当時の河北新報見て来たけど、津波到達時には交流会館前と学校の校庭に生徒が分散していたと言う話で、
校庭には数十人の生徒が居たって事なんだけど。
これはお迎え待機と思うと、なんかやけに多い。
そこで思い着いたけど、思い違いの可能性もあるけど、
スクールバスで移動しようとしたと言う事も考えられるかなって。
結果的に行き止まりだったけど、三角地帯行きも裏道の最短ルートを取ろうとしていたなら、
緊急性を感じられる避難行動だと。
役割としての裏山行きの意味だけど、
裏山は行くのが早い、とにかく高い、見張りも出来ると津波対策には最も合理的で、
そもそも裏山に行くのが遅かったか、橋の欄干に瓦礫が引っ掛かって川の水位が
上昇して川の方向から津波とか、思いもよらなくて。
ままならないのが人生なのか。
アドリブ要素が大きかったと。