http://acceed.jp/detail.ACSM317.html

霊性進化の道−スピリチュアリズムスピリチュアリズム普及会 第1公式サイト
スピリチュアリズムから見た「オウム問題」 〈No.1〉

死刑より無期懲役にすべき――死よりも辛い刑務所生活
したがってスピリチュアリズムでは、いかなる凶悪な犯罪者に対しても、死刑ではなく無期懲役にすべきであると主張します。愛する家族を奪われた遺族の悲しく悔しい気持ちには心から同情しますが、「霊的事実」に照らして言えることは、死刑では何ひとつ問題は解決しないということです。凶悪犯を死刑に処しても、罪を償わせることはできないのです。
牢獄の中で一生、自由を奪われて過ごす人生には、死刑よりもはるかに大きな苦痛がともないます。そうした不自由で辛い生活を続けることに耐え切れず、自殺する囚人もいます。このように死刑よりも無期懲役のほうが、犯罪者にずっと大きな苦しみを体験させることになるのです。
実はそうした不自由さがもたらす“心の苦しみ”が、犯した“罪の償い”になっているのです。むろん中には、長い囚人生活を送っても心に変化が生じない者もいますが、大半の人間は自らが犯した罪の重さを自覚するようになり、反省と悔悟の思いが湧いてくるようになります。そして自分の犯罪によって苦しみや悲しみを与えることになった遺族に対して、心から謝罪したいと願うようになります。このように囚人生活は、犯罪者の心に根本的な変化をもたらし、彼らを真の意味で更生させることになるのです。
犯罪者は悔悟の苦しみを通して、悪事に見合った償いをするようになります。「神の摂理」がそのようになっているのです。麻原のような悪性の塊のような人間であっても、無期懲役の苦しみの中で同じ状態を保つことはできなくなります。苦しみに耐えきれず、自殺するようになったかもしれません。死刑が執行された元幹部のほとんどが、拘置所での長い囚人生活を通して、自らが犯した罪の重さと愚かさを認識することになりました。そしてなんとかして、自分の罪を償いたいと思うようになりました。
もし彼らが死刑を執行されることなく、不自由な環境の中で生き続けたとするなら、その後の人生はまさに罪を償う歩みになっていたはずです。こうした意味から、オウムの幹部たちには無期懲役を科すべきであったと思います。

いかなる悪人も、その生命は「神」によって与えられたもの
麻原のように時がたっても自らの悪事を直視することができない人間は、死刑後、霊界(幽界)下層で“地縛霊”として生きていくことになります。しかし、そうした状態をいつまでも続けていくことはできません。幽界下層において味わう長い塗炭の苦しみが、凶悪な人間の心にも少しずつ変化をもたらすことになります。その苦しみは死刑の苦しみよりもはるかに大きく、比較にならないほど辛いものです。肉体のない霊界では“自殺”という逃げ場がないため、その苦しみは何十倍にもなって迫ってくるのです。スピリチュアリズムでは、こうした「霊的事実」に照らして死刑制度に反対します。
また、いかなる悪人であってもその生命は「神」によって与えられたものです。人間が勝手に他人の生命を奪い去ることは許されません。麻原のような悪人であっても、「神の分霊」を授けられた神の子供です。霊的未熟さと肉体本能の暴走によって罪を犯した愚かな「神の子供」なのです。
死刑制度は、国家による“殺人”です。麻原や幹部たちを生かしておいたなら、彼らの心が変化していく様子を見ることができたはずです。それによって遺族の苦しみ・憎しみは和らぎ、彼らの罪を許すようになっていったことでしょう。