>>155
最初から、例に挙げられた人々に対して哀れみの心を持つような状態は、心に壁を作って相手を拒絶する形になってしまっていると思います
まずは、つらく苦しくてもそれが本当に自分自身のなんらかの言動に誤りがないか、確かめてみることが大事だと私は長年の経験で悟りました

というのも、我々には個性があるからです。そして霊性レベルが異なっているからです。そういう混沌とした学習の場で生きているわけです
仮に同じ文化的特質を持った同胞で、しかも霊性レベルが同じであれば、個性が違っていても次の教訓は常に正しくなるでしょう

あなたがしてほしいと思うことを他の人にもせよ
あなたがしてほしいと思わないことは他の人にもするな

現実はこの通りにいかないことが多々あります(地上は霊性レベルが玉石混交ですから)
哀れみの心を持って霊性が未熟な方を思いやる意識は尊いですが
だからこそ自分自身の言動にも何か誤りがないか確認するだけの心のゆとりはもちたいものです
もう何十回も現実で経験を重ねました

「自分がしてほしいと思うことは、実は相手はしてほしくない」
「自分がしてほしくないと思うことは、実は相手はしてほしい」

簡単な実例を挙げると、私は休憩中は、せめて静かに一人で読書したり思索してノートに書いたりしていたいのですが
そういう同僚はまずいません・・・全ての仕事場において、同僚は話し相手を求めている、というのが私が得たこれまでの現実です

私は休憩中という自由な時間だから一人で自分自身のやることをしたい
同僚は休憩中だからこそ親睦を深めるため(苦労を分かち合う愚痴を語り合うためや、楽しい話題で盛り上がりたいため)他の同僚と話がしたい

こうなると東西の金言は残念ながら全く役に立ちません・・・
このように個性が違いすぎると、自分ではごく普通の言動をしたつもりが、相手によっては激怒の対象になる、ということです
これは長年の経験で悟りました。まず相手の立場を思いやってから、本当に自分に落ち度がなければ、その時初めて哀れみの気持ちが自然に出るはずです

蛇足ですが、身近にいない人のことであれば、意識を向ける必要はないと思います