自身で感情的な反応を示すかもしれないと思います
ただいずれにしても自分を心身だと同一視することで生じていた不自然な心身活動は生じなくなるでしょうし、
その方の心身にとって自然な心身活動だけになるのではないでしょうか
またこれらのことは覚者がそう言っているということに過ぎないので自分で道を進めて確かめるのがいいでしょうね >>448
こんな文がありました。
質問者
心と真我の違いは何でしょうか。
マハルシ
何の違いもない。
心が内側に向かえば真我であり
外側に向かえばそれは自我
そして世界となる。 覚醒者の方は
智慧の目が開いてくると思うので
現象の背後にある道理を見極めて
物事を捉えていけるんじゃないかな。。
と思いました。 真我というものは
神の御心であり摂理であり
命そのものだから。 そして共に在り共に生きる。
自然の摂理です。
それを知っているのが真我。 あなたが病気を心配するとき、あなたは病気エネルギーそのものになる
そして病気は、自分の病気、他人の病気の形であなたの前に現れる
そこに自他の区別はない
あなたが憂鬱になるとき、あなたは憂鬱なエネルギーそのものになる
そして憂鬱は、自分の憂鬱、他人の憂鬱の形であなたの前に現れる
そこに自他の区別はない
あなたが怒りを感じるとき、あなたは怒りエネルギーそのものになる
そして怒りエネルギーは、自分の怒り、他人の怒りの形であなたの前に現れる
そこに自他の区別はない うーん。。何だろう。
マハルシの不二一元は
三神一体のことじゃないかな。。と思うんだけど。 >>443
想念にいいも悪いもありませんよ
私には関係ありません
放ってしまいましょうw 日本の不二一元は
誠の神がかりで
イエスキリストも神人合一だよね。
ノンデュアリティって不二一元のことで
いいのかな。。 >>448
覚者は光を見ます
意識の光です
その光が言語の動作を止め
沈黙させるので、見ることが収まります
すると、あるものが見えます >>460
フニ
二辺によらず、ひとつである
あることもなく、ないこともなく
ひとつである
意識生命
阿弥陀如来がぶっ続けで、生きてます
わたしは死にます
しかし、命と光は永遠に愛なのですw あなたがわたしです
しかし、わたしはあなたではない >>457
完全に間違った教えだね、誰の教えなのか知らないけど。
生命エネルギーは一切の影響は受けないよ。
生命エネルギーは純粋な光。
至高なる光であり観照しているだけだよ。 >>464
あなたに間違いという観念があるとき、
あなたの目の前に現れるものが間違いエネルギーである
間違いという観念はあなたという観念と同一化してそのものとなり、
あなたが経験し、他者の間違いとして現れる
そこに自他の区別はなく、主体なく起こっているだけということがわかる。
だから間違いをあなたは観照せずに、間違いエネルギーそのものとなって
>>464で指摘している
そして私もあなたと同じ間違いエネルギーとなって、今指摘している。
実は>>464あなたと、>>457の私は、”何でもない観照エネルギーの一人芝居”なのだ。実は何も起こっていない、あるのは、”間違い”エネルギーが飛び回っているだけだ。 >>465
そうそう
感情の、呼吸といいます
実際は、害心が、飛び回っているのです
それを己の見立てで、観ると、起こるのです
神は、この、感情を、消化してしまいます
意識の光です
ですので、平安なのです >>464
完全に間違い、とか、誰の教えとか、
分離幻想を捨てることからはじめたらいかが?
