東日本大震災―内山哲之先生

2011年3月11日午後2時半ごろ、私は田村クリニックの分院の南大沢メデカルプラザというところで
外来にでていました。
田村クリニックに務め始めて、4か月目だったので、受け持ち患者は少なく、診察室でうとうとしていましたら、
石巻市立病院のドクターから電話がかかってきました。

私の実家の叔父が胃がんになり、石巻市立病院でその年の1月に手術を受けておりました。

叔父の胃がんは胃の上部で食道にも少しかかっていたので、転移していることを心配していたのですが、
石巻市立病院の先生から化学療法を勧められ、叔父が甥の私と相談してくださいと言ったので
電話したということでした。

初めは若い担当のドクターでしたが、すぐに責任者の内山先生に変わりました。

電話の向こうで、叔父の状態、腫瘍マーカー等の話をしていたと思いますが、その時、向こう側のほうで、
地震が起きているという話があり、それでもいろいろと話し続けていたのですが…
約1分ぐらいでしょうか、こちらのほうも揺れだしました。
それでも電話で話をしていたのですが、向こう側で、いろいろ倒れてきて、もう電話できないと言うので
会話が終わりました。
その後激しく揺れだし、私は近くにあったエコーの機械が動かないように持っているのがやっとでした。
クリニック内の書棚が倒れて、カルテなど書類が散乱しました。
揺れが終わってから、外を見ると待っている患者は整然として座っていました。
隣の薬局の天井が落ちて、薬を出せないと言ってきました。
コンピューターが止まって、カルテもわからなくなったので、診療はそこで打ち切られました。

震災直後は石巻の実家に電話は通じました。
親父の携帯に電話すると、おふくろを石巻市内の仙石病院に送って、おふくろが透析している間に
ホームセンターに行ってたら地震になったとの事で、ホームセンター内は棚など全部倒れたと言っていました。
それから親父はいったん内陸にある家に戻ったそうです。
その後しばらくすると、固定電話には電話できなくなってしまいましたが、親父の携帯はつながりました。
親父はおふくろのところに戻ろうとしたのですが、途中で津波のために行けなくなったと言っていました。

今考えると、その時病院に迎えに行ったいたら、津波に呑まれたと思います。
おふくろは数日その透析病院の上の階に避難して、あとで救出してもらいました。
その日、東京では交通機関が止まりました。
次の日は電車など動いたのですが、原発が停止して、電力が不足するからとのことで、電車がかなり間
引いた運行になり、駅には見たこともない長蛇の列ができました。