集中瞑想に入るたびに思うのは、人間は朝から晩まで、いったいどれくらいの思考を使っているのかということ。

いつも、よりよい状態を目指さんとばかり、身近なところから遠い将来に至るまで、無数の夢が、思考という形で現れては消えています。


この傾向は今日始まったものではなく、子供のころからずっとです。

だから当たり前な状態になっていて、自分が思考まみれだという自覚もありません。


物心ついてから最初に教えられたのが


「思慮深くあれ」

考えることを通して物事を解決していくという姿勢です。


しかし、その思慮が消えた時、すでに与えられているもっとも大切な宝が現れることは見失われてしまいました。

思慮を通して達成するはずの最終真理が、思慮の消えた地平にすでに備わっていることを忘れてしまったのです。



瞑想とは、思慮の背後にある静寂との出会いです。

それは立ち止まることを通してのみ達成されます。

そしてその静寂の中に全ての答えがあります。


時間上に描いていた夢と希望を追求する人生が終わり、いまここにある充足を享受すること。

そのシフトが、すべての人達が内心求めているものです。


ところがその「いまここ」さえ、いつか将来に待ち構えているという感覚が消えません。

そうやってまた絶え間なく考え、漠然とした幸福地に向かおうというのです。

残された人生には、それに対する十分な時間があるような気もしています。


いままでの全てのやり方を変えるのは並大抵のことではないでしょう。

この旅の延長線上にきっとゴールが待ち構えているという信念は、そう容易く消え去るものではありません。

ある種の突然変異のような気づきが必要なのかもしれません。


このようなメッセージも、どれくらいの重要度で読まれるのかわかりません。

世界全体で夢を見ていて、あふれる情報の全てがその夢を強化するためにあるので、気づくチャンスは皆無です。


瞑想はそんな夢に対する、最初の一太刀。

ほんの小さなメスによる、頑固な夢への一太刀です。