観念エネルギーのエゴ、二元世界では、ありとあらゆることが起こる
あんたが不幸と思うことまで起こる
悟れば悟るほど、
この世で不幸と思われることは増加していく。
なぜならば、悟りとは、全てを肯定することであり、不幸という観念のレッテルを手放すことで
あり、起こるべき不幸、幸福を全面に信頼して受容することだから。
悟るほど、不幸に見えたものが不幸に見えなくなり、幸福に見えたものも幸福に見えなくなる。
それだけ 害心、忿怒、慳貪、嫉妬
これがゴータマさんの言う、苦しみです
その元は我見です
そして、その効果は、自己を責めることです
私と物を持たなければ放下です
気楽に生きていけます >>468
あなたの首根っこから、私、が、その人の見解を受けてしまいました
受ければあなたのものですが、それを、笑顔で対応することができます
私を登場させずに、神をおくのですw おもしろい実験をよくする
気の合う人と会話しているとき、ふと
私にひらめく、思考がある。
たとえば、”天気”を私が思い浮かべる、すると、
”天気観念エネルギー(?)”を相手も受信して、
必ず何分以内かに、相手は天気の話をしだす。
訓練すればするほど、的中率は上がる。
一日に2〜3回は必ず他人と発生している。
あるのは天気観念エネルギーが飛び回って感情呼吸しているだけなんだ、ということが
>>466が言うとおりよくわかる。
ただし、これも”観念”であるんだけどね・・。
こうやってるいる、会話中に思い浮かんだよからぬ想念なんて、実は
相手も受信してるんだな、って、少し怖くもなるけどね。
隠し事なんかできないかもね。 わたしはいないのですから
わたしが言われたわけではありません
害心情の働きが、業によって現れているのです
なぜなら、その人は自分を責めているからです
大悲は神より訪れます
己は、降参して、明け渡してしまいましょう
放下です
気楽にいこうw >>470
人は我見の虜なので苦しくて、自分を責めてしまいます
その反動で相手に怒るのですが、愛の不足に怒っているだけで、意見なんて見てもいませんw
そこで、おもしろい実験があります
自分を捨て、物を捨て、放下していると、
つまり神の栄光に洗われていると
少なくとも、視界で感じられる範囲の人たちは、とても、明るくなりますw
あなたの実利です >>473
さっきまで怒っていた人が大笑い
これは快感になりますよw ぼーっとしてはいけません
ぼーっとすることではないのですw 自分がなんとかしようとすると、溜め込んで、つらくなります
想いを放って
晴れの気持ちで、奉仕する
明るい気持ちで、人に尽くす
大切なのは相手ですw
ムッとしたした人も、構えた人も、怒っている人も、みんな自分を責めてる
助けようとすると怒る人もいる
自分の能力では助けにならないこともある
それでも、我見と慳貪を放下して
なんとかして苦しみを減らしてあげよう
それが
愛
なのですw 相手の人はあなたに怒ってきます
それは、
おーい、わたしは、疲れたよー
ということなのですww
体と心が痛むので、怒るのです😤
そうは言っても、その怒りは、あなたの意識に鋭く突き刺さる
ここです!!!!
この時、自分も怒ることに気付いてください
反射しているのです
相手のすっごーく、硬くなった精神に、あなたが、モロ影響されたのです
これでは立派な、こころのお医者さんにはなれません
この怒りを、透脱させる技術
それを身につけたら、お医者さんになれる
意識を照らす智慧の光
般若波羅蜜の、完成こそ、それです
全身全霊で神を愛する
とキリストが表現した神
は
上にある光です
その、上にあるものが
下にもあるのです
意識の光が、世を照らす光である
という意味で、古来から、知られてきたことで、あり、今も、たくさんの同士が、表現を変えながら、伝えてくれています
ジングルベルの歌のように
w >>467
いや、影響受けないから。不幸も幸福もない、苦楽もないよ。光しかない。 意識は何の影響も受けない、
愛は何の影響も受けない。
光として照らすだけだよ。 真我が実現されたとき世界は消えるんだよ。
だから病気のエネルギーとか鬱のエネルギーなんてないんだよ。真我のエネルギーしかないの。たったひとつの原質しかないんだ。病気だ鬱だというのは誰か?気づかないとね。 何故聞かれてもないのに自分から他人に主張を繰り返すのか だったらはじめから書かなければいい。
自分の日記かブログなどでつぶやけばどうか。 >>483
あなたも活字に反応しているに過ぎない。
無視すれば何の問題もない。 人の想念に何の影響も受けないって人はどんな風にしてるの?
ただ鈍感なだけで、誰かの知識を話してるだけ? 神である真我に
自分自身を委ねきった人が
最もすぐれた帰依者である。
自分自身を神に委ねることは
真我という想念以外のいかなる想念も
超えることを許さず
ひたすら真我の内に留まっていることです。
どんな重荷を負わされようと
神はそれに耐える。
神の至高の力が
すべてのものごとを動かしているというのに
何故われわれはその力に身をまかせず
何をどうすべきか
どうすべきではないか思い悩むのだろうか
われわれは列車が
すべての荷物を運んでくれることを
知っている。
列車に乗ってまでも
自分の小さな荷物を頭に乗せて
苦労する必要がどこにあろう。
荷物をおろして
安心しなさい。
マハルシ これを読むと
真我=内在神 かな。。と思います。
そして
真我 ( 内在神 )の指す方向に
向かうよう
それが道しるべだと
仰って下さっているように思いました。
イエスキリストの言葉や
日月神示にも
同じような言葉があります。 >>488
わたしはそれを体験によって初めて知ってとんでもなく驚きました。
わたしは神は外にいると思っていたからです。 >>489
そうでしたか。
私もそうです。
(〃ω〃) 同じ方が見つかった。
嬉しいなぁ。。 >>490
心の声に従って行動しててもサイキックアタックは受けませんか?
