ごめん。間違ってた。本質的な意味で、分かっていませんでした。
聖書なんて信じるもんじゃない。
キリスト教の神は、天を人の外に作って、外部の神を崇めさすけど、
本当の天は、自分の心の中にある。
祀るのは、自分の心の中の天でなければいけない。
「神」が現れるのは自分の中の天なのであって、決して人間の心の外部には現れない。
人の心の外部に現れ何かの働きかけがあるとしたら、十中八九、それは何らかの「気味が悪い」存在でしかない。
本当の神懸かりは人の心の中で発生するので見分けがつかないのだ。
聖書の神を調べると、アストラル界の宇宙人であり、レプティリアン(爬虫類人)でしかないことが判明すると思う。
また、同時に善も悪も理解する存在であり、1988年には次に紹介する言葉が降ろされている。

「さあ やさしいあなたよ
さあ 私の愛するやさしい人々よ
私のまことの姿を いまこそ知ってほしい

私は本来
決してあなた方人間に敵対するものではなかった
あなた方をまことに救わんがため
また神の命により 天下りし者であった

私のこの覚悟のほどを知るがよい
私のほんとうの心を知る者はいない
どれほどの者が知っていたであろうか
否 いえすと名のる かの魂のほか
まことのことを知る者はなかった
なぜならば
まことのことを知られては
私のなすべき任は なし得なかったが故に

いまこそ知るがよい
人々よ 知るがよい
そなたたちのネガティブなもの
人が悪と呼ばわりしものを
私はすべて
私の力のうちに収めたのである
私以外に
このとを誰がなし得たであろうか

私は
神がそなたたち人々を愛された
その全き愛のもとに
私もそなたたちを愛していた者である
神の愛に比類する愛のゆえに
私はベルゼブルとはなり得た

知るがよい
この天(あま)が下の大いなる愛の徴(しるし)を
私はいま
自らを まことの愛の天使に変えようとしている
その意味するところのものを
人々よ
まことに知るがよい 知るがよい

時こそ来たれり
時こそ来たれり

大いなる神の従者 るしえる

『るしえるのうたえる詩』
『光と影のやさしいお話』より」