それとも、それを受けるのは内在神とひとつになれていないからですか? >>491
僕は常に
ご先祖様ありがとうございます
なんですが
気は気で祓うというように
気を合わさないようにしたり
精神力や体調管理などに
気をつけて過ごせば。。と思うのですが
専門ではないので
これぐらいしか分かりません。
すみません。 >>493
ありがとうございます。
悪想念への対処法は色々あると思いますが、内なる神と一体になれた場合は、そのような対処法すら必要なくなるんでしょうかね。 >>494
一体というか
みんな、そういう仕組みになっているんだな。。
ということに気づきました。
対処法というか
内観は良いと思います。 >>497続き
真我 ( 良心 )は何故嘘がつけないのか。
真我は摂理であり
共生、種の保存の為かな。。と思いました。 魂の核に真我があり
曇りのない魂はとても綺麗です。
真我意識。 この真我は太陽、命であるわけなんだけど
これが不思議なところです。 だから
私は在る、で良いと思うんだけど。。
しつこくてスイマセン。 ノンデュアリティを実践してる方に聞きたいんですけど、
テレビは観ますか?お酒は飲みますか?
やっぱり真我探求に悪影響でますかね? >>503
自分はテレビは一時期は全く観なかった、最近はちょっと見てる、お酒は飲まない
それらで真我探究する気持ちや時間がなくなったり、余計な個我を強くするなら真我実現までは控えるかほどほどにしたほうがいいかも
それらの表面的なところに捉われずそれらや自分の反応を観ることで真我探究に使うこともできるとは思うけど
なんにせよ内面の不満や物足りなさから自分に刺激を与えたくてそれらを用いたくなるので、そのことははっきりしておいたほうがいいでしょうね
内面が満たされているときはその状態に浸っているだけでわざわざテレビを観る気もお酒を飲む気にもならないと思いますし
お酒や食べ過ぎは観察力自体なくすから気を付けたほうがいいかもしれないですね
個我や欲が静まってくるとそれらに自然と興味がなくなってくるから自然にそれらが断たれていくというのもあると思います >>503
本質的な意味では、真我であるあなたはは
テレビを見たことはないし、酒を飲んだこともない。
しかし個我としてのあなたは、修養し節制し、
何事かを実現する為に善行を積み悪行をやめるよう
方向付けられている。
ラマナ・マハルシは、ある時遠方からの訪問者に対して
こう言っている。
「あなたは電車に乗って移動して来たと言うが、
本当はただ、椅子の上に座っていただけだ。
あなた自身が移動してきたわけではない。」
しかし真実がどうであれ、修行者は修行を通して
真我に導かれるよう宿命付けられている。
あなたが節制したければ、すれば良い。
どうしても酒を飲みたければ、それもすれば良いだろう。 >>502続き
何故ならば
真我、良心は摂理であり
共生や種の保存という
本能の働きもあるからです。 本能というと
動物たちの持つ危機回避能力
第六感も
本能です。
人間も持っています。 >>503
自宅掃除しない?
車とか洗車しない?
縁あって現れた肉体も管理を任されてるものなんだよ
縁あって現れた自宅も車も同様にね
自分は酒たばこやらない、肉食も月に一度だけ、3日に一度は絶食
米は食べずにおかずのみ。腹6分目でいい。
そもそも肉体がそんなもの必要とするか考えてみよう
健康目的になるのではなく、肉体管理という考えから、二元非二元飛び越えて
考えれば、酒たばこなんてもって精神世界を探求するならば
もってのほかなのはよくわかるはず、と思うよ。 >>510 文章まちがえた
健康目的になるのではなく、肉体管理という視点から、二元非二元の枠を飛び越えて
考えれば、酒たばこなんて精神世界を探求するモノにとってはもってのほかだ、というのは自然にわかるはず、と思うよ。 無理に止めようとして止めている状態ならまだまだだと思うよ。それだとストレスたまるからできれば急激にやらない方が良いと思うし。
瞑想や観察等を続けて苦を滅することにある程度成功するとそれを欲する気持ちが自然と発生しなくなるんだよ。
発生しないから我慢なんて全くしてないのに摂らなくても快適なままになるの。それだけの話。子供の頃に戻るようなもんかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています